夢幻姉妹が起動させた巨大な鏡は、夢幻世界そのものの作成に関わった重要な施設であった。
制御装置と言い換えても良いかもしれないし、力の貯蔵庫と言い換えることも可能だ。
それはある意味、魔都パンデモニウムを副次的に機能させている時計塔と同じ役目を持っていると言えなくもない。
これが力を暴走させた場合、強力な異界干渉による衝撃を生み、周囲一体に不測の事態を引き起こす。
それまで安定していた異界のバランスを故意に崩すことで、見境のない衝撃を私に与えようとしたのだろう。
良い手である。窮鼠の噛み方としては悪く無い。
直撃すれば夢幻世界とは異なる、見も知らぬ異界へと引きずり込まれてしまうだろう。
そうなると大抵の場合は何重もの異界へと跳ばされ、帰還が面倒なことになる。
だがそれは、魔力を用いて自力で魔界へ移動できる程度の力を持つ者には全く効かない手だ。
何より、そもそも不安定化した異界の崩壊など、この私が直撃されてやる義理もない。
偉い人は言っていた。
当たらなければ問題ないのだと。
実際、夢幻姉妹によって暴走した巨大鏡を封ずるのは非常に楽であった。
誰にも邪魔されず、黙々と解れた流体結界を整えるだけだ。結界の緊急修理など、魔界の庭いじりをやっている間にしょっちゅうやっている。
それに空中に移動させた海溝を覆い包む結界が解れた時ほどの焦りもない。
あの時は魔界に神話レベルの洪水が起こるかと思ってちょっとゾッとしたものだ。
「あ、ああ……ま、まさか魔神様がいらっしゃるとは……」
「こ、こここここれは神綺様……いやあのぅ、これは……この空間は、お姉ちゃんの独断で……」
「ちょっと夢月!?」
今、夢幻の双子姉妹は仲良く正座している。
場所はパンデモニウムの無法地帯。
既に夢幻世界からは脱出し、落ち着いた場所へ移動した後だ。
「ライオネルに酷いことしたの?」
「いいいいえいえいえ滅相もないですぅ! いや、私たちはあのぉ、ままま、魔法の練習を……あでも夢月は違います、こいつは結構ガチで攻撃してました」
「お姉ちゃぁあん!? 嘘です神綺様! お姉ちゃんの方がえげつない攻撃してました!」
姉妹は、六枚の翼を真っ黒に染め上げた神綺に見下されながら、弁解……にもならないような苦しすぎる言い訳を続けていた。
双子で仲良さそうな姉妹かと思いきや、闘い方に協調性はあまりないし、いざとなったらお互いに盾にしようとする……まさに悪魔のお手本のような二人である。
神綺はそれを“ふーん”とでも言いたげな無関心な顔で見下ろすだけ。
特にコメントはない。しかし実のところ、こういう時の神綺が一番怖いのだが……。
「ライオネルを変な空間に連れ込んで。夢幻世界だっけ? 気配が突然薄くなったからびっくりしちゃったわ……もしライオネルに何かあったら、どうしてくれるのかしら」
「ひっ……」
神綺の黒い翼に、赤い紋様が脈動する。
原初の力が辺りに満ち溢れ、魔力を押しのけて滞留する。
魔界における神綺は、とても強い。
原初の力が支配する魔界においては、彼女に抗うことはほぼ不可能であると断言しても良いだろう。
さすがの双子も魔神相手では分が悪すぎるとわかっているのだろう。
ただ顔面を蒼白にして、ガチガチと歯を鳴らすしかないようだ。
「まぁ、神綺さんや。私も自分から飲み込まれたところはあるし、魔法で遊んでもらったのも事実だよ」
「そうなんですか?」
私がフォローを入れると、神綺の羽の色が僅かに灰色に戻った。
「元々、悪名高いというこの姉妹に会うために魔都まで来たからね。向こうも私だとは知らなかったみたいだし、責めるのは止してあげてほしいな」
「なんだ、そうだったんですか。じゃあ良かったです」
誤解も解消され、神綺の羽が白に染まる。
表情からもピリピリしたものが抜け落ち、いつもどおりの彼女が戻ってきた。
「だだ、大丈夫なんですか……?」
「私たち、許された……?」
「自分から罠にかかりにいったしね。私が君たちを責めるのはあまりにもお門違いだろう」
「……やったわ夢月! 不問ですって!」
「わーん! お姉ちゃーん! 死ぬかと思ったよー!」
特に私達に害意が無いことを知ると、双子は半泣きになりながら抱き合った。
先程まで罪の擦り付け合いをしていた気もするのだが……なかなか器用な姉妹である。
まぁ、実際夢幻世界にひきずりこまれたのも、戦ったのも、最後の異界暴走が発動するまで手を抜いていたのも、全ては私がそうしたからである。
仮にそれらを同じ無法地帯の悪魔にやったところで、それは魔都が定める“契約”に違反するものでもない。
彼女らは確かに悪名高い存在ではあるのだろうが、悪魔の契約に違反していない限りには、それはあくまで模範的な悪魔でしかないのだ。
まあ……夢幻世界を用いた謀反やら成り上がりやらは画策していたようであるが、夢幻世界も結局のところ“かなり表層部に突き出た魔界”でしかない。
私は当然として、神綺でさえも多少の干渉は効くのだ。あれは魔界そのものの脅威には到底成り得ない。
仮に、あの空間を使って何か良からぬことを成そうというのであれば、あの城に配置されていた鏡の何万倍もの性能を持った装置や魔法が必要になるだろう。
となると夢幻姉妹は今よりも遥かに高度な魔法的知識が必要になってしまうわけで……それはそれで待ち遠しいことである。
下克上。それを魔法によってなし得ようというのであれば、むしろどんどんやっていただきたいものだ。
偉大なる魔法使いは常に挑戦者を待っているぞ。
「……それで、ライオネル」
「うむ」
まぁ、双子はそのくらいだ。
良い物が見れたし、良い闘いもできた。それはそれで終わりなのだが……。
「この子供、一体誰なんでしょうね」
「……うーむ」
あの鏡が引き起こした暴走の後……入り乱れる異空間が最後に排出した、この子供が問題なのであった。
「魔人でも悪魔でもないですし、神族でも魔族でもなさそうですよ」
神綺が原初の力によって浮かせている、謎の少女。
私たちは、この子の処遇について考えなければならなかった。
「もう一度聞くけども……夢月、幻月。この子には思い当たるところは無いんだね?」
「は、はい……見たことないですぅ……」
「そんな小綺麗な子供、人間でも出会ったことはないです……会ったら殺して即服を奪ってますし……」
うむ、なるほど。この凶悪な双子がそこまで言うなら間違いないのだろう。
“殺して即服を奪う”か。不思議な説得力がある言葉だ。
確かに、この子供が着ている服は綺麗だ。
青いスカートに白いブラウス。顔立ちは西洋系。青いリボンで飾られた金髪はよく手入れされているように見えた。
「……そうか。それじゃあ、この子とは無関係ということだね」
「はい、全く」
「なんであんなところに居たんだろうね……? お姉ちゃん」
「さあ……?」
双子も顔を見合わせて不思議そうにしている。
子供はあの鏡から現れたが、双子の関知するところの存在ではないのだろう。そこに嘘は含まれていない。
「……ふむ。じゃあ、私たちはこの子のこともあるし、そろそろ御暇させてもらおうかな」
「あ、おつかれ様です!」
「です!」
双子がビシッと音がしそうなほど綺麗に頭を下げてくる。
なんかもう逆に畏まられすぎて怪しいからやめてもらいたい。
「それじゃ、私もライオネルと一緒に行くけど……あまりややこしいことはしないようにね?」
「はい!」
「もちろんです!」
「それと」
神綺は去り際、にっこりと微笑んで。
「悪魔は別にいいけれど、あまり魔人を連れ去ったりするようだったら……私が独断であなた達を殺すかもしれないから、気をつけてね?」
その時、私は悪魔が本当に恐怖した時の表情というものを見ることができた。
……うむ。
まぁ、“契約”に違反していないからといっても、全く恨みを買わないわけじゃないからね。
夢幻姉妹には、そこらへんのさじ加減をよく考えながら生活してもらいたい。
悪魔が無法地帯で暴れるのも自由ではあるが、神綺が誰かを殺めるのもまた、自由なのだから。
「さて」
「どうしましょうか?」
瞬間移動によって、私と神綺と……そして謎の少女は、パンデモニウム中央部の紅魔館へとやってきた。
誰もいない清潔な一室のベッドに少女を寝かせ、私と神綺はテーブルについて向き合う。
「ライオネル……あの子、魔界の言葉を使っていましたよね」
「ああ、そうだね」
神綺が横たわる少女に目をやり、目を細める。
私も頬杖をついて、少女の寝顔を眺めた。
「魔界の言葉が使えるということは、魔界に関わった者であるということです。けど……私はあの子を知りませんし、あの子の身体は魔人に類するものでもありません」
「そのようだね。もっといえば……あれはただの人間だよ」
「……あれが人間、ですか。つまり、マーカスやエレンと同じ?」
「ああ。あの二人はオーレウスの一族でもあるから、神族としての気質も備えてはいるが……この子に限って言えば、紛れも無く純粋な人間だね」
そう。
この子供は間違いなく人間であった。
神族でも魔族でも魔人でもない。立派な、ただの人間なのである。
しかし、魔界の言葉が扱えるということについては、すぐに答えを用意できる。
「あの子が手にしていた魔導書がこれだ」
「……“生命の書”」
私が書いた魔導書、“生命の書”だ。
これに限らず、私が書いた魔導書を読んだ者であれば、ある程度魔界の言葉を話せるようにはなるだろう。
魔導書は、読者に魔力への気付きを与えると共に、魔法の理解を強制的に促すために言語にまで影響を与える。その副次的な作用として魔界語を扱えるようになるのだ。
「だが、言葉はさほど問題ではない。問題は、この子があまりにも場違いな人間であるということが、一番の問題なのだ」
「……場違い。どういうことでしょう……?」
「……この魔導書を見て、気付かないか。神綺」
私は少女が持っていた生命の書を軽く掲げてみせた。
「あ」
神綺はすぐに気がついたようだ。
表紙を手がけたのは彼女だったから、すぐにわかるだろう。
「色が……」
「そう、生命の書の色がまるきり変わってしまった」
本来は水色であった生命の書が、灰色に染まっている。
いや、色が完全に抜け落ちたと言っても良いだろう。
「それに……それは……材質が」
「ああ。これはもう、本来の魔導書としての機能の多くが失われている。しかもこの“生命の書”は、この時代のものではない」
はらりとページをめくってやると、生命の書は何の魔法的な効果を起動することもなく、中を露出させてみせた。
本はページさえも薄い灰色に染まっており、書いてある文字自体はそのままであるが、私が付与した“強制読書”の機能が全く動かなくなっているようだった。
「この子は、今よりもずっと先の時代から来たということですか」
「ああ。どういう経緯かは不明だけども、鏡が起こした異界暴走が切っ掛けで引きずり込まれてしまったのだろう。あの子の魔力的体質、魔導書と私、夢幻世界……おそらく様々な要因が重なってしまったのだろうね」
きっと、奇跡的な物事の重なりがあったのだろう。
私ほどではないだろうが、少女はなかなか珍しい事故に遭ってしまったということだ。
「どれほどの……未来から来たのでしょう?」
「んー。多分五百年後から二千年後かの間くらいじゃないかな」
服装から推察するに、ではあるが。
「随分と正確に言い当てるんですね?」
「うむ。ああいや、あまり正確ではないよ。これから二千年の間は、私もよく知っている時代のことだからね」
「……」
「そう考えると、なかなか当てずっぽうな予想だよ。……正確な答えは、彼女が起きた時に聞くしか無いさ」
神綺は俯いて、テーブルの上の“生命の書”を見つめる。
私もまた、テーブルの上で自分の枯れ果てた手を広げ、じっと眺めた。
「……西暦、ですか」
「ああ、そうだ。来たんだよ、西暦が」
西暦。
グレゴリオ暦。
人の世界が歩む、明確な時の流れ。
そう。私たちは既に、その時代の中に生きているのだ。
「……やっぱりライオネルは……西暦の地上が気になりますか?」
「……うむ。気になるよ、とても」
どこかさみしげに神綺が呟いたのを、私はあえて力強く頷いて返した。
「人間の歩み。文明の発展……ああ、気になるさ。五億年生きて、ずっとずっと気にし続けてきたことでもあるからね」
「……たった二千年ですもの。今更ライオネルがそれくらいの間、どこかへ行っちゃったとしても……私はずっと待ってますよ。けど……」
テーブルの上に投げ出した私の手を、神綺が両の手で優しく包み込んだ。
「けど、忘れないで下さいね。魔界は、ちゃんとここにありますから。私は、いつだってライオネルを待ってますから」
「……もちろんだとも。確かに地上は気になるけど、ちゃんとちょくちょく魔界に戻ってくるよ」
「……良かった」
神綺が柔らかく微笑み、私はもう一度、深く頷いた。