渡り巫女。
それは後の時代において諏訪信仰の伝道師であったり、諜報員として各地に遣わされたくノ一であるなどと言われているが、この時代においては“一つの神社・あるいは神に縛られない巫女”を指す。
つまり、旅をしながら祈祷やらお祓いやらをして生計を立てる野良の巫女だ。
普通の巫女が医者であるならば、渡り巫女は薬売りと呼べるだろうか。
しかし、現実における実態は少々異なっている。
多くの渡り巫女は祈祷も厄払いも除霊もできず、力のない女であることが多いためだ。食うに困った寡婦や路頭に迷った女が渡り巫女となることはそう多くはないが、少ないわけでもない。
なので彼女たちは形ばかりを真似た詐欺紛いの霊能力でお布施を騙し取るか、各地で体を売って金を稼いでいる。
もちろん、まともな“巫女”としての渡り巫女も存在する。
だが世間の偏った常識からすれば、渡り巫女というものは体を売って旅する賤しい女達であるというのが通説だ。
清く誠実な渡り巫女であっても、往く先々で男たちから下卑た目で見られ、体を要求される。当然、そのような風評とあっては女からの同情なども得られるはずはなく、まともな渡り巫女は姿をひっそりと姿を消してゆく一方であった。
ミマは、大宿直村を拠点に活動する渡り巫女だ。
年若く、見目麗しい美女である。
そんなミマが渡り巫女であるのだから、旅の最中に投げかけられる視線や悪意は数え切れるものではない。
とはいえ、ミマは渡り巫女になったことを後悔してはいない。渡りになろうとなっていまいと、自らの置かれる境遇にさして違いはなかっただろうと確信していたから。
汚れた町民だろうと神職だろうと、中身が腐っているならば似たようなもの。ミマにとって重要だったのは、それが己の蹴りで気兼ねなく張っ倒せるかどうかに過ぎなかったのだ。
「ミマ様、おかえりなさい」
「ああ、明羅。ただいま」
集落の外れに、ミマと明羅の二人が暮らす屋敷があった。
昔は大所帯の暮らしていた屋敷だったが、一家が疱瘡に倒れてからは長く引き取り手もおらず、数十年した後にミマと明羅がここに住み着いている形だ。
最初こそ不吉な病魔の蔓延る屋敷だと村の多くから強く止められていたのだが、術の力でどうにでもなると説明して強引に納得させ、居住。そして特に病を発症することもないまま現在に至っている。
「また神主のところですか」
「いつもの日課をね」
「魔法ですか。……入れ込みますね」
「のんきで間抜けだが、筋が良いからね。それに、まだまだあいつはここの流儀に納得できていない部分もある。教えることは多いのさ。今でも」
明羅の用意した水桶に足を突っ込んで、洗う。
土と砂に汚れた足をほんの少し擦ってやると、すぐに元のきめ細かな白い肌が顕になる。
自分の美貌がその人生で厄介を呼んだ経験があまりにも多いミマであるが、自分の美しさを誇りに思う気持ちは当然ある。特に念入りな手入れを続けているわけでもないのだが、この脚もまた、ミマの密かな自慢のひとつだった。
「……神主がねぇ。妖怪とは相容れないって言ってたよ」
足の指の間を擦りながら、ミマがぽつりとつぶやく。
明羅はミマのための白湯を支度しながらも、その言葉を聞き取っていたのだろう。どこか諦めたような顔で、椀の中の水面を眺めていた。
「やっぱり妖怪を恨んでるんだろうね。あいつの過去を、あたしゃ知らないけどさ」
「そういうものでしょう。妖怪と人間。喰う者と喰われる者。常識人ではありませんか」
「……
膝を抱え、息を吐く。
ミマも前々から薄々わかっていたが、今日その頑固さが深くに根ざしているものと知って、少しばかり堪えているらしい。
「神主……彼は、陰陽寮の考え方に毒されている。もちろん、様々な術を学ぼうとする意欲、その姿勢は素晴らしい。得難い素質です。……それでも、長年居続けた場所、そこで育まれた思想は、そう容易く覆らないものです」
「……頑固だよ、あいつ」
「それが普通かと。ミマ様のように柔軟に思想を変えられる人が稀有なのです」
普段は凛と澄ませた顔しか見せない明羅も、彼女の前では柔らかな女性らしい笑みを見せる。
「ただの妖怪侍でしかなかった私を強引に消すこともできたでしょうに、それをしなかった。貴女は私を匿い、この村に居場所を作ってくださった」
「……屋敷が無駄に広かったから一緒に住んでるのさ。そうでなけりゃ世話焼いてたかどうか知らないわよ」
下手な照れ隠しだった。
相変わらず人の好意を真っ直ぐに受け止められない人だと、明羅は苦笑する。
こういう少しひねくれた性格を直せば、神主とちょっとした喧嘩をすることもないだろうに。
いや、むしろこんな性格が幸いするのかもしれないのだが。
「……しかし。確かに今でこそ神主は受け入れられないかもしれませんが……いずれはきっと、妖怪との共存にも理解を示す日が来るはずです」
「あの頑固者でも、かい?」
「時間は人の凝りをほぐすこともありますから」
「……年長者が言うと、違うね」
「それはもう。ミマ様よりは長生きしていますからね」
黒いポニーテールが特徴的な男装の麗人。
若き女侍。見た目は確かにそうだろう。
だが明羅の実年齢はすでに二桁の後半にある。
彼女は人間ではなく、妖怪の侍なのだ。
「私以外にも、二人……いえ、三人はいます。いずれ、神主には気付かれることでしょう」
「……妖怪退治の村で妖怪が暮らしている。それを知ったら、どう思うのかね。あいつは」
「さて。私は妖怪侍ですから、人間の退治屋が考えることなどわかりません。ですが……」
葛藤くらいはしてほしいものですね。
明羅はそう言って、鼻で笑った。
ミマの村での活動は、妖怪退治から警邏、果ては新参者への教導と様々だ。
役目が多いのは、彼女が村でも珍しく高度な“浮遊”を扱えるが故だろう。各地域への移動や警戒が容易なため、様々な役割を求められていたのである。
とはいえ、それも無報酬というわけではない。
果たす役割に応じて村での発言権は強くなるし、融通も効きやすくなる。金銭や食料も多めに回されるし、ミマとしてはメリットの方が多いので、喜んで仕事をこなしていた。
「では、また」
「ああ。先戻ってたら、よろしく頼むよ」
ミマと明羅は同じ屋敷で暮らしてはいるが、それはただ同性で互いの事情を知っているので都合が良かったというだけの理由でしかない。二人の暮らしにやましい妄想を働かせる者も居ないではないが、実情は素っ気ないルームシェアに近いだろう。
二人が共に行動するのは妖怪の討伐などで派手に動く時がほとんどで、それ以外の警邏や雑事は別行動を取ることの方が多かった。
今日この日も明羅は芝刈りに、ミマは森辺の警邏に分かれている。
ミマによほどの危機が迫らない限りには、途中で明羅が飛んでくることもないはずだ。
「さて。もう大丈夫だろうとはいえ、一応少しは見回りしておかないといけないしね……」
今日ミマが見て回るのは、瘴気の森だ。
そこは以前に送り犬の騒動があった場所だし、近くには例の静木が暮らしている。
既に静木の住まいは安全であろうという結論に落ち着いてはいるが、だからといって完全に疎かにして良いというわけでもない。
大宿直村は妖怪が頻出する地域なのだ。どんな地域であっても。精力的に見て回る必要がある……というのは、村長の言葉であった。
空を緩やかに飛びながら、渡り巫女は今日も村を見守る。
痛む腰に鞭打って働く農夫を。
獲物を捕らえた猟師の姿を。
川辺で罠を編み込む青年を。
寺社の境内を掃除する坊主を。
「……ん?」
そして、珍しく外に出て散歩しているらしい
「なんだいなんだい……」
なんとなく良い予感はしないのだが、とりあえずミマは直接訊ねてみることにした。