埠頭で足を海に投げ出し、一人座るキリを見た時、海に溶けて泡になってしまう、そんな物語を思い出した。そのぐらい、今にでも消えてしまいそうな儚さを持っていた。
神楽がなぜコイツにこんなにも構うのか、その理由が少し分かった気がした。
「何か良いモンでも見えんの?」
泡にならないよう、慎重に声をかける。
「見えますよ。馬鹿には見えませんけどね」
その声に反応したコイツは即座に鎧を身にまとい、その姿を一変させた。
返す言葉にすらそれは一切含まれていなかった。『酢昆布の付属品』そう言ったコイツを見ていなければ、危うく騙されるところだ。
振り向けない癖に、そうやってコイツは一人ただ生きていくのだと思った。だから続けて聞いた問いかけに対しても、否定を返すのがなんら不思議には思わなかった。
一部意味の分からない回答が混じっていたがまあ、神楽の友達だしなとその時は聞き流した。
けれど、神楽が旅立った後、その言葉を思い出し、予言? まさかな? と考えた俺がいた。
宇宙に行くといったキリ。結局誰にも頼らず一人で旅立とうとするコイツをどうにかしてやりたかった。だから、距離を置き、隠そうとするその感情を引き出すために、あえて傷つける様な言葉を投げつけた。
けれど、怒りも、受けた傷も全て飲みこみ『私は私にとって都合の悪い物の一切を信じない、だから大丈夫なのだ』と笑った。なんて悲しい考え方なのだろうと思った。その考えに至る過程を考え、お前に何があったんだ? そんな言葉が喉元まで出かかった。
しかしそれを口に出せば、きっとコイツは笑って「何もないよ」と答え、更に距離を置くに違いなかった。だから、それは言葉できなかった。
どうにかねじ曲げさせたその考え。
馬鹿だなと笑ってやると、聞き慣れた悪口を口にしながら、どこか吹っ切れたコイツに少し安心した……。
なのに……。
「銀ちゃん……きーやんは一人で行っちゃったアルヨ」
神楽は一人で戻ってきた。一人にならないように乗せた筈の重石は返され、行方の分からなくなったキリに怒鳴りつける事も出来ず、日々が過ぎていく。
「喧嘩じゃない殺し合いだろうよ」
――ガシン……パキィイ
「ぐふぅ!!」
木くずが飛び散り、木刀が折れる。橋台に叩きつけられ、衝撃で息が漏れた。
「銀さんんんん!!」
「ぐっ」
新八の叫び声に、痛む体を無視して、立ち上がろうと、力を込める。
――ブシュ
なんだこれは。吹き出す赤い血を他人ごとの様に眺める。
「オイオイ、これヤベ……」
遅れて斬られたことに思い至った。失血から来る特有のダルさ。化ケ物じみた似蔵の強さにそれは致命的だなと思いはするも、それをどうにかする暇などなかった。追撃が来るのが見えて咄嗟に避けようと思った体は不味い方向に捻ってしまい。
終わったな。
そう思ったのに、終わりはこなくて、代わりに自分のものではない生暖かい雨が全身を濡らした。
目の前にはどてっぱらに刀を生やした、ここにはいないはずの人物。
「キリッ!?」
どこから? どうやって? そんな考えは頭になかった。ただ分かるのは目の前のキリから失われていく
救えないものがあるなんざ嫌というほど分かっていて、そんな覚悟なんてとうの昔に出来ていた。
だけど、誰かに護られて、その護った奴が死ぬなんて事は、それがゆっくりと目の前で死んでいくなんて事は――斬られた痛みも、自身の死の恐怖も全て忘れてしまうぐらいの怖さだった。
似蔵の殺気にあてられたキリは、恐怖でカタカタ震えていて、震えるぐらいならくんじゃねーと怒鳴りつけたくなってしまう。他にも沢山怒鳴りつける理由があった筈なのに、それすら言えずに失われていく事が怖かった。
死の臭いが濃くなっていく。
「離せっ!」
必死でもがくも、夜兎なんじゃねェかと思うほどの力で抑え付けられる。
押し返そうとした手は血でヌメル。
そのヌメリはどちらの血なのか、混じりあった血はもう誰のものか分からなかった。ただ分かるのは俺の血よりもこいつの血の方が多いということだけ。
「動かないで……死んじゃうよ銀さん。大丈夫だから……」
笑いながら遺言の様に囁かれたそれが耳障りで、必死で抜けだそうとする体は血を失い、力を失い。
「後悔しているか?」
そう似蔵の台詞に不覚にも頷いてしまいそうになった。後悔なんざ嫌というほどしてきたが、他人に言われて自分の決断を後悔するなんて初めてだ。
それでも、押し込まれる刀をがっちり抱え、届かせないように踏ん張るキリに怒りすら湧いてくる。
そんなことしてんじゃねぇ、だから馬鹿なんだよテメーは。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
新八が奴の片腕を切り飛ばす。
刀から触手が伸び、キリを取り込もうとする。
迷わずにキリは刀を抜いた。
一瞬だった。
――ビチャビチャ
人間の体にこれ程までの血があったのかと思うほどの血を流し、倒れこむ。
力が抜け、倒れこんできた身を咄嗟に抱き止める。
もうわずかしか残されていない血が、体温を薄く伝えてくる。
「キリ! 目を開けろ、寝るんじゃねェ」
僅かばかりに残された可能性。いや、わずかも残されていない可能性を
その声が届いたのかわからないが、ぴくりと体が動く。
ぐっと増す体重。遠のく死の臭い。
何をした?
死に体だったはずのキリがぐっと起き上がる。
「びっくりさせんじゃねェ、バカヤロー」
諦めていた自分を誤魔化すために憎まれ口を叩く。
確かに死ぬはずだった現実を覆される。いつの間にか身についた、受け入れる為の儀式的な心の流れを強制終了され、そこで思考が停止する。
そんな事お構いなしに、増した体重に俺がふらついているのに気付いたこいつは、逆に体を支えるように岸に運ぼうとする。
何をやっているんだ? 死にかけた癖にそんな事してんじゃねェ。そんな思いで必死に抵抗するが、まったく力が入らない。
失血のせいか、極度の緊張から脱した特有の倦怠感のせいか、五感全てが酷く鈍く、そのせいで現実が遠く感じる。
「銀さんの止血を早く」
新八に預けられる自分の体は相変わらずいうことを聞いてくれなくて、悔し紛れに睨みつける。
「バイバイ、銀さん。これ返してもらうよ」
そんなものは無意味だという様に、すっと離れていった熱と、懐から盗まれたソレを目で追う。遅れて、ああ、あの時のアレはコレを庇ったからかと気づいた。そのまま行ってしまおうとするキリを引き留めるため、重い腕を上げると、スルリとそれを避け、距離を取られる。
「新八……キリを止めろ……」
「新八君止めた方がいいよ。そんなことしたら銀さん死んじゃう」
届かない体に必死で出した声も、にへらと笑われ無意味にされる。
「キリさん!」
「銀さんをお願いね?」
そう言って血の跡を地面に残しながら、手をピラピラ振りながら歩く足取りは不思議と死の不安が感じられなくて。
後ろ姿が消えていくのを見送るしか出来なかった。
高杉の船から連れて帰ってきたキリを見る。
似蔵に刺し貫かれた傷は既になかった。
人間に必要な臓器を幾つか巻き込んで、出血量は致死量に達していたソレは元から何もなかったとでも言うように綺麗さっぱり消えていた。
代わりに、別の怪我をこさえ、こうして寝ている。
俺はこいつに何をした? 何をしたからこいつはこんなに必死になって、死に物狂いで他人を助けようとする? 神楽なら分かるが、俺を護るべき理由なんてこいつにはない筈だった。わずかな接触。それだけでコイツは他人の為に命を投げ出すのか?
人は本能的に自分の身を護る事を優先する。それを覆す場合、自分の身がさして重要じゃないか、それをしても尚、護りたいと思う気持ちがあるかどちらかだった。
キリの場合、明らかに前者だった。『私は私にとって都合の悪い物の一切を信じない』そう全てを否定する様になった原因が、ここにもゆがんだ跡を残している気がした。
「銀さん……。私には地球がちょっと狭いみたい」
そう呟いたキリに、宇宙へ行った理由を見た。けれど、それが全てじゃない。なんとなくそう思ったが、やっぱり口にはできなかった。スルッと手のひらから溢れてしまいそうで。