『からくり堂』とかかれた看板は傾き、ところどころ瓦も欠けていた。
本当はもっと早く来る予定だったのだけれど、慰安旅行に出かけると張り紙が貼ってあったので諦めたのだ。その後も、子猫の里親探しに奔走して……今に至る。
それにしても、指名手配犯が町内会の慰安旅行とは、随分呑気な話だ。
オイル染みがついた地面を踏みつけ、開けっ放しの戸を潜る。
「済みま……」
声は途中で途切れた。
組みかけの部品や、工具が散乱する暗い室内。
「ふっかけんなァ……腕だけじゃなくて、値段も江戸一番ってか? オイ」
「馬鹿いってんじゃねー。急ぎ仕事だって無理を言ってきたのはアンタの方じゃねーか。大の男がぴーぴーガーガーケチクセェ事言ってんじゃねーよ。まぁ、仕上げに問題がありゃあ別だが? どうだ? その価値はねぇか」
やれやれといった風にスパナで肩を叩く源外さんに対峙する、黒い外套を羽織った一人の男。癖の強い茶色の髪が肩まで伸びていた。
外套から伸びた腕は、硬い金属に覆われている。――鉄矢さんと同じだ。
源外さんの言葉に、男は義手を握ったり開いたりと、確かめる様な動作を繰り返す。紫色の
「……ったく安月給の身にもなって欲しいもんだぜ、おら持ってけドロボー」
取り交わされる金銭。用はそれで終わりだとばかりに、男が振り返る。
――
視線が合った。片眉を上げた阿伏兎は、源外さんへ視線を移す。
「客か?」
「まあ、そんなとこだ。なんだ、遊びにでもきたか。鉄の字の奴なら寝てるぞ、なんせ三日連続徹夜でこいつ仕上げてたからな。俺も相手できねーぞ? 流石にこの歳での徹夜は堪える」
アクビをしながら源外さんは阿伏兎の義手を指さした。
動揺を悟られないよう、慎重に言葉にする。
「失礼ですが、その腕は……事故とかで?」
「まぁ、事故っちゃあ事故だなァ。労災保険、おりてくんないもんかねぇ」
ため息をつきながら阿伏兎はもう一度確かめるように拳を作り、手首を回す。
労災。やはり神威か、なら既に吉原に?
邪魔したなと、私の横を通り過ぎ、阿伏兎は陽の当たる明るい通りへ、傘をさし出て行った。
「で、お前さんは?」
パイプ椅子を軋ませる音に、ふっと現実に戻される。
椅子に腰掛けた源外さんが隈の浮かんだ顔でこちらを見ていた。
「え、ああ。頼みたいことがあったんだけど……」
「ど?」
口の中で言葉が絡まる。
「お疲れのようだから、また今度お願いするね」
「いいのか?」
「急ぎじゃないから」
「そうかい、ならそーしてくれると助かるわ……ふわぁあ、俺ァもう寝るぞ」
奥へさがっていった源外さんの背中を見送り、一人残される。
背負い過ぎず逃げ出さないと決めた。
手のひらの中で、握りしめていた試験管を転がす。
「ログポーズ……降ってこないかなぁ……」
油臭い部屋の中に呟きが響いた。
賑わいをみせる表通りはちんどん屋が姦しく、店先では値段交渉の舌戦が繰り広げられていた。
私の横を子供が駆け抜け、母親が追いかける。
「お母さん早く!!」
「待ちなさい、そんなに急ぐと転ぶわよ」
追いついた母親が子供の手を掴み、仲良く連れ立って歩いて行いていった。
「お母さん……かぁ」
遠い昔に置いてきたものは、他人の物であり、ホームドラマの登場人物でしかなかった。
じっと足元を見下ろす――地下に広がる桃源郷。そこにも『誰か』のお母さんがいるのだろう……。子猫達を里親へ送り出した万事屋はいつも通り三人と一匹。増えることも、減ることもなく、通常運転、開店休業中だった。
結論を保留としたまま、流れに身を任せ、行き着く場所を目的とする。
絶望に染まったヘリの操縦者と、硬い骨を削りながら血肉を切り裂く感触を思い出し、現実が遠くなるような感覚に陥った。
通りを歩く人間に混じる一匹の幽霊。
「――!?」
背後から突然腕を捕まれ、ビクリと体を震わす。振り向くと、なんだか少し焦ったような顔をした鴨ちゃんが、隊服姿で立っていた。
「びっくりしたー。鴨ちゃんじゃん、どうしたの?」
「ああ、いや……」
歯切れの悪い言葉に、目的地を決めた。
「デートしようか?」
「で、でー……!?」
ちんとんしゃんと、涼やかな音楽が鳴り、朱色の化粧が施された建物が立ち並ぶ。ここが地下だという事を忘れてしまいそうな美しさ。遊女たちが「やだ、まぁ」と艶やかな紅に桜色の爪を揃えて、旦那方の袖を引いていた。
「真選組の旦那、ちょいと遊んでいきません?」
ふふふっと見惚れる程の笑みを浮かべた遊女に、鴨ちゃんも袖を引かれていた。
「仕事中だ。掴むな! 行かないと言ってるだろう、やめっ……うわっ、どこを掴んで、あっ、くっ……オイッ行くぞ」
最初は素気無く断っていた鴨ちゃんだったが、断れば断る程、面白がったお姉さん達が増えていき、きゃいきゃいと囲まれていた。それをほうほうの体で抜け出したかと思うと、私の手を取り走りだす。
敵前逃亡とは漢が廃りますよ?
「っはぁ……ここまでくれば……」
建物と建物の間の裏路地に逃げ込んだ鴨ちゃんは、頬を流れる汗を、袖口で拭い、辺りに目配せする。
「意外、てっきりこの手のあしらいなんて慣れてるもんだと思った」
「君なぁ……。はぁー、まあいい、何か探しものか? 手伝うぞ」
じっと眼鏡の奥から鴨ちゃんの目が静かに見つめていた。
「なんで分かった?」
「どこの世界に、デートで
「さすが
何かが助かって、何かが助からないなんて事が、とてつもない不公平に思えたのだ。
少し、思案する仕草をした後、鴨ちゃんは口を開く。
「迷子の子供を探すのなら管轄外だ……と言いたいが、
「んー。食べられるかどうかは、食べてみないとわからないよ? チャレンジしてみる? 折角の吉原なんだし?」
「やめておくよ、腹を下しそうだ」
鴨ちゃんはゲンナリとした表情で、仕方ないと心よく了承してくれた。
「ここは
表通りに出た鴨ちゃんは言い含めるようにそう言うと、一つの店に向かう。
暖簾をくぐったそこは、薄暗い料亭のような雰囲気で、入り口にカウンターが一つ。
「何か……御用でしょうか?」
しゃがれた声がした。
カウンターの向こうは小上がりになっており、そこに敷かれた座布団に座った老婆が発した声だった。
「ミミズクを一羽」
鴨ちゃんがそう言うと、
――パンッ
しわくちゃの手から発せられたとは思えない張りのある音に呼ばれ、一人、芳しい香を身に纏った女が出てきた。
こちらにと、カウンターの横に伸びる階段の上へと招かれる。
階段を登りながら、鴨ちゃんに「彼女は?」と聞く。
「吉原界隈の情報を流す情報屋、といっても窓口でしかないのだが」
「元締めは誰?」
「それこそ知らぬが仏、知った人間も仏だろうが」
そりゃあ物騒な事で……でも、蛇の道は、蛇というか、やはりキツネの住処はキツネに聞くに限るね。
先導された先は、二階の最奥にある客間だった。
「あんまり見てるんじゃない」
枕が二つ並べられた布団をジロジロと眺めていたら、鴨ちゃんに窘められた。
そーいうお店でもあるんだ一応。
女はその隣に座していた。
「夜の鳥を太陽の下に引きずり出し、求めるモノはなんでございましょうか?」
大人びて見えていたが、声色は年若く、化粧で作られたモノだという事に気付かされる。
「それは彼女から」
鴨ちゃんが私の背をスッと押した。
「人を探しています、晴太という男の子。日輪に通じる子です」
「日輪姉様の……。そこまで知っておられて……ならば何も申し上げる事はありません」
日輪の名に、女は一瞬動揺を浮かべたがすぐにそれを収め、立ち上がる。
「鳳仙が怖い?」
「………………」
畏怖と憎悪。見下ろす瞳と、握りしめた拳をそう読んだ。
「手は貸せないか」
鴨ちゃんの言葉にも、女は首を振る。
「いくら恩のある旦那の頼みでも……堪忍下さい。ここは女の世界、吉原桃源郷。しかし、それを牛耳るのは夜王
「待って、危うい状況って!?」
「知ったうえでここへこられた訳じゃっ――何も聞かなかった事にして下さい!」
一瞬浮かんだ、失望した様な表情を見逃さなかった。
「は、離してください」
「晴太君は今どこに? 鳳仙の元にいるの?」
「言えません」
「日輪は太陽。私は貴方と日輪さんの関係を知らないけれど、貴方にとってもそうなんじゃない? 貴方の口ぶりでは、晴太君はそうとうまずい状況にいるみたいだ。だから期待した。誰かどうにかしてくれないかって勝手な希望を抱いた。もしかしたら私達がそうなんじゃないかって、違う?」
「違います! 何も知らない癖に! ここがどういう場所かも知らない癖に!
悲痛に顔を歪ませ、叫ぶ。腕を無理やり振りほどき、襖の向こうへ逃げるように走っていった。――指を回した腕は細かった。
ジジッと蝋燭が音を立てる。ぽっかりと空いた襖の先の廊下は暗く、トタトタとした足音もやがて消える。
確かに彼女は何も言わなかったが、態度で分かる事もある。そうか、晴太君は鳳仙の元にいるのか――。
「思案中の所悪いが、そろそろ事情を説明してくれないか?」
地下の王国、吉原桃源郷。その頂に存在する最高位の遊女、
いや、だって、最初に言ったらついてきてくれなかったでしょう?
気になって、開きっぱなしの襖を閉める。
膝を付きあわせて、おおよその概要を鴨ちゃんに伝える。日輪さんと晴太君の関係性、鳳仙。そして――春雨。全ての話を聞き終えた鴨ちゃんは、頭を抱えていた。
「春雨が吉原を手中に納める為に動いていると……? 一体君は何を考えてるんだ? これは個人の手に負える問題じゃない。一旦隊に戻って――」
「戻って、どうするの?」
「対策を考える」
「そんな時間はない」
「――なら、せめて応援を」
「連れてこれるの? ここは女の世界、地上のルールは通用しない、そう言ったのは鴨ちゃんじゃない」
「…………」
親指の爪を食み、他に何か策はないかと鴨ちゃんは苦悩していた。まいったなぁ、頭の良い鴨ちゃんの事だ、ここでは真選組という肩書が、邪魔にしかならないという事を分かってくれると思ったんだけども……。
気遣いは無用だと、切り捨てられぬ程に入れ込んでしまっている身としては、その苦悩はありがたいが。
「大丈夫だよ、鴨ちゃん。そんなに心配しなくても。結構強いの知ってるでしょ?」
「分かっていないのは君だ。ことの次第では命が無事でも
「鴨ちゃんそこまで。どうやらお迎えが来たみたいだよ? 大丈夫だって、きっとそんな事態にはならないから」
視線を上げると同時に、スパンっと襖が開かれた。
戦装束を身に纏った女性達。その先頭に立つのは、死神太夫――
「きな臭い匂いに駆けつけてみれば。火がないところに煙は立たないとは、よく言ったものでありんす。大火事になる前に、火の元は消しんせんと」
煙管の代わりに、クナイが握られる。
「吉原自衛団百華。どうして――ミミズクか!?」
ガタリッと腰を浮かせて、鴨ちゃんが刀を握った。
呼び声に答えて、ミミズクと呼ばれていた女が、百華衆の後ろからと顔を覗かせ、申し訳なさそうに頭を下げる。
「例え旦那様でも地下の法を犯せば、上へ戻る事はかないますまい。恩義に背くことお許し下さい」
それを一瞥し、庇うように前に立つ鴨ちゃんが、私にだけ聞こえるように囁く。
「――どうにかできるか?」
「逃げるだけならね。でも、その必要はない。月詠さん」
「なぜわっちの名を?」
突然の呼びかけに、片眉をピクリと跳ね上げる。
「百の華を束ねる頭。そのご高名を知らない方がモグリってもんでしょう。そんな事よりも、取引をしませんか?」
「命乞いか?」
「まあ、そんなものです。この人は私に利用されただけの男。なんにもできやしません。大人しくする代わりに、この人は帰してあげてくれませんか?」
「オイ――」
「動くな!」
振り向こうとした鴨ちゃんに月詠さんが一喝する。今にもクナイを投げ打ちそうな雰囲気に、鴨ちゃんは動きを止めるしかなかった。
「ふっ、好いた男を身をもって庇うか……美談だが――」
「違いますよ、なんで皆、男と女が揃っていればそーいう風に見るんです? 見ての通り、この人は真選組です。百華としても、真選組と表立って争いたくはないでしょう? 真選組にしたってそう。なーんもできやしません。これは正当な取引ですよ。そっちにもちゃんとメリットはある」
「ふむ――確かに一理あるな」
邪推も過ぎる。
私としては正論を主張しただけなのだけれど、鴨ちゃんにとっては違ったようで――。
「何を言ってるんだ!」
「動くなといっておるだろう!!」
――ガガッ
「くっ……」
放たれたクナイが足元に突き刺さり、再び動きを止められる。
ミミズクに連れられ、口惜しそうに去っていく鴨ちゃんへ手を振った。