散
戦乱の世が訪れた。
地上に生きる魔族達が強大な力をつけ、神族達へ一斉に牙を剥いたのだ。
かつては平穏だった天界も、今では地上から生まれし穢れの勢力によって、その安全を脅かされている。
それは、天界中央より離れた高天原とて、例外ではない。
むしろ天界の辺境にある高天原だからこそ、この戦乱における問題は、非常に大きいものだった。
高天原の頭脳であるこの私にさえ、手におえないほどに。
「姫、この結界域にも能力を」
「結界ってどこよー……? 私には何も見えないんだけど」
「そこです。あ、少しでも触れたら大火傷を負うので気をつけて」
「無茶言わないでよ」
私と輝夜は、高天原の外周部にて、防御結界の修繕作業を行っていた。
この防御結界は、天界に多数存在する浮島の一つであるここ、高天原の全域に広がっている。
もちろん、先ほど輝夜と話したように、ただの結界ではない。
私は触れたら火傷を負うと説明したが、これは結界を越えた者が容易に炭化するほどの力を持った、非常に攻撃的な結界である。
しかし万が一にでも、高天原の神族や輝夜に傷を負わせるわけにはいかない。なので、結界の発動条件は穢れを持つ存在のみに限られている。
それに、炭化させるといっても非常に局所的なものだ。触れた有機物全てを炭にできるほどの出力はないだろう。
輝夜に言ったのは、ただの方便だ。
「じゃあ、ここらへんに……」
「よろしくお願いします」
輝夜が結界の手前に手をかざし、神族固有の力を込める。
すると、輝夜の力は結界の回路を通じて拡がり、数キロメートル離れた場所にまで伝播していった。
神族や魔族が固有の力を備えることは、珍しいことではない。
私も生まれながらに頭脳という力を持っているし、伊弉諾も大地を創り出すという大袈裟な能力を持っている。
だが彼女が持つ固有の能力はそれら上位神族に劣らない、非常に面白……興味深いものであった。
輝夜の力は、状態保存だ。
詳しいことは、近年の戦乱によって研究が進んでいないため判明していないが、概ね状態をその時点のまま保つということで間違いない。
彼女が力を込めたものは、状態をそのままで保つようになる。炎によって化合せず、水によって削られない。単純に物を保護する力としては、最上級のものと言えるだろう。
なにより、この保護は穢れにすら冒されない。
穢れ無き島で生まれ育った輝夜に相応しい、実に高貴な能力だ。
「ふう……こんなところ?」
「ええ、上出来です」
輝夜の力によって、結界の回路の一部に強い持続性が加えられた。
持続性が付与された箇所は、熱を制御する一部の機構だ。非常に扱いが難しく、数回の発動によって壊れてしまうこの機構が強化されるだけでも、結界の寿命は飛躍的に伸びるだろう。
この防御結界は、外部から襲い来る魔族に対抗するための自衛装置。
地を這う一部の強力な魔族に対しては、これですら気休めにもならないけれど……かといって高天原に真実を伝えても、混乱が訪れるだけだ。
恐怖に煽られた無能や馬鹿は、人の話を聞かず碌な代案も出さず、無駄に騒ぐだけなので、適度な対策を提示して安心させてやらなくてはならない。
面倒なものだ。
何故頭脳である私が、脳なし連中のお守りをしなくてはならないのか……。
「つかれたー。エイリン、もう帰ってお茶にしましょう?」
「早すぎますよ、姫……戻るのは、あともう一仕事をしてからにしましょう」
「ええー」
……まぁ、理不尽な労働を強いられているのは、私だけではない。
この高天原において、もはや随一の神聖な血筋であると持て囃されるこの輝夜でさえも、全体の防衛のために動かざるを得ない状況なのだ。
それまで箱入りでのうのうと暮らしてきた彼女が、突如として一日一時間の労働に駆り出される。その苦悩と比べれば、一日二十二時間しか対策任務にあたっていない私など、まだまだ恵まれているとも思えてくる。
「……エイリン? なんだか、あなたから恨めしい視線を感じるんだけど……」
「輝夜、襟にゴミが」
「え? あら、ありがとエイリン」
「いえいえ、どういたしまして」
地上の状況は、過去最悪だ。
我々が管理する大八島だけではない。
文字通り地球上の全体が、強力な悪しき魔族の勢力によって支配されている。
昔は原始的な存在でしかなかった魔族も、時代とともに智慧や能力を備え、神族達の手に負えないほどになってしまった。
魔族が強くなった。
それだけならば、まだ天界側にも余裕がある。
元々、神族は魔族の上位である存在だ。魔族がどこまで変容したとしても、神族を越えることはあり得ない。
全面的な戦いともなれば、神族側が勝利することは間違いないのだが……。
しかし、天界の事情は大きく変わってしまった。
「……また、島が離れているわね」
「あっ、エイリン、またその望遠鏡を持ってきたのね。私にも見せてよ」
「はい、どうぞ」
天界が、不安定化している。
いや、天界の全てが不安定に陥っているわけではない。
神族が利用していない、神族の影響下にない空間が、徐々に空間としての力を希薄にさせ、失い始めているのだ。
「本当だー、前に見た時よりもちょっと遠いかも……あれ、でも気のせい?」
ブロックとブロックを繋ぐ空白の消失。
それによる、島と島同士の距離の増大。
これは、天界が広くなっているわけでも、膨張しているわけでもない。
この現象が行き着くのは、天界空間の別離だ。
天界に存在する多数の勢力が、時と共に分離する未来を暗示している。
「もっと島にも行ってみたかったんだけどなー……」
「それはもう、難しくなりますよ。姫」
「むー」
天界に存在する神族たちは、地上から無尽蔵に襲い来る穢れを前に、いくつかの選択肢を迫られている。
孤立した空間の単独勢力として、穢れに立ち向かうか。
他の勢力と迎合し、共に闘うか。
もしくは――天界だけでない、別の場所へと居を移し変えるか。