送り犬。
それは古くから伝わる山の妖怪で、概ね犬の姿をしているという。
普通の犬と異なるのは、全く人に懐くことがないこと。山で人を見つけたならば、執拗に追いかけ回し、弱ったところにすかさず飛び込んで襲いかかるなど、非常に獰猛であることが有名だろうか。
対処法はあまり知られていないが、とにかく転んだりだとか、怪我をしたりだとか、弱った姿を見せないことだ。
送り犬に対して少しでも弱みを見せれば、その瞬間に彼らは牙を剥く。
当然ながら、人と犬では闘いにならない。人間という生き物は特に弱いのだ。ましてや妖怪犬ともなればその差は歴然である。
無事に下山し、人の生活圏に逃げ延びること。一般人にできる送り犬の対処は、それが限界だった。
「目撃した樵の話では、送り犬は十とも二十体とも言われておる」
「どちらにせよ、多いですな」
「樵は無事ですか」
「ああ。どうにか命からがら、逃げ延びたようじゃ。生きた心地はしなかったようだがな」
「だろうねえ」
送り犬は体長1メートル前後の妖怪だ。
それが山中で十数匹も付け狙ってくるのだから、それは恐ろしい話であったことだろう。
ほんの些細な道の踏み外しが死に直結するのだ。足を竦ませることなく逃げ帰り、妖怪の報告を伝えた樵は、英雄と呼んでも良いかもしれない。
「送り犬は未だ外れの森の中に潜んでいるという。知っているだろう、あの瘴気の森だ」
「山から森へ移ったと。しかし、瘴気の森か。それはまた面倒なことになったものだねえ」
ミマは呆れたように力なく笑い、隣の明羅も難しそうに腕を組んだ。
瘴気の森は、この大宿直村近辺でも特に危険なエリアとして知られている。
強大な妖怪が住み着いているというわけではないのだが、そこは人間にとって害となる瘴気や霧が常に漂っているため、踏み入ることも難しい場所なのだ。
今回の樵は瘴気の森とはまた別の場所で作業をしていたのだが、送り狼から逃げる過程で常の道から逸れ、瘴気の森を突っ切るように戻ってきたのだという。
「知っての通り、瘴気の森は村の生活圏に近い場所じゃ。普段は妖怪が好んで立ち入る場所でもないのだが……あの付近で暮らす者は皆怯えておる。近い内に討伐隊を組み、巻狩をせねばならん」
送り犬の群れは確かに脅威だし油断はできないが、この村の退治屋は更に強力な妖怪たちと渡り合ってきた。
危険はあるが、この程度の討伐は日常茶飯事である。
「任されよ、村長殿。今日にでも向かって、連中を森の肥やしにしてくれるわ」
「ああ、難しいことはねえ。連中は犬とそう大差ねえからな。討ち漏らしのないよう、しっかり済ませておこう」
村長の提案に対して彼らは怯える素振りひとつ見せず、頷いてみせた。
頼もしい村の退治人たちの姿に、厳格な村長の口元も思わず綻んだ。
「うむ。この一件に関しては、九右衛門を頭に動いてもらおう。任せていいな?」
「おうさ。勝手は村でもわかってる方だ。そうしてもらえればありがたい」
リーダーの取り決めに際しても揉めることはない。
村には様々な方向性、流派の退治屋がごちゃまぜになっているものの、彼らは互いを尊重し合っていた。
無駄に自分の力を誇示したがるような精神的若輩者はほとんど居ないし、怠け者が生きていける環境でもない。
会議は踊ることなくスムーズに進み、事の重大さの割にはあっという間に片がついたのだった。
「そして……だ。今日はもうひとつ、今朝方この村にやって来たばかりなのだが……新たな住人を紹介したい。後に面倒事が起こらぬよう、顔だけでも覚えておいてほしい」
ある意味、こちらの方が今日の集まりの主題だったのかもしれない。
村長は立ち上がると、小さな寺に向き直って何者かに手招きをしてみせた。
どうやら階段脇の物陰に、その人物はじっと座り込んでいたらしい。
気配なくこの場に近くに潜んでいたという事実に一同は静かな驚きを覚え、また同時に強い興味も抱いた。
「紹介しよう。とはいえ、まだワシも詳しくは知らんし、自己紹介してもらわねばならん。おい、起きとるか」
「ええ、もちろん」
声は、まさしく老人のそれであった。
老年である村長以上にひどく嗄れており、重い石臼を地中で挽いたかのように低い声だった。
しかし立ち上がったその背丈はミマや明羅よりも、いや、この場にいる誰よりも高かった。
老人は声と不釣り合いな美しい姿勢で歩み寄る。
濃灰色の長衣に、肌の露出を完全に抑え込むかのように巻かれた古めかしい包帯。
そして何よりも特徴的な、奇妙な生物の顔を象った木製の仮面。
一言で言い表すならば“謎”そのものであろう人物は、村の衆に小さく頭を下げてこう言った。
「皆様はじめまして。本日からこちらでお世話になります、
なにやら不気味なほどに馬鹿丁寧な奴であった。
「……と、このような御仁だ。深くは聞いてやるなよ。顔は……まあこの背丈だ。すぐにわかるし、見ずとも構わんだろう」
村長としても、今朝方村にやってきたばかりのこの背の高い人物に関してわかっていることはほとんどない。
静木は大宿直村で暮らしたいというそれを言うばかりで、深く己について語ろうとはしないのだった。
とはいえ、それでも害さえなければ受け入れるのがこの村である。
顔に張り付いた謎の木彫仮面の出来栄えは良いものだし、身なりも奇怪ではあるものの、何やら呪術的なものに通じていそうな雰囲気は感じられる。
問題を起こさない限りはひとまず様子見として、村に置いておくのも構わないだろうというのが村長の考えだった。
しかし静木に突き刺さる人々の目線は、鋭いというより、訝しげだ。
風体もそうだし聞き慣れない挨拶の形式もそうだが、何よりも。
「なあ、静木さんとやら。ひとつ聞いても良いだろうか?」
「うん?」
勇気を持って第一声を投げかけたのは、神主であった。
「その面は、一体何を象った物なのだろうか」
「エイです」
結局、よくわからない人物がやってきたことだけは、その日のうちに村中に広まったのだった。