東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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 その日、月に嵐がやってきた。

 嵐は前触れもなく訪れ、そして瞬く間に、それこそ私たちに逃げ出す暇さえも与えることなく、大きな傷跡を遺して去っていった。

 

 嵐の名はライオネル・ブラックモア。

 色のない襤褸を身に纏った、災厄の遺骸。

 きっと私は。そして、エイリンも。あの遺骸の名を、生涯忘れることはないだろう。

 仮に私達の命が、永遠のものだったとしても。

 

 私は蓬莱山 輝夜。

 これまでずっと、“穢れ無き月の姫”だの“永遠と須臾の姫”だのと持て囃されてきたけれど……今日、私はふと思ってしまった。

 

 私は本当に、穢れていないのかしら、と。

 そして……永遠、だなんて。私は本当に、永遠と呼べるほどの何かを持っていたのかしら……と。

 

 

 

「エイリン……エイリン、大丈夫……?」

 

 闇の空へ帰っていった闖入者の影が点さえ見えなくなるまでを見届けた私は、直ぐ側でへたり込む彼女に声を掛けた。

 しかし、彼女からは反応がない。いえ、かすかに私の声に反応する様子はあるけれど、まるでそれどころではないとでも言いたげに、動こうとしなかった。

 

「エイリン……?」

 

 いつだって、呼べばすぐに応えてくれた彼女の姿は、そこにはない。

 私の目の前にいるのは、じっと辛そうに目を伏せたまま、耐えるような……まるで、何の力も無い少女のように見えた。

 

 いつも理性的で、誰もが思いつかないような考えで不可能を可能にしてきた月の賢者。

 八意エイリンは、そこにいなかった。

 

「……サリエル様」

 

 ぽつりと。静かな涙と一緒に、エイリンの口から名前が零れ落ちた。

 サリエル。それは、先程までこの場所に立ち、何故か私達を庇っていた……六枚羽根の女性の名前であったはず。

 

 私は、サリエルという女性をこれっぽっちも知らない。

 いいや、私はそれどころか、今日起こった事の全てを知らなかった。

 

 何故月を動かしては駄目だったのか。

 何故あんなにも恐ろしい存在が地球からやってきたのか。

 そして、エイリンにとって、“サリエル様”とは、一体何者だったのか。

 

 エイリンは何だって、聞けば私に教えてくれた。

 どんなわがままでも聞いてくれたし、どんな時にでもお話相手になってくれた。

 

 けれどどうしてか私は、このエイリンに“サリエル様”について訊ねたとしても……真っ直ぐな答えが返ってこないような気がした。

 

 ……いいえ。それはちょっと正確ではないかもしれない。

 

 私が、訊くのが怖かったのだ。

 

 エイリンが私を意識の外に置くほどの存在について知るのが、どうしてか私は、とてつもなく怖かったのだ。

 

「……輝夜、お怪我はありませんか?」

「……うん」

 

 あらゆるものを与えてくれる、私の賢い従者、エイリン。

 束の間の空白を挟んで、彼女が再び賢者としての顔をこちらに向けてきても……やはり私は、エイリンの内面に一歩も踏み込むことができなかった。

 

 

 

 

 月の都は、ぼろぼろだった。

 無事な所はひとつもない。

 結界で守られていたはずの街は壁も屋根も罅が走り、穏やかだった海岸は抉れ、あるいは埋め立てられ……全ての景色が様変わりしていた。

 

 そして変わったのは、都や月面だけのことではない。

 ライオネルが過ぎ去った後、私達は酷く怯えるようになってしまった。

 

 当然のことだった。

 たった一日。いいえ、数十分程度の出来事だったというのに、月の全ての民がライオネルの猛威を目の当たりにしていたのだから。

 

 都の中に閉ざされて、結界の強烈な圧迫を受け続けていた者は当然のこと。

 時間稼ぎのために最前線へ駆り出された一部の玉兎や、モニター越しにライオネルを見ていた者でさえ、あれ以来ずっと地球に怯えて過ごしている。

 

 武御雷は健闘を続けたらしいが、月の裏側に生えた長い石塔の先端部分にしがみついていたところを発見、救助された。

 天照は月の都の内部で気を失っていたところを保護された。

 そして綿月の……妹の方は、まだエイリンからの治療を受け続けている。

 

 けが人は、とても多い。

 心に傷を負った者は、もっと多い。

 月面の荒れ具合いは、言うまでもないだろう。

 

 お飾りの姫たる私にできるのは、時折ふらりとやってくる思いつめたような彼らの言葉を聞き、一言二言話し、頷いてやることだけ。

 

「……エイリンは頑張ってる。私も、自分に出来ることをやらないと」

 

 ライオネルが去り際に言い渡したエイリンへの罰は、月の守護。

 期限は千年。その間に月を立て直し、あらゆる物事を改めなくてはならない。

 

 間に合わせなければ、もっと酷いことになってしまう。

 あり得るかもしれない未来への恐怖が焦りとなって、時々私は身を震わせてしまうけれど……今は、今しかできないことがある。

 

 立ち上がるためにはまず、月の民の心を立てなおさなければならないのだ。

 

「うんっ」

 

 そう思えば、人の心を癒やすという私の役目にも、ちょっとだけ誇りが生まれるような気がした。

 頑張ろう。私も、エイリンのために少しでも力を尽くそう。

 

 ……だけど。

 

 

 

「姫様……私」

「ええ、どうしたの? 探女。何か、悩んでいるのかしら」

 

 だけど……。

 

「……わからないんです」

「え?」

「私……わからないんです」

「……何が……?」

 

 ……時々、押しつぶされそうになってしまう。

 

「私は……本当に天探女(あまのさぐめ)というのですか? 私は、本当にこの都の住民だったのですか……?」

「……もちろんよ、探女」

「わからないんです……知らないんです……違うんです! 何も、覚えてなくて……記憶も心も、何もかもバラバラで……!」

 

 綺麗な銀髪を掻き乱し、探女は嗚咽混じりに心の澱を吐き出してゆく。

 乱れた心。荒んだ心。それらは大抵の場合、吐き出すことで楽になるものなのに。

 

「誰か教えて……! 私は、私は何なの……!?」

 

 吐き出しても吐き出しても、尽きない苦しみを吐露し続ける人がいる。

 そんな人を前にすると……震えるその身を抱き寄せ、撫でることしかできない私は……どうしても、押しつぶされそうになってしまうのだ。

 

 

 

 嵐は去った。

 けれどその傷跡は、何年も何年も、月に残り続けるのだろう。

 

 


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