最近働きすぎだと自覚のある私は「温泉いかねぇ?」という銀さんの言葉に一も二もなく頷いてしまった。
そして、デッキブラシで露天風呂の床を磨く羽目になっている。
「いや、疑うべきだった、うん。万事屋にそんな金があるわけないじゃんね」
リゾートバイトと言えば聞こえがいいが、普通に依頼だった。
現在男湯と女湯に分かれて清掃中。私は神楽ちゃんと一緒に女湯担当だ。
「こうなったら元を取るまで温泉飲みまくってやるネ。きーやんもお肌がむちむちぷりんになるまで飲みまくるアルヨ」
「うーん……ちょっと遠慮したいかな。それよか、後でアイス買ってあげるから、とっとと掃除終わらそう」
「ほんとうアルか!」
「本当、本当。私が洗剤撒いてくから、神楽ちゃんは磨く係ね」
私としては無難な役割分担だと思ったのだが、気合の入った神楽ちゃんを甘くみていた。「うりゃぁああ」という掛け声の元、凄い勢いで磨き始めた神楽ちゃんに追い回される羽目になった。
「ひと仕事終えた後のアイスは格別アルな。きーやん食べないアルか?」
「脇腹が、脇腹が痛い……。マジムリ。神楽ちゃん……どうぞ……」
全力で走り回ったせいで、死ぬほど脇腹が痛い。とてもじゃないがアイスを食べられる状態じゃない。
温泉宿に併設されている売店の前にあるソファーで脇腹を押さえ蹲る私をおいて、神楽ちゃんはアイスを両手に持ってご満悦だ。
「おいおい、サボりとはいいご身分だなぁ」
そんな私の元へやってきたのは元凶である銀さんだった。
清掃中だろうか? 手ぬぐいを頭に巻いている。
「サボりじゃないアル。掃除ちゃんと終わらせたネ」
「そうだ、そうだー……もっといえ神楽ちゃん」
反撃は神楽ちゃんに任せた。
「うっせー人が汗水垂らして働いてる時にアイスくってんじゃん、いいなぁー俺もアイスくいてーよ」
「食えばいいネ、そこで売ってるアルヨ、好きなだけ食えばいいヨ」
「いいなぁー俺も人の金でアイスくいてーよ」
「ほら新八君が呼んでるよ、掃除途中なんじゃないの?」
恨めしげにこちらを見つめる目に負けてはいけない、しっしっ、と追い払えばくそと悪態をついて銀さんはどこかへ行った。
「きーやん大丈夫アルか?」
「なんとか……。神楽ちゃんは元気だねぇ」
「若いからな」
「あー、温泉たらふく飲もうかな。少しは若返るかも」
「そうするネ」
真っ白なマシュマロみたいな肌を目指そう。神楽ちゃんはアイスを食べるのに夢中でほっぺたをぷにぷにしても意に返さない。役得。
「ふぃー、疲れたぁー」
「お疲れ様。はい、新八君と銀さんの分」
掃除を終えた二人に透明なビニールに包まれたアイスキャンディーを手渡せば「あんがと」「ありがとうございます」と返ってきた。
それから夕食の支度をして、宴会の片付けを終えたところで一日の仕事が終わった。
「終わった~」
あてがわれた部屋でぐでーと伸びると、同意するように新八君も頷いてくれた。
「終わりましたね」
「ん~、んー、あー、う~」
「神楽ァ、ちゃんと布団で寝ろ~」
銀さんも流石に疲れたのかダルそうだった。神楽ちゃんは半分寝ながら隣の部屋に用意された布団に潜り込むとそのままいびきをかいて寝始めた。
「疲れたけど、
「さすが老舗旅館……その分お客も多くて大変ですが」
「三食飯風呂付き、嘘は言ってねェだろ」
「労働付きとも聞いてないけどね」
寝転がりながら鼻をほじる銀さんに文句の一つや二つ、三つも言いたいが……。
「ふわぁ、私も眠い。おやすみ~」
「あいよ」
「おやすみなさい」
ふすまを閉め、オレンジ色の豆球の明かりに包まれると自然と意識が落ちていった。
何時だろうか。体感的には深夜、いつもよりも早い時間に寝たからか変に目が覚めてしまった。
しばらく寝る努力を続けたが、諦めて神楽ちゃんを起こさないように、そっと寝床を立つ。
ふすまの向こうでは新八君と銀さんが寝ている筈だったが、その一つは空っぽだった。
もう一つの寝床では新八君が枕元にメガネをおいて、すやすやと寝息を立てている。
お手洗いだろうか?
あてがわれた部屋は旧館にある。お客さんに出くわしても面倒くさいので、どうしようか悩んだ後、裏庭を散策することにした。
明るい月が庭を照らしていた。池は枯れているが、松の木が風に揺れて
深く吸い込むと、シンと冷えた夜の空気が肺を満たした。
「いい月だなァ」
そう声をかけられたのは、月に目を
「綺麗な月だよねぇ。トイレだった?」
「ん、ああ」
銀さんも同じく寝付けなかったのだろうか。歯切れ悪く頭をかいていた。
「年をとると朝が早いらしいよ」
「そりゃ、てめぇが年寄りだと言いたいわけか」
「私がババアだったら銀さんはジジイだね」
「へいへい、言ってろ」
あれから――自分のことが嫌いかと聞かれたあの日から、銀さんはそれについて何も言うことはなかった。
何も変わらない日常が過ぎていく中、私は都合よくそれをなかったことにしてしまった。ひどい言葉をぶつけてしまったと思いはするものの、お互い様だという気もしている。
銀さんは――どう思っているだろうか?
「銀さん」
「ああ?」
私が熱心に月を見ていたものだから、銀さんもつられるように月を見ていた。
「私さ、昔っから兎が探せないんだよねぇー」
それを見ながら兎探しを続ける。
「お前、馬鹿だろ、ほらあそこが頭でだな……」
銀さんはそう指差すけれど、遠い月を指す先はあやふやでどこをどう指しているのかが全く分からない。
「ほれ」
ぐいっと頭をあげられ、横から伸びた腕が視線を誘導するように顔の横を通って月を指し示す。
背後に体温を感じた。
「あっちが頭で、こう胴体があって」
「餅は?」
「あんこ、食いてェなぁ」
「砂糖醤油もいいよねぇ~」
兎そっちのけで、食べたい餅の種類があがる。
なぜ人の体温というのは泣きたいように染みるのだろうか。背中からじんわりと広がるぬくもりに身を浸す。
私は私のことを好きになることができない。けれどそれを知った上で銀さんが私を忌避しないものだから、なんだかそうしても良いのだと言われているような気がして、そうしたらなんだか――。
「銀さん、私さぁ。最近は自分のことそう嫌いでもないんだ」
「そうか」
「あの時はごめん――八つあたった」
ぐしゃりと頭をかき混ぜられた。
許してくれたのだと思う。
「一つ聞いていいか?」
「んー?」
背中から離れて、月を見上げながら銀さんはそう聞いた。
「なんで、尾美に……手を貸した?」
「ああ……。結論だけ言えば、欲をかいたからかなぁー」
月に手のひらをかざす。透ける筈もなく、届く筈もないのになんだかそれがとても悲しかった。
「欲? 奴を助けたかったなら……」
良くわからないという顔をして銀さんが続けようとしたのを制す。
「尾美さんは関係ないよ。むしろ私は……彼が死ぬことを肯定すらしていた……彼が彼のままに、彼らしく終わることが良いとすら思ってしまっていた」
それは、羨望であり、願望だ。
ぼこりぼこりと泡立つように言葉が漏れる。言葉を交わすことで、銀さんと私の境界が溶けて交わる気すらした。
「帰りたい。私は……帰りたいんだ。そのためには星間波動ビーム砲のエネルギーが必要だった。だから助けた……だけどそれを取り出すには彼を殺さないといけなかった。だから諦めた」
帰りたい、冷たく暗い部屋のなかで、境界をはっきりと示し、私が私でいられたあの場所へ帰りたい。
誰もこない部屋で、来るはずのない人を暗澹と待つあの部屋へ帰りたい。帰りたいのだ。
新八君も神楽ちゃんも銀さんも定春も、誰もいないのに、私はあそこへ帰りたい。
「ごめん」
謝った私の頭を、もう一度銀さんはぐしゃりとかき回した。
「初めて聞いたきがするよ。お前の願いを」
「そうかな……? いつもいってる気がするよ? オムライス食べたいとか、300円欲しいとか、定春に埋もりたいとか」
「そーいうんじゃねーよ」
困ったような奴だという風に鼻をならして、さらにぐしゃぐしゃに頭をかき回す。
「かき回しすぎ!」
「多分、困るよ。神楽も新八も……お前が帰っちまったら」
やりすぎだ! とはねのけようとした手を避けて、銀さんがそんな事を言いだした。
そんな訳……あるかもしれないが、言いくるめられてたまるかと私は反論する。
「確かにさ、私がいなかったら今回の依頼も女湯の掃除神楽ちゃん一人でやることになっただろうし? そしたら色々壊しちゃって依頼料より修理費用が高くついちゃったりするかもしれないけどさ。でもさ、そんなの一時的なことで、少し寂しいなぁーって思って、そして、いつかいい思い出になるんだと思うよ」
我ながら完璧な推論だと、頭を開放され、ぐしゃぐしゃになった髪を整えながら言えば、
「なんねーよ」
真剣な声が降ってきた。
見上げたら、銀さんが目をいつもより開けて、もう一度はっきりと「ならない」と告げた。
「アイツ等はいつまでも、お前を待つよ。俺も」
「そんなの……困るよ」
そんなのは止めて欲しい。そんなのは……私と一緒だ。ぐしゃりと何かが潰れる気がした。
誰もこない部屋で、来ない人を待つ私と重なる。それは……とても困る。
「じゃあ、困ってろ。そしてそれでも帰りたいつーんだったら、ちゃんとケジメつけて帰りやがれ。だけど俺等はお前の事をいい思い出なんかにしちゃやんねーよ」
折角整えた髪をもう一度ぐしゃぐしゃにかき回した銀さんは一言一言を私に刷り込むように告げる。
月の光が銀さんの髪の毛にあたって、キラキラと光っていた。
「そーいうの苦手」
誰かの重しになったり、誰かに想われたり、誰かに愛されるのはとても……とても苦手だ。
重く感じているだけがいい、想っているだけがいい、愛しているだけがいい。互いにそれをしてしまえば、境界線がぐずぐずに交わり、溶けてなくなってしまいそうになる。境界線から何かが漏れ出して、私が私じゃなくなってしまいそうな気がする。そうしたら、戻れなくなってしまいそうな気がする。
「諦めろ。お前が苦手だろうがなんだろうが、日は昇るし、他人ってのもお前が思ったようには動いちゃくれねーんだよ。お前がそうして欲しいって願ったところで、俺もアイツ等も素直に聞くと思ってんのか?」
「聞いてよ」
やめて欲しい。そんなのは。けれど、私の都合なんてお構いなしに、銀さんは言葉を刷り込み続ける。
「聞かねーよ。お前がどこにいこうが、俺らはいつまでもお前の居場所を空けて待ってるよ。泣きべそかいて帰ってこれるようにちゃんとな。お前が嫌がろうが、耳を塞ごううがなんべんだって言ってやる」
泣きたいような、叫びたいような、膝を抱えてうずくまりたいような、走り出したいような訳の分からない情動が波のように押し寄せてくる。
指の一つでも動かしたら、それが私を突き動かして、取り返しのつかない何かを叫んでしまいそうになる。
反論の一つも言えなくなった私に、銀さんは「明日も早ぇんだからもう寝ろ」と、もう一度頭をぐしゃりとかき混ぜて宿へ戻っていった。
しばらく動けなかった私は翌朝寝坊して、女将さんに怒られる羽目になった。