紅さんが去り、博麗神社は少しだけ静かになりました。
今はここで暮らすのは私のみ。時折稽古をつけてくださる摩多羅様や八雲様以外にはほとんど来客もありません。
それでも行事の際には村から人がやってきますし、亀の玄爺様が池へ涼みに来ることもあり、孤独というわけでもないのでしょうか。
あるいは、寂しがりな私のために周りの方々が気を利かせてくれているのでしょうか。
そうだとすれば申し訳なく思うと共に、……やはり、嬉しくも思いますね。
「最近、人と話す機会が増えましたね? 靈威」
ある日、陰陽術の稽古の際、八雲様にそう指摘されました。
私が人と話す機会など人里に降りた時くらいしかないのですが、もちろんその際には八雲様が一緒にいるわけではありません。ではどこでその様子を見ていたのかと訊ねても、どうせはぐらかされてしまうでしょうからわざわざ聞くことはないのですね。
「はい。……八雲様は、良い事だとは思いませんか?」
「まさか、そのようなことはありません。貴女は人間なのですから、これからはより一層里の人々と縁を深めるべきでしょう。むしろ、これまでが疎遠すぎたのです」
本心からそう思っているのでしょうか。
この方はどうにも捉え所がないせいか、言葉の受け取り方に困ってしまいます。
「……近頃は、幻想郷にやってくる人も増えたので。顔見せだけでもとその都度里に足を運ぶうち、なんといいますか。少しだけ、馴染んでしまったような気がします」
そう。幻想郷は今、人が増えつつあるのです。
やってくる人のほとんどは流民です。戦禍によって暮らす場所を追われ、やってきた人がほとんど。行商人がくることは滅多にありません。迷い込むことはあるようなのですが。
幻想郷の外から来る人は、様々です。
女子供が多いですが、男の人も時々は来ます。しかし男の人は大抵が乱暴者ばかり。食うに困る村ではないので真面目な方であれば歓迎するのですが、乱暴狼藉を働く者を迎え入れるわけにもいきません。
そのため、私が少々力にものをいわせて追い払うことも多いのでした。
殺生とまではいかなくとも、人に手を下すことは未だに慣れません。
ですがそんな私の姿も、乱暴されかけていた女性や人里の方々にとっては英雄として映るようで。
……最近では慕われることも多く、慣れない日々が続いています。
「馴染んで良いのです。貴女は妖怪ではなく、人間なのですからね」
「……何を話したら、良いものか」
「なんだって良いのですよ。天気の話でも、畑の話でも、草花の話でも。貴女がそうやって里の人間と同じ価値観を共有することで、里の彼らも安心するはずですよ。“自分たちの守護者は自分たちと同じ価値観を持っている”……そういった具合に」
……なるほど。八雲様らしい考え方です。
人を不安にさせないために、人と関わる。……なるほど。守護者として必要なことであるように思えてきました。
「……では。八雲様は、人と関わらなくてよろしいのですか」
「私? ですか?」
八雲様は意外そうな顔をされている。そのこと自体が私にとっては意外なのですが。
「八雲様はこの幻想郷全域の守護者なのですよね。であれば、八雲様も里の方々と交流をすべきなのでは、ないかと……」
「……人と妖怪は、そう無闇に融和するべきではありません」
扇子がぱちりと音を立てて閉じると、彼女はとても真剣そうな眼で私を見ていました。
「人と妖怪。この二つの種族の隔たりは、非常に大きいものです。靈威さん。きっと貴女が思っている以上に」
「……そうなのですか」
「ええ。人と妖の境界ははっきりさせなくてはなりません。犬や馬とは違うのです。これを間違えては、きっとどちらのためにもならなくなる。少なくとも、今はまだ」
人と妖の境界……。
……それは、私と紅さんもまた同じなのでしょうか……。
「ふふふ。私は時折貴女の手ほどきをするだけで良いということですわ」
「……私は良いのですね?」
「例外はあるのですよ。何事にも」
意味深な言葉を残し、今日も八雲様はスキマの中へと去ってゆくのでした。
……確かに。
八雲様と話していると、人と妖怪とは価値観が違うのだと感じることは多いですね。
「はぁ」
季節はすっかり秋です。
来客はほとんど無いとはいえ、境内を落ち葉だらけにするわけにもいきません。
こうして掃除するのも慣れたものですが、去年までは紅さんが側にいて、共に落ち葉を掃いていたのです。
箒は二本ありました。そのうちの柄の長い一本は、ずっと蔵で立てかけられたままになっています。
「掃いても掃いても……」
これは巫女の仕事というわけではなく、単なる神社の雑務です。
摩多羅様と八雲様はよくしてくださいますが、あの方々は私の人としての領域に踏み入ることは滅多にありません。
だからでしょうか。人としての暮らしをしていると、ふとした時に静けさを感じるのです。
これからもそんな日々が続くのでしょう。
「掃いても……」
石畳の隙間に溜まった細枝を眺め、手が止まる。
今やこうして手を止めても、誰も私を叱ることはありません。
そう、これからも。ずっと……。
……いけない。
紅さんがいなくとも、私は巫女としてあらねばならないのに。
弱くては駄目。巫女としても人としても、私は強くなくては。
それに、紅さんはまた来てくださるのです。
五年か、十年か。来てくださるのです。
ならば。ならば……泣く必要など、ないではありませんか。
「ふん。少し見ない間に随分と情けない顔つきになったものだな」
「!」
聞いたことのある声がした。
涼やかで理知的な、女の人の声。
「貴女は……! ……?」
振り向くと、そこには変なものがいました。
境内の石畳の上に転がしておいた陰陽玉。その上に浮かぶ、手のひらくらいの大きさの小人。
しかし羽や髪などに面影はある。
この小さな彼女は、サリエルなのでしょう。
「貴女は、サリエル……様。ですか……?」
「ああ。命じられたことでもないために本体を出すわけにはいかなかったが、こうした分体であれば問題もない。……ふむ、こうして見るとやはり人間は瞬く間に成長するものだな。お前の尺度で言えば“久しいな”とでも言えば良いか? 博麗の巫女靈威よ」
サリエル様は、時折幻想郷で見かける妖精よりも更に小さな姿になっていました。
きっとこれも幽玄魔眼と同じ分身の魔法なのでしょう。魔界の外にすら力を及ぼすことのできる彼女の技量に、私は驚かされるばかりです。
「お前は私との勝負において、“勝ったならば紅への侮辱を取り消せ”と言ったな。あの約定は既に履行したことを伝え忘れていたことに気付いてな。遅まきながら、こうしてやってきたわけだ」
「……紅さんに、謝ったのですね」
「ああ」
きっとそれも演技の一環だったのでしょうに、律儀な方ですね。
「だが、この私を限定的とはいえ負かしたこと。それをたかが看板の撤去や妄言の撤回だけで報いるというのも、私そのものが軽んじられているようで少々不服だ」
「……?」
「なので、まあ。一応、私なりの褒美をくれてやろうと思ってな」
小さなサリエル様はそう言うと、指を鳴らして……私の目の前に、一本の巻物を作り出してみせました。
咄嗟に手にとってしまいましたが、これは……?
どうも見慣れない書物のように見えますが……。
「それは、今現在大陸にいる紅からの……お前への手紙だ」
「!」
紅さんからの、手紙!?
「そこに記したものは、一度魔界を経由した後、地上のもう片方の巻物へと転写される。文章だけでもやり取りできるようにと、魔界の方でも取り計らってくれたのだ。“人間の一生は短いだろうから、なるべく機を逃さないよう手紙でやり取りしたほうが良いだろう”とな。お前は知らないだろうが、ライオネルと神綺の両名に感謝するといい」
「……ありがとう、ござ……ま……」
「おい、おいおい、泣くな。泣くんじゃない!」
大きな巻物を少し広げると、そこには見慣れた形の文字が描かれていました。
紅さんの文字です。
描かれていた言葉は短く、“元気ですか”だけ。
それだけだというのに、私はどうしても流れ出る涙を抑えられませんでした。
「ああ、全くもう……別にお前の望みを全て叶えてやったわけでもあるまいに、大げさな……」
「ふ……ふふ……いいえ。いいえ、サリエル様。これは……私の望みでした。きっと、一番の……」
「……泣いたり笑ったりと、まぁ……いや。親しい者の無事を知れば、そうもなるのか」
「はい。とても……とても嬉しい便りでした。素晴らしい贈り物です。ありがとうございます、サリエル様」
「……まあ、感謝は受け取っておこう」
巻物は大きく、長いものであるように見えます。
ですが毎日毎月とここに文字を書き記しては、紅さんが戻ってくるまでの間にすっかりと真っ黒になってしまうことでしょう。交わせる言葉は有限です。
……それでも、紅さんと文のやり取りができる。私と紅さんが繋がっている。
それだけで、私はとても幸せな心地になれたのでした。
「紅さんに良い報告ができるよう、これからもずっと、励まなければなりません。サリエル様、ありがとうございました」
「ふ。マシな顔になったようで何よりだ」
……さて。
そうなれば、掃除もしっかりやらねばなりません。
頑張りましょう。
あの方に恥じない生き方をするために。
三代目博麗の巫女、博麗 靈威。
幼少期を孤児として過ごし、幻想郷に迷い込んだところ、二代目博麗の巫女紅によって保護される。
それから紅の手ほどきを受け巫女としての才覚に目覚め、比較的早期に三代目巫女の座を継ぐ。
靈威に関する風聞は多くないが、容姿は端麗であり、極めて勤勉な巫女であったことが当時の里に伝わっている。
妖怪退治、結界の維持、多くの儀式の継承。
博麗神社の大まかな形は、この靈威の代によって作られたものと思われる。
特に後進の育成には熱心であり、自身が巫女を退く前には何人もの候補を孤児から育て上げたという。
現存する靈威の書物自体はそう多くない。
しかしわずかに残されている靈威手製の護符や希少な手紙の美しい文字からは、彼女が筆まめな人物であった片鱗が伺える。