東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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 視界を白く染め上げる銀。

 “月の槍”による濃密な攻勢魔力が“月の盾”と衝突することによって生まれる、魔力の暴風。

 

 これは新月の書でも初歩的な魔法であり、射程がさほど長くない上に威力自体もさほど高いものではない。

 しかし私が“月の盾”で防いだこの初歩魔法は、それまで私が防いできたどんな魔法よりも苛烈で、鋭利であるように感じた。

 

「……落ち着け。まずは落ち着いてくれ」

 

 やろうと思えば、彼は永遠に“月の槍”を照射し続けることも可能だろう。

 だが彼はそうはせず、気が向いたように術を消すと、ゆっくりと杖を降ろした。

 

 視界を苛む銀色が失せると、周りの景色がはっきりと見えてくる。

 

 盾で守られた私の周囲は無事だったが、“月の槍”の余波を受けた辺り一面は尽くが抉れていた。

 白い砂地は一メートル近くの深さまでどこかへと消し飛び、中には粉のような白い土煙が立ち込めている。

 

 僅かに残った風が、宙に舞う白煙を晴らしてゆく。

 

 そこで私はようやく、立ちはだかった相手をはっきりと認識して、背に冷や汗を流した。

 

 

 

 偉大なる魔法使いライオネル・ブラックモア。

 魔界の支配者の一人であり、私の知る限り最も敵に回してはいけない存在だ。

 

「私は落ち着いているとも。ああ、私は今、とても落ち着いている」

 

 遺骸のような体に灰色の襤褸を纏った、この世の不吉を寄せ集めたかのような恐ろしい風貌。

 長い付き合いですっかり慣れ親しんだと思っていたが……立場を変えて向き合うだけで、こうも抱く印象が変わってしまうとは……。

 

「だから説明してもらおうか、サリエル。なぜ、貴女が私に向き合い、私の邪魔をしているのかを」

 

 ああ、参ったな……これは、まずい。

 想像以上に、これはまずい。

 

 生命の杖を握る手が小刻みに震えている。

 手が恐怖に震えるなど、一体何年ぶりだろうか……。

 

「サリエル……様……?」

「……」

 

 不意に背後から聞こえた弱々しい声に、胸が締め付けられる。

 

「サリエル様……なのですか……?」

 

 知性と慈愛を感じさせる細い声。

 たとえ何年経っていようとも、私はその心地よい響きを忘れたことなど、ただの一度もなかった。

 

 ああ、いるのだ。まだ生きているのだ。

 メタトロンの仰っていた通りだったのだ。

 

「……間に合って良かった、ヤゴコロ」

「ぁあ、そんな……! サリエル様っ……!」

 

 顔は見れない。

 今はまだ、見るわけにはいかない。だが、彼女の声が聞こえるのだ。私の名を呼ぶ、その声が。

 それだけで私は、この手の震えを止めることもできた。

 

「ヤゴコロ、ヤゴコロ……ヤゴコロエイリン。なるほどそうか。ヤゴコロエイリンか。ほう、ほう」

 

 私が名前を出したことで気付いたのか、向かい合うライオネルは杖で肩を叩きながら、愉快そうに顎を打ち鳴らす。

 声色はいつも通りであり、表情を読むことはできない。だが今のライオネルからは、危険な気配しか感じられなかった。

 

 ヤゴコロとの再会に喜ぶのも束の間。

 彼女と再び顔を合わせることよりも遥かに困難な事態は、未だ目の前で杖を握っているのだ。

 

「……ライオネル。私は月と地球の異常を聞きつけてここへやってきた。まず、それをわかってくれないか」

「奇遇だ、私もだよ。エレンに課した試験の最中に、月にとんでもない異常が現れてね。すぐさまここへと駆けつけた。月の重要性はもちろん、貴女ならばわかるね?」

「……ああ」

 

 傍目からでもわかる。表情が読めなくともわかる。

 ライオネルは今、とんでもなく……過去に類を見ないほどに、怒っていた。

 

 ……そして、ライオネルに殺されかけていたヤゴコロ。

 魔界で聞かされた話で大体の想像はついていたが、状況はまるきり最悪の方向に動いている。

 

「サリエル。貴女の後ろで座り込んでいるその、ヤゴコロ。彼女はこの月を動かし、月の魔力を抑えこんだ首謀者だ。サリエル、かつて月を司り、月魔法を修めた貴女ならば……月に手を出した罪の重さは、理解できるね?」

 

 ああ、やはりそうか。

 ヤゴコロ、君はなんてことをしてしまったのだ……いや、今更言っても遅い。

 しかし、だが……そう思わずにはいられない。

 

 ヤゴコロよ、月を弄るなどあってはならないことだ。

 特にこの者、ライオネルにとっては禁忌と言っても良いくらいに。

 

 月は魔法使いにとって最も重要な天体だ。

 その月が動き、その上魔力までもが大きく変化したともなれば、魔法をこよなく愛し、時折私でさえ図りかねるほどの執着を見せるライオネルが黙っているはずもない。

 賢い彼女のことだ。良かれと思ってやったのだろう。だがそれはこの地球近辺において、最も危険な行為に他ならないのだ。

 

 ……私にも、ヤゴコロの犯した過ちの大きさは理解できる。

 しかしそれでも、私はヤゴコロを守りたい。

 

「……もちろんだ、ライオネル。だが――」

「ならば」

 

 弁解を重ねようとした瞬間、ライオネルの全身から黒い瘴気が爆発的に噴き出した。

 

「どけ。邪魔だ」

「……!」

 

 黒煙のような魔力の瘴気が吹き荒れ、私と、背後に転がるヤゴコロと、おそらくはその後ろで地を這う女さえをも包み込んだ。

 

 強烈な魔力の奔流には、しかし現実の風を伴うだけの力はない。

 だが、この黒い瘴気は呪いの出来損ないとも呼べるもの。

 ライオネルがあと数画ほどの意味を付け足してその身から放つだけで、瘴気は速やかに私やヤゴコロの命を奪ってしまうだろう。

 ある程度魔法に長けた私であっても、これに抗う術はない。

 二十を超えるほどの難解な呪いの嵐に対し、一体どうやって身を守ればいいというのか。

 

 魂の表層を撫でるように食い込んではすぐに離れてゆく、呪いの片鱗。

 自らの命を直接握りこまれた不快感と強い戦慄に、私の本能が“すぐに逃げろ”と警告を発し続けている。

 

 だが背後からは、必死に恐怖を抑えようとする僅かな息遣いが聞こえてくる。

 その消え入りそうな息遣いのためにも、私はここを動く訳にはいかない。

 

「待て。聞いてくれ。……魔界に何人も神族が同時にやってきた。月の異常を知り、また地球の異常を見て、その真偽を知るためにな。それを聞いて、私は月へと馳せ参じたのだ」

「ほう。あくまでそこをどかないのか。良いだろうサリエル、続けなさい。話を聞こうじゃないか」

 

 良かった。どうにか踏みとどまってくれた。

 

 そうぬか喜びをした直後、大きな音を立てて、ライオネルの背後から巨大な天秤がせり上がってきた。

 

「……ライ、オネル。それは……」

 

 地面と同じ材質の、白い石造りの天秤。

 両端についた皿のうち、片一方には大きな石像が乗っているために、おそらくは一番下まで傾いている。

 

 そしてその石像は……月の姿を模しているかのように見えた。

 

「私の目的は、地上の者にとっての月の平穏だ。魔法を軽んじ、引力を軽んじた今回の大異変……一人の魔法使いとして到底見過ごせるものではない。私の背後にある大きく傾いた天秤は、その気持ちの現れだと思え」

 

 後ろ手に親指で示したライオネルが、カチカチと二度顎を鳴らす。

 

「さて、サリエル。私は月の平穏のためにヤゴコロを使わなければならない。故に、そこのヤゴコロを沙汰なく救うことは、今のところあの月の重さと同義であると言っても良いだろう」

 

 嫌な汗が噴き出してくる。

 さすがにライオネルには、私がここへきた目的がばれていたか。

 

 ……いや、わかっていて当然だ。

 私はヤゴコロを想い続けている。

 長い付き合いだ。その気持を吐露したことも一度や二度ではない。

 

 そして私は彼女を想っているからこそ、月に高天原が移ったことを聞いた瞬間に、ここまで全速力でやってきたのだ。

 

「ライオネル……それはつまり、お前が納得するだけの理由を反対側の皿に用意すれば良いということか?」

「そうなるね」

 

 ……右側の皿に乗った大きな真球状の月の岩は、巨大だ。

 一体どれほどのものを反対側に積めば、ライオネルの意志が傾くというのだろうか。

 いや、ともすればライオネルはもとより決定を曲げるつもりがないのか。

 

「ちなみに、サリエル。貴女の後ろのそのヤゴコロに対する私の憐憫の気持ちは、このくらいだ。本来この月の話に私情を挟むなどあってはならないのだが、サリエルは元々は月の番人だ。貴女がそう言うのであれば、多少は感情を考慮して取り計らっても良いだろう」

 

 ライオネルはそう言うと、地面に杖を翳して一個の岩を持ち上げた。

 それは細長い岩の破片。ライオネルの“月の槍”と私の“月の盾”の衝突によって砕けた地面の欠片なのだろう。

 

 彼はそれを魔法によって秤へと移動させると……。

 

 それを、大きな月と同じ皿の上へと加えた。

 

「さあ、サリエルよ。代案でも感情論でも構わない。ヤゴコロを救うに足る材料を、あの皿に並べなさい」

 

 


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