サリエルと神綺。魔界を守る魔神と上位神族の二人は、地上魔族の軍勢を相手に圧倒的な優位を保っていた。
それは私がいなくとも変わることはない。たとえ相手が強い魔族であろうとも、サリエルと神綺の負けるイメージが湧いてこないので、弱い魔族であればあくびをしながらでも処理できそうだ。
「うわ、術が!? 炎が変な方向に……!」
「どこを狙ってるッ!」
「邪魔だどけぇっ、俺様が……ウギャッ」
サリエルの頭上に浮かぶ、巨大な歪みの魔法球体、“狂気の月”。
これは“新月の書”でも最も難しく、月魔法の究極系とも呼ぶべきものである。
術によって生み出される擬似的な月の像は、月の持つ狂気の性質を周囲に放射し、あらゆる魔力の波長を歪め、狂わせる。
サリエルが敵だと認識した魔力生成物は破壊され、あるいは組み替えられ、本来の術者の手を離れて暴走するだろう。これを防ぐには、差し向けられる月の狂気を防ぐほどの力を纏うか、歪みを常に矯正し続ける精神力がなくてはならない。
魔族たちはある程度、独自に培った原始的な魔法を扱えているようだが、いかんせん稚拙である。あれでは、サリエルの生み出した“狂気の月”に抗うことはできない。
月の狂気を間近で受けた魔族たちは揃って発狂し、混乱し、恐怖し、あるいは魔力や術を暴発させ、勝手に自滅してゆく。
「軟弱な連中だ」
「黙って見ていれば、この程度の幻惑すら防げぬとは」
それでも一部にタフは連中はいるらしく、恐慌状態に陥る魔族を払いのけて、巨大な二つの影が現れた。
全身を黒煙に包みこんだ、十メートルほどの巨人。細かなディテールは煙に包まれていて謎であるが、あの煙自体に狂気を保護する力があるのかもしれない。
まあ先天的にラッキーな体質であれ、それも戦いにおける立派な強みだ。ともかく、二人の巨人は“狂気の月”を展開するサリエルに向けて、悠然と歩き出した。
「見たところ天使のようだが、貴様のような神族など、今までに何匹も――」
「抉れちゃえ」
サリエルに歩み寄る二人の巨人であったが、その侵攻は突如腹部を貫いた鋼鉄製の巨大なオベリスクによって、強制中断された。
「な……ぐ、あ……」
「馬鹿なっ、魔法など、俺様には……」
二人の巨人は仲良く卒倒。油断も甚だしいところである。
いくつかの魔法が効かないからといって、あらゆる攻撃を無効にできるわけでもないだろうに。
確かに無から有を生み出し、それを投げつけてくるなんて攻撃は、この魔界以外ではほとんど見られないだろうけども……防御も回避もする気がなかったのでは、ちょっと同情のしようがない。
「手応えが無いわねぇ」
「ああ。私が本気を出すまでもないな」
サリエルと神綺。二人は会話する余裕さえ残っている。こちらの余裕は、圧倒的有利であることもそうだけども、何が来ようとも既に対策を打っているが故の余裕だ。相手さんの慢心とはわけが違う。
メタトロン曰く、今サリエルと神綺が相手をしている魔族たちは、弱い部類であるという。
実際その通りで、彼らが二人に勝利する未来は万に一つもあり得ない。
そしてここに跋扈する魔族たちは、メタトロンの見立てによると“どう眷属化しても救いようのない悪党”であるとのことだ。
最初は居住区を作って住まわせようかと思っていた私であるが、それを聞いては寛容な考えも頭から抜け落ちる。
私は魔人や魔族の多様性こそ認めてはいるが、進んで悪どい連中を迎え入れようとは思わない。
残念だが、彼らには残らずここでただの魔力になってもらうとしよう。
……と言いたいところだが。
ここで幸運にも残っている彼らには、地上でやってもらわなければならないことがある。
それにはまず……この不毛な戦いを終わらせなくてはならないだろう。
「“霧箱”」
範囲極大。速度最大。
一発一発が地中何十メートルにも食い込むほどの威力を秘めた硬化魔力弾が、美しい彗星の尾を引きながら大地を襲う。
その数は私にもわからない。掌ほどのサイズの凶弾は、煌めきながら視界を埋め尽くし、ただただ流星群のように降り注ぐのみ。
硬質な岩の地面が貫かれ、ひび割れ、細かく砕け散る音ばかりが木霊する。
誰も口を開けない。開いたところで、絶叫程度の音など掻き消える。
血の書中級魔法“霧箱”。それは圧倒的な数の物理的な弾丸によって、一定範囲を焦土に変える大魔法だ。
「あ、あ……」
「ひぃ……」
流星群が降り止んだ後には、魔族たちが縮こまりながら、震えるようにして立っていた。
私がわざと当てなかったので命中していないのは当然であるが、自分の周囲を圧倒的物量の死が覆い尽くす刹那というものは、それなりに彼らの精神にダメージを与えたらしい。
「ぐ、ハァッ」
そして“霧箱”の流星が降り止むと同時に、空からズタズタに傷ついたヨウェンが堕ち、引き裂かれた大地に大きな土煙を立てた。
「え……何……」
「お、長……?」
全身を引き裂かれ、血まみれになって倒れ伏すヨウェン。
そこに私が悠然と降り立てば、多少頭の足らない魔族であっても、この状況を理解できるだろう。
「こ、この私が……これほどまでに……やられるなど……」
苦しげに呻くメタト……ヨウェン。
だめだ、まだ笑うな……ここで笑えば大袈裟な演技の全てが水泡に帰してしまう。
「さて、魔族の諸君。これでもまだ続けるつもりだろうか」
棒のように大人しく立ち尽くした魔族たちが、一斉に首を横に振る。
「彼は……ええと、ヨウェンといったか。一応長であるようだが、どうも手応えがない。本当はそこにいる図体の大きなお前の方が、張り合いがあるのではないか?」
「ひっ……!? い、いや、俺は……」
「それともお前が?」
「……!」
順々に適当な魔族に指をさしてゆけば、申し訳ないくらいに震え上がる。
どうやら、適度に恐怖を植え付けることができたようだ。少しも歯向かう様子は見られない。
これならば、大丈夫だろう。
「なんだ、つまらんな。私と闘わないのであれば、さっさと地上に帰るが良い。こちらも忙しいのだ」
そう言って、私は面倒くさそうな素振りで巨大な地上への扉を生成する。
白い靄の渦巻く扉の出現を見て、絶望のどん底に陥れられていた魔族たちの目に光が戻った。
地上。魔界ではない、元々いた地球のどこか。
今ここで死ぬ未来を鮮明に思い描いていた彼らにとって、この地上への扉はさぞ魅力的に映っていることだろう。
その傍らに、恐怖の元凶である私が立っていなければ。
だから、私は丁寧な催促までしてやらなければならない。
「どうした。帰らないのか? ならば私の魔法の実験台になってもらうが……」
「ひ、ひいい!」
「帰らせて、帰らせてくださいッ!」
私がほんのちょっと本音をこぼすと、魔族たちは血相を変えてこちらの開く扉へと駆け込み始めた。
その必死な勢いたるや、なんでサリエルと神綺との戦いで出せなかったのかというほどの全力である。こっちに駆け寄る気迫が凄すぎて、恐れられてる側なのに結構怖い。
そして地上への敗走を決め込んだ魔族たちの中には、部下の魔族に担がれるヨウェン(メタトロン)の姿もあった。
「長、早く!」
「う、ぐぅう……覚えていろよ……ライオネルッ……!」
メタトロンさんや、貴方を担いでる部下が本当にパニック寸前の顔になってるので、あまり私を挑発するような言動はやめてやってください。
しかし、こうして魔族にまで信頼されるほどの地位を地上でいくつも築いているというのだから、メタトロンはなかなかやり手である。
こうして敗走後は別の魔族の勢力と合流し進んで併呑され、魔界の状況を触れ回ってくれるというのだから、頭が上がらない。
メタトロンはこれから定期的に、無理の無い数の魔族をこちらへ送り込んでくれるのだそうな。
そちらの方が天界側としては負担も減るし、魔界としても……というか、私個人としても結構助かる。
地上や天界では強い魔族が恐れられているようだが、利用価値はいくらでもある。
多少あくどい性格には目を瞑り、喜んで彼らを受け入れようではないか。
魔族の移民を受け入れるときとは少々形が異なるが、これはクベーラと交わした取引と似たようなものである。実に楽しみだ。
「……ライオネル、良かったのですか? あいつらを逃しちゃって」
魔族が一匹残らず消え去った荒れ地で、神綺が私に訊ねる。
隣のサリエルも抱く疑問は同様らしく、小さく頷いていた。
「ああして泳がしていた方が、うるさい虫が寄ってこなくなって良いだろう」
「まぁ、確かにそうですね」
メタトロンの見立てでは、それを聞いた悪しき魔族たちのほとんどは“なら最強の俺達が攻めこんでやるぜデヘヘ”くらい好戦的で野蛮な思考回路を持っているらしいのだが、あえてそれは言わない。
まあ、向こうがどう考えていようとも、魔族に変装したメタトロンが巧みに誘導して魔界へと連れ込んでくるのだろうけどさ。
「このような不毛な戦い、二度と起こらないことを祈りたいものだが」
サリエルはうんざりした様子でごちる。
しかしその憂鬱が決して叶わないことを知っている私は、白々しくハハハと笑うのであった。