東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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 掴み。

 それは現代人が思うほど原始的な行為ではない。

 

 そもそも、掴むという動作は手先が器用な者だけが可能とする技術なのだ。

 

 一部の猿は投石や投糞程度のことはやってのけるだろうが、指先の器用さは人間のそれよりも遥かに下回るだろう。

 ゾウやクマも何十、何百キロといった重量物を持ち上げることは可能だが、その技能は器用さを伴う掴みに由来しない。

 かなり昔に見かけた豹の突然変異体(名称不明)は一部の言語を正確に理解し、その短い生涯で火を起こす技能やトーチを用いた狩猟を身につけたが、手足を使った確度の高い投擲技術を獲得することはなかった。

 

 掴みとは、神族や魔族などの霊的存在や、極々稀に出現する一代限りの変異体などを除けば、初めてモノにしたと呼べる種族は……人間だけなのである。

 

「ハァッ!」

「ぬっ……!」

 

 指先が持つ圧倒的な捕縛能力。

 それは人間の卓越した器用さが成せる技だ。

 そして掴みが絡むと、接近戦は非常にややこしいものとなる。

 

 掴みとは、相手の腕や脚や首だけに通用するものではない。

 柔道などの格闘技がそうであるように、人の衣服だって立派な掴みの対象となる。

 襟や袖などは格好の“取っ手”であろう。そこから派生する捕縛術や関節技、投げ技などは、例を上げればキリがない。

 

 とにかく、複雑なのだ。

 衣服の掴みを絡めた格闘術というものは。

 

「動きが鈍ったな! 避けるだけでは、私は負けぬぞ!」

「ぐぅう……!」

 

 袖や襟を掴みにかかる河勝の攻撃を、どうにか素早く打ち払っていく。

 が、無駄の多い私の防御打撃では全てに対処できず、そもそもの地力を備える河勝に圧されてゆく。

 肘や膝で上手く防御しつつ、相手に痛手を与えてはいるはずなのだが……河勝は弱音をあげようとはしないし、攻撃の手は休まらない。

 河勝も一連の闘いの中で、私の動きの速度が劣っていることを見切っているのだろう。

 反射神経と“慣れ”によってどうにか対処を試みてはいるが、打ち合いの度に劣勢へと追い込まれている。

 

 ――あ、しまった!

 

「隙ありッ!」

「ギャァッ!?」

 

 右肘で河勝の左手を弾き、左手で河勝の肘を抑えた時、無防備となった私の腹に、河勝の容赦無い蹴りが打ち込まれた。

 綺麗に決まった鋭い打撃に、私の身体は堪らず宙に浮き上がる。

 

 そのまま何メートルも突き飛ばされ……どうにか両の脚で、地面を削りながら減速、着地する。

 痛みはない。だが、それは私の身体が特異なほど頑丈であるが故だ。

 私がただの生身の人間であれば、今の一撃を食らった瞬間に悶絶し、そのまま壁に激突して胃の中の物をぶちまけていたことだろう。いや、それ以前に防御に多用していた肘や膝が悲鳴を上げていただろうか。

 

 ……継戦に問題はない。ダウンもしていない。

 

 だが……私の中に込み上げる敗北感。

 こればかりは、真実のものであった。

 

 何年も。何年も何年も積み上げてきた経験が、通用しない。

 私の不変の肉体は尋常ならざる耐久力を私に与えていたが、それ故に鍛えても成長することがない。

 その身体能力の限界が見せた、速度による負け。力による負け。そして……結果としての敗北。

 

 経験を若き力が上回ったこの瞬間に、私は周囲からの熱狂する声援を受けながらも、深い哀愁を感じていたのだった。

 

「……静木殿、貴方は非常に……いや、我が言葉で表しきれぬほどの武を内に秘めているようだ」

 

 離れた場所で河勝が再び構え、脚を開く。

 腰は低く、手は猛禽の爪のように強張り、顔に張り付く俯き気味な猿の面は……獰猛に笑っているかのようだった。

 

「だが、どうやら貴方の老いがそうさせたのだろう。私の動きは見えていても、どうにも身体が追いついていないように見える」

「……なるほど。それも貴方にはわかったか」

「ああ」

 

 さすがは、人間離れした身体能力を持つ男だ。

 そこまで見切るとは……。

 

「それだけに、残念だ」

「何?」

「静木殿。貴方がもしも――あと二十、いや……十年も若ければ」

「――」

「私は、貴方の動きについていけず、負けていたことでしょう」

 

 ……河勝に悪気はない。

 そう、確かにそう見えるだろう。

 私の身体能力が低いのだと。それに反して、戦闘技術だけは卓越しているのだと。

 故に、もっと若ければと……彼はそう言っているのだ。

 

 だが。

 あと十年? 二十年?

 若ければ?

 

 ……それは。

 

「それは……私の時間への侮りと見なすぞ、秦河勝」

「……!」

 

 私は自らの内に小さな闘志を燃やし、再び構えた。

 しかし今度は、“人間の肉体を意識した”というような、惰弱な枷を設けない。

 

 私の積み重ねたものが僅かな身体能力の差、それだけで無価値であると言うのであれば……ならば、良いだろう。

 私は私の肉体を、この不変であり不滅の肉体を最も効率よく用いた戦法によって、それを覆してみせようではないか。

 

「きたまえ……」

 

 “人間”の枠に当てはめた私は、認めよう。河勝、貴方に敗北するのだと。

 だが“ライオネル・ブラックモア”としての徒手格闘は、河勝よ。

 

「今度は……本気だぞ」

「……! おうよッ!」

 

 私の戦意に応えるように、河勝は再び駆け出した。

 

 


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