「すみませんねえ、この山も今は立て込んでまして」
射命丸という天狗は表面上は温和であった。
口調は和やかで、軽い世間話なども放ってくる。
「ただでさえ辺りの勢力図がしっちゃかめっちゃかなもんですから。今は妖怪を殺した人間ってだけで、妖怪の誰もが警戒せざるを得ない状況なんです。都の方でも物騒なことがありましたからねえ。ま、あれはあれで私らにとっては僥倖だったんですが……おっと、この話は聞かなかったことに」
しかし常に手にしている葉団扇に込められた魔力は凄まじく、その身に纏う風もいつでも弾けるように凝集されている。
きっと、速度は私以上だ。逃げに徹されると厳しいものがあるし、遠くから撃たれ続けるだけでこっちは手詰りだ。心底相手にしたくないと思う。
「近道しましょう。こっちへどうぞ」
「近道って……」
言う間に、目にも留まらぬ速さで団扇が振るわれる。
同時に吹き抜けた一陣の業風が茂みを貫き、土を捲り……音がした頃には既に、山の片隅に傷跡じみた獣道が出来上がっていた。
「どうぞ」
「……親切ね。ありがとう」
「いえいえ」
本当に見えない。反応できない速さだ。
“こういうこともできるからな”という牽制なのだろう。言われなくてもわかってるわ……絶対に相手にしたくないって。
獣道を抜けて少しすると、天狗の集団が一箇所に固まっている景色が見えてきた。
白狼天狗たちは刃物を抜いて殺気立っており、滞空する鴉天狗たちも油断なく旋回している。
私が茂みから現れると彼女たちが一斉に殺気と視線を向けてきたが、射命丸が抑え込んでいる。……いや抑え込んでいるか? 宥めているけど天狗達はものすごいガミガミ怒っている。駄目そうなら正面突破するしかないんだけど、さすがにこの状況だと厳しいな……。
私が不安を抱えていると、疲れた顔をした射命丸がこちらに戻ってきた。
「説得はできました。とりあえずこっち来て大丈夫ですよ」
「今も凄い睨まれてるんですが」
「手出しはさせませんから大丈夫です。多分」
物凄く大きな不安を抱えて天狗の群れに近づいていくと……ああ、うん。獣のような唸り声が聞こえる。本当に多分手出ししない程度のものなんだろうな、これは。
「博麗神社の巫女です。わかってますね?」
「越権行為だ」
「報いは与えねば。全員に!」
「黙れ」
視界がぶれて、射命丸の姿が別の場所に現れる。
同時に、遠くの幹に白狼天狗の一人が叩きつけられた。射命丸が脚を上げている体勢を取っているところからして、蹴りか。注視していないと本当に見えない速さだ。
「決まったことに口を出すんじゃない」
「……はい」
白狼天狗はか細い声で頷いたが、苦々しい顔はそのままだ。
「さ、博麗の巫女さん。そこの人間を見聞してください」
……天狗の囲みが緩み、中から人間たちの姿が露わになる。
数は十人。男五人、女三人、子供二人。思っていたよりも数は多かった。
既に全員が武装解除されているようで、誰もが怯えきった顔をしている。女子供は涙でぐしゃぐしゃだし、男も縋るように念仏を唱えている。……今ここで祈ったところで、何が変わるわけでもあるまいに……。
「博麗の巫女。わかっているとは思いますが、全員助けるなどとは――」
「言うわけないでしょう。そんなこと」
私は射命丸の忠告を軽く受け流し、屈んで人間たちと目線を合わせた。
「私は近くの村で巫女をしている
「助けてください!」
「おねがいします! この子だけは!」
騒がしくなってしまった。
「あー、そう騒がなくとも、今から助ける人を見つけるつもりですって。……ではまず、人間の子供たち。貴方たちが妖怪を倒してみせたのかしら?」
「我々を愚弄するつもりか?」
当人に訊ねたつもりが、答えが天狗たちの方から返ってきた。子供にやられるわけがないだろうと、そういうことね。なるほど。
「では三人の女。貴女がたが……?」
「はい! そうです!」
「私も村で巫女をやっていました!」
「嘘をつくな! やったのは俺たちだぞ!」
「ち、ちがっ……」
「盗みしか能のない女どもめ! 巫女様、我々は戦働きができますぞ!」
女の一人が名乗り上げ、男たちがそれを否定する。本当に騒がしいなこの人間は。
しかし、まあこれではっきりした。
「そこの二人の子と、あちらの母親」
私は三人の人間を指差して、頷く。
「彼らを村まで連れ帰るわ。他の人間はどうぞ、山の方々で食べるなりご自由に」
「なっ! 馬鹿な!」
「どうして!? お、同じ巫女なのに……!」
「妖怪を殺したというならばその報いを受けても仕方ないでしょう。そして貴女は巫女ではない。騙る者をあの村の一員にするのは気が咎めるのよね」
嘘か本当か。それは人間たちの気を見ればわかることだ。
男たちと二人の女からは、酷く濁った邪気の匂いがする。清らかな里にはとても似合わない醜悪な気配だ。
「いいので? 七人もこちらでいただいても」
「三人、里に送り届ける。それで良いのね?」
私と射命丸は互いに視線を合わせ、互いの腹を探り合った。
それでいいのか。お前は構わないのか。
「……良いでしょう。そこの三人は逃げていただけの人間でしかない。こちらとしては遺恨も無い。……連れて帰りなさい。博麗の巫女」
「そうさせてもらいましょう」
「ただし、このような事はそう何度も無いと覚えておくように。先に踏み入ったのは人間の方なのだから」
「人間たちに言いなさいよ。私は関係ない」
「……だったらどうして庇うのです? 巫女とはいえ妖怪の貴女が、人間を」
私はその問いかけに少しだけ考え込んでしまった。
何故私が人間を、か。ふむ。
「子供は未来。それを育てる母もまた、子供の未来。守るべき価値はあるでしょう?」
「確かに。でもそれは人間の理屈ですねえ」
「人の恐怖を食らう貴女方が何を言ってるんですか。草を喰む大物は肥え太るまで生かしておくものでしょうが」
「……?」
私が苦笑いを浮かべていると、その意味があまり伝わらなかったのか、射命丸は視線を泳がせている。
……言葉はもういいでしょう。
「さ、子供たちとその母親よ。こちらに来なさい」
「は、はい! ありがとうございます……! ぼうや、もう大丈夫よ。あなたも、さあ……!」
「こら! なぜお前たちだけが……!」
こうして、ひとまず妖怪の山での騒動は幕を閉じた。
取り残された七人の人間たちはその後どうなったのかはわからないが、まぁ死んだことだけは確かなのだろう。
悪しき骨は砕いて使うしかない。肉が腐らぬ間に食ってもらえただけ、彼らの生に救いがあると思うべきだ。
「できれば二度と来ないでくださいねー」
「そうしたいところね」
射命丸は私達の身を案じてか、里へと続く帰路を最後までついてきてくれた。
おかげで天狗達の横入りもなく、子供を含め全員を里へ送り届けることができた。実にありがたい。
「さあ、集落はもうすぐです」
これで三人増えた。
母親とその息子。そして無口な一人の少女。
すぐに力仕事はできないだろうけど、人手のない今は十分手仕事もあるだろう。
食べ物は豊富な村だ。彼らも快く迎え入れてくれるはず。
「それに……」
「どうされました……? 私達が、なにか……?」
「ああ、いえ」
気にかかったのは些細なことだ。まだこれからどうなるかはわからない。
でも、期待してもいいのだろうか。
今日拾った少女が、その内から仄かに醸し出す霊力の片鱗に。
「ねえ、貴女の名前は?」
「え……」
「名前よ。教えてもらえるかしら」
「……知らない。名前……ない。あたし、あばら家に棲み着いてる霊だって、みんな言ってた……」
「なるほど」
「この子は……私も知りませんが、落ち武者たちに追われている途中で見つけて、それから一緒に……親無しの子なんです」
親とはぐれた子か。きっと物心付く前からそうだったのだろう。
年の頃は六か七か……。
「大丈夫、里にいけば暮らしていけるわ」
「……ほんと?」
「ええ。食事も寝床も、役目だって用意してあげる」
「……」
少女は不器用そうに口元だけで微笑んだ。
彼女は笑顔の作り方を知らない子供だった。
どうやら教えることは、色々とありそうだ。