「——っは……」
気を失ってしまいそうな程の息苦しさの中で、目が覚めた。
真っ先に目に付いたのは、暗闇の中で薄ぼんやりと見える天井。
かつて見ていた癲狂院の無機質なものではない、温かみのある私の部屋の天井だった。
「は……はっ……」
癲狂院じゃない。
良かった。ここは癲狂院じゃなかった。ウントインゲさんのお店だった。
私はまだ、捨てられていないんだ。
「ぁあ……」
安堵すると、一気に全身の力が抜けてきた。
気が付けば、11月だというのに全身はじっとりした汗をかいており、パンツがちょっと気持ち悪い感じがする。
寝方も普段と違って乱暴なもので、足は寝台の外に投げ出されている上、ぶつけてしまったのか、傍に置いた作業机の小物が倒れている。
……嫌な夢だったわ。
私が大人っぽくなって……また癲狂院での生活に戻る夢。
私は魔法を使えなくて、幻さえも見られなくなっていて……。
……あんな夢、もう二度と見たくない。
身体は悪夢で疲れていたけれど、またあの夢の続きを見てしまいそうで、とてもではないけれど眠る気にはなれなかった。
「はぁ……」
窓の外は暗い。まだ深夜だ。
どうやら私はあのまま寝てしまったらしく、格好はパジャマではなく、いつもの洋服だった。
……ウントインゲさんに頬を叩かれたことを思い出す。
熱い痛みと、恥ずかしさと、恐怖。色んな心がせめぎあって……自分でもよくわからない。
ウントインゲさんは、私が魔法使いになることを怒っていた。
けれど私には、ウントインゲさんが何故あんなにも怒っていたのかが、ちっとも理解できない。
ウントインゲさんだって、魔法使いなのに。
……このまま寝たくないし、着替える気にもなれない。
私はとりあえず、寝相で倒してしまった作業机の上の小物を整理することにした。
「……和蘭陀人形」
自分の魔法がまだ使えるかどうかを試す意味もあり、私は窓際の人形を操って、人形に片付けをさせた。
もちろん、人形を動かすのは私だし、人形の手でやるよりは自分でやったほうが早い。
けれど、あんな夢を見てしまったのだ。私は少しでも、魔法との繋がりが保たれていることを実感したかった。
「……魔法の、一側面」
キルト生地、針山、羊毛。
様々な小物を箱へ収納し、整頓してゆく。
「あっ、毛糸……転がっちゃってる」
最後に残ったのは修繕用の毛糸玉で、それは一本の赤い糸を伸ばしながら、部屋の隅へと転がっていた。
こうなると、人形に拾わせるだけでは済まなくなる。
私はため息をついて、——だからといって立ち上がるのも億劫だったので——毛糸玉に直接、魔法をかけることにした。
「ん……」
人形を操るのとさほど変わらぬ要領で、毛糸玉を宙に浮かせる。
同時に長く解けてしまった一本も浮かせ、それをくるくると回る毛糸玉へと絡ませてゆく。
大事なのは毛糸玉の回転と、糸を魔法でピンと張ってやることだ。
毛糸は見る間に、しゅるしゅると元の塊へと戻っていった。
もっともっと魔法がうまくなれば、そのうち編み物だって魔法で出来るかもしれない。
「……」
そう考えた時、私の頭の中に恐ろしい発想が浮かび上がった。
あまりに衝撃的なアイデアに、淀みなく回っていた毛糸玉がピタリと停止する。
毛糸……魔法……。
私はおもむろに、毛糸玉から一本の糸を引き延ばして、それに指を触れてみた。
「……固い」
魔法で強くした糸は、まるで針金のように頑丈だ。
魔力を注げば注ぐほどに、より固さを増しているようにも感じられる。
「……ふふ」
しかしそれは私の魔力の込め方次第で自在に形を変化させるもので、少し念じてやればナイフのような形にも、星のような形にだって変形する。
そう、例えば、鍵の形にだって。
「……泥棒みたい」
毛糸が何度も何度も折れ曲り、小さな鍵を形成した。
それは材質こそ毛糸だし、鍵としての形も適当ではあるけれど……仮にこれに合う錠前が存在するとしたら、きっと……私はそれを解錠することができるだろう。毛糸の鍵は、それだけの充分な強度をもっていた。
やろうと思えば、玄関も開く。金庫も開く。
……それに……きっと、書斎の鍵だって……。
「……」
私はその時、自分の顔から表情が抜け落ちたのを自覚できた。
一体、誰に感情を悟らせまいとそうしたのか、それは私にさえわからない。
ただ、私はその後すぐに、毛糸玉と、言い訳のように人形達を引き連れて、自分の部屋からそろりそろりと抜け出した。
息を潜め、足音を殺し、静かに静かに廊下を歩く。
ウントインゲさんの店に来てからもう何ヶ月も経っているので、多少暗くとも何がどこにあるのかはわかる。
下へ続く真っ暗な階段も、白っぽい人形を操って先に歩かせてやれば、踏み外す心配も全くなかった。
書斎は、地下にある。
蔵と兼ねている書斎の入り口は、簡単な作りの三つの錠前によって封じられており、泥棒が来たとしてもそう易々と破れないようになっていた。
しかしこの厳重さは泥棒対策というよりは、むしろ魔道書を見たがっている私へのものだろう。
ウントインゲさんは、私が高度なグリモワールに触れることを良しとしなかったのだ。
「……ごめんなさい」
けれど、私は今日、それを破る。
ウントインゲさんからは厳しく言われているけれど、私はどうしても……今よりももっともっと凄い魔法に触れたいのだ。
私が大人になってからでは遅いから。
パチュリーに追いつけなくなってからでは遅いから。
だから……ウントインゲさん、ごめんなさい。
「ひ、開いた……!」
私は今日、禁じられた扉を開いたのだった。
カビ臭い地下の書斎には、お店の商品である幾つかの原料の他に、沢山の家具が置かれている。
キャビネット、本棚、衣紋掛け。全体を見ると、書斎というよりは倉庫に近い場所だった。
「……やっぱりここは、魔力が凄い」
そして書斎には、土地としての特性なのか、他の場所よりもずっと沢山の魔力や幻が漂っている。
幻の幾つかはゆっくりと細く千切れ、無数の本が収まる本棚へと静かに吸い込まれてゆく。
私が目的とするグリモワールは、そこに置かれているのだ。
「……いっぱい」
淡く発光する幻のおかげで、光源には困らない。
棚の中に整然と並ぶグリモワールの数々の名前を読み上げるのは、さほど難しくはなかった。
……私が望む書物は、パチュリーと同じ不老の魔法が記されているものだ。
魔法使いになるための方法が載ったグリモワールを見つけよう。
そして、パチュリーやウントインゲさんと同じ、魔法使いになるのだ。
そうすれば私はみんなと同じだし、今から魔法使いになって成長を止めてしまえば、魔法を無くしてしまうこともない。
魔法を失うのは嫌だ。
相手にされないのは嫌だ。
癲狂院に戻るのは、絶対に嫌だ。
魔法使いになってやるんだ。
必ず、みんなと同じ魔法使いに……。
「これじゃない。これでもない」
目当ての本はどこにあるのだろう。
本棚の中にあるもので、辺りの幻を少しずつ吸い取っているものから優先的に開いてざっと目を通してみるが、私が求めているグリモワールはなかなか見つからない。
魔女の惚れ薬。
軟膏の作り方。
触媒の保管方法。
きっとどれも役に立つ。でも、私が欲しい情報はこのどれでもなかった。
「嘘……そんな、ないの……!?」
下から順番に見ても、ない。ない。ない。
不老の魔法が……“捨虫の法”と“捨食の法”を記したグリモワールが、見つからない。
なきゃいけないのに。なきゃ魔法使いになれないのに。
……ここの本棚にあるわけじゃないのかな?
私は書斎を見回し、怪しそうな棚が無いか探ってみた。
本棚には他にはなく、見た感じ書物を保管している場所は見られない。
「……?」
本は無い。
けれど私は、書斎の隅っこの方でちらちらと幻を瞬かせている家具があることに気がついた。
それはいかにも古めかしい紫檀の化粧台で、鏡は草模様の分厚い扉によって隠されている。
先程から化粧台付近でちらつく幻は、その扉の隙間から漏れ出ているようだった。
「……」
怪しい。
声にこそ出さないが、私は心にある種のあてずっぽうな確信を抱いて、その化粧台に近付いた。
目の前にまでやってくると、そこで改めて化粧台の異質さを知った。
化粧台の置かれたこの地下書斎の角は、どうやら沢山の幻が行き交う場所だったらしい。
化粧台の裏を覗き込んで見れば、数多の幻が氾濫した川のような速さで流れている。
確かこれは、ウントインゲさんが言っていたものだ。豊富な魔力が行き交う流れ……それは、魔法使いにとって何よりの財産となるのだと。
「……ここに、何かがあるんだわ」
沢山の魔力を使って、ここには何かが安置されている。
何があるのかはわからない。けれど私は、好奇心に駆られてその手を伸ばした。
鏡台を閉ざす扉に手をかけ、私は胸の高鳴りに任せ、それを一気に解き放った。
「……っ!」
そこにあったのは、鏡……ではなく、一冊の本。
澄んだ海のように綺麗で鮮やかな、傷一つ無い真新しい……水色のグリモワール。
それが本来鏡が貼られているべき場所に立ちかけられており、化粧台の中を横切ってゆく膨大な量の幻や魔力を、掠めとるように貪っている。
本棚にあったものとは比べ物にならないほどの魔力を食べる、奇妙なグリモワール。
表紙に書かれていた文字がなんと読むのかはわからなかったが、私はこの書物こそが、自分の求めている最上のものであることを悟った。
「ぁあ……」
衝動が、抑えられない。
美しい水色のグリモワールの後ろでは、支離滅裂な幻が破滅的な世界の様相を映している。
不吉だ。嫌な予感がする。
けれど私はどうしたって、震えるこの手を止められない。
やがて数秒も堪えきれないうちに水色のグリモワールをその手に取ると、私は一ページ目をゆっくりと開いて……。
「うっ!? ぁあッ……!?」
自分の中に、強烈な何かが流れ込んでくるのを感じた。
……なに、これ。
頭が、痛い……文字が、意味が、直接入ってくる……。
「あ、やっ……嫌……!」
……本が、閉じられない。
目が、離せない。
……体が、全然動かない!?
なにが、どうなっているの!?
「やだ……!」
私の頭の中に、魔法の知識が刻まれてゆく。
同時に、私はこの恐るべし書物の名を知った。
これは、“生命の書”だ。
このグリモワールは私の体を操って、魔法の真髄を理解させようと稼働している。
心が拒んでも、グリモワールは決して止まらない。
“生命の書”は私の魔力さえも吸い取って、私に魔法を教え続けるのだ!
「あっ、ぁあああっ……!」
震える手が、勝手に次のページを捲る。
さらなる魔法の啓蒙が、私の頭に激しい痛みを生む。
このままだと、私は……死ぬ。
魔力が尽きるか、頭痛によってか、それ以外の恐ろしい理由かはわからないけれど……。
嫌だ……死ぬのは嫌。
「だれ、かぁ……!」
“生命の書”の向こう側で、幻が強く輝いている。
溢れ出る涙が、視界を邪魔するからというだけの理由によって、強制的に乾いてゆく。
「アリス! アリス! なにしているの!?」
私を責めるようなウントインゲさんの声が聞こえる。
「いけない、アリス! そこから逃げて!」
思考と視界が焼けつき、真っ白に染まる。
『しまった、異界が暴走した。ちょっとまって神綺、とりあえず落ち着いてそこにいてくれ。それは良くない。今なんとか塞いでるから……』
心地悪い浮遊感。
空中に投げ出され、ぐるぐると乱回転を加えられているかのような、身体が引きちぎれてしまいそうな激しい衝撃。
山の風と、海水と、煙っぽい焦げた空気が混じり合い、私を苛みながらどこかへと押し流してゆく。
「おや?」
やがて私は、最後の強い衝撃と共に地面へと放り出された。
手には未だに“生命の書”が握られている。
「ぁ……ああ……」
薄目を開けると、本は閉じていた。
そして頭の中に流れ込むような感覚も収まっているようで、あの時ほどの恐怖はない。
「これは……ああ、弱っている。このままだとちょっといけないな」
けど、わずかに目線を上げてみれば……そこはもう書斎の中ではなかった。
不気味な色合いの空と、不気味な色合いの地面と……。
そして、近くで私を見下ろしている、死神の姿。
「ここが……」
「うん?」
ああ、そうか……。
やっぱり、私はあの時の痛みで、死んでしまったんだ……。
「ここが、地獄……なのね……」
死神の恐ろしい顔を眺めながら、私は意識を失った。
「いや、違うけども……」