麓の神社に名前はなかった。
ミマが聞くところによれば、それは誰かが最初に大宿直村に踏み入れた時から、既にそこにあったのだという。
しかし神社としての元来の建築技術はほとんど使われておらず、本殿から鳥居に至るまで奇妙な継ぎ接ぎや指物で建てられているらしい。
宮大工であった男がここを訪れた際、建築物の出来栄えを褒めると共に、その成立があまりにも異質なことに驚いていたのを、ミマはなんとなく思い出した。
「こうして見上げる分には、ただの神社だけどねえ」
彼女自身に神社がどうこうなどはわからない。学ぶ機会があったとしても覚える気もないだろう。自分の領分を越える、つまり不必要なことは頭に入れない。それがミマの流儀であった。
「おーい神主ー」
呼べば、またガタガタと物音が聞こえてくる。
ミマはそそっかしい物音にフフと笑みを零し、かといって自分の都合で呼び出したくせに遅れてくる相手を待ってやるのも癪だったので、いつものように石段に座り込んだ。
椅子なんて上等なものはない。
しかし、山の自然を見渡せるこの場所が、ミマのお気に入りだった。
「ミマ様やーい、そんなところに茣蓙も敷かずに座るなど、汚れるぞー」
「知らないよ」
「ほれ、せっかくなのだから。袴が汚れるのはつまらんだろうよ」
そういってミマが振り向けば、そこには若々しい顔立ちの男がいる。
二人分の茣蓙を持ち、童子のように無邪気な顔で笑っていた。
「……茣蓙の上だろうと、あたしの教え方は優しくならないよ?」
「はっは、なあに。ミマ様が優しく教えてきたらそれはミマ様に化けた妖怪であろう」
「ふんッ」
「あいっだぁ!?」
幣が額を打ち据える小気味いい音で、この日の授業が始まった。
ミマはしばらく前から、この得体の知れない神社に住み着く自称神主の男に魔法を教えている。
魔法である。呪術や妖術でもない。一般的にはあまり知られていない類の術であった。
大抵、そういった新興術などは怪しまれ、既存の派閥に疎ましく思われるために、長続きしない。宗教に絡めればそこそこ手応えも得られるかもしれないが、そのためには新興宗教が国レベルで認められる必要があり、元も子もない話であった。
つまるところ来歴の定かでない術というものは大概が流行る以前に廃れてしまうのだが、神主はミマの操る術を見て、即座に“これだ”と直感したのだという。
きっかけは難しくもなんともない平凡な妖怪退治で、大宿直村の中に湧き出た鳥妖怪の退治であった。
その当時神主はまだほとんど村に馴染めておらず、肩身狭そうに山菜を摘んでは村人たちに卸すその日仕事をこなしていたのだが、そんな神主の前に突然、鳥妖怪が現れた。
神主は元々妖怪退治に深い造詣があったため、身体は反射的に動いた。くたびれた袖から護符を取り出し、投げ放つ。妖怪の動きを止めるのに必要なその動作を、神主はほぼ無意識下で行おうとしていた。
だが、それには至らなかった。
鳥妖怪が符によって捕らえられるその寸前に、空から飛んできたミマが妖怪に凄まじい蹴りを見舞ったのである。
霊力を込めたであろう蹴り。その威力は凄まじく、妖怪は一瞬にして靄となって夕闇に溶けていった。
やったことは単純だ。
鳥妖怪に負けないほどに自在に空を飛び、力を込めた蹴りで仕留めるだけ。
だが、その一連の動作に込められた芸術的なまでの魔力運用は、単なる肉弾戦のそれとは違う。羽のように空を舞う術、相手の位置を見失うことなく補足し続ける術、そして蹴りに込められた術……。
神主は一目で、その術の実用性を悟った。
以来、彼はことあるごとにミマに教えを乞うているのだ。
「星はよく見なよ。月や太陽が隠れているのは問題ない。けど、星だけはよく見てなきゃ駄目」
「ふむふむ」
「だから、夜がふけた時が一番だ。もちろん昼間に使うこともできるけどね」
ミマは手の中に多角形の輝きを生み出し、そこから一条の帯を射出した。
世が世であればビームやレーザーと呼ばれていたであろう魔法だが、神主からすればそれは見事な魔法としか言いようのないものであった。
「こ、これはすごい」
「これはただ星の力を集めて放ってるだけなんだけどね。まぁ、退治屋にとってはどちらでもいいのか」
「今の時間帯ではどうなのだ? ミマ様。その術が有効なのか?」
「いんや。まあいつでも使えるって意味ではそうかもしれないけどね」
ミマの操る魔法は時間帯や天候の制限を大きく受けるものだった。
とはいえ術の規模に影響が出る程度で、最低限の出力が期待できるものだ。使い勝手は非常に良好で、何より火力に拘らなければ余計な触媒を必要としないというのが大きかった。
「太白はこれ。使い勝手は良い。ただ妖力に近いから、そっちの方を扱う場合はごっちゃになったらいけないよ。で、熒惑の場合はこっち。これは素直に通る方だし特に注意はない。太歳は手に余ることも多いね。最初は手を出さないほうが無難だ」
ミマが土の上に図を書き示し、神主がそれを見て説明を飲み下す。
神主は普段は剽軽でお調子者なところがある人物だったが、こうして人から物事を学ぶ際には一切ふざける様子もなく、真面目な生徒だった。
時にちょっとした実演を交えたり、図式で理解が及ばなければ枝葉を用いて立体的な模型を組んで示す。
魔法の講義は難解そのものだったが、幸いなことにミマも神主も双方ともにそこそこの学の素養に恵まれていたため、この授業で大きな認識のズレを生むことはほとんど生まれていない。
それはこの魔法学に乏しい古代日本においては、極めて奇跡的な学習効率であった。
「ふう。とりあえず、ここまでにしておこうかね」
一区切りついたと見るや、ミマは授業を終えた。
陽は中点。息をつくには丁度いい頃合いであった。
神主としても強張った首筋や腰をほぐしたいところだったので、快くそれに応じる。もとより一方的に習う立場、授業のペースはミマに委ねている。
「ありがとうな、ミマ様。いつも助かっておるよ」
「なんだい急に。恥ずかしい奴だね」
「恥ずかしいはないだろう……いや、本当に助かっているんだ。私もこの村にいる以上妖怪退治に出向くことも多いが、そのときにはミマ様から習った技法を使うこともあるからな」
「下手に覚え始めた程度の知識を実戦で使うんじゃないよバカ」
「ははは、問題ないさ。そのへんはわきまえておるとも。ただちいとばかし、星降る力を借りているだけのことよ」
神社に棲まう神主の村での役割は、妖怪退治だった。
とはいえ村の中では珍しいことではない。ここでは農家をやっている者が片手間で妖怪を倒せる程度には、その道の者が多いのだ。退治屋を担っている者自体は決して珍しいことではない。
変わっているのは、この神主の退治の腕前が、大宿直村において筆頭の実力とも言えるであろう渡り巫女のミマに比肩するということだ。
「……ま、あんたなら確かに平気なんだろうがね」
神主はある日突然、この村にやってきた。
その当時は全身がズタボロで、怪我も負っていたのだという。かなり身なりの整った姿であったとのことだ。
ミマとしても、だいたいの察しというか、想像はついている。
普段遣いしている彼の術や物腰、学の高さ、それらを鑑みれば――断定するのは決して難しくはない。
だがそれでも、決して個人の深い部分には入ってはならない。それが大宿直村の暗黙の了解であった。
「そういえばミマ様、今度村の集会があるだろう。その時に出す酒、余ったものでも構わん。この神社にも分けてはくれんか」
「ああ? あー……まぁ、構わないけど。なんでまた?」
「何を異なことを。神主ぞ。たまには奉納せんといかんだろう」
「ハッ、なるほどね。そういやそうだった、忘れてたよ」
「なぬっ、ミマ様だって一応は巫女であろうが!?」
「一応とは余計だね!? 歩きとはいえ歴とした巫女だよ! 巫女!」
訳あり神主と訳あり巫女が、鳥居の下でぎゃあぎゃあと喚き合う。
霊感の強い者でさえも神の気配を感じ取ることのできない寂れた神社には、他に誰の姿もない。
しかしあるいは、この神社にいるかもしれない大いなる神は、二人のやり取りを眺めて微笑みを浮かべているのかもしれなかった。