神主は博麗神社前の階段に座り込み、筆を走らせていた。
手にしたものは札。護符である。数百枚もある紙につらつらと霊験あらたかな文字や記号を記し、その作業だけをずっと続けている。
「……」
本来は部屋の中でやるべき作業であろうが、それでも彼は外で書くことを好んでいた。
外の風を感じ、景色を眺め、時折ぼんやりするのが日課のようなものだった。
今こうして外で作業しているのも、その習慣の地続きである。
だが彼は今、風にも景色にも脇目を振らず、ひたすらに札の生産に注力していた。
「ミマ様……」
最後の一枚が書き上がる。
手は腱鞘炎にでもなったか震えているが、些細なことであろう。
宵闇の中、山の向こうで碧色に燃え上がる不吉な輝きと比べれば、自らの手など些細なことだ。
神主はつかの間の休息に、こうして札を書き続けることになった経緯について思いを馳せた。
「夜分に失礼します」
それはミマが失踪した夜遅くのことだ。
神主は部屋でミマを探すための“遣いの鳥”を特製の折り紙により製作中であった。
背後から聞こえてきた声に心当たりがあった彼は、しかしだからといって声を荒げるほどの元気もなかったので、うんざりした様子で振り向いた。
「……なんだ」
背後にいたのは妖怪だった。
いつぞや神社の境内で出会った、金髪碧眼の妖怪。
敵か味方かもわからない謎の多い相手だったが、近頃は少しは心を許し耳を傾けても良いと思い始めていた相手である。
だが今、わざわざ会いたい相手ではなかった。
博麗の巫女として玉緒が選ばれ、ミマが選ばれず……。
その後、ミマが失踪し。明羅が静かに怒り。玉緒が深く動揺し。
そして、どうしようもなく箍が外れるまで荒れてしまった村の男衆の一人が、神主の頬を強かに殴りつけたのである。
村でも好かれるような気の良い男だった。そんな男の、本気の怒りであった。
“どうしてお前さんは、こうもミマ様を傷付けるのだ”
男は怒り、悲しみ、泣いていた。
男が抑えきれなかった激情を吐露し、それを最後の最後まで聞き切るまでの間……神主はずっと無知で、愚鈍で、馬鹿な男だったのである。
神主は今まで何年もの間ずっと、ミマの気持ちを理解できていなかった。
彼女が気丈に語る言葉の上っ面だけを純粋に信じ込み、その姿勢を見て“崇高なミマ様”と、彼女を誤認し続けていたのだ。
神主の頬には、その時殴られた痕が残っている。口の中も切れていた。
その疼痛でさえ足りない自責と自罰の念に、今の彼は苛まれている。
謎多き胡散臭い妖怪の相手をするだけの心の余裕は、無かった。
「今の私と語らったところで、何も……」
そこまで言って、神主は異変に気付いた。
目の前にいる妖怪がどこから部屋に侵入してきたのだとか、そのような些細なことではない。
以前、あれだけ余裕ぶっていた妖怪の顔色は……あまりにも悪かった。
「……私にも、余裕はありません。なので手短に。……ミマを見つけました」
「!」
神主は目を剥いて立ち上がった。
だが妖怪は、八雲紫は首を振る。
「見つけましたが……ああ、今の彼女はもはや……私でさえ、どうすることも……」
紫は誰にも見せたことのない、弱々しい姿で語った。
今のミマを、包み隠すこと無く。
「……信じろというのか」
「……」
八雲紫は嘘を語らなかった。見たままの、感じたままの、そして明晰な彼女の頭脳で打ち出した確度の高い真実を語りきった。
そしてそれは、神主にとって受け入れがたいことであった。
「嘘だ……」
「外を」
「そのようなはずがない。ミマ様はそのようなことなど……」
神主が外に出ると、まず明るさに気がついた。
山の向こうに見える、緑に輝く炎の柱。先程の八雲紫の話にも出た、不穏な真実。
怨霊の集合体。刻まれた呪い。そして……それを全て吸収し、変わり果てた
「あの存在は、もはや我々、妖怪にどうこうできる存在ではありません……神にも妖怪にも、かの怨念は劇薬として作用します。あれに対抗できる存在は……もう、人間のみなのです」
怨念は幾多の妖怪を取り込み、その性質を飲み込みながら成長を続けていた。
向かう先は破滅。復讐。数多の怨霊が抱く因果応報……すなわち、極限の死だ。その怨みはもはや報復によって晴らすことのできる規模を越えていたが、それでも決して止まることはない。
「ミマ様は……」
「彼女は……もう……。かろうじて、最後にあの魔導書を……星界の書を開いてはいたようですが……しかしミマの力では、きっと呪いを打ち破ることは」
「……我々人間にしか、できぬのだな」
「……」
八雲紫は厳かに頷いた。
「……ミマ様が……いや、その魅魔は、今」
「辛うじて……“数珠の書”の……いえ、私が独自に扱っている結界によって封じ込めていますが、それがどれだけの時間稼ぎになるかもわかっていません。彼女は……とても賢い魔法使いでもありました。きっと、怨霊となった今でもその力に覚えはあるはず……必ずそう遠くない内に、破られます」
現在どうにかして、魅魔を結界の内に封じ込めることに成功している。
だがそれは柔らかなトタンで囲っているにも近い、杜撰な捕獲だ。莫大な力を内包する魅魔を長く留めおくには無理があるだろう。
「ミマ様は、我々にしか……救えぬのだな」
「……」
「わかった。準備を整えよう」
そう言ってすぐに、神主は作業に取り掛かったのだ。
八雲紫は彼の背に深々と頭を下げ、その後姿を消した。
八雲 紫は大妖怪である。
彼女は大宿直村を取り囲む妖怪の一人でもあったが、それ以上に村における人の営みを保全しようと目論む変わった妖怪でもあった。
大宿直村が持つ最高の霊地としての特性や豊かな地形、そして睨み合っている多数の妖怪たちの勢力を見て、この地に“郷”を築こうと目論んでいたのである。
妖怪や神は、人の精神による影響を受けやすい。
妖怪ならば恐怖や畏怖されなければならないし、神であれば信仰されなければその力を弱くし、忘れ去られた時に消滅してしまう。
未だこの日本においては迷信深さや信心深さが残っていたが、八雲紫はいずれ数百年後のうちに世界から人の“信心”が薄まるであろうことを予言、いや、予見していた。
紫の憂慮に賛同する有力者らがいくらか集まり、大宿直村は次第に人知れず整備されていった。
詳しい話を通してはいなかったが、ミマと知り合ったのも似たような理由からだ。
ミマと紫はお互いに“厄介な魔導書”を保有する者でもあったので、概ね共通の話題もあってか、人妖という種族の違いはあれど仲は悪くなかった。
均衡が崩れないよう人や妖怪たちのパワーバランスを調整し、郷全体を覆う結界を長年に渡り準備し続ける。
それは気の遠くなるような作業ではあったが、八雲紫はその作業がいずれ必ず実を結ぶ時がやってくるという確信を抱いていた。
郷で人を生かす。
隔絶された世界で、人の信心を保全する。
人と、神と、妖が調和する世界。
“
だがその計画は今、碧色に燃え上がる業火によって全てが掻き消されようとしている。
郷を取り囲んだ無数の妖怪が総出でかかっても相手にできないほどの莫大な怨念が、これまで大宿直村が歩んできた時間を黒く塗り潰さんと迫っている。
「……妖怪が、人に祈るしかないだなんて」
大悪霊・魅魔。
彼女が枷を食い破るのに、もはや時間は残されていない。