東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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遺骸王の再会
私が兎を見つけた日


 この世には、幻の世界が存在する。

 

 寒気の漂う墓場に。

 瀬音の流れる水辺に。

 火事で黒焦げになった教会に。

 

 そこはかつて墓場ではなく、数多くの兵士が命を落とした戦場だった。

 その水辺は大昔にはただの岩山で、木の一本も生えてはいなかった。

 そして今は黒いあの教会も、時を遡れば美しい佇まいでそこにあって。

 

 だけど、その世界が見れるのは私だけ。

 お母さんに言っても、お父さんに言っても、決して信じてなどもらえない。

 二人は幻の世界に興味を示す私が嫌いらしく、度々医者に診せたり、流行りの人形をいくつも買い与えるなどして、どうにか気を逸そうと躍起になっていた。

 文字の勉強も、計算の勉強も沢山教えた。絵を描かせたり、日記を書かせたりもした。

 

 それでも私は幻を見ることに夢中だったし、止めようとは思わなかった。

 当然だ。私にはその世界がちゃんと見えていたし、それは決して、嘘の世界ではなかったのだから。

 

 しかし、妄言と幻覚に狂った子供を愛せるほどに、私の両親は大らかではなかったらしい。

 二人は私を重度の精神病を患っているなどと都合よく嘯いて、監獄とさして変わらない、薄汚い癲狂院へと放り込んでしまったのだ。

 

 泣き喚き、糞尿を撒き散らし、朝から晩まで叫び狂う気違いどもの掃き溜め。

 あらゆる自由が許されず、あらゆる言葉を戯言にされる悪夢のような監獄。

 

 私はアリス・マーガトロイド。

 たったの十歳にして、そんな世界に放り出されてしまった。

 

 

 

 鉄檻の中は、自由がない。

 日に二回だけ与えられる粗末な食事を摂り、排泄をするだけの閉鎖的な空間だ。

 

 時々通りすがる男にねだれば多少の本を貸し出してくれることはあるが、それを勉強とするには些か不十分。

 窓辺には多くの人形が並んでいるが、あれらが再び増えることは、もう無いのだろう。

 私は親に棄てられた、狂った子。

 ただの人ではない私には、人並みの生活などは与えられないのである。

 

 そんな私にも、良いことはある。

 檻の向こうで通りかかる男はその様子に顔を顰めるが、私はこの狭い部屋の中でも、幻の世界を眺めることができたのだ。

 

 元々、この建物に狂った者が犇めいているからであろうか。

 癲狂院には数多くの幻が空中をゆらゆらと漂っており、それは埃のようにゆっくりと流れては、壁の向こう側へと突き抜けてゆく。

 多くの幻は小さい欠片だったり、流れが早すぎるためにゆっくり見ることも叶わないのだが、時々現れる“ゆっくりと動く大きな幻”は、まるで一枚の絵画のように美しく、鮮明だ。

 外と隔絶された狭い世界の中では、私にとっての楽しみといえば、もはやその世界を眺めること以外には存在しなかったのである。

 

 見たこともない山々。

 煙の渦巻く神秘の星空。

 聞いたこともないような珍しい町並み。

 馬に乗って槍を構え、平原を走る白銀の騎士達。

 大きな部屋で一つの洗練された学問を学ぶ子どもたち。

 

 この景色は、誰に言っても信じてはくれないだろう。

 事細かに言葉で伝えたところで、相手は顔を顰めて手を払うだけ。

 私は気の狂った子供だと罵倒され、今までと同じようにのけ者にされるだけに違いない。

 

 だけど私は、それでも構わない。

 この目に映る数々の世界は、きっと嘘ではないのだから。

 たとえこの景色が私にしか見えないものであっても、抱き締める人形が相槌を打ってくれなくとも、この世界を美しいと感じる私の心は、真実なのだから。

 

 

 

 十一歳の誕生日の夜。

 私は窓辺に浮かぶ大きな幻を眺めていた。

 

 今は夜だけど、幻の向こう側は日も高く、まだ昼間であるらしい。

 その水辺には麦のように背の高い、ソーセージのような実をつけた草がいくつも生えていて、風に吹かれて静かに揺れている。

 

 どこか、異国の世界の景色なのだろうか。

 とても長閑で、とても美しい場所に思える。

 

「はぁ」

 

 きっとそこは遠い場所だろうし、そもそも今の時代にあるものかも怪しい。

 だけど、行けるものなら行ってみたい。

 この癲狂院を抜け出せたのなら、真っ先にこの場所を訪れてみたい。

 そんな憧れに、思わず溜息をついてしまうような風景だった。

 

『やれやれ。こう日照り続きだと参っちまうね』

「!」

 

 幻の中の景色に、人影が映り込んだ。

 同時に、声まで聞こえてきた。

 

 人が映ることも、音が聞こえることも決して珍しいことではない。

 けれど、不意に飛び込んできた映像は、私の経験上でも類を見ないほど珍しいもの。それは、私が大口を開けるのも仕方のない光景だったのだ。

 

『さーて水浴び水浴び……』

 

 水辺に映り込んだ人影。

 それは小さい女の子のような姿ではあるが……。

 奇妙。あまりにも奇妙なことに、黒い髪の上から兎のような耳を生やしていたのである。

 私もこの世界における全ての生き物を知識として知っているわけではないが、たとえ異国であっても、このような奇妙な種類の生き物が存在しないであろうことは、なんとなくわかる。

 

 この子は、一体何なのだろう。

 兎なのだろうか。人間なのだろうか。

 私はベッドから起き上がり、幻の前で釘付けになってしまった。

 

 兎の少女はそのまま衣服に手をかけて、一気に脱ぎ去ろうと裾を持ち上げた。

 きっと、これから水浴びをするのだろう。

 服の中は人間寄りなのか。それとも兎寄りなのか。私は強い興味と好奇心から、ぐぐっと幻に顔を引き寄せた。

 

 だが、景色の向こうで脱衣を行おうとしていた少女が、急にその動きが停止させる。

 突然何かの気配に気付いたように、白い耳をぴこぴこと動かしながら、辺りを警戒し始めた。

 

『……どうも、見られてるねぇ』

 

 気付かれた?

 景色の向こうにいる相手に、私が気付かれたのだろうか。

 もしもそうだとしたら、これは初めての経験である。

 

『どこだ……動物じゃないね……妖怪か、いやそれとも……まさか、天津神か……』

 

 兎少女は姿勢を低くして、辺りをキョロキョロと見回している。

 一見すると可愛らしい姿ではあるけど、真剣な目つきは野生生物のそれで、油断のない物騒な気配に満ちていた。

 

 ……可愛い。

 けど、ちょっと怖い。

 あ、でも草陰に隠れてても見え隠れする白い真ん丸な尻尾は……やっぱり可愛い。

 

『……嘘でしょ、この私が全く感知できないだなんて……』

 

 さっきからずっと怯えっぱなしなのは、私のせいなのだろうか。

 もしもそうだとしたら、少しだけ申し訳ない気持ちになる。

 普段こうして眺めている時には、ただ絵本を開いているだけのような軽い気持ちだったのだから。まさか絵本の中の登場人物が私に気付くだなんて、思いもよらなかったことである。

 

『……仕方ない。かなり力は使うけど……背に腹は変えられないもんね』

 

 しばらく兎少女はじっと息を潜めているだけだったが、急にその場で立ち上がり、両手を合わせて目を瞑り始めた。

 それと同時に、なんと少女の体がきらきらと輝き始めて、景色の中が眩しくなってゆく。

 

「わっ……」

 

 それは、とても神々しく、暖かな光。

 見つめるにはあまりにも眩しすぎて、だけどいつまでも浴びていたくなるような、心地良い幸せな煌めき。

 

 暫く、幻の中は神秘的な光で一杯だった。

 けれど間もないうちに、檻の外からひゅーっと流れ込んできた小さな幻の破片がやってきて、輝きの中へと飛び込んでゆく。

 

「あっ」

 

 私が小さな悲鳴を上げた頃には、もう遅い。

 小さな幻は大きな幻に接触して、お互いに混ざり合いながら、かき消されてしまった。

 

 幻はとても繊細なものだ。

 幻と幻が互いに衝突すれば、幻はお互いに姿を崩し、見えなくなってしまう。

 

「……もったいないな。珍しい……良い景色だったのに」

 

 幻が消えると、そこは元通りの何も無い部屋。

 私はベッドの上で膝を抱き、大きな溜息を漏らして俯いた。

 

 あんなに大きくて、動かなくて、鮮やかな幻は、なかなか見られるものではない。

 それに景色の中には見たこともない少女が映っていて、声までちゃんと聞こえていたというのに。

 またあれほどの幻を目に出来るのは、今度はいつになるのだろうか。

 

「……」

 

 ここは癲狂院。気が狂っている私は、ここから出ることなど叶わない。

 私が見れる世界の景色といえば、気まぐれに流れてくる幻の断片ばかり。

 

 けど、もしもこの場所から出られるのであれば。

 私はきっと、色々な場所や国を回って旅をして、幻の中に見た景色を探し出すだろう。

 

 そんなことが出来たならば、どれだけ幸せなことだろうか。

 

 ……でも、無理だ。

 私はこの牢獄の中で、狂人達に囲まれながら……幻の世界を夢見て、静かに死んでゆくのである。

 

 

 

「うぁあッ!? この……噛み付くなァ!」

「イヤァアアアアッ!」

 

 廊下の向こうから、大きな物音と叫び声。

 きっと、見回りの男が檻越しの狂人に襲われてしまったのだろう。

 実に運のないことである。

 

 こうしてしばらくは、叫び声と叩くような音が何度も響いてくるはずだ。

 私はそれを考えて嫌な気持ちになった。けれど……。

 

 どこか近くでチャリンと、小さな金属の音が聞こえてきた。

 

「……」

 

 鉄檻の外の、薄汚い床。

 月明かりに照らされたその一角に、艶の消えかかった古い鍵が落ちている。

 

「離せっ、このっ……キチガイがッ!」

「イヤッ! イヤァアアッ!」

 

 怒りに満ちた男の喚きと、意味を持たない狂人の叫び。

 誰も、床に落ちた鍵の存在には気付いていない。

 

 この私以外には、誰も。

 

「……」

 

 片手に絵本を持って、手を伸ばせば……鍵は丁度、絵本の角に引っかかる位置にあった。

 そのまま静かに鍵を手に取り、私は男の怒号と狂人の悲鳴を聞きながら、しばらくそれを眺めていた。

 

「……これも、幻なんかじゃない」

 

 不意に、目から涙が溢れてきた。

 冷たくて重い、金属の鍵。だけどそれはしっかりと私の手の中にあったのだ。

 

 

 

 その日の夜、私はいくつかの人形と絵本を抱いて、リットホーヘンの癲狂院を抜け出した。

 親はなく、頼れる人も思い当たらない。

 だけど、星々の輝く未知の世界へ躍り出た私の心は、不安などちっぽけなものであるかのように、とても晴れやかだった。

 

 これから私は、未知の世界へと冒険を始める。

 知らないものを学び、不思議なものを覗き込み、奇妙な兎の女の子の尻尾を捕まえに、異国の地にさえ飛び出してゆくのだ。

 

 

 

 私はアリス・マーガトロイド。

 これからは流れ来る幻想を待つだけじゃない。

 自分から幻想を見つけるために、世界を旅して回るつもりだ。

 


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