夜明け前に魔導書を閉じることができた。
目を離し、本を畳む。それだけの動作だったけれど、そこに至るまでには多大な集中を要したし、相応の疲労もした。
頁を封じると共に訪れる倦怠感はいつにも増して重苦しく、寝不足も相まって……老体、には辛い。
……でも、私は魔導書を読んだ。
読み、本に呑まれることもなかった……つまり、読み続ける資格を得たということ。
これぞ、導き。
昨夜の出会いはまさに、天の導きであったに違いありません。
あるいは、命蓮の……。
……命蓮。
姉は、生きますよ。
貴方が果たせなかったことを成すために……魔道を歩みます。
人を助けましょう。教えましょう。
そして悟りへと至ってみせましょう。
それでこそ、この地上に生まれてきた意味があろうというもの……。
翌日から私は、日課に蔵の中での修行を加え始めた。
日々の修行を終えた後、日が落ち草木の眠る頃になってからも、私は蔵での修行に明け暮れたのだ。
坊主達は怪訝そうというよりは気遣うような面持ちで、私の変化した日常を遠巻きに見守っている。
きっと、私が命蓮を喪ったために……何かに縋っているように見えたのかもしれません。
……間違ってはいません。
事実、私は命蓮の死をきっかけに、命の尊さをはっきりと認識した。
それまでは他人事のようだった死生観にしっかりと向き合い……そうして、この魔道を選んだのですから。
とはいえ、その勘違いを正そうとも思わない。
飛倉に封じられたこの“棍棒の書”は、封じていただけあってとても危険な代物。
生半可な坊主では力に呑まれ、あるいは本を閉じることもできずに息絶えてしまうでしょう。
皆が私を気遣い遠巻きにするというのであれば、それは都合の良いことです。
……そういえばただ一人、石塚様だけは朝私を見た瞬間に、いきなり両腕を上げてその場で何やら珍妙な踊りをしていましたが……特に追及されたわけでもないので、特に気にすることでもないのでしょうね。
一日、一日を魔導書の熟読に費やしてゆく。
読む度に魔力に対する知識が集積し、世界に対する理解がより深まってゆくかのようだった。
もちろん知識を集めるばかりではない。実践することもまた、道を極めることにおいては欠かせぬこと。
まずは魔力の知覚。辺りに漂う力の気配を感じ取る。強い、弱い。澄んでいる、乱れている……そういった観察を日頃から続けることは、何よりも基本となる。
次に自らに魔力を通わせること。それは自らの捻出するものでも良いし、辺りから掬い取ったものでも構わない。とにかく日常的に魔力に触れることで、扱いを会得してゆくのです。
焦るべきではない。焦っては仕損じる。全てが水泡に帰すことだってあるでしょう。早まってはいけない……。
魔力を視る。
魔力を感じ取る。
魔力に触れ、動かす。
この世には魔力が溢れている。木々からも、虫からも、当然人からも。
……“棍棒の書”は、生き物らが発する魔力を操る術に長けているらしい。
特にこの、“活性”。
この術は基本的でありながら、肉体を若々しく保ち、改善するという素晴らしい力を持っている。それはこの数日間、“活性”を自身の臓腑に意識を向けながら使ってみたところ明らかになった。
それまで何にしても億劫さと気怠さが引っかかっていた私の体調が、大きく改善していったのである。
それはまるで、日毎に身体が若返ってゆくかのよう。
皮膚には使っていないので、目に見える範囲で大きく変化はしていないはずだけど……時折坊主たちから“元気になられましたね”と声をかけられるので、きっと外にも影響するほどの良き変化が起こっているでしょう。
日々の生活に苦が消え、骨が堅強になれば歩くことにも労を覚えなくなり、目が健やかになれば夜闇の中でも写経ができるほどにまでなってしまった。
魔法を習得し、体現する。
自身を改善し、延命する。
私は毎日毎日、魔道の習得と実践を繰り返すことによって、着実に己の死の宿命から遠ざかりつつあった。
「命蓮様の飛倉の中で修行されているから、あれほど若々しくなられたのでしょう」
ある日、私は坊主が自分のうわさ話をしているのを耳にした。
陰口というわけでもない。どちらかといえばそれは、褒め言葉に近いものだった。
「やはり未だに命蓮様のお力は健在と……」
「未だあのお方の品には法力が宿っておられます。不思議ではないかと」
……どうやら、飛倉での修行の成果は命蓮のものであると誤解されているらしかった。
ふむ、しかし考えてみれば当然のことです。人が突然若々しくなるはずもなし……今や私の姿は、四十かその手前にまで戻ったかのようでありますから。
その奇跡が在りし日の命蓮を想起させるのは当たり前のことでしょう。
……やはりすごいですね、命蓮は。
死しても尚、人々の心に居場所を作り、慕われている。
自慢の弟です……しかし、それだけに惜しいものです。
ああ、命蓮。何故貴方は逝ってしまったのか……。
「……せめて私が、貴方の分まで」
命蓮はもう戻ってこない。死者を甦らせる術は……きっと、この書物には載っていないだろうから。
だから、それならばせめて……私が命蓮のかわりに、この信貴山を、人々を守っていきましょう。
命蓮が過ごしてきた日々のように。私が、どこまで貴方の代わりになれるかはわからないけれど……。
日中は仏道。夜間は魔道。
裏表のある日々を送っていることは、自覚としてあった。
けれど、私は必ずしもこの二つが交わらないとは思っていない。
最初こそ、魔道は仏道に背くものかとも考えた。
けれど、魔道はあくまでも力を扱う術を教えるものでしかない。そこに邪や善がつけ入る隙はなく、淡々とした力の運用が示されているばかり。
魔法とはつまり、槍鉋を人に向けるか木材に向けるか……きっと、そういった類の話でしかないのです。
……人々に訴えても、すぐには理解されるとは思わないですが……。
「やあ、白蓮。元気してる?」
「! これは、石塚様。おはようございます」
「おはよう。いやぁ素晴らしい朝だね」
「は、はあ。確かに、雲も少なく心地よい日差しですね……?」
縁側にて、石塚様と鉢合わせた。
最近はこの謎多きお方の機嫌がすこぶる宜しいようで、どこか跳ねるように歩く姿を度々目撃している。
……正直な気持ちを吐露すれば、困惑せざるを得ない状態といいますか……つまり、あまり話す機会も無かったのです。
「あの……」
「ふむ、ふむ……」
石塚様は顔に貼り付けた
……声からして、自分よりもずっと年上であろう老体。しかし身長はとても高く、見られていると威圧感を覚えてしまう。
それは私が“棍棒の書”にて多少の“力の心得”を獲得した今であっても、自然と感じるものだった。
「石塚様? 私が、どうかいたしましたか……?」
「うーむ。ああいや、別にケチをつけようというわけではないんだけどね……うーん」
そう言って、彼は私の隣を通り、歩いてゆく。
「そこまで中身を“活性”させるなら、表皮も全部若返らせたらいいのにと思っただけだよ。本当にそれだけ」
「!」
呼吸が詰まる。
「器用に内側に留めているから、感心はしたけどね。まぁそれだけだよ。うん、順調だよ、順調」
心の臓が早い鼓動を打つ。
……思考が白く染まったその僅かな時間の後、振り向くと……既にそこには石塚様の姿はなかった。