「ひぃ……やめろ、来るなぁ!」
常世神の教祖たる黒幕の男は、いざ目の前にしてみれば……実に、私の予想以上に矮小な存在であった。
私と邪仙、
継ぎ接ぎの木塔には無数の覡が犇めいていたが、青娥の仙術と私の力を組み合わせれば、連中の目を欺くのはそう難しいことでもなく。
正面から大生部多と対峙すれば、奴は私たちに抗う気配もなく、背中を見せて無防備に逃げるばかりであった。
もっと奇怪な反撃に出るものと思っていたのだが、拍子抜けと言うべきか、幸運と言うべきか……。
「無様なものだ」
「い、ギっ!?」
薙刀を振るい、踵を返した多の背中と足を断つ。
背骨を掠めた致命傷と、不死の英雄ですら命を落とす、アキレス腱への一撃だ。多が覡共と同じように不死の身を持っているかは定かでなかったが、神話に肖りそこを斬った。どうあれ、もうまともに走ることはできないだろう。
「ぉ、ぉおお……! たすけて、助けて……!」
「あらあら。とっても痛そう」
が、多は人らしい赤い血を流しているし、足は再生する気配もない。
奴自身も痛みに喘ぐように、身を縮こまらせて芋虫のように呻いている。
「痛いか? 多よ。だが大和の全ての民の嘆きを、その程度で贖えるとは思わないことだな」
「河勝さん。元凶はそいつでしょう? さっさと首をお刎ねなさい。私の術で気配と存在感を誤魔化してはいますが、周りの覡をいつまでも欺けるとは限りませんから」
「手間を掛ける、青娥」
「いーえー」
青娥は呑気に手を振り、私に次の行動を促した。
次。それ即ち、介錯である。
「ぉ、ぉお……何故、何故だ……私は、そうするしか……どうしようも……!」
「多。これより貴様の首を斬り、常世神を解体する。ここにある妖しげな橘の大樹も燃やされることだろう」
「痛い、苦しい……どうして……やめてくれ……いやだ……ゆるして……」
弱々しいうめき声を零すばかりの多。
もはや彼には絶望しかなく、目の前の我々ははっきりとは見えていないのかもしれない。
こちらは忙しいのだ。出来る限り、実のある情報を吐いてもらわねば困るのだが。
「……はぁ。多、正気が残っているならば一度だけ聞こう。貴様の他に、常世神を束ねる幹部はいるか? もしも存在し、居場所を知っているならば……」
「ごめんなさい……お願いします……それだけは、それだけは……!」
「……わかった、もう良い」
クマだらけの虚ろな目。黄ばみきった不潔な歯。脂ぎった頭髪。
もはや、多は正気を残した人間ではなかったのだろう。
「死ね」
「あ――」
一閃。
薙刀が地面に這う橘の根ごと、倒れ伏す多の首を断ち切った。
「ぉ、お……」
呆然と口を半開きにした多の首が転がり、縮こまった身体と無情に別れてゆく。
断面から流れる血は、奴の精神はともかく、肉体だけは人間であったことの証明なのだろう。
「ォオオ……!」
「ォ、ォオ……!」
「あら……覡たちが苦しんでいるようですね。多が死に、彼らに変調を来したのかもしれません」
「ふむ。いや、襲われないなら好都合だ。そのまま大人しく死んでもらえれば最善だが、そうでなければ……連中の介錯もしなくてはな」
「うふふ。お優しいのね?」
「後片付けだ。……醜い異形を、大和にのさばらせておく趣味はない」
多は死んだ。
覡も……頭を抑え、甲高い悲鳴を上げ続けている。多の死に怒り、こちらに襲い掛かってくる様子はないようだ。
ならば、後はこの社を……いや、町を焼くべきだろうな。
もはやここは蝶と常世神に汚染されきった、呪われし場所だ。
青娥の言う通り、怨霊が漂っているともなれば、腕のある術士を大勢呼んで大々的に祓う必要もあるだろう。
手間も金も、膨大にかかるだろうが……まぁ、それが後始末というものか。
今は始末自体が楽に終わった事に安堵するとしよう……。
「――お赦し、ください」
掠れるような、小さな声が聞こえた。
幻聴だ。私はそう思った。
あるいは、塔の中に響く覡達のうめき声が反響し、そう聞こえたのだと思った。
「――私は、ずっと、貴方様の、命令を……」
だが、声ははっきりと聞こえていた。
背中を這う寒気に、全てが終わったはずのそこへ振り返ると……。
「――魂、だけ、は……」
多が。断ち斬ったはずの多の生首が。
未だに動き、幽かな言葉を紡いでいた。
『グズが。役立たずが。矮小なる
塔の空間全てに響く、人ならざる者の低い声。
同時に、首を失った大生部多の胴体より溢れ出る、黒く、凶悪な……負の力の奔流。
五感全てに強く訴える、負の予兆。
「いけない、これは……! 河勝さん、距離を!」
「言われなくともッ!」
これは、危険だ。
私は霍青娥のか細い腕を掻き抱いて、塔の外壁近くにまで一気に飛び退く。
『
「――いや、だ……」
その場から退避した私が横目に見たものは。
首を失った多の肉体が黒い瘴気を纏って立ち上がり……自身の首だったものを掴み、握り潰すという、俄には信じられぬ光景であった。
『――ォオ――ォオ。……だが、我が腹はそれなりに、満たされた』
黒く邪悪な力を迸らせる首なしの遺骸。
そいつは、その場で赤ん坊のように蹲ると……私が切り込んだ背中の切れ込みから、より濃度の高い邪悪な気配を噴出させ始めた。
『――
多より噴出する邪悪な煙は留まることなく巨大な木塔へと登り、やがてひとつの巨大な塊へと集い、形を成してゆく。
『――地上の醜き
地獄の身勝手な
天上の傲慢なる
見よ! 我が美しき、高貴なる真の姿を!』
未知なる声の叫びと共に、黒い煙塊が強く爆ぜた。
紫の業火が吹き荒れ、橘の葉が灰となって消し飛び、木塔が砕け散る。
『――我は
万物を破砕する爆風を、辛うじて扇によって凌ぎきった時。
橘の大樹に立っていたのは、紫色の巨翼を広げた異形の蝶であった。