酸素も水も存在しない白い砂だけの星。
そこには夜は存在しない。生物も存在しない。夜兎なんて存在も許さない。神楽ちゃんと……神威――春雨――対策。
船も、近くの星からチャーターせずには辿り着かない辺境の地。
月の昇らない星で、銀色の月が懐かしくなる。
大量に撒き散らした本の中で、膝を抱える。私は耳と目を閉じ口をつぐめる人間になりたい……なんてね。バッと大の字になり寝転がる。
夜のない星に作った仮宿。万事屋と同じ大きさのドームにいくつかの部屋。一人暮らしには十分な広さのそこは畳敷き。
このまま昼寝したら畳跡つくんだろうなぁ~、でも誰も見てないしいいかなぁ~、なんて思いながら、視線の先にある、ハメ殺しの窓を見る。そこから覗く空は大気が薄いせいで、白く眩しい。水がないので雲もできない。何も見えぬ空で青い星を探す。
孤独は死に至る病だと誰かが言った。嘘じゃないか。こんな星に一人孤独に生きていくこともできる。
それに、「一人には慣れてるしね……」そう呟いてゴロンと寝返りを打つ。視界が反転し、今度は読み散らかした娯楽本が目に入ってくる。そろそろ読み飽きたなぁ~と追加購入先について考える。
キーンとガラスが振動するような音を立て、畳の上に放り投げたくすんだ鏡が像を結ぶ。それは残してきた鏡の欠片。銀さんが闘いを始める合図。
本当は
必要以上の干渉はきっと欲しくないだろうから、一度だけ、助けようと決めた。でもその一度ですら、本当は自分の為なのだ。激甘ですねぇと笑う。
赤ちゃんを抱いた銀さんが浪人相手に大立ち回りを繰り広げる。浪人を相手取る間、放り投げられた赤子は、泣き声一つ上げず再び銀さんの腕に戻る。
目つきや髪が銀さんそっくり。
勘七郎君を背中に背負い、銀さんが橋田屋に乗り込む。
思ったよりもあっけなく斬られてしまった。飛び散る血は赤く、膝を着く銀さんは痛そうだった。
ここでもし私が似蔵を殺したら紅桜篇はどうなるのだろうか? あんな大怪我を銀さんはしない? 鉄矢さんは紅桜を諦める? もしかして、もしかして高杉と桂さんは仲直りできちゃったりする?
それとも……江戸は大炎上するのだろうか。
もうすぐ始まってしまうソレに心が揺れる。
無事勘七郎君を取り戻した銀さんは、いちご牛乳とミルクで乾杯をする。
そこで私は映像を切った。
鏡が像を描く度、心がすり減っていく気がする。もう十分じゃないか、そう思うことすらあった。
私が感じなければ世界は存在しない。そうでしょ? 銀さんが否定してくれた世界がもう一度形を作ろうとする。
それを拒絶する。分けてもらった温もりが、夢や幻だとは思いたくはないから。
再び鏡が鳴く。
相手は似蔵。とうとう始まった紅桜篇。
路地裏に置かれたポリバケツの傍に横たわるのは、内臓を撒き散らした御用聞きの役人。私が見捨てた人……。確信犯的犯行。確実な未来に乗っかるための必要な死。心電図と私と無機質な部屋。黒い画面に浮かんだ緑が、平坦な線を描く。フラッシュバックする。
私は死というものを知っているはず、だから大丈夫?
――そんなものは嘘だ!!
誤魔化すのを止めた心が悲鳴を上げる。こんな死に方を私は知らない。自分が死ぬことなんて頭の片隅にでもあっただろうか? 大切な人に別れの挨拶も出来ぬまま、死んでいく事の悲しみを私は知らない。ギリッと噛み締めた歯が鳴った。
白刃の刀紅桜と、洞爺湖と彫られた木刀が橋の上で相対する。
刀から、うねうねとした触手が似蔵の腕にからみつき、一体化している。名刀と呼ばれた、からくりと刀の融合体――紅桜。
似蔵の振り下ろした刀が橋に大きな穴を開け、その破片もろとも銀さんが川に叩きつけられる。
『おかしいねオイ。アンタもっと強くなかったかい?』
『おかしいねオイ。アンタそれホントに刀ですか?』
欄干に立つ似蔵の腕に巻き付いた紅桜の侵食が進み、脈打つ。
『……生き物ってより、化ケ物じゃねーか』
水を滴らせながら立ち上がった銀さんの言葉通り、銀さんを追って川に飛び降りた似蔵は、水の抵抗をものともせず、化け物じみた速度で迫り狂う。
一合、二合、鍔競り――死角から放った銀さんの蹴りに似蔵が水しぶきを上げて倒れる。
『喧嘩は、剣だけでやるもんじゃねーんだよ』
倒れた似蔵に、銀さんはそう言うと、馬乗りになって刀を振り上げる。
紅桜から触手が伸び、それに刀を取られた銀さんがバランスを崩す。
『喧嘩じゃない殺し合いだろうよ』
似蔵がバランスを崩した銀さんに刀を振るう。木刀が折れ、胸を切られ、血飛沫が上がる。
似蔵からの追撃が迫る。
脊髄反射だった。
気がつけば、月の下。バシャバシャと水が足を打ち付ける。
冷たい鉄の塊が背中から腹に突き抜けていた。無機物が体の中心を通る、得も言われぬ感覚に、吐き気を催す。
痛みは後からやってきた。気が狂いそうな痛み、生物としての本能的なモノが私を突き動かし、痛覚を遮断する。ブツリと激痛が途切れ、体の真芯を通る刀の気持ち悪い感覚だけが残った。
「キリッ!?」
「キリさん!!」
銀さんと……頭上から新八君の声がする。
しまったなぁ……こんな姿を新八君に見せたくはなかった。そう思っても後の祭り。咄嗟に空間を繋ぎ跳んでしまった。銀さんに向かい合う形で、似蔵を背に。向きや姿勢なんて考えている暇はなかった。
「殺し合いに水を指すとは無粋だねェ。それにしても、このお嬢さんはどっから現れたのかな?」
背後から冷たいゾクリとする声がする。触れそうなほど近くにある声。その声が、蛇の様に心に絡みつく。
血を流したせいなのか、心を縛られたせいなのか、体が冷たく動かない。
「離せっ!」
石積みの橋台に押さえつけられた銀さんが私に向かって叫ぶ。近距離で見開かれた目に、本当に時々きらめくのだなぁ~と場違いな事を考えた。
そんな銀さんは、出血量が不味い域に達しているにもかかわらず、なお戦おうとしていた。それを、力を込め押し
ズブリと刀が押し込まれ、似蔵が力を込めたのが分かった。私ごと銀さんを刺し貫くつもりだろうか。
届かせない。
銀さんの肩を抑えていた片手を離し、刀を握る。反対の手のひらから伝わる温度が恐怖に抵抗を示す。
「固いねぇ。人間かィお前さん」
心底不思議そうに、蛇が舌なめずりするのが聞こえた。
「離せェエエエ!」
体をよじり、銀さんが必死に拘束を抜けだそうとする。足元の水が波打ち、血が噴き出る。だからダメなんだってば。
「動かないで……死んじゃうよ銀さん。大丈夫だから……」
吐息のような声しか出ない。聞こえただろうか……?
銀さんの顔が歪む。そんな顔やめて欲しいなぁ……。本当に大丈夫なんだってば。
「後悔しているか? 以前俺とやりあった時なぜ殺しておかなかったかったと。俺を殺しておけば桂もアンタも、その嬢ちゃんもこんな目には遭わなかった。全てがアンタの甘さが招いた結果だ。白夜っ!?」
何かに察知して、押し込まれてた剣が反転して引き抜く方向に動く。
抜かせない。体の中をミキシングされるような感覚。痛みはないが、逆にそれが悪寒を増大させる。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
新八君の声が空から降ってくると同時に、激しい着水音。
ビチャビチャッと暖かいモノが背中にかかり、刀から力が抜けた。流石とっておきのもう一本……。
――シュル
全身が粟立つ。咄嗟に背に手を回し、突き刺さった刀を抜き、投げ捨てる。
最低の最低にいると思っていたが、更に最低があった。紅桜に侵食されかけた。
刀が抜けた傷口から血が吹き出て、川面を赤く染めた。
「腕が取れちまったよ、酷いことをするね僕」
「それ以上来てみろォォ! 次は左手を貰う!」
背後からそんな声が聞こえる。
視界が霞み、限界を迎えた体が崩れ落ちる。血まみれで、少しだけ白さの残った着流しがその体を抱きとめる。
――ピィィィー
甲高い呼び笛の音がする。
「チッ、うるさいのが来ちまった。勝負はお預けだな。まァ、また機会があったらやり合おうや」
バシャバシャという水音に、似蔵が去っていったのが分かった。
遠くなる意識。キリと呼ぶ声。気を失ってはダメだ……。
外傷はそのままに、中身だけを治す。潰れた幾つかの臓器を修復、流れた血液を補充する。
呼吸がし辛く、浅い息に、汗が滴り落ちる。
「……バカヤロー」
そんな声がする。バカヤローは銀さんの方だよ。ゆっくりと息を
顔を上げると、銀さんはなんだか怒るのに失敗した様な顔をしていた。
自分こそふらついてる癖に、なに人を支えようとしてんだか。自分の事すら手に余ってるのに、他人を背負い込もうなんて……甘いんじゃなかったの? 銀さんらしいその行動を少しだけ笑い、支えてもらった腕を逆に抱え直す。
「銀さんの手当早くしてあげて」
背後にいるはずの新八君に声を掛け、石砂利の上までパシャパシャと進む。
銀さんが抵抗を示すが、その力は弱く、失った血液の量を物語っていた。
「キリさんの方が!」
「私は大丈夫」
やっとたどり着いた岸辺に銀さんを下ろす。眼鏡の奥で新八君が泣きそうにしていた。慰めるように頭を撫でようとして、血まみれの手に気づき、諦める。
一方の銀さんは意識はあるが、体が動かないようで悔しそうな目だけでコチラを睨んでいた。
黒い川面に反射した明かりが近づいてくる。人が集まってきた。行かないと……。
「バイバイ、銀さん。これ返してもらうよ」
「新八……キリを止めろ……」
「新八君止めた方がいいよ。そんなことしたら銀さん死んじゃう」
「キリさん!」
「銀さんをお願いね?」
新八君の声に心配ないよ大丈夫とできるだけ優しく笑い、手を振る。
川べりを歩き、階段を見つける。誰もいないことを確認し、座ったそこで体を治療する。
なにもないところから突然現れるようなおかしな現象を見せつけていながら、未だに私は隠したがる。弱いなぁ。自嘲するように笑い、奪ってきた鏡を見つめる。
銀さんは咄嗟に庇ったのだ。懐に仕舞ったこんなものを。あの角度は本当に不味かった……。じゃなきゃ、ショックを受けているとはいえ、咄嗟に飛び出すなんて対応は取らなかった。
バカヤローはお前だ、銀さん。お守りを護ってどうするの? ゴミじゃなかったの?
なんというバタフライ。しでかした失敗に後悔が浮かぶ。
だけど、
立ち上がり向かうは、高杉の船。
私のデータを取った紅桜は回収しないといけない、どんな化け物になるんだろうか。
薄っすらとした恐怖を抱く。
高杉の船から銃の撃ちあう音がする。きっと神楽ちゃんだ。
走りだそうとしたとき、建物の陰からヌルッと抜け出す影。それは人影を取り、月の光に照らされ、刀を構える似蔵となった。
紅桜のおかげか片腕の血は止まっている。
「あれで生きてるとは。本当に人間ですかィ?」
「早くその刀をこちらに寄越して」
蛇の様な声と、凍りつく様な殺気が、つま先から頭の先まで舐めるように纏わりつく。
「侍に刀を寄越せとは、だいぶ剛気だねィ。白夜叉との続きお嬢ちゃんがやってくれるかィ?」
言い終わるか終わらない内に飛び込んでくる。利き腕とは真逆の腕で構える刀。それでも先ほどより速度が上がっている。
威力も!
硬質化させた手のひらで刀を受ける。触手が伸びてくる。振り解き、飛び退る。
「人間辞めてたのは俺だけじゃなかったみたいですねぃ」
したり顔の似蔵。そんな事言っている場合じゃない!
「それ早く寄越して! じゃないと」
言い終わるか終わらないかのうちに触手が膨れ上がる。
「ぐっ」
「だからっ!!!」
紅桜は新たな宿主を求める為に、古い体を取り込もうとしていた。
似蔵が目の前で変貌していく。残る片腕を鎌鼬を飛ばし、切り離す。それでも侵食は止まらない。
「だから……言ったのに!!」
「はっ……ぐっ」
似蔵が触手に飲み込まれ、すぐに見えなくなる。触手に包まれ、ピンク色の繭の様な形になった紅桜は、一度落ち着いたかに見えた。
――ブワッ
突然溢れだす。動揺している場合じゃない! 伸び狂う触手を切り飛ばしながら、侵食されないよう注意を払い、中心をかき分ける。
そこには――。
全てを諦め焼いた。