一千回と死んだ猫
「きゅうひゃくきゅうじゅうはち……きゅうきゅうじゅうきゅう…………せーーんっ!!」
千を数え上げ、そのまま床板につっぷした。腕が産まれたての子馬だ。女子力皆無な姿勢で見上げると、厳しい顔をした眼鏡がキラリと光っていた。
立てと? 立てと? ああ、はいわかりました済みません。
のそりと起き上がり、ともすれば、竹刀を落としそうな腕で構え、最後の一礼をする。
そして今度こそ本当にへたり込んだ。
「はい、お茶です」
「置いておいてくれると助かります」
新八君がお茶を差し出すが、今、握力ゼロのこの手で受け取ればぶち撒けること必然。
お盆に乗せたお茶が、寝転がる私の傍らに置かれる。
それを視線の端で捉え気づく。……ねぇ、新八君。湯気……凄くない?
「許した訳じゃないんですからね」
不機嫌そうな声で、ぼそりと言われた。
約束通り、素振り千回を言い渡された日の午後だった。
へたりこんだ私の隣で、ピンと背筋を伸ばし、新八君が折り目正しく座る。
「知ってますか? 命を大事にって、その辺に転がってる勇者だって初期装備してるんですよ? それに、「妖刀に気をつけて」って、ヒント与えるにしても、もう少しマシなヒントなかったんですか? それにそれに、実は私がラスボスでした~って風体で突然現れても、アドリブ効かせて合わせられると思うなよ! 空気読むにも限界があるんだよ! それにそれにそれに、キリさんはいつもいつも人が心配してるのに、そんな気も知らないで、振り回されるこっちの身にもなってみろっていうんだ!!! ねぇ! ちょっと聞いてるんですか!!!!」
「はい、聞いてます、済みません」
勇者はその辺に転がってないってツッコミを入れる間もなく、身を引き起こされ、こんこんと説教をされる。
「謝らないでいいです」
想定外の返事に、土下座の体勢から首をひねって、新八君を見上げる。
緩みのない顔。真剣に続ける。
「いくら言っても、どうせまた勝手に行動しちゃうんでしょ? 諦めたんで、僕」
「いやぁー、そんなことないような、あるようなー」
「あるんですね?」
「いや、ないような?」
「じゃあ、誓えます?」
う゛っと言葉を詰まらせる。誓って二度としないなんて……言えないねぇ。
ほらみろと、胡乱げに新八君が見つめてくる。
いや、だってさ、ほらさ、女の子には色々秘密があってね? 言い訳は色々頭のなかでぐるぐる回るが、どれもこれも口に出せば更に説教が長引きそうな場当たり的な物ばかり。
にらめっこは続き、首が痛くなってきた頃、ずずっと一人だけ美味しそうにお茶を啜り、新八君は言う。
「だから僕決めました。勝手に心配し続けます」
「普通……逆じゃない?」
腹筋だけで体を起こす、結構辛い。
「いいんです。心配するのやめたら、アンタ勝手にどっかでくたばってそうなんで、心配だけする事にしました……だからちゃんと帰ってくるってそれだけ約束して下さい」
「はーい」
「返事は短く」
「はい」
「よろしい」
ようやく納得してくれた新八君に、胸を撫で下ろす。
それにしても、帰るかぁ……。なんとも言えない居心地の悪さを感じながらも、喉の渇きはやまない。
その手に持ってる湯のみをちょっと私の口に差し出してはくれないだろうか?
じっと見つめる視線に気付いたのか、ため息をついて横に退けていた私の湯のみを手に取り、口元に持ってきてくれた。
わーい、新八君優しい。
でも、まだ熱かったので、もう少し角度を緩めてくれると嬉しい……。
二人羽織でもやってるような奇妙な体勢でお茶を飲み終えた後、パンと膝を叩いて気合をいれ、新八君は立ち上がる。
「じゃあ、これ片付けてくるんで、床拭きとあと、竹刀片付けておいて下さい。終わったら買い物行くんで、荷物持つの手伝って下さいね」
「えっ、ちょっとま…………」
無常にもお盆を持った新八君は去っていった。
床に置かれた二本の竹刀と、無駄に広い剣道場。そして……子馬はまだ生まれて30分ぐらい。
最後の返事を伸ばしたのが悪かったのかなぁ?
床を拭いているのか、雑巾を引きずっているのか分からないような有様で、床拭きを終え、竹刀を片付け、買い物についていく。プルプルと震える腕を見かねた新八君が、ティッシュペーパーだけ持たせてくれた。
優しすぎて涙でそう……持たせないという選択肢はないようだった。
そして辿り着いた万事屋の台所で、買ってきたものを冷蔵庫に閉まっていた新八君が悩ましげに首を傾け、やがてはぁーとため息をついてバタリとドアを閉めた。
「どうしたの?」
冷蔵庫の中身がスッカスカなのは今に始まったことじゃないよ? 予想できる心配事がなんともさもしい。
「いえね……最近、冷蔵庫に仕舞ってあった筈のものが勝手になくなるんですよね」
「プリンとか、アイスとか?」
「まあ、それだったら犯人は一人しかいないですし、勝手に自滅するんで別にいいんですが……最近なくなるのは魚とかハムとか、どうもらしくないというか……」
神楽ちゃんのプリンを盗んだ銀さんがどうなるかは推して知るべし。
それにしても魚とかハム……か。確かに
「ご飯足りてないのかなぁ……」
深い深いため息をついて、新八君は夕食の準備に取り掛かる。
もやしに豆腐に、こんにゃく、おから。
かさを増した
そして――ちくわに、サンマに、フライ用のアジと、盗まれたラインナップに、二人ではてと首をかしげる。そのままでは食べられない物を盗んでどうするというのだ?
お登勢さんにそれとなく聞いても、それらの食材が持ち込まれた形跡はないし、
電信柱の陰から、こそこそと様子を伺う。
「どこへ持っていく気なんでしょうね?」
「この先は確か神社だったよね?」
「ええ……といっても
視線の先――揺れる番傘を持った手の反対側には、一切れの鮭が握られている。
石で作られた飾り気のない階段をのぼり、境内の裏手、軒下を覗き込んだ神楽ちゃんは、チチチチチッと何かを呼ぶように舌を鳴らした。
「ごはん持ってきたアルヨー」
やがてのそりと、大きなお腹をかかえた一匹の白猫が姿を現した。見た目はなんともないのだが、昔に何かやったのか、生まれつきか、後ろ足を引きずりながら、ヨタヨタと進み出る。身重で、足がそれでは、エサを取るのにも苦労するだろう。神楽ちゃんが食糧をくすねる理由が分かった。
「一杯食べて、元気な子供を生むんだヨー。このグラさんが名付け親になってあげるネ。きっと強い子に育つアルヨ」
ガツガツとむさぼり食う白猫を撫でながら、神楽ちゃんはそんな事を言う。神楽ちゃんが名付け親になったのならば、それはもう強い子になるに違いなかった。新八君も同じことを思ったのだろう、顔を見合わせ、クスクスと笑う。
「行きますか」
音量を落とした新八君の言葉に、覗いていた草むらの陰からそっと立ち去った。
帰り道。
「無事生まれるといいですね」
「夜兎の工場長様が名付け親になるんだから、きっと大丈夫に決まってるじゃない」
そんな事を言いながら、新八君は明日はめざし買ってこようかななんて、私は生まれてくる子猫の毛色を想像したりなんかして、何も――不安なんて感じてなかった。
今にも雫を生み出しそうな、重く真っ黒な雲の下を私は走っていた。家を出る時までは晴れていたのに!! 寝坊して天気予報を見忘れた事を後悔しながら、バイト帰りの道をダッシュで駆け抜ける。
けれど道半ばという所でポツリ。
ああっ、くそっ!
悪態をついても、ポツリ、ポツリと粒は大きくなっていく。どこか雨宿りできる所と視線を巡らすと、身重のお母さん猫が住み着いている神社の石段が目に入った。新八君の話では、まだ生まれてはいないらしく、早く生まれてくれないと家計に負担がと、困ったようにため息をついていた。
私も母猫共々お世話になろうと、石段を二段飛ばしで駆け上がったそこで――。
――ぎゃあ、ぎゃあ
「止めろ! お前ら!! あっちへいくアル!!」
空を舞う複数の
傘を振り回しそれらを追い払う神楽ちゃんと――石畳に倒れ伏す母猫の姿。
「あっちへいけぇえええ!!!」
怒りをつのらせた神楽ちゃんの叫びがこだますると同時に、鴉達はチリヂリに飛び立っていった。
本格的に降りだした雨が、傘を武器として振り回していた神楽ちゃんのチャイナドレスを濃く染めていく。石畳に流れる血が、薄く流れていく。
パシャリ。
「きーやん……私、護れなかったヨ」
足音に気づいた神楽ちゃんがグシャリと顔を歪めた。
雨は止まない。
タオルケットに包まれた子猫がみーみーと鳴き声を上げていた。万事屋の一角。ダンボールで作られた仮宿の中で、丸くなって2匹。
結論からいうと母猫は手遅れだった。そして兄弟5匹の内3匹も――。
「定春、食べちゃダメアルよ」
神楽ちゃんはそれでも歯を食いしばり、銀さんから財布をひったくり、猫用のミルクを買って、湯たんぽを作って、雨で濡れた子猫達の世話を甲斐甲斐しく焼いていた。――新八君は私達が帰ってくる前に家に戻ったらしい。冷蔵庫に鯖が一切れ入ってるのを見つけてしまった。
「お子様は寝る時間だ、肌が曲がるぞ」
時計の針が十時を回る頃、眠い目を擦りながら、子猫たちをじっと見張る神楽ちゃんの背後から、銀さんがそう言った。
「今日の工場長は二十四時間連続シフトヨ」
「どこのブラック企業だそれは」
「給料3ヶ月滞納している会社よりは全然ホワイトヨ」
それでも神楽ちゃんはダンボールの前から
神楽ちゃんの隣に銀さんがどかりと腰を下ろす。
「おっかさんが命張って護った命だ。そう簡単にくたばりゃしねーよ」
「本当にそう思うアルか?」
「…………何かあったら呼ぶからお前はもう寝ろ。ガキの世話ってのは毎日が戦争なんだよ。母親がンなんで明日の戦場を生き残れると思ってんのか?」
「明日……」
「ああ。嫌になる程続くぞ? 24時間連続シフトどころか24時間365日連続フル出勤だよ」
「とんだブラックアルな」
「まっくろけっけよ。だから休める時は休め」
「……何かあったらちゃんと呼べヨ」
「ああ」
不安げに見上げた神楽ちゃんの瞳をしっかりと受け止めて、銀さんは頷いた。
神楽ちゃんを押入れに押し込め、時計の針の音だけが響く万事屋で、銀さんはダンボールの隣に陣取り、定期的にミルクをやったり湯たんぽの位置をずらしたりと神楽ちゃんの代理を務めていた。
「飲まないと、お前でかくなれねーぞ」
深夜1時を回ったあたり、銀さんは角度を変えたり位置をずらしたり試行錯誤していた哺乳瓶を、コトリと床に置いた。中身は減っていない。難しそうな表情でデコを見ていた。
梅子――眉間に梅干しの様な皺がある――はきちんと飲んだというのに。
「……ダメかもしれねーな」
覗き込んでいた私に、ボソリと銀さんはそう言った。「トイレ」と、銀さんが席をたつ。残された私と2匹の猫。離れまいとするようにくっつき、互いに互いの温もりを分け与えていた。
血を分けた存在、家族だという事を猫も分かるのだろうか?
「ミー!!」
梅が強く鳴く。呼応するデコは弱々しい返事を返した。鼓舞しているのか、それとも――別れを告げているのか。
そっとデコを抱き上げる。
「ミー! ミー!」
「ミー……」
「ちょっと借りるだけだから、大丈夫すぐ戻すよ」
抱き上げた子猫は暖かかった。降りしきる冷たい雨。神楽ちゃんがこの子等を抱いて万事屋に走る中、私は土饅頭をこねていた。境内の傍らに埋められた母猫と、名付けられなかった兄弟たち。
産後直後を狙われたのだろう。それでも母猫は、体力を失った体で、子供らを護ろうと力を振り絞り、戦った。飛び散った白い毛がそれを証明していた。
そして、雨で濡れぼそり、冷たくなった毛皮が生命の終わりを告げた。
新八君だったらどうするのだろう? 相手が子猫だろうと容赦なく、最後まで諦めるなと叱りつけるだろうか? そして、冷たくなった毛皮に、涎ですとかなんとか言っちゃって、目から涎が出るかよと
私は彼の強さを学べただろうか?
「お前、生きたい?」
「……ミー」
否定か肯定か、猫の言葉なんて分からないから、その返事を都合よく解釈した。
温度高めに、タオルケットにくるみ直されたデコにミルクをやる。
砂漠で行き倒れた旅人のように、デコは哺乳瓶ごと飲み尽くさんとばかりにしゃぶりつく。哺乳瓶の中身は、勢い良くかさを減らしていった。
戻ってきた銀さんは黙って座り、見ていた。
最後にげっぷをして、満足そうなデコに重なるようにして、梅も丸まり眠りつく。
「なあ――」
空になった哺乳瓶を振りながら銀さんは続ける。
「なんで、お前迷った?」
相変わらず咎める響きは篭っていなかった。神楽ちゃんの不安げな瞳も見ていただろうし、やるせなさに歪む顔もみていただろうに――。
だから私は素直に答える事ができた。
「デコはさ、死ぬことが分かってたみたいなんだよね」
「動物は敏いからな」
「そうそう。だからかなー」
「なんだよそれ」
「折角死ぬことを覚悟したのに、その覚悟を善意で奪うのって好意の押し付けみたいで嫌だった。そう思ったらそのまま殺した方がいいのかなって。死ぬと思ってたものを生かしても、生き方なんて分かんないだろうしさ」
「……その考えがエゴだよ」
「そうだね。押し付けはいけないね何事も」
その返事を聞いて、洗ってくると哺乳瓶を持った銀さんは、台所に向かった。
廊下へ去っていく銀さんの背中を見ながら思うのだ、最後まで美しく生きる生き方だけが正しいとは思いたくないのだと。
それは過去の過ちを過ちだと認めきれない己の醜さだった。
翌朝、ミーミーと元気に鳴く2匹に、神楽ちゃんが戦争を生き抜くコツを叩き込むべく特訓を始めようとして、出勤してきた新八君にまだ早いと止められるのはまた別の話。