空も、森も、僅かな草木も。その地域の全ては、怨霊を纏う蝶によって埋め尽くされた。
それは、秦河勝や霍青娥の力を持ってしても、すぐには変えられないほどの“天災”とも呼べる大異変であった。
水腐り、虫死に、魚腐る。もはや人も小動物も生存できなくなったこの地には、数多の霊と、亡者と、蝶だけが彷徨うのみ。
しかし僅かばかりのそれらでさえも、意志薄くふらつくばかりで、何らかの営みがあるわけではない。
唯一。
常世神を祀るこの地で唯一、意志ある者が定住する場所があるとすれば。
それは教祖たる大生部多が暮らしているという“蝶の社”のみであろう。
既存の家屋から木材を剥ぎ取り、それを継ぎ接ぎにすることで作られた櫓型の塔、蝶の社。
しかしその内部には異常成長した橘の樹木が存在し、大黒柱としてしっかりと外壁を支えている。
社を成す継ぎ接ぎの木板は、ただ見た目を社とするためだけの飾りにすぎない。
事実、この社において最も重要なのは、巨大な橘の樹木それのみだった。
「ォオオ……」
樹木は天高く、枝ぶりは大きく豊か。
大きな枝には無数の覡達が張り付いており、細い枝には“常世の虫”が止まり、葉を貪っている。
町の上空を覆い尽くす蝶の大軍勢の原因は、この蝶の社にあったのだ。
「害虫は……死んだか」
異常成長した橘の根本で、一人の男が粗末な椅子に腰を据えていた。
年齢の割に髪は豊かだが色は抜け落ち、頬はこけ、目元には慢性的な睡眠不足による濃い隈が表れている。
彼の名は大生部多。かつて朝廷に勤めていた壬生部の男であり、現在では常世神を祀り上げる、新興宗教の教祖だ。
「害虫を追いかけ、マシタガ……逃げられたヨウデス」
「逃げた?」
多の声に答えたのは、全身がケロイド状の皮膚に変質した異形の覡。
その覡は額から伸びる長い一本角を各方向に向けながら、何かを探っているらしい。
「……反応、アリマセン」
しばらく角を動かしていた覡であったが、それも徒労に終わったらしく、力なく首を振る。
「逃げた、のか」
多はまだ青い橘の実を皮ごと齧り、すぐに呑み込んだ。
「逃げたか。はは、逃げた……数多の妖怪を屠ってきた
浮かべた笑みは、心からの安堵。
病的な程の蒼白な顔に深い笑みによる皺が刻まれ、開いた口からは真っ黄色に染まった歯が覗く。
異常な風貌であろう。
だが多は今この時、ここ数年で最も、心の底から安心したのである。
「はは、害虫め。害虫。……そう、奴らは害虫だ。害虫は大人しく原野の雑草にしがみつき、篝火に飛び込んで焼け死ぬべきなのだ」
「ォオ! マサニ、その通りであります!」
「ォオオ! ォオオ!」
蝶の社に、覡達の鳴き声が響き渡る。
それは多を、そして常世神を称える信仰の叫び。
「まぁ、蚕も焼ければ多少は美味く、も……うぐッ……!? ……え、ええ、その通りでございます……かの害虫には、何の価値も……ええ……」
「多様?」
「い、いや」
突然、身体を掻き抱いて苦しみだした多に、すぐ側に居た探知型の覡が気づいた。
だが多は軽く手を掲げ、“大丈夫だ”と伝える。
「こ、この調子だ。この調子で、大和に祠を建て続けるのだ」
脂汗の浮いた蒼白な顔で、多は歯を食いしばりながら、獰猛にも見える笑みを見せた。
「害虫を退けよ、常世神を崇めよ。さすれば、我らは……永遠の存在に至るのだ!」
永遠。不老不死。
それは時代を問わず、人が常に追い求めるもの。
ある時には神でさえも求めたもの。
全ての欲求の頂点であり、完成形。
それへの道を示された覡達は歓喜し、再び異形らしき鳴き声を上げ、神を讃えるのだった。
「――人に永遠など、無い」
覡達の叫びが木霊する中で、一体どれほどの者が、その侵入者に気付けただろう。
音を殺し、気配を殺し。
一切の時間をかけることもなく、多少は頑強であった壁が突破され。
足音を掻き消す仙術を用いた邪仙を背負いながら、人ならざる脚力によって一瞬のうちに駆け込まれ。
「は――?」
多が気づいた時には既に、目の前に薙刀を持った秦河勝が立っていた。
「うふふ。あなた方は
肩に手を添えながら、霍青娥はにんまりと嗤い。
「国教と、何よりも“和”を乱す者を、私は決して赦さない」
猿の面をつけた河勝は、薙刀の刃先にまで力と殺気を行き渡らせる。
「馬鹿な、何故ここに河勝と、女が――!」
蝶の社は覡達の歓喜に包まれたまま、未だ侵入者に気付いていない。
しかし、無理もなかろう。音も気配も痕跡も無しにやってきた少数精鋭に、勝鬨という最も大きな隙を突かれたのだ。
この蝶の社の中では、敵の接近を目の当たりにしている多だけが、今現在置かれている状況を認識できていない。
「貴方は知らなくても良いのですよ? 知ることもなく、地獄に堕ちるのですから」
「民を唆し、徒労と絶望を与えた罰。……地獄があるならば、貴様はそこで贖い続けるが良い」