地の底の底。闇と怨念が支配するその世界は、かつて灼熱に包まれた死の空間であった。
しかし、長い年月とともに自然の熱は失われ、やがて冷め切った頃になると霊の姿も霞み、その唯一の有用性はほとんど無くなった。
扱いにくい土地ともなれば、そこに居座り続ける理由もない。
何千年かは稼働していたものの、ある日を境にはたりと、神族が消えたのである。
そこは、何者からも関心を持たれない、文字通りの死地となった。
錆びついて、過半数が折れた針山。
砕けた大釜。
山裾に茂っていた血針草は枯れ果て、無駄に広大な土地には辛うじていくつかの枯れ枝のような禍々しい樹木が残るのみ。
管理する神族もなく、徘徊する魔族もいない。
人からも神魔からも忘れ去られた、荒廃した死の世界。
だが、何者もいないかに思われたその仄暗い闇の中では、未だに小さな影が蠢いていた。
それは、這いずる矮小な者であった。
秒間に何メートルも進むことはできず、空も飛べず、そしておそらくは、踏まれれば潰れて死に絶えるほどに、脆弱な存在であった。
それは枯れ木のような樹木から苦い蜜を啜って僅かに腹を膨らませ、風の吹く時には
しかし、それでも強く風が吹き付ける時には体が宙を舞い、樹から吹き飛ばされることもある。そんな時には必死の思いで樹木へと身を這わせ、死に絶える前に再び蜜へと縋るのだった。
矮小な者は、死者の澱を吸い上げる魔樹の蜜を吸い続けるうちに、やがて思考能力を身につけていた。
それは自身の身を過酷な風や乾燥から守るためには非常に有用な力であったが、同時にこの脱しようのない荒廃した世界に絶望するきっかけともなってしまった。
矮小な者は、嘆く。
何故自分はこれほど軟弱なのかと。
矮小な者は、喚く。
何故自分がこのような場所に留まらねばならないのかと。
矮小な者は、憤る。
何故、自分なのかと。
矮小な者は過ぎゆく時間とともに、その悪意と憎悪を積み重ねていった。
今この時も幸せを噛み締めているであろう、全ての生けとし生ける者への怒り。
身勝手にも樹木の管理のためだけに自分達をこのような死地まで持ち運んできた、神族達への怒り。
やがてそれは矮小な者の性質を少しずつ変化させ、悪意は矮小な者の内部で、着実に蓄積されていった。
やがて、そのように怨念を貯め続けていたある日のこと。
矮小な者の近くに、見慣れぬ物が現れた。
矮小な者は目が悪かったが、黄土色に輝くそれは大きいもののようで、どうやら宙に浮かび、少しずつこちらへと近づいているらしい。
矮小な者は洞の中に半身を隠し、ひっそりと様子を伺う。
しばらく待てば、近づきつつあるそれがはっきりと見えてきた。
それはどうやら大きな銅鏡であるらしく、裏面には目を閉じた女の彫り物があしらわれていた。
銅鏡は、どういうわけか宙を彷徨い、動き続けている。何者かに操られているわけではないし、神族としての気配も微弱。
矮小な者からしてみれば、それは奇妙の一言に尽きた。
本来であれば、関わりたくなるものではない。
風に転がる小石も、錆びついた針も、矮小な者にとってはあらゆるものが死を招く災厄に成りかねないからだ。
訳の分からないさまよう銅鏡なぞ、本来であれば眺めていたくもない。
だが、矮小なものはどうしてかそれに惹かれた。
少しの葛藤もあったのだが、矮小な者は樹木を降り、地を這い、ゆっくりと自らの力で銅鏡へと近づいてゆく。
「ォオ……ォオ……」
やがて銅鏡の下までたどり着くと、矮小な者は顔を上げて、低い声を上げた。
闇の世界に封じ込まれてはや数千年。
その呻きにどのような感情が込められていたのかは、彼にしかわからないだろう。
「ォオ……」
しばらくすると、矮小な者の呻き声に応えるようにして、銅鏡が向きを変え、にわかに輝き始める。
銅はまるで太陽のような黄金に煌めき、その強烈な閃光は矮小な者の影を長く伸ばしてゆく。
神聖な輝き。神の力。
矮小な者はその圧倒的な威光を前にして、キィキィとより高い声で鳴き喚く。
やがて光が収まると、そこには矮小な者も、銅鏡の姿もなかった。
闇の世界に残ったものは、いくつかの樹木と打ち捨てられた遺構のみ。両者は跡形もなく消え去り、闇の世界から人知れず姿を消したのである。
「ォオ……ォオ……!」
人気のない山裾の川辺で、矮小な者が歓喜の産声を上げる。
繋がったのは、魔界と顕界ばかりではない。