「ん……」
心地よいまどろみの中で目が覚めた。
温暖な室内。綺麗な赤い天井。身体を包む滑らかなシーツの感触。
ここは、どこだろう?
私は確か……ウントインゲさんの書斎に行って……。
そこで、グリモワールを……。
……そうだ、グリモワール!
「……っ!」
「あら、起きたのね」
私が身を起こすと、ベッドのすぐ傍には綺麗な女性がいた。
長い銀髪。綺麗な赤色の、異国の服。そして背中には、6枚の白い翼が生えている。
「……!」
言葉が出ない。
その女性の姿から、それが人ではないと認識してしまったから。
直前まで抱いていた焦燥や苦しみも忘れ、私は魚のように口をパクパクと動かすしかなかった。
「ふふ、そんなに焦らなくても大丈夫よ。私の名前は、
「かみ……さま?」
神様。神綺は、柔和な笑みを浮かべて私を見つめている。
……魔界? 神様?
突然のことが一度に起こりすぎて、頭がついていかない……。
「貴女の名前を聞いても良い?」
「……アリス」
そう、私はアリス……。
それはわかる。アリス・マーガトロイドだ。自分まで忘れたわけではない。
自分の名前を言えたことで、どうにか最低限の落ち着きは取り戻せた。
「アリスっていうのね。いい名前だわ」
「……私は……ここは、一体……?」
「それは私にもよくわからないわ。私たちは突然現れたアリスを、ここで休ませていただけだもの」
……私が、突然ここに現れた?
「落ち着いて、アリス。これまでに起きたこと、私にわかるように説明できる?」
「……はい」
謎呼ぶ謎に、また再び不安と焦りがこみ上げてきた。
喚き散らしたい衝動は大きくなってくるけれど、私は自分自身の置かれた状況をしっかり把握するためにも、これまでの行動を一個ずつ、説明してゆくのだった。
「そう……西暦1905年ね」
私が幻が見えること。
私が魔法使いのお手伝いとして拾われたこと。
ちょっとだけ魔法が使えること。
そして、書斎で“生命の書”を見つけたこと。
色々なことを、神綺さんに話した。
……いえ、神綺さんは神様だ。失礼にあたるから、神綺様と呼んだ方が良いかしら。
「それじゃあ、地下の本を手に取ってから、気がついたらここにいたのね」
「はい、そうです……」
神綺様は私の話に、静かに耳を傾けてくれた。
魔法のことも、幻のことも、神綺様は馬鹿にしないし、否定することもない。
私の話を信じてくれる人はウントインゲさん以来だったので、話しているだけでも不思議と心が落ち着いた。
「あの……神綺、様」
「ん。なあに?」
「私、すぐにでも……帰りたいです」
「……どこへ?」
神綺様の表情が曇る。
まるで、不穏な何かを察しているかのように。
「ルーマニアへ……ウントインゲさんのお店に、帰りたいです」
帰りたい。
ここがどこかはわからないけれど、私はすぐにでも帰らなければならないと思った。
ウントインゲさんの言いつけを破ってしまった。
鍵の掛けられた書斎に入って、封じられていたグリモワールを開いてしまった。
……今にして思えば。
私は、なんて軽率なことをしてしまったのだろうと思う。
すぐにでも、あのことを謝らないと。
「アリスは……1905年の、ルーマニア……という所に帰りたいのね」
「はい。ルーマニアの、ブクレシュティ……」
「……ごめんなさい、アリス。それは、できないの」
「え?」
できない。帰れない。
何故? 私は、聞き返すことしかできなかった。
「今は、ライオネル……今のアリスの事情について一番良く知っている人がいないから、又聞きした私からしか言えないけどね。今の地球は、アリスが思っているよりも昔なの」
「……え、昔って、どういう……」
「簡単に言うとね? アリスは、過去に来てしまったのよ。1905年から、西暦が始まって間もないこの世界に」
開いた口がふさがらない。
過去に来てしまった? 西暦が始まって、間もない?
「嘘、だわ……」
「……本当の事よ、アリス。といっても、その様子じゃまだまだ、信じることはできないかもしれないわね」
過去。西暦始まって間もない……1900年近くも昔の世界に来てしまった?
それじゃあ、私は、もう……ルーマニアに帰れない? ウントインゲさんに会えない?
そんな、そんなのって……。
「アリス、この本を持って」
「あ……」
呆然とする私に、神綺様は一冊の本を差し出した。
灰色の分厚い書物。それは、見慣れない色ではあったけれど……よく見れば確かに“生命の書”だった。
何故こんなにもくすんだ色をしているのかはわからない。
けれど、今の私はそんなことは少しも気にならないほど、打ちひしがれていた。
「ライオネルが言ってたことだけど、その本はずっと持っているようにね。離れては駄目、というわけではないけれど……絶対に失くしたりしてはいけないわ」
「……」
「不安なのね。アリスの気持ち、私にはなんとなくわかるわ」
灰色の本を胸の前で抱く私の頬を、神綺様がそっと撫でた。
温かい手のひらに、心がほんの少しだけ落ち着いた気がする。
「……アリス。過去に来てしまった……と言われても、貴女はなかなか飲み込めないと思うの。だから、私についてきて。ライオネルに会えば、きっとわかりやすい答えをくれると思うから」