「博士、こちらにいらしたので」
「むむ?」
陣地から離れた河原の土手っ腹に、その男は座り込んでいた。
あろうことか紺色の鮮やかな袴でそのまま青草に腰を下ろし、白い袖は走らせた筆によるものか、墨に汚されている。
たった今朝方仕上がったばかりの装いである。
使いに走らされた若者は、その姿を見て思わず天を仰いでしまった。
なにゆえにこのような晴れた日にも関わらず、そこまで身なりを汚せるのかと。
「どうしたー。私に何か用かー」
「……博士。一応、お尋ねせねばなりますまい。それは一体、何しておられるので」
「見ての通りよ。護符を作っておる」
「はあ……昼食が出来上がったとの呼びかけが、つい先程あったかと思うのですが」
「おうすまんな、そこに置いといてくれ」
「……」
そことはつまり、“博士”と呼ばれた彼のすぐ傍らのことであろう。
しかしそもそも、彼のいる場所というのが陣地に設けられた仮設炊事所より何百メートルも離れている。
探し出すだけでも一苦労であったというのに、それを運べと言っているのだろうか。いや、実際に言っているのだろう。若者は幾度か似たような振り回され方をした経験がある。
「好かんのだ。あの陰陽師の連中がな」
博士は何を聞かれたわけでもなしに、そう語る。
「都を発ってもう何日も経つというのに、口を開けば昇進だの配置決めだのと、仲間内であれこれ楽しそうに話しよる」
「……人は誰しも、出世を望むものかと」
「何日もというのが気に入らぬのだ。同じ話を幾度も幾度も、仕事の前に気が滅入っては敵わんだろう」
博士はうんざりしたように息を吐き、ついに斜面に背を付けて寝転んでしまった。
その服を一体誰が洗うというのだろうか。自分ではないからこそできる横暴だ。
「だからなけなしの念を込め、こうして札を作り置いておる。書けば数日のうちに力が解けてただの紙になるが、目的の場所はもうすぐなのだろう? その時に使えれば良いのさ。で、あと何日か」
「……明日、だそうです。地図が古く、半日前後するやもしれませぬが」
「上等上等。しかし明日か。だとすれば少々書きすぎてしまったかな」
博士の手には十枚ほどの札が握られている。
それは常人の目には見えないものの、清浄な霊力に満ちた立派な呪具であった。
念じて放り投げれば思いのままに飛ばすことも、貼り付けることもできるだろう。もちろん、この霊力の持ち主たる博士にしか扱えないものであろうが。
「ま、この後たらふく食って牛のように寝れば、それなりに快復もしような。うむ、では飯としようか。強飯とはいえ、冷めてはつまらん」
博士は立ち上がり、尻についた土や草をぞんざいに払う。
こうして真っ直ぐに立ち、背筋を伸ばした姿だけを見れば、なかなか顔立ちにも恵まれた、将来有望そうな若き偉丈夫なのであるが。
使い走りの若者からしてみればこの博士と呼ばれる男は、牛でさえ走って逃げ出すほどのとんだぐうたら者である。
仕事は必要最低限に。それ以外では極力動かず筆を走らせたり書を読んだり。実働時間で言えば日に一刻もあるかどうかといったところだろう。傍らで仕えていてもなんともしまらない男というのが、何よりも大きな印象である。
一応、豪族の末席であるにも関わらず、霊力の腕前だけで今の“博士”の地位にまで上り詰めた傑物……という世間の評もあるのだが。
「あー、蒸しおる。脱いでよいか」
「駄目です」
傑物とは似ても似つかぬ、やはり牛のようにしか見えない男なのだった。
まあ、面倒を押し付けられはするが酷使されるわけでもないし、人柄もそう憎めるものでもないので、従者をやっている若者としてはさほど気にしてもいないのだが。
「これより山を超えた後に、隠畠があります。その奥道をたどれば、目的の廃寺があるということです」
「ほう。それは地図か。いや、お主が描いたのか」
若者はあぜ道を歩きながら、小さな紙片を博士に見せていた。
そこに描かれていたのは距離関係がよくわかる簡潔な山の地図である。聞けば、陣地でうだうだと話している陰陽師の者達が、これよりも大きな地図を手に話していたのだとか。
「連中、仕事は雑だが地図や書物にはうるさいからな。目をつけられる前に燃やしてしまえ」
「はい」
「それで、陰陽師の奴らは他に何と?」
「見つけ次第、全て討つか封じろと」
「退治ではなくか」
穏やかではないな。そう博士は零した。
「隠畠から絞れるだけ絞ろうというのでしょう。下手な退治をして収穫前に農夫に死なれたり、逃げられたりしては困るのでは」
「その程度の隠畠くらい見逃してやれば良いものを……まあそもそも、そのような場所に田畑を構えるからこうして妖怪が明るみに出るのだがな。どちらもどちらか」
苦々しく語る博士の気持ちは、同じく従者の若者にも通じているのだろう。
彼もまた疲れ切ったような顔で頷いていた。
「退治を請願した連中も、あわよくば隠畠を表に出さぬよう、廃寺の妖怪らを駆除できれば良いと考えていたようで」
「それがばれて、お上は怒っとるわけだな。重税で報復と。おお、怖い怖い。どちらも業突張りだ」
「とはいえ、仕事ですから。粛々と済ませたならば、都に戻りましょう」
「うむ。飲み込みの悪い阿呆共への講釈もせねばならんからなー」
博士はカラカラと笑い、烏帽子を揺らした。
そう。この男はこう見えて、なかなかに霊術に長けているのである。
風采や物腰こそ剽軽ではあるが、仕事は一流。都でも指折りの術使いであり、さらに言うなれば今回の廃寺鎮圧に駆り出された大人数の中でも突出した実力者ですらあった。
都に戻れば若き陰陽術士の卵を育てるという大役まで担っている。人は見かけによらないと言うが、博士はまさにそのような人間なのだった。
「未だ世に蔓延る妖怪らへの対処は後手後手だ。鬼も蟲も、明日我々が潰したとて、次から次へと湧いて出よる」
「だからこそ、次代を育て、妖怪退治の手練れを増やさなければならぬ。ですよね」
「そうそう! なんだーおまえーわかってきたじゃないかオイッ」
「いた、痛いです。叩かないで……叩くな!」
「ハッハッハ!」
人は欲深く、蓋を開ければ容易く黒いものが浮かび上がる生き物だ。
それは食にも物にも飢えた平安末期の世に顕著であり、人々が礼節を知るにはまだまだ時間がかかる時代なのだろう。
それでも、そのような時代であっても、清廉な心を持った人間は居ないこともない。
陰陽寮に属する博士もまた、そのような心を持つ一人であるし、ある意味ではこれから彼らの向かう先で待ち構える聖白蓮も同類だ。
だからこそ、これは悲劇と呼ぶ他にないのである。
形は違えど清らかな者同士が対峙することも。
渦巻き底知れぬ穴を生み出した人の欲望が、それと同時に牙を剥くことも。