屋敷は傷んでいた。
廃屋というまでではないが、人が住んでいればここまで放置はしないだろう。そう一目で思わせるほどには、彼の家は荒んでいた。
家財は無い。家にいた人間がここを出る際、あらかた担いでいったのだろう。
金目になるものさえあれば、移り住んだ先で再び再起できるかもしれない。前向きではある。
この家ではやっていけない。そう思わせるだけの何かがあったということだ。
逃げ去った者の全てを咎めることは、通りがかっただけのミマにはできなかった。
「ここだね。まぁ、なんとも臭うもんだ」
屋敷の中に入った瞬間から、ミマは内部にある凶源を感じ取っていた。
男の先導も突っぱねて廊下をいくつかジグザグに歩いてみれば、すぐに正解の部屋へとたどり着く。
「こりゃ相当だねえ」
寝室の中央に、それはいた。
うつ伏せに倒れたままの女の遺骸。一言で表現するならばそれであろう。
しかしこの遺骸には未だ怨念が宿っており、それを取り除かない限りには朽ち果てることがない。
腐臭はすれど虫は集らず、水気は滴りもしない。
夜ごとに遺骸へ宿る怨念が、現実の腐敗を拒んでいるようであった。
「……ッ」
男は妻の遺骸を間近に見て、今にも吐きそうな顔色を浮かべていた。
親しかった者の死。そしてそれが動き出すことの恐怖。理由は様々だろう。
「ミマ様。気をつけてください。これは」
「ああ、宿ってる」
何とは言わない。
が、専門ではない明羅にも察知できるほどの禍々しいものが、女の遺骸からは発せられていた。
「こいつが動き出すのは日没だ。まだもうちょっとばかし猶予はある。焦る必要はない」
「……し、しかし! これは、動き始めるとそれはもう、恐ろしい速さで」
「だろうねぇ。妖怪が本気で追いかけりゃ相当なものだろうさ。……これほどの怨念ともなれば尚更ね」
それからミマは少しの間、室内を物色する。
方角の確認。配置されてる物品の確認。天候の確認。作業は簡略的に、手早く行われた。
もとより対処法は決まっている。作業そのものは平時の妖怪退治よりもずっとスマートだった。
「ふむ。さて……問題はないようだから、早速だけど退治の仕方を教えようか」
「! お願いします!」
「張り切るねえ。さっきも言ったと思うけど、この妖怪を退治するにはあんたに恐ろしい目に遭ってもらう必要があるよ」
「……恐ろしい、とは」
ミマは二歩ほど歩き、女の遺骸の傍まで近づいた。
そのまま女の長い黒髪を掴み、ぐっと引き寄せる。
髪は死しても強靭に繋がっているのか、根本から抜けること無くピンと張り詰めた。
「この女の背に跨り、両手で髪を掴むんだ」
「……えっ」
「女が暴れても、走っても、恐ろしいうめき声をあげたとしても、決して手を離しちゃいけない。飛び降りてはいけない。……こいつはあんたのことを探しているんだ。跨るのをやめた瞬間にどうなるかは……さてね。そこまでは責任が持てないわね」
男はわなわなと震えている。無理もないことだと、隣で見ていた明羅は思う。だが同情する余地はなかった。
真正面からこの手の妖怪を退治しようとなるとそれなりに手を焼くし、消耗品も嵩む。村の防衛のためならばまだしも、余所者の手伝いのためにわざわざ退治用の備蓄を損耗したくはない。
それに遺骸に跨る苦難を伴うが、間違いなく費用をかけずにできる退治だ。一文無しであろう男にこれ以上のものはないだろう。
「さ、日没になるよ。どうする?」
「……」
答えはあってないようなものであった。
ミマたちが精力的に退治しないのであれば、男は今更にこの状況を捨て置けるわけもない。
今からちょっと逃げ出したところで、目の前の遺骸はすぐに追いついてくるだろう。
その後どうなるかは、想像するだけでも恐ろしい。
「日の出になれば女はまたここへ戻り、眠りにつくだろう。その時、成仏できるように細工はしてやる。あんたにできるのは、それまで必死にしがみついていることだよ」
「……と、いうことだ。腹を括れ。なに、一晩の辛抱だ」
かくして、男は遺骸に跨ることとなったのであった。
「……ドコ」
日が沈み、闇の帳が降りる。
同時に、遺骸は前触れもなく起き上がった。
背に跨った男の重量などないかのように、すくりと起きた女の遺骸。
それはしばらく左右を見回しながら、人ならざるざらついた呼吸音を奏でる。
「ドコニイルノ……」
のしり、のしりと床が軋む。男は、女の背にしっかりとしがみついていた。
低い声で呻く女に恐怖し、顔はひきつっている。長い黒髪を握る手は震えている。それでも力を緩めれば、待つのは惨たらしい死だ。気をやるわけにもいかない。
「オモイ……キョウハドウシテ、コンナニモ……オモイ……」
女が屋敷の庭に出て、緩やかに走り始める。
しかし常歩はやがて駈歩へと移り、馬にも出せないほどの速度へと切り替わってゆく。
「ァアアアァア、ドコ、ドコニイルノ……」
夫を探す女の亡者。彼女はすぐ近くに探し人の気配を感じつつも、決して見つけることは叶わない。
今はまだ怪物的な速度で野山を駆け回っているが、朝になればその果たされざる怨念も燃え尽きているだろう。
「……あの男、褒められた者ではないですが……過酷でしょうね」
「だろうねえ」
過ぎ去っていった男と女の妖怪を尻目に、ミマと明羅の二人はのんきに言葉を交わしていた。
二人がいるのは屋敷の屋根の上である。夜の屋外ともなればそこも決して安全とは言えなかったが、大宿直村の環境よりは随分とマシである。
「どうされるのです、ミマ様。このまま朝まで待つつもりで?」
「まさか。どうせ結果を見るにゃ朝まで待ちぼうけなんだ。このまま一度村に戻るよ」
「良かった。では帰ったらすぐに支度を――」
「その前に」
ミマが屋根から飛び、軽やかに降り立つ。
「……姿を見せなさいよ。いるんでしょ? さっきからずっと、こっちを様子見してるのがさ」
「!」
ミマの言葉に、明羅も素早く臨戦態勢を整える。
刀を抜き放ち、普段は抑える妖気を解放。霊力と妖力の二つを束ね、辺りを威圧した。
殺気は瞬く間に伝播し、勘の強いネズミなどは真っ先に反応した。
小動物が逃げる鳴き声と足音が、沈黙の夜に小さく響く。
「――あらまあ、そう物騒な気配を出さなくても良いのに」
「……お前は」
闇の中から気配なく現れたのは、浮世離れした美女。
薄い肌色に、蜂蜜色の長髪。そして毒々しい紫色の見慣れぬ
現代の日本にはあまりに似つかわしくない妖怪が、そこに現れていた。
「お久しぶりね。ミマ」
見るからに妖怪。見るからに奇怪。
そんな美女を目にして、ミマはがっくりと肩を落とした。
「なんだ、
「あら、“なんだ”はちょっと酷いんじゃないの?」
「じゃあ“大丈夫な方の得体の知れない奴”って言ったほうが良かった?」
「……ミマ。その妖怪に対して心を許しすぎるところ、巫女としては致命的よ」
「ハッ。それじゃあなにさ。あんたもようやく村を潰そうって気にでもなったの?」
「……」
ミマが不敵に言ってやれば、紫と呼ばれた美女はバツが悪そうに扇子で口元を隠す。
二人の間柄はそう簡潔に表現できるものではなかったが、この一幕を見る限りにはそう悪いものではないようであった。
「で、なんでまたこんな村にやってきたのよ、紫。もう何年も顔出さなかったのに」
「色々と忙しかったのよ。わかるでしょう? 調整は大変なの。特に最近では、都で鬼が活発になりすぎているから」
「……そんなところまで手を伸ばしてたのか。相変わらず、そういうところは得体が知れないわね」
「フフフ、妖怪としてはこれ以上無い褒め言葉ですわ」
紫を交えた三人は、今や持ち主のいなくなった屋敷の縁側で言葉を交わしていた。
「明羅と会うのも久しぶりになるわね。どうだったかしら? 村での生活には慣れた?」
「……当然。貴女に心配されるほどのことはない」
「なら良かった。フフ……」
「紫」
「ん?」
神妙な声色で名を呼んだのはミマの方であった。
「神社をいじったのは、あんたか?」
「……」
暫しの沈黙。明羅は、すぐ隣で口元を隠す胡散臭い妖怪をじっとりと観察している。
「私の勧請ではありませんわ。そう、私ではない……」
「ふうん。誰か知っているかのような口ぶりだねぇ?」
「ああ、これもまた思わせぶりの弊害ね。断言します。それについては、こちらでもはっきりと断定できていないのです」
紫から出た率直な言葉に、ミマは目を丸くした。
「驚いた。あんたみたいな妖怪が、自分にもできないことがあるような事を仄めかすなんて」
「だから、それは……もう。とにかく。神社の一件に関しては、私は関知していないのです」
「あんたほどの妖怪ともなれば、雑多な神様なんかも知り合いにいるんだろう? 大宿直村にいる神から何か聞いてないのかい」
「ええ、何も。……全く、本当に鋭い巫女ね。わかったわ。私が今日ここにきたのは、神社のことについてよ。遠回しなことは抜きに、率直に言葉を交わすことにしましょうか」
紫が地面に作った“裂け目”に潜り込み、姿を消す。
それから間を置かず、今度はミマらの正面の空間を割るように上半身を乗り出してきた。
境界を操る能力。
スキマと呼ばれる異空間を自在に操る謎の妖怪、八雲 紫だけが扱える妖術だ。
ミマもこの妖怪との付き合いはそれなりに長かったが、未だにこのスキマだけは何ひとつ解明できる気がしない。
もしも彼女が村の敵に回っていたならば、大宿直村は今や影も形もなかったことだろう。
「ミマ。神社に宿っている神格は、途方も無いものです」
「ええ、それはなんとなくわかってる。……けど、正体はまるきり掴めそうにないわ。降ろすわけにもいかないだろうし……」
「安易に降ろすのはおすすめしないわ。これは善意からの忠告です」
「……珍しく、優しいじゃないの」
「フフフ。その神の機嫌一つで村どころか周辺一帯の存亡がかかってくるともなればね。私だって、箴言のひとつくらい差し上げますわ」
周辺一帯の存亡。あまりにも穏やかでない表現に、ミマと明羅は思わず黙りこくった。
「今度、神事を執り行うそうね? ……安心なさい。妖怪たちはきっと、それを邪魔することはないでしょう。だから、貴女は神事に向けて、しっかりと準備をなさい。場合によっては、私からも手助けはするから……」
「ちょ、ちょっと。穏やかじゃないわね、随分と……」
「ええ、本当に。ただでさえ最近は物騒なのに、忙しくて大変ですわ。フフ……まあ、今回のことに限って言えば、慶事なのでしょうけれど」
「……あの神の正体は? 妖怪の崇める邪神じゃないでしょうね」
「それはありません。……いえ? ひとつの側面をみればそうかもしれない。……ふむ。人にも妖怪にも、等しく御利益のある神。そう思えば良いのではないかしら」
「北極星が強く響いてる。けど天部の気配はない。他の見知った神々のものとも違う。これはどういうこと? あんた、前に私と一緒に天球儀作ったでしょう。この分野に詳しいのは知ってるわ。教えなさい」
「あら……」
はぐらかそうかと考えていた紫は、思わず目を見開いた。
内心、人間だからと侮っていたのかもしれない。しかしミマは優秀だった。
わずかな神気から性質を悟り、膨大な知識から参照できるだけの素養もある。
神主のように専門機関で学んだわけでもないにも関わらず、ここまで結論に近づける。それは驚くべきことであった。
「……そう。そこまでわかっているなら、隠しても時間の問題でしょうね」
「はいはい、さっさと教える」
「もう、急かさないの。……
「……あるっちゃある」
「それです」
「……」
ミマは何か言いづらそうに、頭を掻いた。明羅はそれを心配そうに見つめている。
「あの、ミマ様。その神をご存知なのですか」
「あーうん、知っているといえば知ってるけど……知ってるだけ。名前だけ知ってるだけだよ」
「フフフ、肩透かしでしたか?」
「まあね……なんでまた、そんなものが……」
神職に携わるものとして、知らないことはない名前であった。
全ての神々の源、造化三神の中でも最初に現れたとされる神。それこそが天之御中主である。
だが、資料に記された情報はほとんどそれだけだ。最初に現れた神。天地開闢のほんの触り部分だけに記述されるだけの存在。
いくらミマが詳しいといっても、大本の資料でさえ情報が少ないのでは考察のしようもなかった。
「気を付けるべきは、あの神社に宿るものがそれに値する何かである、ということです」
「……厳密には違うって?」
「断言はできませんが。……あれに宿る気配は薄いですが……遠くまで根ざしている。私には、そう思えてなりません。排そうとすれば、何が起こるやら……想像したくはないですね」
「……」
紫は強力な妖怪だ。ミマはそれをよく知っている。
妖怪としての実力も。“魔法使い”としての実力も。
そんな彼女が畏れるだけの神。間違いなく、触れるべきでないものなのだろう。
「……わかった、ありがとう紫。忠告はありがたく受け取っておくよ」
「フフフ、どういたしまして」
「けど、どうしてそんな大事そうな忠告を村で寄越さなかったのよ」
「……フフフ」
紫は意味深に笑ってみせたが、そこに隠された僅かな感情はミマだけが読み取れた。
「あっ、ひょっとしてあんた。何か隠してるわね?」
「ではごきげんよう。明羅、あなたも。また今度ね?」
「え? あ、はい」
「こら、逃げるなー」
追及してやる暇もなく、紫はスキマの中に落ちていなくなってしまった。
「……嵐のような妖怪でしたね。あいも変わらず……」
「ええ、ほんとにね……」
胡散臭く、隠し事の多い妖怪。
普段から何を考えているのかわからない相手だったが……それでもミマは、なんとなく相手の気質を感じ取っていた。
「けど、悪い奴じゃないよ。言動と雰囲気ほどはね」