天界と天界を繋ぐ距離は日に日に伸び、私達が住まう高天原は、次第に他の派閥と疎遠になってゆく。
元々排他的な場所ではあった。しかしこのままでは、実際に分離する前から繋がりが絶たれてしまうかもしれない。
時々話に聞くような交易に興味は無いが、情報だけは手に入れたい。そのためには、いくつかのルートは常に開示しておく必要はある。
幸い、尊き高天原の暇人共の中には、趣味の一環として交易を行っている者も存在する。
その者に頼めば、期待はできないものの、ある程度の成果は得られた。
……しかし、それもいつまで続くことか……。
こうして月へ向かう研究を進めている間も、地上は恐ろしい魔族で溢れかえっているというのに……。
「ヤゴコロ様、珍しい品を手に入れました」
それは、いつものように膠着した転移研究に頭を悩ませている時のことであった。
例の交易好きの男が私のもとを訪れてきたのである。
特に珍しいことではない。彼はこうして度々交易で手に入れた異なる派閥の神器を持ってきては、私に見せびらかしたり、物によっては貢いでくれる。
が、そのほとんどは私にとってどうでもいいものであり、ほとんどありがた迷惑に近かった。
芸術品などには興味がないし、実用品は自分で作ってしまうので間に合っている。時々インスピレーションを得るような品に遭遇することもあるにはあるが、大抵のものは輝夜に横流しして終わりである。
今日もまた、どうでもいい品を持ってきたのだろう。
私は音のない溜息を出しながら、一応は彼の応対をすることにした。
「いらっしゃい。今日はどんな品をお披露目してくれるのかしら」
「ふふふ、いやそれが今日のはこれまでの物とは一線を画す品でございまして……」
「あら、楽しみ」
この男の中では、今まで手に入れた品と品の間にいちいち線が引かれているらしい。
マメなことだわ。
この時点で既に、私は彼が大荷物から取り出そうとしている“宝”に対する興味のほとんどを失っていた。
頭にあるのは、どのように会話を進めてゆけばより短時間で切り上げられるかという、その一点だけ。
だったのだ。
……粗末な壺と、そこから飛び出た木の棒のセットを見るまでは。
「随分と質素ね」
単純に、それはこの男が持ってくるものとしては珍しいものであった。
いつもならば、宝石や貴金属に彩られた品が顔を出しているはずなのだけど。
「は、はい。いえ、見てくれは確かに醜く、粗末なものではあるのですが……」
「壺の中身は……砂?」
興味が出た。
私は椅子から立ち上がり、壺に近づいて観察を始める。
……見たところ、壺自体におかしなところはない。至って普通の壺と言っても良い。
少々、術によって保護がかけられているのだろうか。同じような跡は、木の棒の方にも見られた。
何より、壺の中身が砂であることにも興味をそそられる。
砂は、高天原で取れるものではないだけで、どうも普通であるようだけど……。
「壺も、砂も、どちらもただの入れ物にすぎません。これを御覧ください。これこそが、今回お見せする品でございます……」
「……!」
男は砂入りの壺から、ゆっくりと木の棒を引き抜いた。
すると、どうだろう。
その木の棒の先には、ゆらゆらと揺れる蒼い炎が灯っているではないか。
……普通の炎は、砂の中では燃えない。かといって、何か棒に細工をしたとしても、炎はそう長く持つはずもない。
つまり、このトーチは……。
「……術による炎ね」
「いかにも、その通りでございます」
「それに、ただの妖火ではない。雑な術ではないわ……この青色は、酸素を必要としたものではない、また別のもの……」
私は引き込まれるようにトーチを手に取って、その炎に見入った。
少しの赤みもない、完全な青の火焔。消えそうな気配はなく、かといって柄に延焼することのない、神秘の熱。
「と、ところでヤゴコロ様……この後お時間があれば、その……」
「私はこれからトーチの研究に入ります。素敵な品をありがとう」
「あ、はい……お気に召していただけたようで……それでは……」
こうしてはいられない。私はトーチを手に、すぐさま自分の研究室へと舞い戻った。
私が研究を行うこの場所は高天原で最も安全で、便利で、可能性に満ちている空間だ。
何故ただの研究室がそこまで発展しているのかというと、それは研究を進めているのが私であるからという他に言いようがない。
ここは常に私の発見や発明によって進化を続けている。
そしてこの謎のトーチもまた、私の進歩と礎のひとつとなるだろう。
「既に恒久的な灯りや熱源は間に合っているけど……構造だけは解明しないとね」
トーチそのものの利便性や有用性はどうでもいい。
全てを解明してしまえば、いくらでも同じものを複製できるのだから。
……しかし。
「魔法、ね……」
魔法。私もある程度は学んでいるし、研究している。他の誰かに知識で劣るとは思っていないけれど……科学と比べれば、それはかなりの苦手な分野であった。
そもそも、魔法と科学は競合する。科学によってもたらされる力は魔法に対して奇妙な作用を引き起こし、お互いを成り立たなくさせてしまうのだ。
はっきり言って、月の魔力を用いたいくつかの技術さえ利用できれば、あとは全て科学のみで事足りてしまう。だから、私はこれまであまり魔法の分野を進めていなかったのだけど……。
「……なんて複雑なの」
どうやら、その怠けが祟ったようである。
こうしてトーチに灯る青い炎を眺めているだけでも、この炎を成立させる力の難解さが見えてくる。
月の魔力、星の魔力、そして周囲の、様々な形の魔力に……得体の知れない力も、半分以上。
その複雑さは、まるで未知の領域だ。
今の私では、何故この炎がこうして灯っているのかという仮説を立てることさえ難しい。
「これは、神族が? それとも、魔族が……」
天界では、地上産の品物が出回ることも珍しくはない。
可能性としては、全くありえないことではなかった。
しかし仮に、これを地上の魔族が作ったのだとすると……地上の魔法技術の水準は既に、天界を凌駕しているのでは……。
「……恐ろしい」
魔法の力が、世界全てに混沌を齎す時も、そう遠くはないのだろうか。
あらゆる結界と境界が無秩序に砕かれ、乱され、全てが魔の暴力の中に沈んでゆく、灰色の未来。
地上の穢れに侵食され、我々神族が跡形もなく……。
「嫌」
私はその気持ちを、はっきりと言葉に出した。
「それだけは駄目」
神族が魔族に負ける。
我々が穢れに冒される。
穢れによって、あらゆる知性体が侵食される……そのような未来は、絶対に認められない。
私自身が、穢れの影響を受けることに気が進まないという気持ちもある。
高天原の頭脳という役職上の、義務感というものもある。
けど私はそれ以上に……穢れに冒されきった世界など、あのサリエル様が決して認めはしないだろうと思ったのだ。
もう、あの方と別れてから長い年月が過ぎ去った。
サリエル様の捜索が滞り、輝夜の相手をするうちに少なからず情が移り……私の気持ちにも、多少の変化が生じてしまった。
それでも私は、サリエル様を覚えている。
あの方の事を、今でも考え続けている。
だから私は……あの方の成し遂げたかったであろうことを、可能な限り実現させてあげたいのだ。
「……」
トーチを砂壺の中に突っ込んで、立ち上がる。
同時に、ようやく決心が固まった。長く悩み続けていた選択を、その手に取る決心ができたのだ。
月への移住計画。
絵空事だと考えていたその計画を……本気で、推し進める時がやってきた。