「言葉の通りだ。周期的な動きを見せ続けていた月が、つい先程だが僅かに動いた。更に月の向きも何度か変わっている」
クベーラの言葉は簡潔だったが、それが全てを言い表していた。
月が動いたというのは比喩でも何でもなく、実際に動いたという事なのである。
もちろん、天体の動きはそう簡単に変わるものではない。
「月に巨大な隕石などの飛来物が衝突した様子はありません。間違いなく、何者かによって月の軌道が操られたと見て良いでしょう」
「変な予兆もあったしね」
コンガラの補足にヘカーティアが妙な相槌を打ったが、サリエルの頭は既に突飛な報告ばかりで発熱しかけていた。
冷静な彼女は頭を振って、一旦冷静に整理し直す。
「……月が何者かによって動いたと、それはわかった。では、それは一体誰が、何のために?」
まずは順序良く訊かねばならないと思った問い掛けであった。
しかし意外なことに、その返答はすぐに返ってこない。
四人とも何か思う所があるようで、喉元まで出かかった言葉を吐き出しかねているようだった。
沈黙の後に最初に口を開いたのは、エノクである。
「……結論から言うと、我々は皆“はっきりとはわかっていない”のではないでしょうか」
「はっきりとはわかっていない? どういうことだ」
「それにはまず、今現在の月について説明せねばなりません」
エノクは一つ咳払いし、続ける。
「現在の月には、月面に神族達が住み着いています。彼の地に天界ごと都を移してから、既に何百万年もの月日が流れてますね」
「ああ、それは魔界でも聞き及んでいる」
「そういえば、そうね。ライオネルがおみやげ話に言ってたかもしれないわ」
ライオネル・ブラックモアが見た月の都は、ちょうど天界からの遷都が終わった直後のものである。
それがおよそ五百万年前であり、彼が宇宙の遠方へ旅立つ日の出来事であった。
宇宙探索の土産話の殆どはサリエルと神綺にとって難解なものであったが、唯一月に移住した神々の話だけは薄っすらと記憶に残っている。
「彼らは今でも穢れ無き月に住まい、高度な機械文明を築いています。なので、月が動いたということは……」
「ふむ、その神族たちも無縁ではない……と」
「そういうことです」
動いた月と、月の神族達。
当然、全く関係がないとは言えないだろう。
「けど、月とほぼ同時に地球にも大きな変化が現れてねぇ。それが私達の判断を鈍らせてるっていうか……」
「……地球にも何か変化が?」
ヘカーティアは苦笑して頷くと、自身の周囲に浮かぶ三つの球体の内のひとつを手元に引き寄せた。
瑠璃色をしたその球体には、白い雲や碧の陸地が存在した。紛れも無く、宇宙から眺め見た地球の姿である。
「月が動いた時、地球の全ての空を赤い雲が覆ったの。……いえ、あれは雲というより……」
「むしろ“空が赤く染まった”と言うべきでしょうかね」
「そう、コンガラさんそれ。それが近いわね。こっちも言葉通り、地球の空全てが赤く染まったの。地上にいた人間たちも気付いていたし、間違いないわ」
神綺はこれといった興味もなく魔界の天を仰ぎながら“空なんていつも赤いと思うけど……”などと呟いているが、サリエルにとってはそう楽観できる話ではない。
動いた月と、赤く染まった地球。
どちらの規模も只事ではないからだ。
「月の動きが変わっただけであれば、我々は月の都の仕業だと断定できました。いえ、今でもその可能性は高いのですが……地球で発生した大異変によって、我々地獄の見解も乱れているのです」
「うむ、その通りだ。月の者が自ら軌跡を変えたのか、それとも地上にいる何者かが強引に変えてみせたのか……調べようにも、あの神々と疎遠になって以来、会うこともないからなぁ……」
商人であるクベーラは他の神族とも幅広い交友関係を持つが、今回は彼のコネクションも機能しないらしい。
さすがの商神も、月まではそう気軽に足を伸ばせないようだ。
「私は地球と月と異界にそれぞれ身体を持ってるんだけど……この異変が起こってから、月に行けなくて困っているのよ。私としては、月を動かしたのは間違いなく都の連中だと目星は付けてるんだけど、あいつらに私の移動を封じるなんて真似はできないしねー……」
ヘカーティアの傍にある月は、どこか色彩が足りていないようにも見える。
自らの司る力が封じられるというのは、神族や魔族にとっては大きな痛手だ。一部とはいえ、自分の分身とも呼べるものが消失したとあっては、落ち着いてもいられないのだろう。
実際、ヘカーティアの顔色は見るからに青ざめていた。
「月を司る神々は他にもいます。今回の事件で、違和感を訴えた神々は各地に存在するでしょう。それはここにいるヘカーティアさんに限らず、サリエルさん、貴女もそうではないのでしょうか」
「ああ……そうだな。違和感といえば、確かに感じたと思う。なにか、視線のようなものを……」
「そう、それ! 私も感じたのよねー、あの粘つくような……見透かすようなやつ!」
ヘカーティアもサリエルも月を司る神族だ。
それがふたりとも同じ感覚を覚えたということは、やはり月に何かがあったとみるべきだろう。
――月を守護する役目から外されたというのに、まさかこのような目に遭うとは。
サリエルは眉間を押さえて俯いた。
彼女はもう既に、天界から捨てられた身だ。魔界には長い恩もあるし、たとえ天界から再び歓迎されたとしても、今更ここを離れることはないだろう。
故に彼女は、外界との関わりの一切を手放したと思っていたのであるが……。
「……もしも月に危機が迫っているというならば、捨て置くわけにはいかんな」
月はサリエルの司る天体だ。
天体を司る神族は多いし、月にまつわる能力を持った者はそれこそ魔族を含めれば数えきれないほどいるだろう。
しかし、その能力にも深度がある。
月の光だけを司る弱い者もいれば、彼女やヘカーティアのように月そのものと密接に連帯する者も存在するのだ。
万が一。ありえないことだが、万が一にも月が破壊されたとすれば……。
その時は、サリエルも無事では済まされないだろう。
「……あ」
そこまで想像して、サリエルの脳裏に一人の骸骨が浮かんだ。
ライオネル・ブラックモア。
自称“偉大なる魔法使い”だが、実際のところは神族と比べることもできないほど強力な力を有する、規格外の存在だ。
この魔界においては神綺が唯一神であるが、サリエルの認識ではライオネルは神綺と同じか、それ以上の立場にある。
実際、神綺はライオネルに対しては非常に丁寧に接しているし、神綺が出来ることのほとんどはライオネルにも再現が可能だ。
しかしライオネルは自称するように、“魔法使い”である。
彼はとにかく魔法のことになると饒舌で、何年間も語り続けてもおかしくはないほどの執着を見せる。
――もしも月に異常があれば、あの魔法好きのライオネルのことだ。黙っているはずがない。
「すまないが、お前たちはライオネルを見ていないか?」
「ライオネル? あー、どっかで聞いたことある……?」
聞き返したのはヘカーティア一人だけ。
他の三人は首を横に振った。
「実は、この魔界に来たのもそれが理由だ。俺たちはライオネルの行方を探しているのだ」
「仮に地球から月を動かすことができる者がいるとすれば、それは魔界にいるのではないかと思いましてね」
クベーラとコンガラが月の異常を承けて魔界へ来たのは、つまりそういうことだった。
月を動かす。地球が赤く染まる。そんな所業、そうそう簡単にできるものではない。
そして彼らはその人物に強い心当たりがあったので、真っ先に魔界へと飛び込んだのである。
「ライオネルならば、今は外界にいる。……そうか、ライオネルか。確かに言われてみれば……」
「うむ、どうだ。奴の実力は俺もそこそこ、地獄の連中から聞いてはいるのだが……奴には月を動かしたり、地球を赤く染めたりすることはできるのか」
「できる」
「できるわね」
サリエルと神綺は合間を空けずに答えた。
考えるまでもない。その程度のことならば易々と実現してしまうだろうことは疑いようもなかった。
実際に月を見たこともない神綺までもが断言するのだから、まず間違いはないのだろう。
「ほ、ほう……では、あやつが月を動かす理由は……」
「いや、ライオネルはそのようなことは絶対にしないはずだ。これは身内だからというわけではなく、そう言い切れる」
サリエルにとってライオネルとは、やはり魔法使いであった。
一時期は膨大な数の天体の動きを追う研究もしていたし、魔力の流れをつぶさに観察し続けていたこともあった。天体ありきの魔法だって多いはずである。
そんなライオネルが滅多な事情で月を動かそうなどとは、全く考えられないことだ。
月を動かさなければ地球が滅びる、くらいの理由がなければ、あの魔法使いはきっと動かないであろう。長年の付き合いからサリエルはそう言い切れた。
「では、赤い地球は一体……」
「まったくもう、あの赤い空のせいで何人の人間が怯えたと思ってるのよねぇ……」
「赤い空、赤い空……」
ライオネルが何かをした。それは間違いない。
しかし、ライオネルは一体何をしたというのだろうか。サリエルには肝心なそこがわからなかった。
空を赤くする魔法など、彼は聞いたことがない。
聞いたとしても、それは一体何年前のことになるのかも不明だ。
サリエルがライオネルから教わった魔法は多い。
しかしいくら記憶を掘り起こしてみても、地球の空全てが赤く染まるような魔法は思い出せなかった。
「……!」
そうこう悩んでいるうちに、話し合う六人のすぐ近くで、異音が鳴り響いた。
「おお?」
「これは……扉ですね」
六人から少し離れた場所に現れたのは、宙に浮かぶ白い渦。
「どうやら、また来客のようだ……」
「ほう、まだ来るか。続報があれば良いのだが」
「賑やかねー」
真っ白な顕界からの扉を潜り、小さな足が最初に飛び出す。
それは恐る恐るといった風に差し出されたものであり、湯船の湯加減を確かめるような臆病さが感じられた。
「あら? 結構大丈夫みたい……? わわっ」
しばらくすると、扉から一人の子供が飛び出してくる。
だが思った以上に扉の位置が高かったのか、子供は扉を潜り抜けた後すぐに落っこちて、地面に尻をぶつけていた。
「いたた……うう、しかもピリピリする。やっぱり魔界は魔力だらけだわ……」
サリエルの眼に映った子供は、まだまだ幼い。
身振りも声もどこか幼稚だし、赤い発色の褪せた服は、神族達が集まるこの場において粗末にさえ見えた。
あの子供が神族か魔族かの判断はつかないが、しかし扉が閉じてしまったところを見るに、どうやら単身でやってきたらしい。
つまり、あの子供は一人で魔界への扉を開けてやってきたということだ。
背丈を見て油断することは出来ないだろう。サリエルは生命の杖を握り直し、ゆっくりと少女の元へ近づいた。
「魔界へようこそ。君の名は?」
「いたた……うん? 私はエレンよ。エレン・ふわふわ頭・オーレウス。ローマに住んでる魔法使い」
「オーレウス……ほう、オーレウスか。なるほど」
「へー。あの子もオーレウスなの……ふふ、なんだか可愛い子ね」
魔界の地にやってきた新たな来客。
それはふわふわな金髪を揺らし、無尽蔵な静電気によってパチパチと音を鳴らす魔法少女、エレンであった。
サリエルと神綺はライオネルからよく“オーレウス”を話に聞いていたのですぐにわかった。
つい最近では同じオーレウスの者であるマーカスが魔界を訪ねたこともあったので、記憶にも新しい。
「ほう、どうしたどうした。うん? なんだ、人間じゃないか」
「人間が魔界へ? なんと……人間の魔法使いということですか」
「……どうやら彼女は、魔界のお客人のようですね」
神綺とサリエルがエレンを歓迎している様子を見て興味が惹かれたのか、他の面々もそちらに近付き、エレンを輪の中に加える。
中にはヘカーティアのように見るからに女神然とした姿もあるのだが、エレンはそのような威容にも“あら綺麗な神様ね”とやけにあっさりとしており、あまり驚いてはいないようだった。
それどころか、ヘカーティアへの関心がすぐに無くなってしまったのか、彼女の視線はじっとコンガラへと向けられている。
「……ところで、エレンといったか。君はなぜ魔界に?」
「……あ! そうだったわ! また忘れちゃうところだった!」
「うっ」
サリエルが肩を叩いて、エレンが跳びはねる。
その拍子にふわり舞った金髪がサリエルを撫ぜ、彼女の頬に強い静電気が迸った。
「ねえ、あなた達って魔界の人なんでしょう? だったら誰でも良いから、今すぐにライオネルを止めてくれないかしら」
「……ライオネルを、止める?」
頬を打った静電気も忘れ、サリエルが呆然と聞き返す。
「そう! もうカンカンに怒ってて酷かったんだから! ただでさえ怖いのに、もうすっごく怖かったのよ!」
ライオネル、怒り。
二つのイメージが結びつかないのは、神綺もサリエルも同じだった。
頭のなかの処理が追いつかず、咄嗟の言葉が出てこない。
「月に元凶がいるとか、それを殺すとか、物騒なことを口走ったかと思ったら、空を真っ赤に染めて大きな目玉を作ったり……」
空。赤。そして目玉。
このキーワードを拾い、サリエルは辛うじてひとつの魔法が思い当たった。
かつてライオネルから聞かされたことのある魔法の一つ。
星そのものを“眼”として遠方を見透かし、魔法的に隔絶する効果さえもあるという大魔法。
血の書偵察及び照準型大魔法“血眼”。
それは確か、“地球を守るときに使うかもしれない”とライオネルが語っていた、当時は空想上のものであったはず。
「今のままライオネルを放っておいちゃったら……多分、月がすっごく大変なことになるわ。月に何があるのかは知らないけど、私、嫌な予感がするの」
サリエルの中で答えが出た。
動く月。
怒るライオネル。
“血眼”。
そして……動く月の元凶。
「……まあ、あいつが怒るのも無理はないだろうな」
答えが綺麗に繋がると、サリエルは思わず笑みを零してしまった。
ライオネルならばそうやるだろう。出来上がった推測は、サリエルを納得させるに十分な説得力を持っていたから。
『……見ているんだろう。月の都の神族達よ』
大勢の神々が見守る大モニターの中で、痩せぎすの骸が地面から通信機を拾い上げ、それに向かって語りかけている。
先程までそこにいた探女と菊理は、もう居ない。
2人ともは姿が縮みながらも辛うじて身体を残してはいたが、起き上がる気配はなかった。
『私はライオネル・ブラックモア。偉大なる魔法使い』
つい数秒前まで戦っていた二人が、一本の炎剣に斬られ、斃れた。
死などという生ぬるいものではない。
魂そのものを切り裂き形を崩すあの一撃は、紛れも無く死以上の力を持っている。
たとえ探女や菊理のように姿を残していようとも、それはもはやかつての彼女たちではない。
2人は、間違いなくあそこで“消えた”のである。
『記念だ。覚えておくと良いだろう』
……あの禍々しい骸によって。
モニターを見上げていた神々は皆一様に黙り、呆然と口を開いている。
数分前までは戦意も高揚していたのだが、あの2人の惨敗を見て考え方も変わったのだろう。
「……観測班、あの術の解析はどうなってる?」
「す、すみません八意様! 計器に不具合があるのか、あの者の周囲だけ測定することができず……!」
「そう、ならば仕方ありません」
そして、絶望感を抱いているのは私も同じ。
探女と菊理のペアを相手にして圧倒する力。
神族を一撃で屠る不吉な剣。
あれを相手取るのは、苦労するというどころではない。
あれを討ち取るために必要な犠牲が、私の頭脳をもってしても全く算出できないのだ。
『貴様らは月を動かした。あまりにも身勝手なその行いに、私が地上の全ての魔法使いと生物を代表して、貴様らを裁く』
モニター越しに、髑髏が私達に指を差す。
それはプライドの高い月の民を刺激するには充分な言葉であったにも関わらず、ここでは怒鳴り上げるような威勢のいい声も聞こえてこない。
皆、薄々感じているのだ。
アレと闘う事の分の悪さを。言い知れぬ悪寒を。
『……許されたいか?』
骸は見透かしたように私たちに問うた。
何人かの神族が、その言葉に肩を震わせていた。
『安心しろ。私は貴様らを許すつもりはない』
「……え」
誰かの唖然とする声が漏れる。
『貴様らには今日という日を永劫に記憶から消せぬよう、私が“魔法使いの怒り”というものをわかりやすく教えてやる』
モニター越しに向けられた指先が妖しげな光を湛え、強く輝く。
『怯えろ。恐れろ。魔法に跪け。貴様らに語る言葉はもはや、それだけだ……』
尚も強く輝き続ける、モニター越しの骸の指先。
いや、あれは……まさか!
「皆、モニターから離れて! 早く!」
『“贈呈”』
骸がその一言を告げた瞬間、巨大モニターから何十本の大きな鉄杭が射出され、先程まで私達が立っていた場所を次々に射抜いていった。
大きな破砕音と立ち上る噴煙。甲高く上がる悲鳴。
何本かは自力で回避し、当たりそうになったものは力自慢の神々がどうにかいなし、奇跡的なことにこちらの損害は免れた。
だがその反面、与えられた恐怖はすさまじい。
『避けたか。懐かしいな。夏場はよく貴様らのような虫と格闘したものだよ』
「まさか、見えているの……!? カメラなんてつけていないのに……!?」
『映像越しでも相手が見ているのであれば、簡単な魔法や呪いを通すのに何ら不都合は無い。基本だ。……ふむ、なるほど。しかし良い事を知った。この場における指揮役は――』
「誰かモニターを破壊して! 観測器具も全て! 早く!」
私の叫び声に呼応して、神族達が狂ったように映像機器を破壊する。
恐怖を覚えていたのは私だけではない。
間近で奇襲にあった彼らもまた、全く無関係ではないのだ。
「八意様、ここは危険です! 他の武闘派の者を向かわせ、八意様は避難を……!」
「ええ……そうさせてもらうわ。輝夜! こちらに……!」
私は血の気を失った輝夜の肩を抱き、従者に連れられてその場を離れてゆく。
とりあえずは、この場の離脱だ。
別の場所で態勢を立て直し、迎撃の構えを万全にしなければならない。
しかし……立て直したところで……。
いや……大丈夫。きっと大丈夫なはず。
そう信じなければ、とてもではないが……。