エリー、と
吉原の事件の後、クビにはならなかったものの、無断欠勤常習犯として目をつけられてしまった――ロッカーを共同で使うパートのオバサンに。悪い人じゃないんだけど曲がったことが嫌いな人で、「あんたのためにいってるんだよ?」から始まった説教はぐうの音もでない正論で、しばらく静かに誠実に過ごそうと心に決めたのだった。
ポイントカードはお持ちですか? レジ袋は必要ですか? お会計は……ただただそれを繰り返す機械になろう。相棒はこの赤い光線を出すバーコードリーダーだ。ハードボイルドに生きよう。そう心に決めたそんな折、
「ポイントカードはお持ちですか?」
「生憎と、ああレジ袋は結構です。シールだけで。それとは別で、ちょっと署までご同行願えませんか?」
ハードボイルドに生きると決めた矢先ではあるが、ハードボイルドな台詞がまさかスーパーのレジカウンターで聞けるとは思っていなかった。
お茶でもしませんか? というノリで放たれたセリフに対する回答よりも先に、思わず使い慣れた言葉が口をつく。
「ポイントカードお作りしますか?」
「いえ結構です」
「合計は三百十五円になります」
「後ろに車停めているので、一緒に来てください」
「おつりとレシートになります。クーポン券がでておりますので、次回お使いください」
「ふむ」
「では、またのご来店をお待ちしています、ありがとうございました」
「こちらとしても穏便に済ませたいところなんですが……おとなしく一緒に来てくれませんか?」
眼の前の男は、薄茶色の髪をなでつけ銀縁のメガネの奥から鋭い視線を投げかける。
胡散臭い笑みは鴨ちゃんに通ずるものがあるなと、一人で感心しながらスーパーのロゴが入ったエプロンを外す。
「すみませーん、休憩入りまーす。帰ってこれないかもしれないので後頼みます。お並びのお客様、申し訳ありません隣のレジに並んで頂いてよろしいでしょうか?」
「えっ!? ちょ、ちょっと!? 店長! 店長! またあの子が勝手してます!!」
多少の混乱を無視した私は、男に先導されるがままにスーパーの裏手に向かう。
「念の為に聞くけど、
「おや、よくご存知でいらっしゃる。そのとおりですよ」
言葉通り、スーパーの裏手に止められた車の後部座席に座らされた私は、目的地不明のミステリーツアーに強制参加させられる。
乗り込む前、一応の抵抗を示したのだが口弁でこの人に敵うわけもなく……。
「いいかげん、目的地教えてくれてもいいんじゃないの?」
「見てみたほうが早いでしょう。もうすぐつきます」
さっきから言葉を変えやりとりした行為だが答えてくれる気はないようだ。そうこうしているうちに、車はある工場の前にたどり着く。異三郎の目的地はどうやらそこだったようで、路肩に止めた車から降り大きく間口を開けている表口から中へ入っていく。
溶かされた鉄が鋳型に流され成型され、ベルトコンベアの上を流れていく。その先で工場で働く人達によって、それが部品の形に組み立てられていく。
「ここは?」
「普通の町工場ですよ。どこにでもあるね」
異三郎の言葉通り、たしかに普通の町工場のようだった。イマイチ要領の得ない回答にうなずきながら、異三郎の後ろをついて工場の奥へと歩みを進める。
「ふざけるなっ!」
そう荒げる声が聞こえたのは、工場の奥、事務所に続くであろうドアの前であった。何事かと訝しむ私を置いて、異三郎は迷いなくそのドアのノブに手を掛ける。
「こんにちは」
昼行灯のようなのそりとした動きでドアをくぐった異三郎に、男二人の目線が向く。
「あんたは……」
「これはこれは、ちょうどいいタイミングで」
男のうち一人、作業着を着た男性は誰だ? と
「いやぁ~ね、こちらの工場長が頑固で頑固で、どーしてもこちらの話を聞いてくれないものですから、管轄違いだとは重々承知なんですが、顔を立てると思って少し話を聞いていってくれませんかねぇ? 工場長、こちらはほら前に言っていた僕の知り合いで、政府の……ね」
ライオン男の場違いにも感じるさわやかな笑みとは対照的に、工場長と呼ばれた男は渋面を作る。
「政府のおえらいさんが、寂れた町工場になんのようだ」
ぶすくれた態度に、ライオン男は言葉を重ねる。
「いやぁ~僕まだ地球の『法律』に詳しくなくって、ほら、色々難しいでしょう?」
「どういう意味だ……」
強調された『法律』の言葉に、工場長が反応する。
「この前言ったほら、あれ、やっぱまずいんじゃないかなぁ~って」
「あれは! あんたらがそうやれって言ったんだろう!?」
「いやねぇ~。あとになってやっぱまずいんじゃないかなぁ~と思っちゃって、それで話を聞いてもらおうと」
「ふざけるなっ!!」
話の内容から推測すると異三郎はこのライオン男に呼ばれてここに来たのだろう。工場長とは初対面のようだ。そしてライオン男と工場長は過去になにか法に触れるようなことをした――あるいはグレーゾーンな事を。疑問に思うのは、共犯であるはずのライオン男が、なぜ異三郎を連れて裏切るような真似をしたのか? ということだ。
「怒らない怒らない。僕と異三郎君との仲だから、やっぱりまずいって事になったらここだけの話にしておいてくれるんじゃないかと。もちろん工場長も僕と
「くそっ……」
舌打ちする工場長と、さわやかな笑みを浮かべるライオン男。
つまりこういうことか、ライオン男はこの工場長を脅していると……。異三郎は脅すためのブラフ。そこからの続きは工場の買収のための交渉。それは言うまでもなくライオン男に有利な条件で締結され、工場長は被っていた帽子を握りしめて悔しさと怒りで顔を歪めていた。
工場から出た私達は再び路肩に止められた車の中に戻ってきた。だが、エンジンを始動させることなく異三郎は口を開く。
「
「普通の……ね」
「どこも同じですよ。同じようなことが場所を変えて、人を変えて行われている。……すべてをひっくり返すには途方も無い力がいる」
「それでしがないスーパーの店員味方につけて決起でも起こそうという訳? そーいうのはどこぞの
「ふむ……まぁいいでしょう」
あくまでしらを切る私に、それ以上言い募るでもなく異三郎はエンジンを始動させた。
そして再びスーパーの裏手に車は停められた。
「ありがとうございました」
「これは独り言なんですがね」
社交辞令を口にしながら車から降りる私へ、窓を開けた異三郎から言葉が投げつけられた。
「はぁ……」
独り言なのだから、返事をするのもいかがなものか? と思いはしたが適当に相槌を打つ。
「当事者じゃない人間が手を出すのは良い結果を生み出さないと思うんですよ。人にはそれぞれ居場所ってもんがあるでしょう。できれば私は……いや止めておきましょう、では」
座りの悪い言葉だが、独り言というのであれば文句を言うのも筋違いであるわけで、まぁなんというか、異三郎の意図を理解しえぬままに私は彼を見送った。