物珍しい江戸の町は興味が尽きない。オバQと長髪の二人組の呼び込みを遠目に眺めたり、マダオ観察日記をつけてみたり。別段困ったこともなく、気ままにその日暮らしを楽しむ。真選組に追われる事がなくなった私は、時折接触しそうになる神楽ちゃんを避ける余裕もでき、肩の荷も降り、何も問題は抱えておらず気分はきっと晴れやか。
それなのに、なんでだろうな……酢昆布ちゃんと買ってもらえてるかなぁと、揺れる心の原因を差し替え、元の世界よりもよく見える星空の下、夜のかぶき町を散歩する。
赤、緑、青、紫、様々な色のネオンサインに、派手な女の人や、ホストクラブのお兄さん。時折見かけるオカマのお姉さんだかお兄さんだか分からない人達。かぶき町は夜も楽しい。
本当ならば、人から離れるべきなのに、私はそうやって危険性を
それなのにそんな楽しい散歩に水をさす人間が一人。
一方通行の細い車道のど真ん中で、死体よろしく行き倒れている人間。遠目にチラリと白い物が見えた時には、既に嫌な考えが浮かんでいたが、近付いてみるとそれは見間違う事なく、私が一方的に遠ざけてきたその人で、キープアウトの黄色いテープをその死体の周りに張り巡らし、ついでに白いチョークで枠を付けて、『マダオの死体』そんな落書きを加えたくなる。
「地面がない……あれ地面が立ってる? 立ってるの俺? 俺立ってる……?」
銀さんはそんな意味の分からない事をブツブツ呟きながら地面を泳ぐように手を藻掻き動かすが、全然前に進めてない。本当何やってるんですかアンタ。見なかったことにしよう。よくあるかぶき町の風物詩だと自身を誤魔化し通り過ぎようとした。
「イてぇ……頭割れる、割れる気がする、いやきっとコレ割れた。……やべぇ……苦しい。誰か……なんとかして……へるす」
したのに……なんでそんな声拾ってしまったのだろうか私は。
ヘルスってヘルプのつもり? 公然わいせつ罪で捕まっちゃうよ? 銀さん? 足を止め、腰を下ろしその顔を覗き込むと、言葉にならない唸りを上げていた。
ただの酔っぱらいのたわ言。本当に助けて欲しいなんて思っちゃいないだろうに。
月の重力は地球の六分の一、理科の授業で習ったそんな事を思い出した。けれど、私は本来いるべき
ねぇ、銀さん。ほんのちょっとだからさ、助けてもいいかなぁ。
本当に助けてもらいたいのは誰なのか……そんな自分を誤魔化し、返事のない事を良いことにその腕に触れる。生暖かい生物としての
そんな惑う心を見透かした様に、銀さんは触れた腕を、その大きな手の平で掴み
――無意識下の行動。
だからこそのそれに、全てを諦め、腕を肩に回し担ぎ上げる。
身長が足りないせいで銀さんは若干足を引きずる。酒臭い息と生暖かい体温――実にリアルな他人の温度に、ザワザワ揺れ動く心を
「少しは歩いてくれると助かるんですけどねぇ~」
「頭が揺れる、ちょっと揺らさないで、お願い、もっと優しくして……何か出る……出ちゃう」
「ちょっ……分かった、分かったから待ってお願いだから!」
出るという単語に嫌な現実が脳裏に浮かび、ご要望にお応えして物陰に隠れた私は、人がいない事を確認して万事屋まで跳んだ。二階に上がる階段がある裏路地。
「坂田さん、つきましたよー」
「え……もう? 早い、早すぎない? 君、早漏?」
セクハラで訴えても許される気がするが、死んだ魚を更に殺した目をした銀さんは、もはや何処を見ているのかも分からない。酔っぱらい相手だと思い我慢する。
「早漏でも遅漏でもいいからちゃんとお家帰って下さいね、坂田さん」
「俺はノーマルだぁあああ……うっぷ吐きそう……」
そりゃー良かった。だけど自分で声あげて吐きそうになってたら世話ないからね。
青ざめた顔で、両手で口を抑える姿に、念の為半歩さがる。
しかし幸いにして吐くことはなく――。「帰る……俺はもう帰るぞー」と言いながら、ふらふらゆっくり階段を登っていく姿を見送ろうとして……止めた。
「死ぬねこれは流石に」
酔っぱらいを舐めていた。ふらつき、階段から仰向けに飛び降り自殺を図ろうとした銀さんを抱きとめる。途中で放り出すなら最初から背負い込まないんだっけねぇと会話にならない相手に呟く。
玄関の前まで一緒に上り、それでも心配だったので、ブザーを鳴らすが、鳴らない。壊れてるのか。しょうがなく、ガンガンと玄関の引き戸を叩く。
「一体何時だと思ってるアルか! このクソ天パ!!」
ものすごい勢いで開いた戸に「やあ」と片手を上げて、久しぶりに会った神楽ちゃんに挨拶する。
「何で酢昆布が銀ちゃんと一緒にいるアルか?」
「ちょっと色々あってね、じゃあ後はよろしくね」
不思議そうな神楽ちゃんに銀さんを預ける為、重心を移動させたそのタイミングで、当の銀さんが何を思ったのか「神楽ァ、銀さんいま帰ったぞおおお!」そう叫び強く私の体を押す。
「うわっ!」
堪らず尻もちをつく。勿論、銀さんが一人でバランスを保っていられる訳もなく、後を追って倒れこんでくる。
「うぉっと……あっ……ダメ……」
何がダメなのか。それは、オボロシャアという擬音語が答えてくれた。
「風呂借りるアルか?」
生まれて始めての最悪な出来事に、私の何かは折れたというか、挫けた。何重にも発する警告を無視し、お願いしますと酸っぱい匂いを漂わせながら頭を下げた。
「銀ちゃんので悪いけど、それ着とくネ」
洗濯機の中に放り込まれた服の代わりに、太陽の匂いがする甚平を借りる。ずり落ちそうなそれを安全ピンで止め体裁を整える。
「ありがとう……えっと」
危うく神楽ちゃんと呼ぼうとした声を止める。そーいやまだ名前聞いてなかった。
「神楽アルヨ。そういえば、私もお前の名前聞いてなかったネ、なんていうアルか?」
「キリだよ」
キリ、キリと何度か呟いた神楽ちゃんは「きーやん!」と何か思いついたような顔で嬉しそうに笑う。久方ぶりに呼ばれた名前がなんだか苦しくて、「それ私の新しいアダ名?」と笑って返すのが難しかった。
見渡せば何度も見たことのある、糖分と書かれた額縁。積み上がったジャンプの雑誌……銀さんがよく座っているデスクとチェアー。そして、案外堅いなと思った、がっしりとしたソファー。煌きはしっかりと散りばめられていた。
「今日は泊まってくネ」
洗われて濡れた服にそうするしかなく、お言葉に甘えソファーをお借りした。あの天パなら廊下にでも転がしとけばいいヨと言ってくれたが、それを押し留めてソファーを借りる。怖かったから。何度も呟いた言葉を踏み潰し、ここにいる私。
「弱いなぁ……」
真っ暗な鎮まり返った万事屋の天井を見つめ呟く。隕石降って来ればいいのに……。
「おはようございます」
「お邪魔してます」
ペコリと頭を下げると、「どうも」と黒い髪を揺らしお辞儀を返してくれた。時計を見ると九時を少し回ったぐらい。いつの間に起きていたのか、身支度を済ませた神楽ちゃんが「おはようヨ~」と新八君の後ろから顔を出す。
「ほんっとォオオ済みませんでした!!!」
「君が悪いわけじゃないからいーよ」
私がここにいる理由を説明すると、土下座せんとばかりに新八君は頭を下げる。それに、パタパタと手を降って、「いいよいいよ頭上げなよ」と促す。朝ご飯をお詫びにとご馳走になりながら、服が乾くまで時間を潰させて貰うことにした。あれだけ避けていたのに、こうやって万事屋に上がり込んでしまっている自分にため息をつく。
本当は無理矢理にでも出て行くべきなのだろうなぁ……。窓の外にパタパタとはためく服を見ながらそんな事を思う。出来なくもないのだし。理由なき反抗の声が心の中で上がる。私はそれを持て余し、
「……新八ィ……いちご牛乳くれェ……」
地獄の底から響くような声と共に襖が開く。
見てはいけない。窓の外から視線を移さず、何でもないふりを装う。
「アンタ今頃起きてきてそれですか!」
「どなるんじゃねェ……頭割れそう、いちご牛乳早く……」
「まず水と薬でしょうったくアンタは!!」
「……痛い割れる……お願い勘弁して」
見なくても浮かぶ光景に、どうしたらいいか分からなくなる。
――ジリンジリン
デスクの上にあるレトロな黒電話が鳴った。
「新八ィ、早く取れ~頭に響く~」
「はいはい……まったくなんだっていうんだ。え? そんな人間知りません。お金なんてこっちが欲しいくらいですよ。はい、じゃあ」
――ガチャン
「なんだって?」
「間違い電話でしたよ。それよりハイ」
「なにこれイチゴ牛乳つっただろ」
「二日酔いの人間が何で、イチゴ牛乳なんて飲むんですか」
「いちご牛乳は万物に効く万能薬なんだよ! あ゛ぁ゛~頭痛ェ……頭の中でカトケンが五人ぐらいサンバ踊ってるってコレ」
「夜中にぶらぶらになって帰ってきた挙句、人にゲロ吐きかけた人間が、次の日はそんなんアルか。酔っぱらいってのは本当に最低アルナ~」
「あ? 知んねェよ、酔った時の事なんていちいち覚えてられっかよ。無礼講って言葉がこの国にはあんだよ。そんな汚い記憶の代わりに、この言葉でも脳みそに詰めとけ」
「その汚い記憶は誰のせいネ。それに私にじゃないアルヨ」
白い視線がこちらを向いた気がした。
「アイツ誰だ?」
「えっ、銀さん覚えてないんですか?」
「え? 俺の知り合いなの?」
「最低ですね」
「最低ネ」
一生知らないままでいてください。
もう一度寝直すといって和室に入っていった銀さんを横目で確認し、安堵の溜息をつく。