魔法使いエレンの朝は早い。
「ふぁー……」
日の出の前に起床しては、あくびをひとつ。
雨樋から貯めた大釜の水を桶で掬い、何度か繰り返して少し小さいサイズの鉄釜を満たす。
「寒いわねー……」
濡れた手をエプロンで拭いながら、今度は薪の準備だ。
小さな薪置き場から持ってきたサイズのまちまちな薪を、切り株の上に斜めに立てる。
エレンは斜めになったその側面の樹皮に、鉈を軽めに、無数の切り込みを入れるように傷をつけてゆく。
それらの工程を繰り返し、薪の表面がぼそぼそになったところで、ようやく火をつける。
「ほっ、ほっ」
石レンガで作ったかまどの中で、表面をぼそぼそにした薪に向かって、火打ち石で火花を飛ばす。
ガチガチと何度か火花をぶつけてやると、繊維質をむき出しにした薪の表面から小さな煙が上がった。
「ふーっ、ふーっ」
熱が灯れば、後は簡単だ。
ぼそぼそになった薪を二つ近づけ合い、少しずつ息を吹きかけながら炎を強めてゆくばかり。
「よし」
なかなかの手際の良さで、エレンの手元にはもわもわと煙と炎を湛える薪が出来上がった。
燃える薪をかまどに放り込み、適当な枝葉を突っ込んで火力を底上げしつつ、かまどの上の鉄鍋が煮え立つのを待つこと十分弱。
「できたかな」
鉄鍋の上に置いた木蓋を外せば、もわりと白い蒸気が煙る。
まだまだ薄暗い寒空の下、大きな湯気はとても暖かそうだ。
「上出来」
エレンは満足気な顔で泡立つ鍋を見やると、その中身を木製のおたまで掬い、何度かに分けてティーポットへ注ぎ込み……。
「はい、どうぞ!」
「どうぞて……」
ほどなくして、私の前にお茶が出てきた。
いや、お茶は良いんだけど。朝一番のお茶は良いんだけどさ。
「……さすがに、火を使ったり水を作ったりくらい……魔法でやっても良いのでは?」
私はティーカップを片手で持ち、もう片方の人差し指を立てて、その先に青い炎を灯した。
炎の先からは周囲から吸い集めた水蒸気が立ち上り、炎の先端にふるふると揺れる水玉を形成してゆく。
「うーん」
エレンはその炎を見て苦笑しながら、自分の分のお茶をずぞぞと一口飲み、言う。
「そういうものかしらね?」
いや、そういうものかしらねって言われてもねぇ……。
魔女、エレン・ふわふわ頭・オーレウスは変わり者であった。
名前が、ということではない。祖父から譲り受けたというそちらの名前も大概だとは思うが、彼女の魔法使いとしてのあり方がとにかく変わっていた。
彼女は魔法使いであるにも関わらず、普通ならばすぐに魔法と取ってかえてしまうような生活の様々なシーンを、そのままのやり方で通しているのだ。
火熾し。水汲み。灯りや移動だってそうだ。数えてゆけばキリがない。むしろ、私はまだ彼女が魔法を使う所を全く見ていない気がする。
“とりあえずエレンの今の生活を見ておくことにするよ”と言ってからこれで丁度一日経ったことになるが、魔法の使用回数は未だに0回。
魔法関連らしい軟膏の調合を行うシーンもあったものの、それ以外はただの少女の自活風景でしかなかった。
……まぁ、無理に魔法を使えとは言わないし、使うべきだと強く思うわけではないのだが……。
マーカスの言っていた“魔法を教えてやってほしい”という言葉の一端が、なんとなくわかったような気がする。
「オーレウス殿はいらっしゃいます……か……?」
エレンが小屋の中でちょっとした薬の引き出し作業を行っている間、私は屋外で煮え立つ大鍋をかき回す役を引き受けていた。
彼女への来客がやってきたのは、そんな昼下がりのことである。
エレンへの何らかの用でやってきたのであろうその兵士風の男性は、鍋をかき混ぜる私の姿を見るなり、露骨なまでに顔をひきつらせている。
仕方のないことだ。私だって知り合いの家の前で鍋をかき混ぜる鳥人間がいたら、そんな顔をするだろう。
「エレンなら家にいますよ」
「は、はぁ……貴方は……?」
「私は彼女の……魔法の手伝いをすることになった、ライオネルという者。どうぞ宜しく」
言い方はまるで丁稚奉公にでも出されたようであるが、嘘は言っていない。
私は魔法の習得を手伝うためにやってきたのだから。
「何か、彼女に用があれば私が引き受けますが」
「あ、はい。オーレウス殿からは、月はじめに軟膏をまとめていただくことになっているので、今日もそのことで伺ったのですが……」
「軟膏」
ふむ。こんな辺鄙なところにまで薬を取りに来るということは、やはり彼女の作る軟膏は特別なものだったか。
人からの呼ばれ方も結構慕われているようだし、ローマにおけるエレンの位置づけは、そこそこ良いものなのかもしれない。
だが、軟膏の話になると私の手には余るな。
すぐに作れないこともないが、こういう商談は彼女に聞いたほうが早いだろう。
「エレン、お客様が軟膏をお求めだよ」
「あ、はーい! 今でますー」
小屋の中からドタバタと音が聞こえ、結構な時間が経過した。
返事は返ってきたので、何もしていないということはないだろうが、物を一つ取って出てくるにしては結構なもたつき具合である。
兵士風の男の人は嫌な顔もしていないが、立って待たせている身としてはちょっぴり心苦しい。
そうしてたっぷり5分ほど経ってから、エレンが小さな革袋を持って現れた。
……何故か、顔にうっすらと化粧を施して。
「はあ、はあ、ごめんなさい。探すのに時間がかかっちゃって」
「いえいえ。オーレウス殿の軟膏にはいつもお世話になっています。こちらが――」
「そんなぁ良いのよ別に! 兵士さんたちのおかげでローマの平和が守られているんだもの! いつもありがとうね♪」
「あ、いえ、恐縮です……あのオーレウス殿、これが今回の代金で……」
「私のことはエレンで良いわよ♪」
「いやその……エレン殿。代金です」
「ありがとう♪ はい、確かに♪」
肉体の年齢も相まって、彼女の声は元々高かったが……今のエレンの声は、もうちょっと高い。というか、躍っているというか。
話の押しも強く、兵士さんに向ける笑顔は普段の数割増し。
……私が人間だった頃に務めていた職場にも、あんな感じで男社員と話す先輩がいたなぁ……。
「では、失礼します」
「またねー♪」
エレンはぶんぶんと大きく手を振りながら、恐縮しっぱなしで去ってゆく兵士さんを見送った。
片手にはずっしりと重そうな貨幣袋が握られているが、そちらの方には微塵も興味を示していないようである。
「……あの、エレン?」
「ん? 何?」
「……今の兵士さんは?」
「あの人はマルクスさんよ。いつも月の初めに、私のお店にやってくるの♪」
「機嫌、良いね?」
「もちろん! 良い人よね!」
うっすら赤くなった顔に、心から嬉しそうな表情。
……なるほど。エレンは先程の兵士さんに……マルクスさんに恋しているのか。
向こうの反応を見る限り、脈の方はちょっと微妙なところであるが、エレンが好きならば私からとやかく言うつもりはない。
ふむ。
だとすればこうか。
エレンが、普段から魔法を使わないのは、魔法を使わない片思いの人に少しでも近づくため、と……。
……そう考えると、なんだかロマンチックな話だな。
「……ふーむ」
参ったな。
一般人としての恋路を求め、その幸せを追うのであれば……無理矢理に魔道へと引きずり込むのは、ちょっと申し訳ないことだ。
マーカスから頼まれてはいるが、エレンがどうしても魔法離れしたいと言うのであれば、ここは私も身を引くべきだろうか……。
などと、私は真剣に考えていたのだが……。
「失礼します、オーレウスさんはいますか?」
「はーい♪ あらユニウスさんお久しぶり♪ 染め物はちゃんと出来てますよー♪」
「おー、それはありがたい」
イケメン。
「すいませーん、オーレウスさん! クィントスですがー!」
「はいはーい! 魔法油ですねー♪ あっ、ちょっと時間かかるので中でお茶でもー♪」
またイケメン。
「オーレウス様はいらっしゃいますかー」
「あら、この声はガイウスさんだわ♪ はーい今出まーす!」
部屋の中でわからないけど、どうせまたイケメン。
元々からして顔の作りが良いローマの男性だが、彼女の元を訪ねてくるのはその上で更に顔の宜しげな男ばかり。
そんな来客がある度に、エレンは声色を黄色くして嬉しそうに玄関へすっ飛んでゆく。
もちろん、小屋の中で髪やら服やらをちょちょいとお色直しした上で、だ。
訪ねてくるのは男ばかりではないが、時々やってくる女性や老人などにはそこまで特別なことはしない。
だが、ぞんざいに扱ったり、そっけない対応だったりということはない。
かなり親切に接してはいるのだが……それでも明らかに、格好良い男への反応は大げさで、どこか媚を売っているようである。
「ふー……また三日後に来てくれる♪」
玄関の扉を後ろ手に閉めて、満足そうなこの表情。
なるほど、なるほど。
そういうことか、エレンさん。
別に特別な一人に執着しているというわけでもないのだな、エレンさん……。
「ん? どうしたの? ライオネル」
「……いや、変だと思って」
「ヘン?」
「うむ。変」
遠くローマの街の方から、ゴーンという鐘の音が聞こえてきた。