声をかけ、扉を叩くこと三回。
明羅は静かに、それでも強引に扉を開けた。
「……」
小屋の扉をこじ開けた彼女の目には、明らかな怒気が込められている。
いつも以上に張り詰めた雰囲気は視線に乗り、小屋の内部を見回した。
だが、誰も居ない。
一日前まで静木が暮らしていた小屋は、今やもぬけの殻であった。
明羅がここを訪れたのは、静木を問いただすためだ。
本音を言えば、いや、彼女は決して誰にも語らないだろうが、殺意に満ちていた。
敬愛するミマの運命をあざ笑うかのような陰陽玉を作った静木に対して、やりきれない怒りを抱いていたのである。
“会って、もしも害意があるならば”。
彼女は剣を抜くきっかけ欲しさに相手の悪性を探すつもりでもいた。だが静木はいなかった。
「……」
明羅は言葉を発さなかった。極力、怒りを抑えようと努力していた。
己が感情に任せて剣を振るうことは、決してミマのためにならないことを知っているからだ。
剣を振れば、解決することもある。だがそれは表面だけ。ミマが村にいられなくなるのは間違いない。何より、そんな解決や方法は、ミマが絶対に良しとしない。
「……くそっ」
何故。
どうしてミマではなかったのか。
今まで、彼女がどれほどの苦労を強いられてきたのか。それは付き合いの長い明羅が最もよくわかっている。
間近で彼女の苦労を、襲いかかる理不尽を笑い飛ばす強さを、それでも傷つかぬわけではない繊細さを、明羅だけは一番理解しているのだ。
長年慕ってきた男を諦め。
神職に身を捧げる覚悟を決めた矢先……その役目さえ、奪われる。
しかもその二つを手にしたのが……玉緒であるという、悲劇。
「ミマ様……ミマ様……!」
自分が涙を流してもどうしようもないことは、明羅自身がよくわかっている。
それでも想い、泣かずにはいられない。
何故ミマには何も与えられないのか。
何故玉緒が全てを奪っていくのか。
あんなにも仲の良かった二人が……師弟のようで、姉妹のようで、家族のようで……屈託なく笑い合っていた二人は、きっともう、戻ることはない。
きっと、誰も悪くはないというのに。
「どうして……どうしてなの……」
境内の裏で、玉緒は荒れ地を前に座り込んでいた。
衣類が土に汚れるのも構わず、両手が傷だらけになり血が滲むのさえ厭わず。
誰も居ない薄暗いそこで、玉緒は涙に汚れた顔をくしゃりと歪ませ、“それ”を持ち上げた。
陰陽玉。傷一つ無い紅白の神具。
ある日突然、玉緒を主として認め、帰属した魔道具。
「なんで、壊れてくれないの……!?」
この半日、玉緒は陰陽玉を破壊するためにありとあらゆる暴力を陰陽玉にぶつけていた。
だが壊れない。傷一つつくこともない。無理な行いは全て玉緒の身に跳ね返り、彼女にダメージを与えていた。
「返してよ……私じゃない……私じゃないの……ミマ様なのに、私じゃないのに……!」
村人は優しかった。
純朴な玉緒は半妖であれ、大宿直村の人々から好かれ、愛されていた。
それは神主と玉緒が好き合う仲になってもまだ続いていたが、珠緒が陰陽玉を持ち上げてからは少しだけ、空気が変わった。
もちろん、村人は優しい。
玉緒が故意に立場を簒奪したなどとは思っていない。だが。
――ミマ様に、申し訳ないとは思わんのか
誰かが小さく、きっと独り言のようにそう呟いていたのを、玉緒は聞き取ってしまった。
それからだ。村人の自分を見る目に、今までにはなかった“困惑”と“隔意”の色が見えるようになったのは。
“やってはならないことをした”。
あの時、陰陽玉を持ち上げた時、その場で気を失う寸前のミマの目を見れば明らかだった。
玉緒はどうにかして、過ちを消し去りたかったのだ。
だが陰陽玉の権限が移ることはない。
玉緒は選ばれたまま、覆らない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ミマ様……どうすれば……私は、どうすれば……!」
博麗の巫女。陰陽玉が示すその役目は、玉緒がどれだけで力を込めて拒絶しようとも、決して剥がれることはなかった。
「……」
歩き巫女は呆然とした面持ちで、野山を歩いていた。
時に這う根に躓き、枝葉に肌を切り、山慣れていない風な様子で歩き続けていた。
無表情。彼女は、ミマは、顔に何も浮かべてはいなかった。
ただ無心そうな顔で機械的に足を動かして、直線をなぞるようにまっすぐ歩いている。
「……」
ミマは山を越えて、隣の村へとやってきた。
疫病で滅んだ村である。
手入れもされていない古びた廃屋だけが立ち並び、集落のあちこちに放棄された遺骸は黙して何も語らない。
ミマは朽ち果てた路傍の骸骨を見て、立ち止まる。
そして、その悪臭漂う頭蓋を躊躇なく掴み、眼前に引き寄せた。
「……」
ただの遺骸だった。何者でもない。病に斃れた、どこにでもある骸のひとつ。
彼女はそれを確認すると、遺骸を放り捨てた。顔にはやはり、何も浮かんでいない。
「ああ……」
空はすっかり暗くなっていた。
燦然と魔力を放つ月と、星々。夜空には無数の星が浮かび、魔力の法則があり、一定の規則性を保って、地上へと降り注いでいる。
それは神職の知識ではない。魔法使いとしての知恵。
彼女が背中に背負い続ける“星界の書”による、おそらく世間では異端と呼ばれる類の考え方だ。
学んだミマは星魔法を否定することができない。
己が学んできたありとあらゆる神秘学の中でも、最も正確かつ深みのあるものだとさえ思っているし、確信している。
だが。
「……巫女が良かった」
それでもミマは、真実よりも、魔法よりも。手にしたいものがあったのだ。
「あたしはあの人が好きで……あの人と一緒になりたくて……巫女になりたくて……ただ、それだけで良かったのに」
だが、ミマは何も手にできなかった。
望むものは何一つ手に入らない。
手に入れたのは玉緒だった。
可愛い可愛い、半妖の玉緒。
「どうしてあの子が」
美しい。若い。可愛い。純粋。しおらしい。霊力に長けている……。
「どうして……」
あの時、助けてしまったのか。
「……!」
ミマは激しく首を振った。その考えに思い至った時、その先は駄目だと直感したからだ。
しかし夜の深い闇は、おぞましい思考を誘うもの。
もしも、玉緒がいなかったら。彼女さえいなければ……。
“博麗の巫女”に空きができたのなら――。
「いやぁッ!」
ミマは星の魔力で編んだ乱雑な光線を横薙ぎに振るい、自身の周囲に立ち込める黒い煙のようなものを祓った。
「違う! 違うっ! あの子は! 私はそんなことはっ……!」
何度か斬れば、やがて煙は魔術の輝きを浴びたせいか霧散し、消え去った。
「はあ、はあ、はあ……」
後には焦げ臭い香りが周囲に立ち込めている。腐ったような悪臭だ。
妖力混じりのそれは、祓っても祓っても根本から消える気配がない。
燻ったような煙は執拗に漏れ、どこかから漂ってくる。
「……ああ」
ミマがふと脚を苛む痛みに気付いて、裾を捲くりあげた。
煙の答えは、そこにあった。
「はは……あはは……そうか」
ミマが裾を上げ、外気に晒した両脚には。
かつて膿の大妖怪によってつけられた火傷痕が蔦のように広がって、歪に表皮を這っていた。
「まあ……誰にも見せないし……いっかぁ……」
醜く、痛ましく、呪われた痕。
密かに取っておいた自慢の脚さえも、今や見る陰もない。