東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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 皇紫の胸に土製の剣は突き立てられ、それは大きな抵抗もなく奥まで刺さっていった。

 剣が鋭いというわけではない。単に、皇紫が自身の強度を保てなくなったのであろう。

 現にこいつを見れば、体表は腐ったように黒ずみ、羽の紫色も完全に削げ落ちて、地色であろう揚羽(あげは)模様を映している。

 

 最初に見た時は長身痩躯であったが、今や青娥ほどもないくらい縮みきっており、そこにはもはや、神としての威厳は欠片もなかった。

 

「終わり、ですね」

 

 効力を失ったのか、土剣は半ばで折れた。

 そのくぐもった音を合図に、どうやら青娥がこちらに来たようだ。

 

「ああ。死ぬかと思ったがね」

「それは同感ですね。実際、今でも生きた心地はしませんけど」

「全くだ」

 

 皇紫が死に、地獄蝶や覡も力を失ったのであろう。

 先程まで渦巻いていた不吉な景色は消し飛び、……辺りは細かな瓦礫だらけではあるものの、静かな駿河の夜が戻っている。

 

 ……常世神。

 永遠の命や富で人々を煽動し、己を奉る信仰とした、忌々しき虫の神。

 

 財を失った民の生活は、これから冬を迎え、厳しくなるだろう。

 だが、もうこれ以上常世の神を祀る者はいなくなるはずだ。

 もはや財を転移させる力も、その首謀者も消えた。

 教えを広める覡の幹部らしき者共も息絶えた。

 

「これで、太子様の願いが。世に再び、仏教が広まるということだな」

「あらあら。それは、何より……とでも、言えばよろしいのでしょうか?」

「……仙人が心にもないことを言わずとも良い」

「うふふ」

 

 青娥の視線を感じた私は、足元の風滅器を素早く拾い上げ、土剣の柄を懐に収めた。

 もちろん一対の扇も一緒である。……せっかく譲り受けた品なのだ。くすねられては、たまったものではない。

 

「そう焦らなくても、盗ったりはしませんよ。便利そうではありますが……」

「邪仙の言葉など信じられるものか」

「本当ですよ? 私、少なくとも道具は見た目も大事だと思っていますもの」

 

 “使うなら、華もなければ”。

 そう言って笑う青娥は、右手にそこそこ美麗な簪を握っていた。

 

 ……ふん。その言葉も、どこまでが本当だかな。

 

「あら……遠くの方で火が灯っていますわね」

「む。あれは……ああ、ここか」

「随分と騒がしいことをしていましたから。蝶の社から離れていた者たちが、何事かと不審に思っているのでしょう」

 

 なるほど。確かに遠くで松明を手にこちらを伺うさまは……どこか不安げだ。

 彼らはかつてこの近辺に住んでいた者だろうか。……町は常世神によって陥落してはいたが、そうか。ある程度生き残りがいたのだな。

 生憎と町は全壊、全てが消し炭になってしまったが……不潔で不気味な廃屋からやり直すくらいならば、いっそのことここから始めるのも悪くはないだろう。

 

 ……駿河の地に、再び健全な人の営みが宿ることを祈るばかりだ。

 

「河勝さん。もうここには、常世神も覡もいません。じきに、人が集まるでしょう。それに……先程僅かに見えた、天部らしき戦士たちのこともあります。賑やかになりきらない内に……」

 

 戦闘の余波によってか、半分にちぎれた羽衣を夜風に遊ばせながら、青娥が微笑む。

 なるほど、見惚れんばかりの美しい笑みである。

 

 “私が、そう簡単に逃がすとでも思っているのか?”

 

 ……余裕があれば、そう言ってやりたい所ではある。

 だが、今は……どうにもならん。力はほぼ全て使い尽くした上、肉体も酷使しすぎてしまった。

 今の青娥にどれほどの余力があるかは定かでない。しかし、おそらくは無謀であろう闘いを挑む気にはなれなかった。

 

「いつか……いつかまた、大和でお前に逢えたならば。その時は、霍青娥よ。私は大和の守護者として、お前に色々なことを問いただすだろう」

「問いただす? あら、それはなかなか、物騒な響きですね? 激しい夜を共にした仲ではありませんか」

「下品な戯言を……」

 

 これだから邪仙や邪法使いは嫌なのだ。

 掴みどころがなく、のらりくらりと躱し、何を考えているかわからない……。

 

「ふふ、良いですよ。もしもその時が来たらの話ですけどね。果たして河勝さんに、私が見つけられるでしょうか?」

「見つけるさ。時間は、いくらでもあるのでね」

「お互いに?」

「ああ、互いにな」

 

 まあ。今日は、共闘した仲だ。

 邪仙のくだらない冗談に笑うくらいは、良しとしよう。

 

 だがいずれ、再び青娥を見つけ出してやる。

 その時こそは、この捻くれた女からあの時の……太子様の死を聞き出して……。

 

 ……いや。それはもはや、建前か。

 

 今更、私はその時のことなど、どうとも思っていないのだ。

 怒りも憎しみも、疑問も不安も……今や特別躍起になって追い求めるものではない。

 

 斑鳩宮の屋根裏に邪仙が潜んでいた理由も。

 かつて太子様の影武者として潜んでいた謎の人物も。

 いつからか太子様が、私を遠ざけたその意味も……。

 

 ……薄々、気付いてはいたのかもしれん。

 それに気付かぬ事こそが、最も都合が良いということには。

 

「……青娥」

「はい?」

 

 私の思い出は、そのほとんどが過去に取り残され、過ぎ去っていった。

 大奉での悪しき主も、大陸での無知な迫害者も、秦氏を名乗る勤勉な帰化人達も。

 ……太子様も。静木も。キタトゥスも。

 

 ……こうして面と向かって話し、朽ちることのない未来に再会を約束できる相手の、なんと貴重なことであろう。

 

「今日は、助かったよ」

「あら……こちらこそ。ふふ、変な人ですね」

 

 私から漏れた言葉は、まるで友人に対するそれであった。

 青娥もそんな私の態度が可笑しかったのだろう。微笑ましそうにされてしまったが……うむ。

 

 そうだな、腐れ縁ではあるが。

 こうした人の縁というのも存外、悪くはないのかもしれん。

 

「彼らに事情を説明すれば、英雄にでもなれそうなものだが?」

「うふふ。それも悪くはありませんけど……今の調子で天部の使いを相手にするのは、かなり骨が折れますので」

「そうか、それは残念だ」

 

 どうやら青娥が急いでいるのは本当の事だったらしい。

 よほど、闘いの最中に見えた仏の使者が恐ろしかったのだろう。

 

 闘いの後で疲弊しているだろうに、ご苦労なことである。

 

「では、河勝さん――」

「うむ。お前にこう言うのも可笑しいとは思うが、また……」

「河勝さん! 後ろ!」

「ん?」

 

 突然、大声を張り上げる青娥。

 見開かれた目と緊張にこわばった表情。

 

 そして、私の肩には、生々しい重みが、乗り……。

 

 

 

『――我は、虫では、ない――』

 

 掠れるような声で、そう囁いた。

 

『――矮小な、ムシケラでは、ない……神、なのだ……神、だった、のだ……』

「おのれッ! こいつまだ生きてッ!?」

 

 私は肩にしがみついてきた皇紫を引き剥がし、そのまま背負うようにして強引に地面に叩きつける。

 抵抗らしい抵抗はなかった。皇紫はされるがままに地面に背を打ち付けたようだった。

 私の身体を傷つけた様子も、噛み付いてきた風でもない。

 

 だが、それでも皇紫は、まだ辛うじて生きていた。

 

『――そうだろう? (ハタノ)。我は、神だっただろう……?』

 

 囁くような掠れ声で、皇紫は……まるで懇願するようかのように語りかける。

 

『――多くの者が、我に祈った。多くの者が、我に影響された。多くの者が……我を、見ていたのだ……』

 

 枝のようなか細い腕を力なく伸ばし、皇紫はちぎれた口吻を小さく痙攣させた。

 

 私はこの時、なぜかは……全くどうしてから知らなかったが。

 きっと、哀れに思っていたのかもしれない。

 だからきっと、この死にかけの神が語る間、少しも動けず、トドメを刺すこともできなかったのだ。

 

『――我は、もう、誰からも、忘れられたくない……』

「!」

 

 だから私は一瞬だけ。

 皇紫が粗末な翅を小さく蠢かせて起こした“輝く風”に反応することができず……それを一身に受けてしまったのである。

 

 輝く風は私の身体を貫き、“中”へと入り込んできた。

 熱を持ったそれは鋭く私の力や魂に切り込んで、容赦なく奥へと侵食する。

 

 身体が熱い。

 病魔にうなされた時のような危険な高揚と気だるさが押し寄せてくる。

 

「ぐッ……! やめ……!」

『――忘れるな。私は神だった――』

「やめろッ!」

 

 咄嗟に取り出した短剣を握り、地に伏した皇紫の頭部へと振り下ろす。

 

 苦し紛れの一撃であったが、皇紫はそれを避けることはなかった。

 

『――私は、神で、貴様も――』

 

 短剣が皇紫の額を貫き、地面までをも抉る。

 

『――ォオ……』

 

 そこまでしてようやく、常世神は完全に息絶えたが……。

 

「……河勝さん。その身体……まさか?」

 

 私の全身は、あの奇妙な風によって仄かな輝きを帯びており。

 

「神を、斃した……」

「あの方が、神を……駿河に巣喰っていた常世神を、斃したぞ……!」

「ああ、見た。あの方が……!」

 

 騒ぎを聞きつけてやってきた民衆達は、常世神を殺した私に畏敬の念と……信仰を抱いており。

 

「神を斃すだなんて……」

「ということは、まさかあの方も」

「いや、ならば常世神よりも……!」

 

 人伝いに爆発的に波及してゆくその感情は、皇紫の力による後押しと、元々の素質を備えていた私の魂を変容させるには……充分すぎるものであった。

 

 

 

『……なんということだ』

 

 身体は輝きに包まれ、肉体は希薄になり……己の奥底からは、これまで経験したこともないような、未知なる力が溢れてくる。

 

「おおやはり!」

「神であったか……! いや、当然のこと!」

「常世神を殺したのだ、神でないはずがない!」

 

 人々は私を崇め、奉る。

 跪き、祈る。

 

 ……間違いない。

 私はどうやら、神になってしまったようだ。

 

 おそらくは皇紫の、最後のあの“風”によって。

 

 


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