静木が去った。
彼の者はついぞ、最後の最後まで、己の出自や正体を語ることはなかった。
怪しい魔道具、仮面、生活用品……。
彼は短くない間、様々な商売に手を付けていたが……果たしてその影響が、どれほどの間この大和に残るだろうか。
私は静木が作り上げた魔道具の幾つかを手にしているが、この国で私以上に彼の作品を持っている人間もいないだろう。
私は奴の活動を遠目に眺めて続けてきたが、その売り上げは決して順調と呼べるものではなかった。
妖怪を退ける護符こそ広まってはいるが、それも消耗品だ。時が経てば数は減り、いつか……この世から消え去ってしまうだろう。
実際、彼が大和を去ってからたった数年の内に、既に彼の名を懐かしむ者も少なくなっていた。
あの用心深い太子様でさえ、静木の残した影響を“無視できる”と判断された程だ。
……静木よ。
再び戻ると言ったお前が去ってから、もう十年以上が経った。
お前の広めようとしたものは年月の中で忘れ去られ、僅かに遺ったものも風化しつつある。
お前の作った護符を懐に入れていた警邏の男も、今や仏に手を合わせ祈る世の中になってしまった。
大陸より運ばれた気風や思想は、既に大和を新たな色に染めている。
もちろん、太子様の意思により成されたその論調に反対するわけではない。実力主義は、腐敗しかけた国政を正す良い喝だ。新たな社会制度や文化の伝来は、きっとこの国をより善きものへと変えてゆくだろう。
だが……それでも。
静木よ。それでもだ。
私はそれでも、思わずにはいられないのだ。
過ぎ去り、忘れ去られてゆくものを見送るのは、どれだけ長く生きていても、淋しいものだ……とな。
太子様から与えられる仕事は多い。
どれも重要だ。太子様はそれだけ私の手腕を買っているのだ。あの方の期待に応えることはもちろん吝かではないし、私にとって望むところでもある。
寺院の建立、仏像の奉納、使節の迎賓と交渉。……どれも、周囲から妬みを貰うほどには大役だ。
紫の下に控える鮮やかな濃青は、私の誇り。
今や私はただの護衛ではないし、ただの成り上がりと罵る者は居なくなった。
しかし……そう。私は太子様の護衛から、自然と離れていった。
もちろんわかっている。太子様は私を護衛とするには惜しいと判断されているのだ。太子様の意思だ。わかっているのだ。
……だが……太子様が、どうにか私を遠ざけようとしているように思えてならない。
布都殿や屠自古殿もそうだ。今ではめっきり、太子様の身近にある彼女らと会うことがなくなった。
……太子様は善き為政者だ。それを疑うわけではない。
しかし……あの方は、何故私を遠ざける?
何故私を信じてくださらない?
私の居ない場所で、あの方は一体、何を……?
……誰か答えてくれ。
誰か、教えてくれ。
……静木よ。まだ大和へ戻らないのか?
私はまだ、ここにいるのだぞ。
布都殿。私を嫌い、騒がしかった貴女が、何故近頃は姿さえも見せてくれないのだ。
屠自古殿。何故太子様の部屋に、影武者の気配が二つもあるのだ。
誰か、私の話を聞いてくれ。
私の疑問に答えてくれ。
太子様。
何故貴女は……私に、何も話してくれない……。
「河勝殿。先触れも無しに、すまなかった。だが、これはどうしても、いち早くお主に伝えなくてはと思ったのだ」
「いや、構わない。その様子だ、ただ事ではないのだろう」
「……心して聞くのだぞ。取り乱してはならぬぞ」
「む……一体、どうされた? 何があったのだ。火急の問題であれば、私が……」
「厩戸皇子が、斑鳩にて薨御された」
……。
「影武者の男ではない。……ご本人だ。友人の方も、……布都様や屠自古様も、同じように……」
……。
「河勝殿? ……河勝殿。……すぐにでも、生駒へ。支度は整っている。……どうも、死因に不審なところがあるのだ」
「……なに?」
「来られよ。……大きな声では言えぬが。……どうも、死には呪物が関わっているらしい。毒殺とは違う、何か……良からぬ謀の気配がしてならない」
「……!」
太子様。
不審な死。
呪物。
私は、自らの頭に巡る血が沸騰したのを感じた。
憤りのままに猿の面を放り投げ捨て、それまで隠し続けていた異国の顔を、外へと晒す。
そして私は、感情のままに叫んだ。
「キタトゥスッ!」
曇りなき私の呼び声に、死期を目前にした老馬が屋内に飛び込むことで応えてくれた。
「先行する! 斑鳩宮だな!?」
「河勝殿! その顔は……!」
「斑鳩宮なのだな!?」
「……ああ、そうだ!」
「承知した! キタトゥスよ、済まぬ……お前の余生、私にくれ!」
何の支度も整えないままに裸馬へと跨り、薙刀だけを手に握る。
近頃は常に気怠そうにしていたキタトゥスが、死を命じた私に頷くかのように嘶いて、手綱も無しに駆け出した。