頭から股下までを貫くような悪寒に、私は身体と思考を硬直させた。
「……」
同時に、月の運行操作を見守り、先程までその成功を喜んでいた面々が押し黙る。
誰一人として例外はいない。
つい数秒前まで交わされていた“上手くいった”、“これで胸のつかえが一つ取れた”といった言葉は途絶え、この場は完全な静寂に包まれている。
沈黙の理由は、謎。
一体何があったというのか。
それはきっと、誰にもわからない。私にだってわからないのだから。
ただ一つだけ確かなのは、誰しもが“視られている”という感覚と、強い不快感を抱いているということだけだろう。
「……!」
早い動悸が混じり始めた沈黙の中で、私のポケットに忍ばせた一枚の木札が警告音を上げる。
木札に表示された文字は、ひとつや二つではない。普段はまっさらな木目を流すだけのそこは、極小の文字によって埋め尽くされていた。
それは、月の都に張り巡らされた数多の防衛システムが、一斉に悲鳴を――あるいは、断末魔を上げていることの証明であった。
「誰だ……わ、私を見ているのは……!」
私の右隣では、月夜見が自らの肩を抱きながら小さく震えていた。
零した言葉に含まれていた感情は、怒りか。それとも怯えか。その両方か……。
近くにいる他の神々よりも大きな反応に、やや引っかかりを覚えるところもあるが……。
「エイリン……」
「輝夜、大丈夫です」
左隣から聞こえた声に、私は心配ないと微笑んだ。
右側へも聞こえるように“問題ありません”と重ね、同時に自分にも暗示をかける。
――視線を感じる。
魂まで見透かすような、不気味な視線だ。
そして一斉に作動し、一部が機能を停止させた防衛システム。
これは明らかな敵襲だ。
それも、これまで繰り返されてきた純狐の襲撃とは訳が違うほどの規模……。
「ああ、地球が……!」
羅列する警告の表示を頭のなかで整理していると、周りの神々が騒がしいことに気づく。
息を呑んで沈黙していた彼らは、暗い宇宙を見上げ、その顔に畏れと恐怖を抱いているようだった。
「――……」
つられるようにして私も空を見上げた。そして、思考が凍りつく。
暗黒の空に浮かんでいたのは、赤く塗りつぶされた妖しげな地球。
中央には血管が走り、どす黒い瞳が浮かんでいる。
少し目を離していた隙に、地球は……赤い眼と変貌していたのだ。
「ち、地球が見ている」
「あれは……一体……」
「月夜見様! 如何なされました!?」
ここにいる誰もが、私を含めて全ての者が恐怖していた。
いや、恐怖しない者などいるはずもない。惑星級の恐ろしい目玉に“視られている”と感じて、平静でいられるわけがないのだ。
あれは、“眼”だ。
あれは作り物でもなんでもなく、間違いなく私達を見透かし……そして、それ以上に雄弁に語っている。
小さく震える私の手が辛うじて握った木札には、警告の羅列が。
そこに示されている機能不全に陥った施設は、どれも月の都が危機的状態に陥った際を想定した、緊急避難装置や脱出施設のようなものが多い。
通常の防衛機構や原始的なものは全くの無事であるにも関わらず、破壊もしくは麻痺に至っているのは、どれも月の外――結界や異界に関わる施設ばかりだ。
かといって、月の内部で用いられる移動用の施設に損傷はなく、移動手段の全てが見境なく破壊されているわけではない。
また、月の外へ向かうにせよ、結界や異界を介さずに地球へ帰還するための原始的な道具も無事であった。
あくまでも、破壊されているのは“異界移動”だけ……。
……月の外への逃げ場を封じられているのだ。
おそらくは、あの“赤い眼”によって。
「エイリンっ……!」
「大丈夫、輝夜。落ち着いて」
抱きつく輝夜の頭を撫で、同時に頭を働かせる。
その間も身体を貫くような視線に不快感を覚えるが、努めて黙殺する。
……相手は何者かわからない。
しかし月の都の様々な機構を一瞬で無力化したところからして、相手はとんでもない神か、とんでもない魔族か。
どのみち、ただの存在でないことだけは確かだろう。
そしてこれから、逃げ場を失った月の都に、そのとんでもない何かが現れるはずだ。
考えたくもないことだが、逃げ道を完全に封じられている以上、その可能性は非常に高い。
脱出は不可能だ。
ならば迎撃か、防衛に努める以外に手段は無い。
しかし、相手の目的は一体何なのか。
それが判明しなければ、手段の取り方が限定される上、防衛効果が著しく減衰してしまう。
相手の目的……まずは早急に、それを突き止めなければ。
「月夜見、不調ですか」
「……すこぶる、最悪な気分です」
私の隣に立つ月夜見は、見回せる中でも最も憔悴した様子だった。
息は荒く、身体は常に震えている。普段は冷静なだけに、これは明らかな異常だ。
「あの目玉のせいですね?」
「間違いなく。悍ましい……あれは、ああ、今も尚……私の魂を見透かしている」
魂を見透かしている。……そのような。いや……。
「時々、視線が外れるのがわかる。けど、また戻ってきて……また私をジロジロと、這うような目で……!」
……月夜見が感じる悪寒は、周囲の人物とは一線を画す程のものらしい。
それは何故? いや、答えは出ている。考えるまでもないことだ。
あの眼は、“月を司る者”を見ているのだ。
理屈はわからない。しかしあの眼は、先天的に月を司る能力を持った月夜見を看破して……おそらくは同時に、嫦娥も見ているのだろう。
空を注意深く見れば、確かに黒い眼が僅かに、極々僅かに、小刻みに動いているのがわかる。
あれは、“月を司る者”が二人いるから揺れている。嫦娥と月夜見の二人を見比べ、吟味しているのだ。
あの眼の狙いは二人。いや……どちらかのうちの一人。
つまり目的は……月そのもの。
「
「はい、ヤゴコロ様」
私は思考を切り上げると、こちらへ近づきつつある一人の女神を呼び寄せた。
耳聡い彼女のことだ。いくつかの報告があるのだろう。
「先に報告を」
「はい。地球の異常はご覧の通り。玉兎達は混乱し、半数以上の統率が取れていませんが……混信する伝令によれば、いくつかの非常用脱出施設が麻痺していると」
「知っているわ。侵入者の姿は?」
「今のところ報告に上がっていません」
「そう」
まだ侵入者はいない。かといって安心できるものではない。
これほどの手腕を見せた下手人だ。きっと月の都の結界を突破することなど造作もないはずである。いつ侵入者が現れても、あるいは地球から直接の攻撃があっても……全く不思議ではない。いや、そのどちらかはおそらく、必ず起こるはずなのだ。
「菊理、あなたの力で根の国までの入り口を作成できますか?」
「ね、根の国ですか」
「ええ」
根の国。つまり、黄泉の国。
もはや穢ればかりのその異界は、月の民にとって最大級に忌避すべき場所ではある。
しかし一時的にでも避難できるのであれば、もはやその場所にさえ縋り付くことさえ選択肢に登るだろう。
菊理は両手で抱えるほどの巨大な鏡を宙に浮かべると、しばらく瞑目し……そして、その顔に戸惑いを浮かべた。
「つ、繋がらない……?」
「わかりました。菊理、再試行は結構です」
「ヤゴコロ様、これは一体……!?」
根の国ですら、移動を封じられているとは。薄く予想はしていたものの、そこまで……。
……もはや、死の世界に逃げることさえ許されていないだなんて。敵は私達をどうするつもりなのか……。
いや、後のことは重要ではない。
問題は、今どうするかである。
「菊理、力を使って私の背後に移動しなさい。今すぐに」
「え、は、はい……」
私が言うと、菊理は再び鏡を浮かべ、能力を発動させた。
光と共に菊理の姿が鏡に吸い込まれ、円形の鏡面は溶ける氷のように一気に形を無くし……。
「移動しました」
「よろしい」
私の背後から声が聞こえてきた。
能力を用いた擬似的な空間転移。菊理の十八番であり、私が最も信頼する能力の一つだ。
月の内部であれば問題なく発動できる。ならば僥倖。策が増えた。
「菊理、
「危難の海……探女とですね。かしこまりました」
危難の海は静かの海の傍らに存在する。
月の都には近くもなく遠くもなくといった場所だ。
言うなれば、合間に防御線を築くのは難しくない場所。その程度の距離にある海。
……もしも地上から何者かがやってくるのであれば……。
時間稼ぎをし、万全の体制を整えなければならない。
「
私はその場で大きめの声を張り、手を掲げた。
神々の視線が私へと集まり、身を震わせていた彼らが沈黙する。
それは、私への期待と信頼の証明。
これまで数々の問題を処理してきた“月の頭脳”への恭順を示している。
「
今の危機的状況を乗り越えるには、最善の迎撃と防衛が必要だ。
それにはこの場にいる、あらゆる神々の力が不可欠。
「皆様で、月の都を脅かす脅威を、排除しましょう」
戦いが始まる。
おそらくは、月の都ができて以来、最も熾烈な戦いが。