「う……」
目が覚めた。
二度と目覚めることのない眠りだと思っていた頭がぼんやりと覚醒し、オレンジ色の暖かな灯りがまぶた越しに伝わってくる。
無言のまま目を開けると、壁際に暖炉があるらしく、オレンジの輝きはそこから発せられているようだった。
……暖炉? そもそも、ここはどこなのかしら。
天国や地獄があったとして、まさか石造りの部屋をあてがわれるはずもない。
「お目覚めかな」
「!」
暖炉の反対側、わたしの後ろから声がした。
幼い女の子の声だ。わたしはそこへ勢い良く振り向いたのだが、
「ごほっ、ごほっ……!」
「あぁあぁ。死にかけた身体で激しく動くから」
噎せた。というより、自分の体調を甘く見ていた。
身体が重く、だるい。頭は熱病に魘されているかのように熱いし、喉はイガイガして息をするのも辛かった。
「雨の日に湿気た炎の欠片を集めていたら、水たまりの上に倒れていた貴女を見つけたの。で、幸か不幸か知らないけど、まだ息があるみたいだったから助けたわけ。最初は死体かと思ったけどね。ふふ、おわかりかしら?」
「あ、ありがとう……ござっ……」
「あっははは、無理して喋らなくていいわよ」
わたしはしばらく咳き込んでいたが、その間も少女らしき人物は穏やかに笑っていた。
いや、笑っているというよりは、嗤っている……というべきか。滑稽なものを見て楽しんでいる、そんな笑みかもしれない。
「ふふ。はい、蜂蜜入りのホットミルク。私はとても親切だからね。見知らぬお客の一宿一飯に、サービスまでつけてあげちゃうのよ。うふふっ」
「ど、どうも……ありがとうございます」
ゆるやかな銀髪をサイドでまとめた、美しい少女。
その瞳は宝石のように澄んだ青で、暖かなカップを受け取る私の心をじっと見透かしているかのように輝いていた。
「……美味しい」
滋味深い甘ったるい蜂蜜に、煮詰められたかのように濃厚なヤギのミルク。
それはここ数ヶ月、わたしの身体が欲してやまなかった味であるかのように思われた。
「それで、水たまりの上で死にかけていた旅人さん。貴女のお名前は?」
「……わたしは、ウントインゲと申します。えっと、あなたは……」
「私はメルラン。この地上のどこにでも掃いて捨てるほどいる、ただのちっぽけな魔法使いよ。ふふふっ……」
魔法使い。
ブレコンに存在する荒野と沼地……間違いない、ということは彼女が!
「あ、あのっ! わたし、あなたに! あなたに会いたくて……! あなたの本を見れば、魔法使いになれると聞いて……!」
「はあ? なんで私……チッ、ぁあそういうこと」
わたしが堪えきれずに本題を切り出しかけると、メルランさんは見るからに表情を歪ませた。
「なるほどね……で、ウントインゲ。この場所は誰から聞いたのかしら」
「え……あの、名前は聞きそびれてしまったのですが。魔法都市に住んでいる人形師の方から」
「あー、やっぱりねぇ。傍迷惑なことをしてくれたわ、あのお馬鹿さん」
「あの……?」
メルランさんは飲み終えたカップを手にすると、それをあろうことか暖炉の中に投げ込んでしまった。
しかしそんな突然のことに驚く間もなく暖炉の中から一枚のお皿が飛び出してきて、それはわたしとメルランさんの間に狙ったかのように着地した。
お皿はまるで新品のように綺麗で、汚れ一つない。
「あの……?」
「食器洗いはこうやるの。火に焚べて熔かし、新たな食器へと変容させる。誰だって毎日ピカピカのお皿やカップで食事を摂りたいでしょう? 少なくとも私はそうしたい。わかるわね?」
「……」
たしかに、凄い魔法……だったと思う。
食器が一瞬で、別の食器に……。
そう、凄いのはわかる。けど、話の流れがよくわからなくて、どう答えたものか……。
「で、次。私の好物は赤い魔法の火で焼いた子羊の肉」
考え込んでいる間にも、メルランは皿の上を指でつつき、新たな魔法を発動させる。
煙と共に皿の上に現れたそれは、うっすらと焦げ目の付いた美味しそうなお肉だった。
「別に食べなくたって良いんだけど、月に一度は食べないとうんざりしてしまうわけ。この気持ち、ウントインゲ、貴女もよくわかるでしょう?」
「は、はぁ……まぁ……」
「食べてみなさい。この味の重要性は、貴女も理解するべきなのだから」
「……ありがとうございます、いただきます……」
話が通じる人なのかしら。
けれど、歓待されているとは思う……。
私は強引に促されるがままに、お皿の上のラム肉を控えめにかじり……。
……気がつけばその柔らかさと味に夢中になって、全て食べ尽くしてしまった。
「あっ……」
「そう、それが食事。この世で最も無駄な行為の一つよ。その無駄が、時に閃きを与えてくれるのだから、馬鹿に出来たものではないのだけどね?」
メルランさんはニヤニヤと笑いながら、お皿を窓の外に投げ捨てる。
下の方で控えめな、食器が割れる音が響いた。……食器が割れて、戻ってくる様子はない。
「人でも魔法使いでも、時に余暇は必要なの。けれど、食器洗いや食事の準備に時間を神経を割くだなんていうのは、要領の悪いお馬鹿のすることよ」
「……あの、メルランさん。すみません、先程からおっしゃっている意味が……」
「察しが悪いわね? ウントインゲ」
メルランさんがパチンと指を鳴らし、手の上に黒っぽい靄を創り出す。
靄は次第に形を成し、それは水色の書物となって彼女の手に収まった。
って!
え、あっ、あの本は……!?
「貴女は魔法使いになりたくてここにきた。そして、私の手には読むだけで魔法使いに“なれるかもしれない”書物が存在する」
「……」
目の前にある書物。
あれこそが、ライオネル=ブラックモアの記したという十三冊の魔導書。
読むだけで魔法を扱えるようになるという、伝説の……。
「読ませてあげてもいい」
「ど、どうか!」
「でもタダはイヤ。命を助けた上にハチミツ入りホットミルクとラムステーキを出せても、この本をチラとでも見せてあげるのは、イヤ」
こちらを弄んでいるかのようなニヤついた表情に、愕然とする。
見るだけなのに。そんな気持ちが湧き上がってくる。
でも……駄目だ。持ち主はメルランさんだし、わたしは客どころか、厄介者にすぎないのだから。
イヤだと思ったら見せる必要などないし、そんな甘い話もあるはずがない。
「……つまり、わたしに食事の手伝いをしろ、ということでしょうか? 調理と、給仕も……」
「おお。ようやく頭が回ったのね。利口な子供は好きよ? フフフ……」
メルランさんはずいっとこちらに近づいて、神秘的な青い瞳でわたしの目を覗き込んできた。
唇と唇が触れ合いそうなほど近い距離に、思わず呼吸を止めてしまう。
「期間は三十年。その間ずっと、私の召使いとして働きなさい。それに納得できるというのであれば、この“生命の書”を読む権利を分けてあげる」
「三、十……」
「美味しいラム肉を用意して、綺麗な食器を準備して、部屋をいつでも綺麗に、外の小石をいつでも綺麗に並べなきゃいけない。わかるでしょ? わかるわよね?」
三十年。それは、わたしがこれまで生きてきた時間よりもずっと長い……。
「それができないなら、私は別に構わないわよ。お土産を持たせてあげるから、さっさとあのお馬鹿さんのところへ……」
「やります!」
「……へえ?」
わたしは快諾した。
拒む理由など、少しもなかったから。
「三十年。貴女にとって、短い時間でもないと思うのだけどねぇ」
「……魔法使いになれるのなら、それでも三十年はきっと、些細なことなのだと思います」
「ンフッ、わかったような口を聞いちゃって。随分と生意気ね……?」
「……!」
メルランさんの目が細められ、わたしの身体が硬直する。
金縛りにあったかのような威圧感に、息をすることもできない……。
「でも、覚悟は感じる。既に投げ出した運命。括られた覚悟。楽観でも向こう見ずでもない。悲壮な決意、ただそれだけ……最後の機会を、なにがあったとて、ここで捨てる理由はないってことかしら」
「……はい」
喉から絞り出した声は、ほんの小さなものだった。
「そ。なら、貴女の人生。三十年分だけ、私がいただくわね」
「……! は、はぁっ……げほ、げほっ……」
「つまらないわね。もっと絶望するなり苦悩するなりしてほしかったのに……これだから命を張る人間って嫌いだわ」
威圧感が急に去り、呼吸は咳となって溢れてきた。
息苦しい。
……けれど、それ以上に、嬉しい。
魔法使いになれる。それが、それだけが、わたしの全身を歓喜で包んでくれていた。
「ようこそ、魔法使いの弟子ウントインゲ。愚かなる魔法使いメルランは、貴女を心より歓迎するわ?」
「……よ、よろしくおねがいします!」
メルランさんは……なんとなく意地悪そうだし、不気味で怖いけれど……魔法使いなのだ。元々変わり者は多い。
だったら、話が通じる分だけまだまだマシなのかもしれない。
そもそも人柄なんて選べるわけもない。わたしはただ、この奇跡のような出会いに感謝するしかないのである。
「生命の書は、いつでも読ませてあげる。ただし、今はゆっくり寝ることね? そうでなければ、きっと貴女は耐えられないから」
「……はい」
「あは、あははっ……ぁあ、明日が楽しみ。うふふふっ……」
沼地の砦で出会った小さな魔法使い、メルラン。
これが、わたしとメルランさんの最初の出会いであり……。
わたしが“魔法使い”となるきっかけだった。