外壁を取り払われた建物への進入は実に簡単であった。
壁面は強固な構造で、外部からの侵入者を防ぐ機能を含ませた造りであったが、“監査”による破壊を防ぐほどではなかったらしい。ほぼ全ての壁が砕け散り、内部の構造をこちらへ露呈してしまっている。
「マトリョーシカみたいだな」
そして中に見えたのは、第二の建造物。
なんとこの施設、家の中に更にもう一つの家を造っていたのだ。
しかし中にあったものは金属的部品を全面に押し出した機能性重視の施設らしく、見た目に雅さは存在しない。外側の建物は、あくまでも内部の建造物を覆い隠すためのものだったのだろう。
外殻敷地内の石畳を進み、第二の建造物の正面まで歩み寄る。
「ここも歓迎してくれるのか」
ある程度まで私が近づけば、建物の外壁から飛び出した突起や噴出口からエネルギー弾やレーザーが放たれる。
しかし“孤独の水面”を発動中の私には通用しないし、攻撃はそっくりそのまま迎撃兵器を破壊してゆく。
数秒もすれば視界を煩わせる猛攻は止み、目の前の正面玄関口には強固な結界が再展開された。
「“逃れ得ぬ解呪”、“精密な円形の劈開”、“打ち据える風”」
それを3つの魔法で打ち破る。
厚さ40センチの扉が丸く繰り抜かれ、向こう側へと倒れ込んだ。
結界の破壊、扉の破壊、とどめに扉を蹴倒すまで、全てが魔法。連続発動だがそれぞれ大したことのない魔法なので、苦にはならない。
向こう側からの手厚い歓迎も無くなったようなので、これでようやくゆっくりと中に入れるというわけだ。
月を動かした犯人の面をおがんでやろう。
建物は広い。
とはいえ、野球場ほどもないだろう。私は野球をやったことがないので曖昧な所だが、そこまで広い施設ではない。
内部は暗く、明かりがない。
基本的に一本道であり、周囲に調度品と呼べるようなものも存在しない。
足音を立てながら無防備に進んではいるが、近くには人や神族がいる気配もなかった。
ほとんどの神族は、先ほどの“小法界”に囚われてしまったのだろうか。
ここは、まるでSFに出てくる要塞のようだ。
月に築かれた要塞。厳重なセキュリティが守る、悪の組織が守る心臓部。
「“精密な円形の劈開”」
私はついに、その最奥までたどり着いた。
そこにあったのは、和室だった。
コードとパイプが犇めく機械だらけの部屋の中央にある、四畳半の小さな和室だ。
暗い室内において、青々とした畳は不自然にも淡い輝きを放っており、中央の半畳には一人の女が座り込んでいる。
畳のグリーンに照らされたその表情は、どこか感情が抜け落ちているような……とてもではないが、健常とは呼べない顔だった。
「“値踏み”」
部屋に入っても、女は反応を示さない。
だが私にとっては暴れようが静かだろうがどちらでもいいことで、特に構うこと無く魔法を発動させる。
目を通じて、見た者の魂の性質を覗き込む魔法、“値踏み”。
“血眼”の超簡易版魔法ではあるが、近距離で特定の人物の特定の波長を見るだけならば、これで充分だ。
「……なるほど、貴女が月を動かした張本人だな」
観た結果、彼女がこの月の騒動を引き起こした実行犯であることがわかった。
月を司る力。サリエルに近いその能力を使えば、豊富な月の魔力の後押しによって月の軌道を変えることも充分に可能だろう。
そう、あくまで理論上では。
「誰にやられた」
ここで周りの機械と、女の状態を見過ごせるほど私も馬鹿ではない。
彼女は膨大な魔力の連続行使によって衰弱し、今にも死にそうではないか。
そして注意深く見てわかったことであるが、この女はどうやっても死ぬことはない。
彼女の肝臓に掛けられた“不蝕不滅”に近い霊魂の呪いが、仮に彼女が死んだとしてもすぐに蘇らせてしまうからである。
彼女は“月を司る力”を行使するためだけにここに居り、周囲の機材によって強制的に魔力を使われ、疲弊し続けている。
そして衰弱と肉体的死と蘇生を繰り返しているのだ。
今まで見た月の動きからして……彼女の持つ能力がどれほど優秀であったとしても、百回は死んでいてもおかしくはない。
能力の質によっては、千回以上の死を経験していると考えても何ら不思議はなかった。
「そうか。月を司る者は二人いたのだったな」
“血眼”で見た月を司る者は二人。
こいつと、あともう一人だ。
彼女は能力を行使するだけの奴隷で、もう一人は単純に月の都から保護されているのだろう。
いや、施設が二つあるとしても不思議ではないが……ここまで非人道的な施設をわざわざ二つ作る意味もない。一つあれば充分に稼働するのだから、もう一人は存命と考えてもいいだろう。
哀れな。
この神族は能力を強制的に使われ、何度も死に、それでも尚能力のために生き続けている。
このような施設に、自らの意志で飛び込んだとは到底考えられない。
ただちに解呪し、施設を破壊し、彼女を自由にしてやろう。
「……あなたは、侵入者の方ですね」
私が高等な解呪を放とうとするその寸前、畳の上の女神が小さく呟いた。
驚いた。ただの能力人形になったと思っていたが、意識があったのか。
「いかにも。私は偉大なる魔法使いライオネル・ブラックモア」
「……私は嫦娥。月の咎人です」
「ほう? 咎人とは」
彼女の名は、
そして自らを咎人と名乗っている。
まさか、ここで能力を行使しているのは自らの意志だとでも言うのだろうか。
そうであれば、私は彼女が自身の存在の消滅を懇願するまで涙の書を捲らねばならなくなってしまう。
「私は大きな罪を犯したために、この場所に幽閉されているのです」
「大きな罪とは?」
答えによっては、さて。何を使おうか。
「私は、裏切ったのです。とても大切だったはずの人を」
「……ほう」
「どれだけの時を費やしたとしても、それはとても許されることではありません。この生命が永遠のものだとしても、絶対に……」
ふむ。自らの今の境遇を受け入れてはいるが、ここで幽閉されているのは自らの意志ではない、ということか?
「貴女は自らの意志でそこにいるのだろうか」
「いいえ。ですが、ここを動くつもりはありません」
「貴女は自らの意志で、先程までの大魔法を使っていたのか」
「いいえ。ですが、それで私が傷つこうとも構いません」
私の質問に淡々と続ける嫦娥は、全てを受け入れているかのようだった。
何度も死ぬ苦しみも、ここに居続けることの苦しみさえも、全て。
「それが……地上に夫を遺して生にしがみついた、私への罰なのでしょうから」
自嘲する嫦娥。
なるほどそうか。そういうことだったか。なるほど。
「知らないな」
「……?」
だから何だというのか。
彼女が罪を犯したからなんだというのか。
今の境遇を受け入れる? それが罰?
「私はね。どうだっていいんだよ。そのようなことは」
涙の書を展開。
上級魔法“裁断”……いいや。“大いなる精密な裁断”を発動する。
私の右手に刃渡り十メートルほどの青い炎剣が握られた。
「私はライオネル。魔法使いとして、地上の者として。月の不当な支配を止めるためにやってきた」
「……無駄よ。この部屋の設備と、私は……」
「その程度の不死で死なないとでも思っているのか」
炎剣を軽く振り下ろし、嫦娥の周りを取り囲む機材をなぞる。
すると機材は鮮やかな断面を見せながら床に落ち、瞬く間にその機能を喪失していった。
多少の結界と高分子らしき防御機構を備えていたようだが、血と涙の書の魔法には到底通用するものではない。
「無関係な者かと思っていたが、月を動かすことを心の中で享受していたというのであれば話は別だ。貴女は充分に、私が手を下す価値がある」
「……不死の私を、殺すと?」
「殺すのではない。バラバラにするのだ」
炎剣を嫦娥の首元へと引き寄せ、私は眼窩の奥を輝かせた。
「この“裁断”に斬られた者は、その魂を粉々に砕かれ、遠方へと弾かれた上で……性質を変容させられる。つまり自らの存在を切り分けられ、別人へと生まれ変わるのだ」
「……それが本当だとしたら、私には勿体無い魔法だわ」
“私は私として、苦しまなければならないのに”。
そう言って、嫦娥は力なく嘲笑った。
行く末全てに希望を失った彼女の表情からは、炎剣に対する恐怖は微塵も見られない。
「だが、“大いなる精密な裁断”はそれだけではない」
「……?」
「“大いなる精密な裁断”は貴女の魂を正確に切り分け、おそらくは鮮明な記憶を保持したまま、綺麗に分割する事となるだろう」
そう、これはただの“裁断”ではない。
斬った者の魂の性質を色濃く残したまま切り裂くことのできる、より恐ろしい剣なのだ。
斬られた者は斬られた過去を覚えているし、過去の自分の事だって知っている。
その上で、全く違う存在へと作り変えるのだ。これはある意味で、その者を強制的に複製する行為にも近い。
「貴女は罪の意識をほとんど残したまま、別の存在として生きてもらう」
「そ……そんな。私は……」
「地上を貶めた罪は、地上で払うのが良いだろう」
心の中で享受した時点で、嫦娥もまた月の共犯者だ。
私はそれを許すつもりはない。他者の手によって下される罰がより重かろうとも、それは私が裁かない理由にはならないのだ。
だから、月の女神嫦娥よ。
貴女の償いはここで終わるのだ。
貴女が何の躊躇いもなく、地上の魔力を踏み躙ったように。
私だって躊躇することなく、貴女の贖罪を蹴散らしてやるのだ。
「お願い、やめ――」
「還れ。あるべき場所に」
炎剣を真下から真上に振り上げ、嫦娥を股下から頭頂部まで両断する。
同時に彼女の霊魂が引き裂かれ、魂の半分は粉々になって宙に噴き出していった。
「ぁ……」
彼女の能力の殆どと、記憶と、性格と、性質。外見以外のほとんどの要素は“裁断”された。
ほぼ嫦娥の自我に近い霊魂の残滓は、地球に向けて弾かれていったらしい。
この部屋に残ったのは、もはやただ人形のように“生きている”だけの、ただの蛻の殻である。
嫦娥のほとんどを乗せた霊魂は地球で何かしらのものへと宿り、おそらくは短い一生を過ごすことになるのだろう。
それでもまだ。
それでも尚、長く生き、生の苦しみを味わい、贖罪したいと言うのであれば。
嫦娥は魔法なり術なりを使い、延命する他に道はない。
「せいぜい死にものぐるいで魔法を追い求めるがいいさ」
地上から魔法を遠ざけた罪は、同じ地球で償うべきだ。