誰も踏み入らないような山の奥深くに、その村はあった。
手付かずの自然に豊富な水。未だほとんど人の介入が入っていないその地は、戦乱の気配が漂う今の日本においては桃源郷とも呼べるほど穏やかだった。
国の認知下にない秘境。隠れ里。税もなければ賦役もない。
完璧な自給自足の世界は決して易しいものではないが、それでも定住する者は一定数いるらしい。
「おー!? ミマ様! おかえりなさい!」
「おう、戻ったよー」
畑仕事に精を出す男が、遠くから声をかけてきた。
ミマと呼ばれた歩き巫女は手を振り応え、そのまま悠然と畦道を進んでゆく。
既に彼女は大宿直村の外側に入っている。
ここからは人の手の入った田畑が続き、あるいは整った林や小屋なども散見されるだろう。
巷では炭焼で森や山などが一気に禿げることなどもあるらしいが、穏やかなこの村において、急激な開拓の心配はないようだった。
小川に橋はかかっていない。かろうじて通れる程度の細い場所を飛び越えてゆく。
不親切ではあるが、この時代に橋などというものは木製でも石製でもそうそうあるものではない。必要にかられれば誰かが用意するかもしれないが、体力が資本のこの村においては、そういった弱者への気遣いが芽生えるのはまだまだ後のことになるだろう。
ミマもまた、小川をなんでもないような調子で跨いでいった。
「ふう」
見上げれば、低山がそびえている。
目立つ山ではない。辺りを見回せば、それよりも大きな山はいくらでもあるし、それらの景色に埋没してしまうような平凡な山である。
だがミマには、その山こそが周辺一帯で最も重要な山であることを知っていた。
山の向こう側からうっすらと霧のように漏れ出てくる妖気こそが、その証左であろう。
「いつ見ても、嫌な土地だよ」
ミマは頬に垂れた汗を拭い、山を登ってゆく。
山道は整ってはいるが、幾重にも蛇行しており、登山道と大差はない。上の方は多少木材で段状に整えられてはいるものの、依然として石階段などという上等なものなどはなく、悲惨なほどに億劫な荒れ道が続いているばかりであった。
“余裕がある時に整えるべきか”。
ミマは途中でそんなことを考えたが、どうせここを登って訪れる機会もそう多くはないのだからと思い直し、やめておくことにした。
「ふう……」
登り終えると、平地に躍り出る。
そして見えるのは――ひとつの神社であった。
いや、神社と呼ぶにはあまりに粗末な作りであろうか。
形は小さく、伝統的な工法を踏襲しているわけでもなく、神に対する畏敬も気遣いもないような、そんな造りの神社であった。
なにせそこにはちっぽけな本殿らしきものしかなく、何を祀っているかの表示もなければ、その由来を知る者さえいないのだから。
だが、神社は神社だ。
ミマはこの神社に用があって、わざわざ億劫な山階段を登ってきたのだ。
「おーい、ミマ様が戻ったぞー」
ミマはやる気のなさそうな声をあげた。
張り上げているわけでもない間延びした声だったが、それでも聞こえる者には聞こえるらしく、慎ましい神社の方からは慌ただしい音が聞こえてきた。
中に誰かが居たのだろう。その気配を察知してか、ミマの口元が僅かに緩む。
「お、おおお!? おお、ミマ様ではないか! 久しぶりじゃないか!」
「おう神主。久しぶりね」
小さな神社から這い出てきたのは、薄汚れた烏帽子を被った男である。
歳は三十かそこらだろうか。しかし目の輝きに衰えるところはなく、どこか若々しい気配を感じさせる男だった。
神主と呼ばれた彼は紺の袴を整えると、草履をはいて忙しい様子でミマに歩み寄ってきた。
「長旅だったようで、心配しておったのだぞ。怪我はないか?妖怪はどうだった?」
「あー、あたしがそう簡単にくたばるわけがないでしょうが。怪我もないし、依頼された妖怪もさっさと片付けてきたよ。ただの煤妖怪さ」
「おお! それは良かった。あの村も重税に苦しんでおったようだからな。ミマ様のおかげで、心だけでも救われたことだろう」
「よしなって、そう褒めちぎるのはさ。くれるもんなら、酒でもおくれよ」
「おっ、それはいいな! よしよし。是非ともこの神主も、ご相伴に与ろう。茣蓙を用意するから、暫し待たれよー」
「おー」
神主はそう言って、慌ただしい様子で母屋へと戻ってゆく。
あの神社のような家屋は随分と前から彼の住処になっており、そこには様々な日用品でごった返しているのである。
神主などと名乗ってはいるが、実際のところ彼は神主というわけではない。
服装。習慣。何より普段の振る舞い。それら様々な面から見て、何らかの神に仕える者としてはあまりに不釣り合いだった。
だが、ミマにとってそのような自称はさほど重要ではない。
なにせこの大宿直村において、名や役職を捨てて流れてきた者などそれこそ掃いて捨てるほどいるのだ。
自身の素性を隠そうとするのはむしろ当然のこと。ミマ自身であっても、己の過去について深く追求されたくはない。
だからミマは彼を“神主”と、ただそれだけの人物であるとして認識している。
やがて神主が茣蓙といくらかの食料品を持ってやってきた。
「今日は栗だぞミマ様。食わずにおいたのだ」
「気が利くね」
二人は神社の前の階段の最上段に茣蓙を敷いて座り、ここらでは少々高価な濁り酒を嗜みつつ、焼き栗をつまみ始める。
酒精の香りと仄かに甘い栗の味。吹き抜ける涼やかな風。歩き疲れたミマの求めるものが、ここにはあった。
「なあミマ様、村の様子はどうだったかな」
「ん? どうもこうも、普通でしょ。あたしにとってみればだけどさ」
「そうか。ミマ様の目にそう映るならば、良かった」
ミマは隣に座る男の顔を、じっと見つめた。
若くはない。が、老いていると呼ぶには溌剌とした意志がその目に、肌に宿っている。
最初に会ったときは生傷も少ない軟弱な男だと思ったこともあったが、今では腕も脚も労働で鍛えられ、たくましくなっているようだった。
何より、“術”への姿勢は今でも変わっていないようである。
「……なあミマ様、また明日から、俺に稽古をつけてもらえないか?」
「またかい。飽きないね」
「頼むよ。まだ辺りには妖怪が出るんだろう? 少しでも、この村の力になりたいんだ」
そう語る神主の表情は、真剣なものだった。
おちゃらけた様子も、飄飄とした空気も感じられない。
――普段は冗談めかしてくるくせに、頭下げるときはこうだ。
ミマはわざとらしく大きなため息をついて、神主を戸惑わせた。
「……わかってるよ。ただ、陰陽術や他の呪術だったら他にも人がいるだろう。退治屋にはこと欠かないはずだよ」
「わかってる。他のおやっさんの術だって勉強になるし、凄いと思ってる。けど俺は、ミマ様の扱っている“魔法”ってやつこそ、今は必要だと思っているんだ」
「物好きだねえ。ま、いいけどさ」
「ありがとう、ミマ様!」
「様ってなやめろって。あんたあたしより年上じゃないか」
「いやいや、師と仰ぐ相手には敬意を表さねばなるまいでしょうよ。こればかりは譲れませんぞミマ様」
「はあ……全く、やりづらいねえ……慣れたけど」
ミマは栗を齧って笑い、神主はいたずら小僧のように愛嬌のある笑みを浮かべた。
涼やかな風と、心地の良い酩酊感。
西日が挿し込み、境内は赤黒く染まってゆく。
「……とはいえ、今日はもう遅い。明日からだね」
「はい! ミマ様、暗くなりそうだが山道は大丈夫かい?」
「馬鹿にするんじゃないよ」
心配そうに訊ねる神主をよそに、ミマはふわりと身体を宙に浮かべた。
「好きじゃあないが、
「……なるほど、さすがだ」
「んじゃ、また明日」
「うむ。また明日」
巫女は空を飛び、神主は小さく手を振る。
大宿直村。
山間に潜む小さな秘境の一日は、今日も穏やかに過ぎてゆくのだった。