命蓮は眠っていた。
安らかに。そう。本当に眠っているかのようだったのだ。
「命蓮」
声をかけても返事はない。それはそうだ。もはや彼の魂は……。
「石塚様は、医の心得もあると……! どうか、どうかお願いいたします。命蓮様を……」
敬虔な坊主が私の足元に縋りつき、懇願する。
騒ぎを聞きつけた者たちも次第にゾロゾロと集まり、廊下を騒がしくしていた。
「命蓮様は、まだ……まだこの朝護孫子寺になくてはならぬ存在なのです。まだ……!」
「うむ。こうも慕われるとは……命蓮も幸せだったと思う」
「お願いします……!」
まったく、廊下から人が溢れてきたではないか。
これでは病人だったとしても、煩わしくて治しようがないではないか。
……まあ。もう彼は、病人ですらないのだが。
「彼は長らく肺をやられていた。それが昨晩、就寝中に悪化したのだろう。……触れてみると良い。彼の心臓はもう、動いてはいない」
「あ、ああ……」
やりようはいくらでもあった。
水薬を定期的に飲ませるでもいいし、外科手術を施すでも良かった。
慎重に切開し取り除くこともできた。
臓器移植も難しくはなかった。
肺の一部をごっそりと切除し、循環呼吸を可能とする処置を埋め込むでも、どうにでもできた。
だが彼は拒んだ。拒んだのだ。
故に命蓮の生は、これで終わり。これが彼の選んだ人生であり、終わり方だった。
……そういうことなのだ。
もちろん、それを涙する彼らに対して言うような真似はしない。それはあまりにも軽率だ。
命蓮は自身の死をそう受け止めた。それだけの話なのであって。
彼らは彼らで、時間をかけて彼らなりに、命蓮の死を受け入れるべきなのだろうと思う。
……今はまだ、悼むべき時だ。
「しかし……長生きした、か。……だが私はね、命蓮よ。人は、坊主であってもだ。もう少しだけ、欲を持ってもバチは当たらないと思うんだよ」
嗚咽を漏らす多くの聖人に囲まれて、命蓮は健やかに沈黙するのみ。
紙のように薄っぺらな彼の衣は涙に濡れ、今にも破けてしまいそうだった。
「貴方の清廉な生。見届けさせてもらったぞ、命蓮」
私は彼の口元についた僅かな血を指で拭った後、魔法的に何ら意味のない祈りを捧げた。
承平5年。西暦でいうところの935年。
偉大なる命蓮上人は、五十三歳でその人生に幕を下ろした。
彼の死は山の下で暮らす多くの人々に悲しまれた。
弔いは国の有力者や朝廷の重要人物なども足を運ぶほどで、葬列は信貴山の中腹から麓までずっと続くほどであった。
時に荒っぽく。時に軽妙に。法力で様々な難事を乗り越え、解決してきた高名なる聖人、聖命蓮。
彼の遺した多くの逸話は、きっと長く長く、多くの人々によって語り継がれてゆくことだろう。
「命蓮。命蓮……」
姉の白蓮は、弟の亡骸を優しく揺すり、声をかけ続けた。
「ねえ、命蓮……命蓮……」
朝、坊主に連れられ、彼の遺骸と対面してから日が暮れて、夜が更けてもなお、ずっと。
「起きて……? もう、朝餉も、夕餉も、まだでしょう……?」
彼女は泣かなかった。涙を落とさなかった。
ただただ、酷く困ったような顔をして、もう二度と動くことのない命蓮の遺骸を擦ったり揺すったりして、彼の覚醒を乞い続けていた。
「読経は? 掃除は? 説法は? 命蓮、ねえ……これから私は、あなたの居ない空の下でずっと、独りで……独りだけで続けていかなければならないの……?」
命蓮の手を握る。
きっとその手は冷たかったのだろう。
半日以上経った遺体なのだ。それは当然のことである。
だが白蓮はその当たり前の冷たさに、思わず手を取り落としてしまうほどに驚いてしまったようだった。
「白蓮……」
「……石塚様。石塚様……お薬は……」
「もう、彼は」
「命蓮は昨日まで、私と……話していたのです。異国の妖怪や、虎の話などを。続きは明日と言って……もう夜になってしまって」
「白蓮」
私は首を横に振った。
白蓮はそんな私を、それでもやはり信じられないような眼で見つめ返すのだった。
「……命蓮の口元から、まだ……空気の漏れる音が、聞こえたのです……」
「死後間もない遺骸は、そういうこともある」
「……命蓮はもう、話せないのですか?」
「残念なことだけども」
「ああ……」
白蓮はその後、横たわる命蓮の隣で添い寝でもするかのように横になった。
小さな声で何度も彼の名を呼びながら、次第に涙を流し……私はその様子を最後まで見ることはせず、そこを離れた。
まだ……もうしばらくは、二人きりにさせるのが良いだろうから。
「……さて。ならば私は……柄でもないが、本堂の掃除でもしておこうかな」
これから色々な手続きや葬儀で、忙しくなるだろう。
しばらくこの寺は掃除の手も回らなくかもしれない。
もはやこの山に間借りする意味もなくなったが……最後だ。
立つ鳥後を濁さずの言葉に従って、一働きしておこうと思う。