ゼンはひと通り空を飛び回った後、静かに地面に舞い降りて、コルトを着地させた。
「ありがとう、ゼン様!」
「はいはい。お仕事、頑張るのよ」
「はーい!」
元気よく挨拶すると、コルトは再び日干し煉瓦を作るため、畑の方へと走っていった。
遠くから、“姉ちゃん、またあとでね”という声が聞こえてきた。
あの少年は、これから言いつけ通り、自分の仕事に精一杯打ち込むのだろう。
「おお、ゼン様、こんにちは。お変わりありませんか」
「はい、レオニさん。レオニさんこそ、お体は?」
「んー……まぁ、まずまずといったところです」
「ゼン様、こんなところにいらっしゃったので」
「おー、ゼン様。息子がいつもご迷惑を」
「ふふ、いえいえ」
仕事熱心で、元気な子供。
魔人たちの日常に溶け込む、善き魔族。
種族の隔て無く、誰もが心を許せる、争いのない世界。
平穏で、安心できて……そうして生きてゆける世界。
……もしも地上がこうであったなら、どうだろう。
地獄は使者を送らず、天界は迫害者を寄越さず、地上の民は心を荒ませること無く、憂うことなく……。
地上の人々は、心安らぐ一生を送れるのだろうか。
「……嫌だな」
私は、そのような世界は認めたくない。
魔族は魔族。魔人は魔人だ。そこに格差は、必ず存在する。
別け隔てなく。それを不可能とは言わぬ。だが、種族としての定めというものが、生けとし生ける者には存在するはずだ。
魔族と魔人は別物である。魔人がどうかは知らないが、地上からここへ逃げてきた悪しき魔族が、早々に別世界の民と意気投合できるとは思えない。
……何を、一瞬でも信じ込みたくなってしまったのだろう。
私は、地上で散々見てきたではないか。悪しき魔族共の横暴を。天界と地獄から逃げ遂せ続けてきた、連中の底知れぬ狡賢さを。
「ふッ」
肺の息を吹き出して、内に貯まった濁った氣を入れ替える。
「……天よ。私に、勇気を」
私は両手の拳を強く握り込み、ズタ袋に向かって祈りを捧げた。
白い翼、緑の長髪、金色の瞳。
ゼンと名乗るその美しい魔族は、貧しく小さな村クロワリアの人々によって、すぐに受け入れられた。
地上から来た魔族達は、少なからぬ荒事を経験しているせいもあるのだろう。誰もが強い力を持っている。
それは彼女、ゼンも例外ではない。ゼンは自らの力と飛行能力によって、クロワリアでの力仕事に貢献した。
クロワリアに棲む魔人たちは、空を自在に飛び回るゼンの姿を畏怖し、それ以上に強く尊敬している。
辺境の村に棲むことを決めた非力な彼らにとって、空を飛ぶ者といえば、時々近くを通りかかるドラゴンか、魔界の創造神である神綺か、魔界の守護者たるサリエルくらいのものだ。
そのいずれもが。強力無比な支配者階級の存在。故に彼らは、同じ空を飛び回るゼンを神聖視し続けていたのである。
ゼン本人は自らが魔族であることを明かしているが、彼女の奥ゆかしく掴み所の無い性格故に、魔人達はゼンに幻想を抱いていた。
少なくとも、自分たち以上に尊き存在であるのだと。
ゼンの住処は、他のものよりも分厚く、頑丈に作られた塔にある。
一家がひとつの塔で暮らすクロワリアでは、一人がひとつの塔を専有すること自体は珍しくはない。
それはクロワリア唯一の魔族であるゼンともなれば、当然のことであった。
しかし、ゼンの棲まう土の塔には、他の家屋とは決定的に違う部分がある。
彼女の棲む塔には、外壁のどこにも、入り口が存在しないのだ。
「ふう、疲れたー」
高さ三十メートルの土の塔の頂上から、翼を広げたゼンが内部へと入り込む。
そう、彼女の住まう塔だけは、翼を持った彼女にしか入れない入り口……塔の頂上部分にのみ、侵入口が設けられているのだ。
雨の降らないクロワリアにおいて、屋根がないこと自体はさほど重要ではない。
塔そのものの高さも、砂を含んだ風から内部を守るのに貢献しているだろう。
では、それでも塔の上から入ってくる細かな砂などはどうしているのかといえば、それさえ問題になることもなかった。
何故なら、彼女の住処は土に囲まれた外壁の中だけに留まらず、その下の地中にまで及んでいるのだから。
「やれやれ……見ない顔が来たと思ったら、旅人か。ちょっと驚いちゃったわね」
高い塔の空洞部を、ゼンがゆっくりと降下してゆく。
適度な広さを取った土の塔に翼が触れることはない。彼女の塔は、特別頑丈に造られているのだ。もう何百年も崩れておらず、またその必要もないために、何者も寄り付かない。
「けど、力は魔人並みに虚弱。特に気にする相手でもないか」
塔の高さよりもずっと深く降りて、穴の底までやってくると、ゼンは翼をはためかせ、真横へ飛び始めた。
地中の横穴。そこが彼女の真の隠れ家だったのだ。
暗い横穴は、進むに連れて壁面も滑らかになってゆく。
次第に明かりも灯り、そこは地上に存在するクロワリアの住居以上のものへと変わっていった。
魔界の地面は、深くまで掘り下げれば全てが岩石質である。
その岩石がどのような物質であるかは、ゼンにもわからない。
だが均一で硬質な地中は、地下の居住空間を作るにあたってはこの上ない環境であった。
「ふふ……ふふふ……」
仄かな明かりの灯る長い廊下をゆっくりと飛び抜けて、彼女は地下の大広間へと躍り出た。
そこは広さだけでなく、上への高さも充分に取られた空間である。
荒々しく削られた天井部は薄い緑色に輝き、心臓の鼓動のように、一定のリズムを保って明滅していた。
「ああ、素晴らしい……本当に素晴らしいわ……この魔界は、本当に。ふふ……」
広場の中央でゼンが停止すると、天蓋に満ちた緑色の妖光が煌き、彼女の身体に降り注ぐ。
光は非常にゆっくりと降りているが、輝きは次から次へと供給されて、留まることがない。
そしてゼンは、徐々に自らの体内に入り込む力が可笑しくてたまらないように、一人、薄暗い闇の中で笑っていた。
「なるほど。それが貴女の真の姿ですか」
「!」
誰もいないはずの暗闇の中で、声が響く。
鈴のような声は地下空間で反響し、よく通る。
ゼンは金色の目を鈍く光らせて、勢い良く背後を振り向いた。
「この地下から発せられる悍ましい気配……とても、まともな施設だとは思えない」
薄明かりのついたその廊下に、女が立っている。
「真上にある集落の畑が、近頃病を招いているという話ですが……まぁ、無関係ではないのでしょう」
燃えるような、紅い長髪。
鋭く細められた、青い瞳。
血糊でどす黒く変色した、両腕の包帯。
身なりなど全く考慮していないかのような、薄汚れた粗末な服。
そして、肩に提げた大きなズタ袋の荷物。
つい先程目にした“旅の女”が、そこにいた。
「な……ぜ、ここに……」
「ついてきました」
「どうして、ここは塔の上からしか……」
「後を追い、塔は僅かな取っ掛かりを使って登りました」
「そんな、この私が気づかないはずが……!?」
「気配を消したのですよ。まぁ、上手くいくかは半々といったところだったのですが……」
紅髪の女が脚を広げ、拳を構える。
「しかし、全く気付かないとは。地上の魔族も、随分と牙を抜かれたようで」
女の目に、もはや迷いはなかった。
正面にいるゼンを、紛うことなき敵だと確信したのだ。
そういった雰囲気は、当然真っ向から受けているゼン自身、一番よくわかっていた。
「地上の魔族を、知っている……? ああ、そう。なるほど……貴女も、魔族なのね……」
自らの隠れ家への侵入を許してしまったこと。
自らの行いが見られてしまったこと。
そして、久方ぶりに向けられた敵意。
それらの衝撃を一度に受けてしまったゼンだが、彼女には余裕があった。
「ふふ」
ゼンは緑色の長髪を整え、口元の笑みを作り直し、笑う。
「そう……貴女の想像通り、ここは私の真の住処よ。何百年も前から作り続け、五十年程前から動き続けている……私の“毒の巣”」
今もなお彼女の身に舞い降りる、煙のような妖光を手に取り、ゼンはそれを口元へ運んで、舐めた。
「私は毒鳥のゼン。こうして地中から外へ向けて毒を広げ、地上の作物に私の毒を含ませているの」
「……力を得るため、か」
「もちろん。私の毒に冒された者は、少しずつ活力を奪われてゆく。……もちろん、あの魔人共が悟れない程度の、微量ずつだけど……フフフ」
ゼンが不気味に笑うと、彼女の翼は次第に純白の色を失い、髪と同じ緑色に染まり始める。
緑。鮮やかすぎる緑。それは自然にあっても、無意識のうちに警戒心を抱いてしまうような、毒々しいまでの緑色であった。
「魔界の魔人達も、馬鹿なものよね。たった数百年一緒にいただけで、私のことを無害だと信じて疑わないんだもの」
紅髪の女はゼンの翼の変化を見て眉を顰め、一歩退く。
「魔人への横暴や侵略は……魔神から許されていなかったはずだ」
「知ってるわ。でもそんな口約束、我々が守る必要あるの? それに、見られていなければ関係のないことでしょう」
「約束は守るべきだ。そして、貴女の行いは私に見られている」
「ええ、確かにそうね……貴女には見られてしまった……けど」
緑色の巨翼がはためき、ゼンの身体が広場に浮き上がる。
「“そんなの、関係のないことでしょう”?」
「……やはり、魔族は魔族か……来い」
ゼンが舌なめずりし、紅髪の女が拳を構え直す。
誰も知らない地下空間で、魔族の闘いが始まった。