東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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見上げた空に悪魔が笑う

 確かな目的ができた。

 呪いの湖。そこへ向かえば、わたしの求める魔導書……を持つ人物がいるのだという。

 だから、旅を始めてからのわたしの足取りは、とても軽かったのだ。

 

 ……まぁ、その。

 始まってから、五ヶ月くらいはね。

 

 正直、距離を甘く見ていたところはあった。

 とはいえそれは心持ちだけで、旅装や路銀の遣り繰りを誤ったわけではない。

 単に思いの外に過酷で、何より長過ぎる旅路が、わたしの心や身体をボロボロに傷つけていたのである。

 

 

 

「薬草拾いの習慣も、なかなか捨てたもんじゃなかったわね……」

 

 旅の途中、人里離れた原野にて。

 わたしは廃教会の壁に凭れながら、慎ましい夕食を摂っていた。

 

 旅の同行者はいない。

 この旅はわたしの都合が大きかったし、何よりエレンさんは魔法使いの街で出会った男の人と珍しく良い(かもしれない)関係になっていたようだったので、声をかけなかったのだ。

 別れ際の挨拶はしたけれど、言葉はそれだけ。

 今にして思えば意地っ張りに孤独を選んでしまったわけだけれど、最後の試練くらいは独力で達成してやりたいという気持ちもあったし、くじけそうな今でも、まだそう思えている。

 

 ……でも、エレンさんが居ないだけで、女一人の旅がここまで辛いものになるだなんてね。

 わたしも世間を知ったつもりでいたけれど、まだまだ考えが甘かったみたい。

 

 波乱万丈の内訳としては、まず盗賊と人攫いに襲われたのが六回。

 うち四回は毒仕込み杖による不意打ちでなんとかなったけれど、あとの二回は泥仕合になって、隠していた毒短剣で辛勝。久しぶりになかなか痛い思いをしたわ。

 けど痛みよりは、その治療にエレンさん特製の塗り薬を一割ほど使ってしまったのが辛かったわね……。

 

 ただ、盗賊ならまだ良い方だ。盗賊は返り討ちにすればいろいろなものが“もらえる”かもしれないから。

 厄介なのは良い顔をした宿だったり、民宿の方だった。

 宿泊したそこで襲われたり盗まれそうになったことなんかは、もう両手両足の指を使っても足りないくらいだろう。

 毒の調合と刃物への塗布が日課になるなんて、さすがに想像もしてなかったわ……。

 王族でも役人でもないってのに、どうしてこんなに命を狙われなくちゃいけないのかしらね……。

 

「はあ」

 

 とはいえ、そんな荒れた旅もそろそろ終わるはず……だと、思う。

 魔法使いの街を発ってから、およそ二年。長い旅にも、終わりは見えてきた。

 

 ブレコンを経由して、現在地は山の一歩手前といったところ。

 ここからはほとんど整備もされていない道なき道になるし、野宿だってするだろう。

 けど、これまでの人間不信になりそうな旅路と比べれば、幾分か気が楽というものである。

 食事は粥になるか山菜スープになるかの違いだけだし、寝るときだって風雨にさえ目を瞑れば、廃墟の脇のほうがずっと安全だ。

 こういうところでは、自分の浅黒い肌に感謝よね……ふふ、わたしの肌が白かったら、今よりずっとひどい目に遭っていたのかも。

 

「……もうすぐ。もうすぐなのよ」

 

 もうすぐ、旅が終わる。

 目的地がそこに迫っている。

 

 もしも……そこに。わたしの求める魔導書が、なかったら……。

 

「……もう、寝よう」

 

 私は自分の膝を掻き抱いて、意識が落ちるのを待った。

 

 

 

 荒野と沼地。ほんの僅かな緑。

 旅の最終局面は、最低最悪、劣悪な環境ばかりが広がっていた。

 

 食料なんて気の利いたものはここには存在しない。

 

 あるのは貧しい大地と、不快な沼地と、強い風ばかり。

 

「うふふ、まさか……ここまでだなんてね……」

 

 折れた仕込み杖でどうにか一歩一歩を支えながら、道なき道を歩いてゆく。

 既に食料は尽き、水筒にはまともな水も入っていない。

 通り雨がなければそう長くは持たない状況だけど、今のわたしの身体では、ちょっとした雨に打たれただけでも風邪をひいてしまうだろう。

 風邪を患えば、待つのは確実な死だ。贅沢を言うようだけど、雨は困る。

 

 願わくば、都合よく。本当に奇跡のように、少し歩いた向こうの大岩の陰に、泉があってほしい。

 地下水。湧き水。小川。なんでもいい。清浄な水で、擦り切れた唇を濯げればいいのだ。それだけでも歩く気力は湧いてくる。

 いっそ苦々しいサボテンだって構わない。手を針まみれにしてでも……ああ、この国には、ほとんど無いか。

 ……いよいよもって、頭の方も……危なくなってきたのかもしれない。

 

「はあ、はあ……」

 

 限界を感じたら、休憩だ。

 壊れた古い砦の欠片に腰掛けて、水筒の中の濁った水を飲み、口に残った砂利を吹き出す。

 脚についていたヒルを潰し、自分の血を飲み、傷口を薄めた軟膏で応急処置する。

 そして、ほんの僅かで気の進まない食事を摂り、再び歩き始めた。

 

 大きな山が、向こうに見える。

 けれどそれはとても大きく、そしてうっすらとぼけていた。

 

 わたしの目的地はどうやらそこにあるらしい。もう、目と鼻の先と言っても良いのかもしれない。

 けど……おそらくわたしは、そこにたどり着くまでの間に斃れていることだろう。

 

 だってもう、薬が尽きかけているのだ。

 傷薬も。食中毒を防ぐ内服薬も。エレンさんが作ってくれた、魔法の薬が……もうじき両方とも、底をつきかけていた。

 

 わたしは、これらの薬の偉大な力を知っている。

 これがないだけで、わたしはもうずっと前に熱を出して斃れているだろうし、あるいは足が腐り落ちて死んでいるに違いない。

 多少無茶な水や食料も、これでどうにかなってきた。普通なら熱病や壊死に魘される傷だって、すぐに治癒できた。

 わたしの旅路は、エレンさんの薬ありきのものだったのだ。

 

「あはは……やっぱり、先生がいないとわたし、駄目だなぁ……」

 

 荒野にぽつんと転がった砦の欠片に背を預け、空を見上げた。

 

 この地域にしては珍しく清々しい空模様で、綺麗な青空にはふわふわな、先生の髪の毛のような白い雲がゆっくりと流れている。

 

「……不出来な弟子で、ごめんなさい。先生も、大変でしたよね」

 

 わたしはしばらくその雲が流れ去るのを待ってから、目を閉じた。

 今までにあった様々な記憶を、疲れた頭で浅く掘り起こし……けれどやっぱり、出てくるのは先生との思い出ばかりで。

 

 ああでも、お父さんの顔は思い出せるわ。

 よく困った顔をしながら、わたしの頭を撫でてくれたっけ……。

 お母さんもちょっと怖かったけれど、もっと話しても良かったかな……。

 

 

 

 気がつけば、雨が降っていた。

 どうやら、少しの間眠っていたらしい。

 

「う……」

 

 顔と身体に容赦なく降り注いでいるのは、恵みの雨だった。

 綺麗な水は喉を潤し、身体を清めてくれるだろう。

 

 そしてその対価として、わたしのなけなしの体温を奪ってゆくのだ。

 ……そういえば、魔法使いたちが結ぶという悪魔の契約は、そんなものだと聞いたことがある。だとすれば、今のわたしにとって空とは、雨とは、悪魔のようなものなのかしら。

 

「ふふ、寒い……」

 

 悪魔の召喚、か。

 憧れていたこともあったっけ。

 

 けど、別に悪魔に憧れていたわけではないし、崇拝していたわけでもない。

 わたしはただ、ほんの僅かに火を起こすでも、水を出すだけでもいいから……ほんの少しでもいいから、魔法を使ってみたかったんだ。

 

 そうすれば、非力な少女を変えられるような気がして。

 自分で自分の生き方を決めていけるような気がして。

 

 ……まぁ、若い男だって戦争に駆り出される世の中だ。

 女だ子供だっていうのは、ちょっと僻みっぽかったのかもしれないわね。

 

 思い通りに生きられない人なんてごまんといる。

 自分を不幸と嘆く人は珍しくもない。

 わたしはその多くの不幸者の一人だったというだけのこと。

 

 それだけだ。

 魔法使いになれなかった、ただの女。

 わたしはただ、それだけ。

 

「それだけの、人生、だったのかな……」

 

 荒野を叩く雨音が、冷たく険しい。

 著しい身体の冷えは、明け方までの命が無いことを予言していた。

 

 さて、もう一眠りしましょうか。

 幸いなことに、悪魔が喉を潤してくれた。

 全身がドロドロのままで、苦しい渇きで死ぬのはなんとなく嫌だったから、寒さで死ねて良かったと思いましょう。

 

 今の時代、一人旅する女が身ぎれいに死ねるなんて贅沢だわ。

 

 わたしは嘲るように薄く微笑んで、もう一度意識を闇の中に沈めていった。

 

 

 

 

 

「……あはっ。珍しくお馬鹿な人間が来たかと思ったけれど。これは……きっと、私の想像していた以上のお馬鹿さんなんでしょうね? あははっ」

 

 

 


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