――それはキリさんがいなくなる少し前の事だった。
買い物から帰ってきた僕は、『万事屋銀ちゃん』の看板を見上げて、迷うように辺りを見渡す女性を見つけた。
年の頃は二十代。山吹色の着物に、赤い帯。ショートカットの髪はどこかで見たことのあるような色だった。
「万事屋に何か用ですか?」
背後から声をかけて驚かせてはいけないと、少し回って声をかける。
斜め前に立つ僕にその人は、ヒナギクのような笑みを浮かべると、「ええ」と応えた。
「銀さーん、仕事ですよー」
階段を上がり、立て付けの悪い玄関の戸を、ビニール袋を持った手で不格好に開ける。
銀さんや……いや、あの人は無理か。せめて神楽ちゃんには見習わせたい仕草だった。
「済みません、僕、台所にこれおいてくるんで先にどうぞ。奥にぎん……社長がいると思うので、話はそちらに」
ビニールを掲げてそう言ったものの、社長という言葉が口の中で泳いでいた。事実社長ではあるのだが、銀さんと社長という単語はどうにも上手く結びつかず、食べ合わせの悪いものを口に含んだような気分になった。いつものことではあるが、どうにも慣れない。
そんな僕にお姉さんは、
「じゃあ……そうさせてもらうわね」
少し迷った末、柔らかく頷いた。
買ってきた物を冷蔵庫にしまい、お茶を淹れるためお湯を沸かす。
どんな依頼なのだろう? 浮気調査……とか?
半月前にやった依頼を思い出し、あんな美人を差し置いて浮気なんてするだろうか? と首を捻る。
流石にお客さんに出涸らしを淹れる訳にもいかず、急須の茶葉を入れ替え、湯を注ぐ。
立ち上る湯気に、ふわりと独特の甘い香りが混じる。新しく茶葉を入れ替えた時にだけ強く感じることができる香りに、せめて三回に一度はこうだったら良いのにと、溜息が漏れた。
たっぷりと時間をおき、薄緑色の綺麗な色が出てるのを確認しながら、温めた湯のみに順番に回し淹れていく。
お盆の上には湯のみが四つ。客用と、銀さん、神楽ちゃん、僕。
帰ったと同時に玄関の靴を確認し、誰が家にいるか把握するのはもう癖である。うっかりと誰かを抜かしでもしたら、煩わしい嫌味が止まらないのだ。
そうやって準備したお茶をこぼさないようゆっくりと居間に向かっていると、神楽ちゃんの驚いたような声が聞こえた。
「お前あのサドの!?」
お客さんにお前だなんて。聞くかどうかは別として、後で注意しようと心に留める。
けれど、気になったのは「サド」という単語。サドと言えば沖田さんしか思い浮かばないが……どこかで見たと思った髪色、沖田さんにそっくりだ。目の色も。もしかして、血縁者? それに気付いた時、綺麗なモノがガラガラと崩れていくような幻が見えた。
いやいやいや、血がつながってるからといって性格まで似るとは限らないし、偏見は良くない!
「失礼します」
一応声をかけて居間に続く引き戸を開く。沖田さんの血縁というだけで、なんかもう色々遠慮が要らなくなったような気もするけれど、客は客だ。
銀さんと神楽ちゃんが並んでソファーに座り、その向かい合わせにお姉さんが座っていた。
「どうぞ」
コトンとお茶を並べていく。
「アイツが……ねぇ」
片足をもう一方の足に乗せながら、銀さんは、もの凄くイヤそうな顔をしていた。
「あら? 万事屋さんは
「します。します。しますよーなんでも。ただ、男のケツ追っかけるってのはなァ~」
そう言うと銀さんは背を反らし、頭の後ろで腕を組み天井を見上げる。
銀さんとお姉さんはどうやら顔見知りのようで、気安い言葉が飛び交う。
「どんな依頼なんです? あと、名前伺ってもいいですか? 僕は、志村新八といいます」
神楽ちゃんの隣に腰を下ろした僕にお姉さんは「沖田ミツバ」と名乗った。
「沖田さんの……?」
「そーちゃんの姉になります。もう、そーちゃんったら本当、何も言ってくれないもんだから。あそこは怪獣酢昆布とメガネ掛け器が怪しく蠢く魔窟だーなんて言うもんだからどんなところかと。こんな可愛い女の子と男の子がいるならそう言ってくれればいいのに」
「いや、僕男ですから、可愛くというか、誰がメガネ掛け器だ!」
ふふふっと口に手を当てて笑うミツバさんは、やっぱりどことなく沖田さんに似ていた。
けれど心配したような沖田さん特有の刺々しさはなく、最初の印象通り、柔らかな笑い方だった。
「あ、それで依頼というのは?」
離れた本題に、銀さんを見れば、
「ああ、なんか多串君の様子が変だから原因探ってくれって」
銀さんのしかめっ面の原因がわかった。犬猿の仲である土方さんの素行調査なんて楽しい筈もないだろう。それにしても……。
「変……ですか?」
この前見かけたのはいつだったか……。
確か三日前、仕事帰りに見回り中の姿を見た気がする。その時は、特段変わった様子は見えなかったけれど。
「ええ、突然プレゼントを渡してきたと思えば、間違いだってそれを奪い返そうとしたり……。時々何かを隠そうとしていたり。それとなく聞いてみたのだけれど『何でもない』の一点張りで。本当は私なんかが口を挟むべきではないと思うのだけれど、どうも様子が変なの。何か変なことに巻き込まれてるんじゃないかと心配になって」
ミツバさんは、口元に揃えた指を当て、言葉を選びながら話す。
その口ぶりから察するに、ミツバさんは土方さんを良く知っているようだった。いつだったか沖田さんと土方さんは同郷だと聞いた覚えがあるから、ミツバさんも恐らくそうなのだろう。けれど、それだけではないような……。
「女よ女。他に女ができたのよ。古い女より新しい女。男はいつだってそうよ!」
「か、神楽ちゃん!?」
僕が聞くのをためらったことを、神楽ちゃんはそれ以上に踏み込む。
表情は小憎たらしく、どうフォローしようかと頭を悩ますのだけれど、そんな神楽ちゃんに怒るでもなしにミツバさんはコロコロと笑った。
「名推理ね。でも、きっと違うわ」
「なんで分かるアルか?」
「だって、あの人、そんな事ができるほど器用じゃないもの」
思わず、ご馳走様と言いそうになった。これはもう確実にアレだ……。
下世話なことを考えそうになった思考の雲を振り払い、提示された依頼料で購入すべきものの優先順位を考える。
いつだって食料品や、生活必需品が先に立ち、買い換えなければならないものは後回しにされるが、機会を見て細々と買い揃えなければいけないものは意外と多い。
捕らぬ狸の皮算用ではあるけれど、どうしたって必要な物は必要なのだ。雲や霞を食べて生きていけやしない。
「じゃあ、よろしくね? あとこれ良かったら食べて?」
お登勢さんの店の前まで見送りに出た僕に、ミツバさんは手のひらを差し出す。なんだろう? と受け取ったのは、手鞠色のあめ玉。かぶき町という街は大人も子供もなく、常に生存競争に必死だ。こういう扱いは久しぶりに受けた。
少し憮然としてしまったが、微笑むミツバさんにその毒気も抜ける。
沖田さんをそーちゃんと呼び、可愛がるこの人にとっては僕も弟――子供のようなものなのだろう。
じゃあと、日差しに、きらきらと髪を輝かせ、どこか儚げな背中を見送った。
手のひらの上のあめ玉を転がし、三つあるって事は僕だけが子供扱いされた訳じゃないと言い訳のような事を考える。
それからしばらく日を置いて。
浮気調査にしろ、素行調査にしろこういう依頼に対する対処法というのは
源外さんに借りた無線から、雑音混じりに銀さんの声がした。
『メガネ、ザッ―……ンマンこちらシルバークロック。状況はどうだ? どうぞ』
「こちらマン――」
「ちょっと待てぇえええ!」
とんでもない事を口走ろうとした神楽ちゃんの言葉を遮る。
「アンマン! アだから、マじゃないから!」
「アもマも似た様なモンネ」
「字面は似てるけど、そこ変えると酷い事になるから!」
雑音で聞き取りづらかった音を勝手に解釈し、返答しようとした神楽ちゃんを慌てて止める。
『オイ、気づかれんだろ』
銀さんの声にはっとターゲット――土方さんに視線を走らせる。どうやら気づかれてはいないようだと、胸を撫で下ろした。
現在、神楽ちゃんと僕とで土方さんを尾行中。銀さんは銀さんで違う場所から追跡している。
狭い裏路地に肩を並べて、こっそり様子を伺っていると、ターゲットはどんどん繁華街の方へと歩いて行く。
「銀さん。どうやらターゲットは繁華街の方へ向かってるようです。先回りお願いします。どうぞ」
『ちーげよ、シルバークロックつってんだろ。どうぞ』
「英語にすればなんでもかんでもかっこいいと思ってんじゃねーよ! それに”時”はクロックじゃなくてタイムだからね! どうぞ」
なんだよシルバークロックって。かっこいいつもりか!? 入れたツッコミに応答は少し間を置いて返ってきた。
『……ジョークだよジョーク。アメリカン的な? どうぞ』
英語だけにってか。ジト目で手に持った黒い無線機を見つめる。
絶対素で間違えたに違いないと、確信する。
そんな僕の横から神楽ちゃんが割って入ってくる。
「アイツどこ行ったアルか? どうぞ」
「あっ!」
中二臭全開のコードネームに気を取られすぎた!
休日の賑わいを見せる通りに出て、キョロキョロと辺りを見渡すもその姿は見えない。
人混みに紛れたのか? 目を凝らすが黒い隊服はかなり目立つにも関わらず、ごった返す人々の間にその姿を見つけることはできなかった。
「済みません、見失いました。どうぞ」
どうせ何か嫌味を言われるだろうと踏みながら、仕方なしに報告する。
その間にも横を黒い人影が通り過ぎて行くが、振り返るとスーツ姿の天人だった。
『これだからダメガネは……安心しろこっちで捕捉した。三丁目の角を曲がったところだ。どうぞ』
良かった。ほっと胸を撫で下ろしたが、その物言いについついと反論してしまう。
「誰のせいだと思ってんですか! どうぞ」
『ちんたら喋ってないで早くこい。どうぞ』
「……いま向かってます! どうぞ」
どうせ僕の言葉など聞きやしないのだ。
ささくれだった感情を飲み込みつつ、示された場所に急ぎ向かうと、銀さんの言葉通りに土方さんの姿が目に止まる。
けれど、見上げるお店の看板は明らかに似つかわしくなく、ミツバさんが『どう』変なのか言い迷った理由が分かった。
お店の名前は『大江戸ホビーワールド』。
同じオタクでも、アイドル系オタクとは指向性の違う、美少女やロボットが好きな、いわゆるアニオタ向けグッズの老舗だと記憶している。
もしかして、そういう姿は仮の姿で、実は、攘夷浪士達の潜伏場所だったりするのだろうか……?
ショーウィンドウに張り付く姿からは、どう考えても店内に蠢く
あ、店の中に入っていった。
『こちらシルバー……タイム。メガネ、お前なら中に入っても目立たねえだろ。店ん中入って様子をみてこい。どうぞ』
下ろした右手からガガッという音と共に、銀さんからの指示が飛ぶ。
結局言い直してんじゃねーか! やっぱり素で間違えてただけだろ!?
思わずツッコミたくなるけれど、そんな事より問題は!
「アイドルオタクとアニメオタクを同列に扱わないでくれませんか。どうぞ」
低く、不機嫌が声にも出てしまう。
同じオタクでも、二次元なんて妄想に囚われた奴らと一緒にされるのはまったくの不本意だ。
これだから素人は……。
『目くそ鼻くそだろうが、さっさと行って来い。どうぞ』
「全然違います! どうぞ」
いい機会だ。お通ちゃんがどれ程偉大で、低次元に生きるアニメキャラなんて輩とは比べる事すら間違っているということを、
そう思った僕の背後から神楽ちゃんがせっつく。
「影の薄さをこういう時に使わないでいつ使うアルか? グダグダ言ってないで行けヨ。どうぞ」
「誰の存在感が空気だ! そういう神楽ちゃんの方こそ、玩具屋に入っても違和感ないんじゃないの? きっと可愛いお人形いっぱいあるよ。どうぞ行っておいでよ、どうぞ」
「あんなゴミムシ共の巣窟に、可憐な花が混じったら目立つに決まってんダロ。お前がどうぞ行けヨ、どうぞ」
『どうぞ、どうぞ譲りあってねぇでいいから行けよ。どうぞ』
結局、神楽ちゃんは「なんか臭そうアル」と頑なに入店を拒否したため、僕一人で自動ドアを潜る。
ガラスのショ―ケースには美少女フィギュアが並び、天井からはタペストリーが吊り下げられていた。
軽薄でチャラついた店内に顔を
掲げたアニメ雑誌の影から、フィギュアの品定めをしているフリをしながら――こちらを伺う視線を感じる。
今の視線は「コイツは
ここは、僕が探しているのはエルフやフェアリー、猫耳娘であり、お前等なんて下級オーク共に興味はないんだよという風を装わねばならない。そして新参者だろうと、自宅のコレクターアイテムを眺めるが如くふてぶてしく、けれどどこか不安げに、それがシャイなオタク共に味方だと示す為の合図。
ファッションオタクなんてニワカ共が蔓延る昨今、敵味方を注意深く観察するのは必然ともいえる。
常に味方を探しながらも、敵には堅く門を閉ざさずには生きていけない性に、一瞬、共感めいたものが生まれるが、今はそういう場合ではないと打ち消す。
土方さんは……いた。
美少女系コーナーの壁に貼られたポスターを見ながら、DVDの発売日をチェックしていた。
こちらに背を向ける格好になっており、気づかれてはいない。
こうしてみると、本当にその趣の人間にしか見えないのだけれど……。
「来月入荷のものはこれとこれと……。予約特典どれにするか悩むでござるなぁ」
ござる!? ござるって何!? 一瞬聞こえた単語に耳を疑う。
フリだよ……ね? 周囲に溶け込むためのフリだよね?
本棚の影からこっそり伺っていると顔見知りなのか、赤ら顔の男が一人肩を叩き声をかけてきた。
親しげに話す様はここの常連であることを匂わせており、はっきりと、ここにいる土方さんの姿が、任務や、捜査といった、偽りからきたものではない事を確信させる。
内心の動揺をひた隠しにして、店を後にした土方さんを追い、僕も店から出る。
どうだった? と聞いてくる銀さんと神楽ちゃんにありのままを伝えるがにわかには信じてもらえず、それからも追跡は続いた。