戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ 作:ルシエド
少しだけ昔の、懐かしき日々。
「知ってるかセレナ? 天国じゃみんな、海の話をするんだってさ」
「そうなの?」
ゼファーはベッドに腰掛け、切歌と調の二人に揃って薦められた、有名な映画を書籍化した本を読んでいた。セレナは同じベッドにうつ伏せに寝っ転がって、パズルを楽しんでいる。
少年が口にした話題に、少女は興味津々に食いついた。
「雲に腰掛けて、海の話をするのが流行りなんだってさ」
「その本に書いてあったの?」
「ああ」
「素敵だね」
「ああ」
二人揃って、思わず笑みが溢れる。
「でも、海かぁ……」
「セレナは見たことあるか?」
「実は無いんだよね。私も、姉さんも」
「実は俺もだ。砂漠ならあるんだけどな……」
ゼファーは本を閉じて、目を閉じて、夢を見るかのように呟く。
「いつか、皆が分かり合える日が来たら。ここに皆で閉じこもってなくてもいい日が来たら」
その目蓋の裏には、きっと幸せな未来が思い描かれている。
「大人も子供も、皆で一緒に海に行こう。きっと楽しいぞ」
それが声から伝わるくらいに、幸せな未来予想図だった。
「そうだね。それはきっと……みんなが笑顔で居られる未来なんだよね」
セレナが笑って、ゼファーが笑う。
いつか皆で一緒に、海に行こう。
そんな他愛無い約束をした、幸せな日々の思い出があった。
第九話:Bloody Serenade 4
声が届いた気がした。
「約束を守る気がない友達には、私は、この手で助けてでも無理矢理守らせる」
『――リミットは――残り時間――避難――』
『――その鎧――フィーネ――』
どこからか届く声。彼の耳に届く声。
『――施設耐久――限界――LiNKER――効果時間――』
「ヤバいんじゃないデスかねぇ、これ……!」
『――ネフィリム――熱量値――イガリマ――』
呼ぶ声が、耳に届いた気がした。
『――頑張――無理は――』
『――助けに――救護班――今なら――崩落――』
「下がって! 二人はもう戦えないでしょ!」
助けを呼ぶ声が、届いた気がした。
「二人を見捨てて行けるわけッ……ぐっ、あぐッ……!」
「けほっ、ごほっ、わ、私だってまだ……!」
「……時限式で無理して、アレに食べられたら本末転倒だよ!」
聞き届ける。彼はそれらの声を聞き届ける。
たとえ、限界を何度も超えた、ボロ雑巾のような身体でも。
「……私も、諦めない……生きて……!」
その声が意識の中に残らなかったとしても。
彼の無意識に「聞き届けた」という事実は残り、彼は命の限界を超える。
自身に残された全ての力、その最後の一滴までもを振り絞り、彼は目を開いた。
「……ぅ、っ、何が……」
「! ゼファーくん!」
何秒か、何分か、どれだけ意識を飛ばしていたのかゼファーには分からない。
耳元に届くセレナの声の心地よさに少し回復したような、そんな気のせいの作用を感じつつ、ゼファーは自分が何故か室外に居ることを認識していた。
曇り空が見える。黄土色の地面が見える。
そこかがどこは分からないけれど。
今、その世界を支配しているかのごとく、君臨する存在がそこに立っていた。
「あれ、は……『騎士』……?」
何故か辺りには、いたる所に大きな炎が燃え盛っていた。
炎の熱が揺らめいて、風景を歪ませる。
時に地を這い、時に柱と立ち、時に風に乗って火花を飛ばす炎の数々。
その炎の中に悠然と立つ、全身銀色一色の騎士甲冑。
「……ぐっ!?」
その騎士を見ていると、何故か胸が熱くなる。苦しくなる。痛くなる。
胸の奥に火を入れられたかのような感覚に、ゼファーは強く胸を抑えた。
息をするのも苦しく、心臓の鼓動の邪魔までされている気すらする。
「どうしたの!? 大丈夫!?」
セレナがゼファーに駆け寄り、その胸に手を当てる。
彼女が優しく掌で彼の胸を撫でると、まるで胸の奥から痛みを引き抜かれたかのように、ゼファーの胸の奥から痛みや苦しみがすっと引いていく。
その時初めて、ゼファーはセレナの『その姿』を目にした。
白を基調……否、全身のほとんどが純白の、彼女の心を表したかのようなカラーリング。
服、水着、鎧の中間のような衣装を身に付けたセレナが、そこに居た。
ほぼ純白の衣装のアクセントのように付けられるカラーは、薄水色、薄紫、薄紅色、そして淡いクリーム色と、純白を引き立て役にしない薄い色合いに収められている。
濃い色を白と合わせてしまうと、濃い色が主役になって白は引き立て役にされてしまう。
この色合いは、あくまで鮮やかな純白を引き立てるための色合いなのだ。
そして極めつけはヘッドギア、胸部、背部、腰部のユニットから生える半透明の羽。
浅葱色、赤紫色、純白色の半透明の羽は、まるで絵本から飛び出して来た妖精のよう。
神秘的というよりは、幻想的な印象を受ける。
そして鎧を思わせる意匠が見て取れながらも、物騒な印象は全く受けない。
それは武器に類する装備や、尖ったりゴツかったりする装甲部分が存在せず、彼女のその姿から『他人を傷付けようとする意思』が微塵も感じられないからだ。
だからこそ、その姿は戦場には似合わない。
誰も傷付けないという意思は、どこまでも戦場には似つかわしくはない。
だから彼女は見る者に、夢のような、ファンタジーのような感銘を受けさせる。
絵本の中の妖精とは。戦場で誰も傷付けようとしない者とは。そういうものだ。
それが聖遺物の力を借りた、彼女の戦装束であった。
「―――」
言葉も出ず、彼は彼女に見惚れる。
しかし世界は、そんな停滞を許さない。
世界を揺らがす獣の咆哮が、大気を伝い周囲の炎に波紋を映し出していた。
「ネフィ、リム……!」
また身体が大きくなったのか、体長が15mを超えている。
どこか弱ったような印象も受けるが、それ以上に身体中からにじみ出ている、先ほどより数倍に増した凶暴性と飢餓感が他の印象の全てを塗り潰していた。
吼える。世界が揺れる。
駆ける。地面が揺れる。
震える。炎熱が揺れる。
怪物が腕を振り上げ、地面を強く叩いた。
ネフィリムの目の前の地面が円盤状にひっくり返り、その周囲がひび割れる。
何tもあろうかという巨大な岩石が二人に迫り、押し潰さんと落下する。
押し潰されて死なせてしまう、と、ゼファーは目を見開いた。
足掻こうとするゼファー。しかし、身体は腕を上げるだけの力すら残っていない。
セレナの危機に、彼ができることはなにもない。
迫る岩石をただ睨むことしかできない……そんな彼の視界に、手が映る。
細く、か弱く、ゼファーと何度も手を繋いで来た、そんなセレナの手がそこにあった。
セレナが手を振るう。
目には見えない透明な力場がその手から放たれ、岩石に絡み付いた。
ゼファーの目には映らないそれを、セレナは花を手に取るように優しく操る。
そして、『岩石の持っていたエネルギーの大半をゼロにした』。
重さと速度を併せ持っていた岩石は、その場で真下に落ちる。
呆気に取られるゼファーをよそに、セレナはゼファーに一瞬視線をやって、微笑んだ。
「大丈夫、あなたは私が守るから」
セレナは左手を添えるようにゼファーの胸に当て、右手をネフィリムへと向ける。
ネフィリムが叫び、先刻に全てを薙ぎ払った赤いレーザーを全身から解き放った。
その数は更に増え、20。
しかしセレナの細い指がたおやかに動くと、それら全てが偏向させられ、曲げられる。
真下に、真横に、真上に曲げられ、それらは一つたりとも二人の元へは届かない。
曲げられたレーザーが遠方で岩石の小山に当たり、風景の一部を吹き飛ばしていく。
「……これ、は」
ゼファーにも分かる。
今のセレナは、あるいはネフィリムにも匹敵する存在だ。
いかなる手段によってそれをなしているのか、彼には全く見当がつかないが、それでもこの次元違いの攻防を見ていればよく分かる。
今、セレナに守られているのだ、ということも。
「ッ!」
だが、いつの間に接近していたのか、焔の銀騎士が目の前に現れる。
騎士が伸ばした手が、ゼファーの頭に迫る。
その瞬間―――彼の頭が、割れるように痛み出した。
理由など分からない。けれど、頭の中にあった何かが、壊れてしまった気がした。
「あ、あ、あ、が、ッ、ァァァァッ!!」
「ゼファーく……くっ!」
セレナはネフィリムに向けていた手を下ろし、両手でゼファーを抱えて後方に飛んだ。
焔の銀騎士から距離を取る少女。
しかし、焔の銀騎士は逃さないとばかりに後を追う。
まるで、彼女に抱きかかえられている少年を目的として、何かをしようとしているかのように。
セレナも相当な速度で飛んでいるのだが、それにも増して騎士の速度は速い。
彼女が全力を尽くしても、なお振り切れないほどに。
「ぎ、ぎ、ぃ、ぅ、ざ、がッ……!」
「ゼファーくん、しっかり!」
それに加え、ゼファーの状態が危険過ぎる。
セレナは知るよしもないが、ゼファーの頭の中で、理由も方法も不明ではあるが、何故か無理矢理こじ開けられてしまっていたものがあった。
『記憶の蓋』である。
ゼファーがかつて、大切な人が死んでしまう度に使っていたあれだ。
彼が今日に至っても乗り越えられていない、死に付随する無数のトラウマへの蓋だ。
リルカ、ビリー、ジェイナス、クリス、バーソロミュー、その他大勢の者達。
それらの死に感じていたはずの痛み、目を逸らしていた死別の苦痛。
全てが一斉に、ゼファーの脳裏を蝕んでいる。
ゼファーはいまだ、過去から目を逸らして未来を見ているに過ぎない。
大切な人が死んだとしても、歪まないままにそれを糧にできる強い人間ではない。
打たれ強いのではなくやせ我慢、心の弱さを意思の強さで誤魔化し、誰かの死に感じたことを誰かの生を守る日々で蓋の下に押し込んでいるだけ。
彼が大切な人の死に向き合うには、まだまだ心の強さが足りていない。
その成長は、牛歩である。
更に、何故かその負の感情がどこからか干渉され、倍加してしまっている。
恐怖、陰鬱、不快、諦観、憎悪、忘却、嫉妬、狂乱、無念、情断、困窮、悔恨、苦痛、破滅、後悔、懊悩、害意、憤怒、呪言、拒絶、殺意、自蔑、自罰、自虐、劣等感、罪悪感、自己嫌悪。
それらが渦巻き、とぐろを巻き、頭蓋を破ろうと暴れ回っている。
数えきれないほどの無数の負の感情。
これらを全てまとめ、一つの感情として扱った場合。
それに相応しい呼び名は、"絶望"しかありえない。
彼は今、他者の死の痛みから逃げ続けたツケを、今になって『他の誰かに無理矢理させられる』という形で、本人の意志とは無関係に払わされていた。
脳から流れ出した絶望は胸の奥に流れ込み、そこでドス黒い熱へと変わる。
そんな熱が、彼の胸の内を焼いた。
「う、あ、かッ!?」
見かねたセレナが、飛びながらゼファーの胸に手を当てた。
すると胸の奥、感情の原泉から熱と痛みが引いていく。
彼の脳裏を暴れ回っていた負の感情すら、その活動を抑えられていた。
まるで、"負の感情の元となったエネルギー"を、彼女が彼の身体の内から引きずり出しているかのように。
(私の『力』の特性はエネルギーベクトルの操作……だけど……!)
セレナが纏う聖遺物から発する『力』は、誰も傷付けない力である。
力の向きを変える。ただ、それだけだ。
熱線を偏向させ回避、重力の向きを変えて360°好きな方向に『落ち続ける』ことで飛行、熱量を大気中に霧散することでネフィリムのエネルギーを消滅させることもできる。
無論、そうして扱った力の反動は体に負荷として発生してしまう。
13歳の幼い彼女の身体では、一定以上のエネルギーを操作することは自殺に等しい。
彼女はこの施設で最も聖遺物を操る適正が高い。
そんな彼女ですら、ネフィリムのエネルギーを消滅させることで発生する負荷を軽減することは不可能だ。ほぼ確実に死に至る。
彼女が身に纏う聖遺物の力をもってしても、完全聖遺物との差は埋めがたいのだ。
そして、観測班の測定値を信じるのであれば。
今彼女に迫っている
どちらか片方を止めれば、セレナはそれだけで死ぬ。
そしてこの白亜の巨人と焔の銀騎士は、共にゼファーを狙っていた。
「■■■■■■■ッ!!」
「!? くぅっ!」
眼前に迫るネフィリムの大顎。
セレナ達は空中で一瞬ネフィリムの開いた口の中に入ってしまうも、すぐさま反転しネフィリムの口の中から脱出。
セレナの長い髪の端が噛み千切られるのが、彼女の視界にチラッと映った。
ネフィリムはどんどん進化を重ねている。
背中にブースターのような熱推進機関までもが生え、機動力も申し分なくなってきた。
焔の銀騎士と同時に捌くのも、もはや限界だろう。
何故かは分からない。
だが、空から降ってきた騎士も、聖遺物を喰らいたくて仕方がないはずの怪物も、何故かセレナではなくゼファーを狙っている。
聖遺物であるのなら、セレナとて身に纏っている。
なのに騎士は少年へと手を伸ばし、怪物は少年を噛み潰そうと少女へ迫る。
当然、彼女が彼をこんな化外どもに渡せるわけがない。
しかし、限界は刻一刻と近付いていた。
セレナはまだ、自分の手先の延長でしかエネルギーベクトルを操作できない。
つまり彼女が干渉できる事象は一度に二つまでなのだ。
迫る怪物、迫る騎士、手が離せない少年。
そして少年を抱きかかえるのにも片腕を使ってしまっている。
事実上、使えるのは片手のみ。
片手を少年に向けその痛みを和らげ、眼前に迫った怪物の赤いレーザーを全て曲げ、足を止めてしまった隙を突かれて接近してきた騎士を重力ベクトルを操作してふっ飛ばし、痛みに呻くゼファーに気付いてその胸に手を当て痛みと絶望を和らげて、彼の手当に時間を取られた瞬間に3m以内にまで近付かれた怪物と騎士の間を抜けるように、最大速度で飛行し離脱。
手が足りない。
圧倒的に手数が足りてない。
詰みが迫って来ていることを、彼女自身が誰よりも強く実感している。
唯一、希望があるとすれば。
「―――」
「■■■■ッ!」
この騎士と怪物が、仲間ではないということか。
怪物は隙あらば騎士を喰らおうとする。
騎士は自分に襲いかかってきた怪物をあしらう。
近付ければ互いに争ってくれはする。だが、潰し合うまではしてくれない。
この完全聖遺物同士が殺し合ってくれれば楽だというのに、そうはなってくれないようだ。
ネフィリムが極太の熱線を吐く。
セレナが歯を食いしばり、むせ返りながら口の端から血を流し、それの軌道を捻じ曲げる。
軌道を変えられた熱線は、セレナの計算通り焔の銀騎士の元へ。
彼女が命を削っても僅かに軌道を逸らすことが精一杯だった熱線は、何気なく振るわれた軽い腕の一振りで容易く粉砕される。
粉砕された熱線の飛沫が飛び散って、辺りの地面を穴だらけにしていった。
誰が見たって一目瞭然。
決着は、時間の問題だ。
(……私は)
むせ返るセレナ。
彼女の腕の中で、ゼファーが胸を抑えて苦しんでいる。
ネフィリムが咆哮する。
焔の中を闊歩する銀騎士が、ゆっくりと二人に向かって歩を進める。
絶望の苦しみと熱に胸の内を焼かれるゼファーも、聖遺物を操る反動で刻一刻と命を削られているセレナも、もう保たない。
このままセレナが力尽きてしまえば、二人まとめて死に至るだろう。
共倒れは、ゼファーもセレナも望むところではない。
彼は彼女だけでも、と考えているし。彼女は彼だけでも、と考えている。
だからこそ、選択権は『力』を持っている方にある。
(私だって、死にたくなんかないよ。でも……)
天も地も全てが燃えているかのような、炎の世界。
炎を吐き、全てを焔で飲み込もうとするネフィリム。
炎の中を構わず突っ切り、ものともしない
止めるべき敵がそこに居る。
戦いの果てに傷付き、力尽き、倒れてしまった少年。
守りたい人がそこに居る。
セレナ・カデンツァヴナ・イヴは、覚悟を決めた。
(もう会えないことよりも……きっと、出会えたことの方が……)
一緒に居てあげたいという、願いを諦めた。
皆とずっと笑っていたいという、想いを諦めた。
もっと好きになりたい、好きになって欲しい、そんな望みを諦めた。
執着も、生存も、希望を、信託を、幸福を、愛を、夢を、命を、諦めた。
己がこれから先生きていくはずの未来すらも、諦めた。
覚悟と引き換えに、生きることを諦めてしまった。
「私、歌うよ」
比較的綺麗な岩の上に、セレナはゼファーを横たえる。
記憶は混濁し、意識は朦朧とし、心は絶望の記憶に飲まれかけているゼファーは、薄ぼんやりとした視界の中で、セレナの寂しそうな背中を見た。
いつも背中を見せている彼が、久方ぶりに誰かの背中を目にしている。
自分を守ってくれる誰かの背中を、無力な自分という目線で見つめている。
そうして彼が背中を見てきた人達は、一人残らず居なくなってしまったことも忘れたままに。
セレナは、胸の前で手を重ねる。
その仕草が誰かの幸せを祈る時の彼女の癖なのだと、彼は知っている。
そして彼女は口を開き、歌を紡いだ。
「
その旋律は、命を糧に紡ぎ出される妙なる調べ。
歌い手を薪として全てを燃やし尽くすかのような、そんな滅びの歌だった。
にも関わらず、その旋律は美麗にして可憐。
クリスの鼻歌を聞き慣れていたはずのゼファーが、思わず聞き惚れてしまうほどに。
そして、世界が塗り潰される。
周囲を照らしていたはずの陽の光が目減りし、地面に燃え広がっていた火が消えて行く。
それがこの場に存在する熱、光、全てのエネルギーをセレナが支配し、管理干渉しているのだと理解できるほどの知識のある者は、この場には誰も居ない。
今やこの場で、彼女の許可無く動くことは、ただの炎であっても許されはしなかった。
セレナは命を燃やす歌、その次節を歌う。
歌う度、奏でる度に、彼女の口の端から血が流れ出す。
その流れ出す血の中にこそ、彼女の命が流れていた。
ネフィリムが苦しそうに呻きだす。
今や彼女が干渉するこの世界の中では、怪物ですら咆哮することも叶わない。
セレナが右手を一振りすると、ネフィリムの身体から光の粒が漏れ出した。
否。光ではなく、熱の粒だ。
ネフィリム内部にある限りあるとはいえ膨大な熱量を、彼女は圧縮して小さな熱の粒に変換し、空へと舞い上がらせていく。
無数の熱の粒は触れるだけで空の雲を吹き散らし、遥か上空でその膨大な熱量と光を発散する。
その熱が、地上に被害を与えることはない。
熱の粒は空に輝き、まだ日が沈んでいないにも関わらず、青い空を星空へと変える。
ネフィリムの内部の熱は次々と空の星へと変わり、そして瞬くように消えて行く。
無理矢理外部から熱を吸い出される度、怪物は苦しそうに呻くが、動けはしない。
既にセレナがその体の運動ベクトルを完全に支配している。
誰もが勝てなかった怪物が、とうとう打倒される時が来た。
だが、ゼファーの眼は、その最悪の瞬間を見逃していなかった。
(危ない)
焔の銀騎士が、装甲の隙間から煙を吐き出し、装甲の一部を再展開している。
まるで……リミッターを、外しているかのように。
現に騎士はセレナが支配しているのこの空間で、怪物すらもが動けなくなっているこの空間で、既に動き始めていた。
セレナは気付いていないのか、反応が遅れているのか、ネフィリムに集中しているのか。
ネフィリムの動きを止めること、あるいは熱を散らすことがそれほどの思考を要しているのか。
あるいは、ゼファーの戦場で鍛えた直感がいち早く反応させただけなのか。
いずれにせよ、セレナは騎士が形を変えたことに、すぐには反応していなかった。
(セレナ、セレナ、セレナ……!)
ゼファーはそれを知らせようとする。
しかしズタボロの身体は強靭な精神力によってかろうじて意識は保っているものの、声を発することすら出来ないほどに弱り切っている。
片腕もない。片耳もない。血も体力も使い切っている。
骨や内臓にまでダメージがあり、その状態で鎮痛剤と増血剤で体を騙しながら戦い続けたのだ。
もはや彼の体は、彼の意思で動いてはくれない。
そして、セレナが歌を続けながらも、顔を上げる。
眼前に迫った全身銀一色の騎士。
騎士が左手を手刀の形に揃え、肩口に引く。
「……あ」
そして手刀を真っ直ぐに振るい、セレナの胸の中央に突き刺した。
「―――ぁ」
ごぷっ、とセレナの口から泡混じりの血が吐き出される。
彼女の胸の奥からぐじゅりと音がして、焔の銀騎士が何かをそこで握り潰したのが分かる。
そこは丁度、人の心臓がある辺りだった。
騎士が血まみれの左手を引き抜くと、セレナがゆっくりと、地に向かって倒れていく。
「っ、ぅ、か、ぃ、きっ、かぁは、ッッッ、セ、レ――」
彼の中で、感情の爆発が体の状態と全ての条理を凌駕する。
叫ぶ。喉が悲鳴を上げる。目を見開く。目と目蓋が悲鳴を上げる。
息を吸い込む。肺が悲鳴を上げる。血が流れる。心臓と血管が悲鳴を上げる。
立ち上がる。骨と筋肉が悲鳴を上げる。走り出す。身体の全てが悲鳴を上げる。
そんなものは主である彼の心には聞こえない。
だって、耳すらもうどこか落としてきてしまったのだから。
「――セレナぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
叫んで、飛び出して、片方しかない腕で彼女を受け止める。
痛みが、苦しみが、倦怠感が彼を襲う。
けれどもう自分なんて見てなくて、彼女しか見ていない彼がそれらを感じるわけがない。
少女の胸には大穴が空き、誰が見たってもう助からないことは明らかだ。
セレナの干渉力場により常時絶望のエネルギーを吸い出されていたゼファーも、彼女が倒れたことでその恩恵を受けられず、またしても絶望の記憶の想起が始まってしまっている。
彼の記憶の中の絶望、彼を置いて行ってしまった人達の死に様が、少女と重なる。
「おい、おい、しっかりしろ、しっかりしてくれ、俺を置いて行かないでくれ」
片方だけの腕で離さないとばかりに強く抱きしめて、震える唇で懇願する。
「俺を―――ひとりにしないでくれッ!」
縋りつくように、とても弱々しく。
「……くん」
その声に応えるように、セレナは目を開く。
けれど彼女の表情を見て、ゼファーは絶望の表情から、驚愕の表情へと変わる。
「なんでだ、なんで――」
彼には理解できないのだ。
「――なんで、今にも死にそうなお前が、笑ってられるんだ!?」
死にゆく者が、今こうして、彼に笑いかけている理由なんて。
「死んだらもう誰とも触れ合えない!
誰と言葉を交わすことも出来ない!
大切な人達とも、もう二度と会えなくなるんだぞッ!」
そう、だから死にたくなかった。
そう、だから死なせたくなかった。
生きたいという気持ちだけで生きていけなかったのは、周りに誰も居なくなってしまうのが怖かったから。孤独が怖かったから。
死別という覆せない永遠の別れこそが、彼の最も恐れるもので。
「――から」
「……え?」
「もう逢えないことよりも、出逢えたことが嬉しかったから」
大切な人が傷付くことこそが、彼女が最も恐れたことだった。
「もう逢えない悲しみより、怖さより、出逢えた嬉しさの方がずっとずっと大きいから……
だから私は笑えるの。楽しかった日々を、思い返しながら。
出逢えた大切な人を、守れたなら、私は、笑えるよ……」
セレナ・カデンツァヴナ・イヴは微笑んでいる。
ゼファーのような、辛い目にあいながらも笑うための貼り付けた仮面ではない。
心からそう思い、心から守れたことを喜び、死に瀕してもなお微笑んでいる。
たとえ地獄の底であっても、彼女は誰かを守れたならば、笑って居られる。
それが彼女が持つ、誰にも真似できない心の強さだった。
彼女の大人しそうな表面だけを見ている人間では、絶対に知り得ない強さだった。
騎士がゼファーに向かって手を伸ばすも、不可視の力場にて弾かれる。
セレナしか見ていないゼファーは、気付きもしない。
「だから、笑って。あなたは私の希望なの」
セレナは自分を抱きしめるゼファーの手に己の手を重ね、優しく握る。
いつもなら暖かいはずの彼女の手が、もう冷たくなり始めた彼女の手が、少年の心に絶望を強烈に刻み込んでいく。
そんな彼の気持ちを理解しながらも、彼女は胸に大穴が空いた状態で、言うべきことを全て口にし、伝えるべきことを全て伝えるために命を振り絞る。
これが最後。
泣いても笑っても、これが最後だ。
セレナという個人として彼に伝えたいことも、彼の友として残さなければならない言葉も、今を逃せば永遠に伝えられないのだと、彼女は歯を食いしばる。
「あ、ああ、セレナ、せれな……」
「私が初めて、自分の力だけで救えたんだって、助けられたんだって、そう思える人で。
私がこの世界に生きてた証で、私のことを覚えていてくれる、
私が生まれてきたことに、生きてきたことに、価値があるんだって、そう思わせてくれる人で」
セレナが助けることができた人は、大抵の場合はマリアにも助けられていた。
そしてセレナよりも、大なり小なりマリアの方に大きく感謝の気持ちを向けていた。
切歌もそう。調もそう。子供達も皆そうだ。
そんな風にも、彼女は姉と自分を比較してしまっていて。
だけど白と灰の牢獄の中で、ゼファーに一ヶ月たった一人で語りかけ続けて。
彼女はたった一人で、廃人寸前だった彼を切歌や調と話せるまでに回復させられた。
自分だけの力で救えたんだと、少しだけ自信を持てた。
姉のことを知らない人に、自分だけを見てもらえた。
他の人とも関わって救われていく彼を見て、不思議と嬉しい気持ちしか感じなかった。
救われてくれてありがとうと、口にせずともそう思っていた。
取られたくないなと、口にせずともそう思っていた。
誰よりも幸せになって欲しいと、口にせずともそう思っていた。
彼女はずっと、ゼファーという木にとまる小鳥のままで居た。
寄り添い、寄りかかり、木を蝕む虫を啄み、誰よりも近しい隣人として。
「私は……生まれた日から……
あなたと出会える日をずっと探してたんだなって、そう思えるくらい、大切で……」
初めて言葉を交わした瞬間に、運命を感じた。
ゼファーもそう。セレナもそう。それからの日々は、黄金色に輝く幸せな日々だった。
たとえ、その結末が、どんなに残酷なものであったとしても。
「……だから……」
痛いくらいに、苦しいほどに感情が暴れだすのは、きっとその人が愛しいから。
親が子に、子が親に向ける愛にも、その友情はきっと劣らない。
「だから、生きて、いて、欲しい、って、そう――けほッ」
「セレナっ……!」
セレナが血を吐く。もう顔色も蒼白だ。
胸の穴から流れ出す血がゼファーの服に染み込み、赤黒くグロテスクに染めていく。
彼女を抱きしめるゼファーの顔色も、様子も、負けず劣らずひどいものだ。
死んでしまうことも、目の前で死なれてしまうことも、この上ない苦痛を人にもたらしていく。
だからこそ、人が死ぬということは、悲劇なのだ。
「ね、ゼファーくん」
それでも。
悲劇ではあっても、救いのない、希望の残らないバッドエンドで在れなんていうルールはない。
「誰かに『恋』をしたら、その時は素直にそれを認めてね」
この世界で、今は彼女だけが、彼が救われる唯一の道を知っている。それを残すことができる。
「恋……?」
「そう」
わけがわからないという顔をするゼファーに、今は分からなくてもいいんだよと口にして、彼女は笑みを少しだけ歳相応のものへと寄せる。
日常の中で、ゼファーをからかう時のように。
「恋にはね、理由も理屈もないから……
普通の人なら誰でも持ってる、誰でも抱く心の熱だから……
わたし、には、わかるの」
ゼファーの中には歪みがある。
その歪みが正されなければ、彼はどうあっても救われない。救われようとしない。
彼の人生は、永遠に自分を許せないままに完結してしまう。
そして、セレナは知っていた。
この少年が自分を許せれば世界は救われる。許せなければ世界は救われない。
そんな二択が、物語の最後にあることを。
姉妹で同じ未来と運命を見つつも、それはセレナだけが感じ取り、知り得た情報だった。
「ぜふぁー、くん、は……こいをしたら……そのと、き、もう……すくわれてるの……」
そしてこれは、その運命に対する彼女なりの答え。
恋をすれば救われるのか、救われたなら恋ができるのか。
どちらが先かは関係ない。鶏か卵という話でしかない。
問題なのは、彼がこの先『恋』をすることができるかどうか。
それが世界の分岐点だと、彼女は彼女なりに考える。
そして恐ろしいことに、聖剣に選ばれた乙女の勘は、限りなく正答に近かった。
他者が聞けば、一笑に付しかねないものであったというのに。
「すてきなこいをし……て……ともだちを……あなたも……しあわせに……」
最後の最後の力を絞り出し、命を使い切り、彼女にはもう口を開く力も残っていない。
もはや目も焦点は合っておらず、息は止まりかけ、心臓も動いては居ない。
そんな状態で、セレナはゼファーの頬に手を添えて、撫でる。
「なかせて、ごめんね」
彼は泣いてなんかいないのに。
セレナが死んでも、泣くことが出来なかったのに。
涙なんてどこにもなくて、乾いた頬がそこにあるのみで。
けれどセレナには、彼の流した涙が見えた。
自分の死に流してくれた彼の涙が、ちゃんと目に見えた。
そしてセレナは、目を閉じる。
「セレナ」
ゼファーが呼ぶ。セレナは応えない。
普段なら一も二もなく応えてくれるはずの彼女が、ゼファーの呼びかけに応えない。
そんなこと、ゼファーには初めての体験だった。
目の前の現実から逃げるように、目を逸らすように、信じられないと言わんばかりに、ゼファーはセレナの返答を待つ。
けれど、少女は応えない。
「セレナ?」
ゼファーが再び呼びかける。相も変わらず返事はない。
そして返って来たのは彼女の言葉ではなく、彼女の体の変化であった。
冷たくなり始めた彼女の身体が、光の粒に分解されていく。
まるで彼女の心の色に、綺麗な光に還って行くかのように。
停止した思考のままにゼファーは手を伸ばし、それを掴んだ。
暖かい、とまず手の平に温度が伝わってくる。
目の前で手を開くと、傷だらけの手の平に、小さな星が乗っていた。
小さな星は瞬くと、ゼファーの手を離れてふよふよとどこかへ飛んで行く。
止まった頭で考えることもせず、ゼファーはその光を追うように、手を伸ばした。
「セレナ……」
手を伸ばす先には、騎士と怪物が居た。
怪物が口を大きく広げて、ゼファーもセレナも、騎士もまとめて一口に喰わんとしている。
その時初めて、騎士は怪物に向き合った。
適当にあしらうのをやめて、仕留めんとする姿勢を見せた。
そして、閃光。
決着は一瞬。騎士が足に銀色の光を纏い、回し蹴り一閃。
ただそれだけで、怪物は幾千万の肉片に砕け散ってしまった。
誰もが守ろうとした少女も。
誰もが必死に食い下がっていた怪物も。
その騎士は、いとも容易く払うように命を奪う。
人が歩く最中に、何気なく虫を踏み潰す行程を踏むかのように。
それらの行動には、どうしようもなく感情や心というものが欠けていた。
殺意すらなく、
「……あ……」
ふと、視線をやる。やってしまった。
ゼファーは今、大きな穴のふちに立っていた。
それが地下施設であったF.I.S.の成れの果てだと気付けたのは、まだ原型は残ったいたからなのだろうか。ゼファーは辺りを見回して、また穴の底を覗く。
周囲のどこにも、人は居なかった。
逃げ出した人達の姿はどこにも見えない。
ただ、炎に燃やし尽くされた燃え残りがあって。
原型が少しだけ残る程度にしか形も残らなかった、それほどまでに破壊し尽くされた、燃やし尽くされた研究所があって。
溶解した、ドロドロの物質のすり鉢のようになっている、かつて過ごした場所があって。
ゼファーは戦いの中で気絶し、起きて間もなくこの光景を見た。
避難が完了したかどうかなんか分からなくて、けれど彼の視点では完了なんてしてなくて。
実際に皆が逃げられたかどうかなんて、神の視点ですら分からない。
炎の中に人間の手足のようなものが見えると、もう駄目だった。
停止した思考の中で、「なにもかも無駄だった」という言葉が、浮かんでは消える。
「ああ、そうか……みんな、死んじゃったのか……」
そんなゼファーに向かって、騎士が歩み寄る。
ゼファーは渡すもんか、とセレナを強く抱きしめた。
だが、それが最後のひと押しとなる。
彼が加えた最後の力で、セレナの身体は完全に砕け散り、光に還る。
呆然として、思考が完全に停止したままに、ゼファーはその光をかき集めようとする。
その光をかき集めたって、セレナが蘇りはしないのに。抱きしめられはしないのに。
なのにゼファーは必死に、何も考えられずに、光に向かって手を伸ばす。
だが、そんな彼をあざ笑うかのように、その光の全てを騎士が吸収し始める。
喰われている、とゼファーは感じた。
その直前に見たネフィリムの姿が、目の前の騎士と重なった。
そしてそれをきっかけに、思考のギアがガチリとはまる。
停止していた思考が戻り、意識が正常に覚醒する。
光に還るセレナと、その光を吸収していくセレナを殺した騎士を見て。
ゼファーはかつてないほどの強烈な感情を込めて、叫んだ。
「お前が、お前が、お前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がァッ!!!」
セレナの喪失に砕けかけた心を覚醒させたのは、怒り、憎しみ、そして殺意。
どれもこれまでのゼファーが持ち得なかったもの。
自身の行動原理として据えていなかったもの。
そして、それ以外の感情の存在を許さないほどに、強烈な感情の爆発だった。
ゼファーがここまでの負の感情を発したのは、もしかしたら、生まれて初めてだったかもしれない。
「お前が、セレナを殺した……!
殺してやる、俺が、この手でッ!
お前が憎い、お前を殺したい、お前を許せない、お前を認めない……!
お前を受け入れない! お前を受け入れる場所など、絶対に認めるものかッ!!」
憎悪が胸を焼く。憤怒が喉を焼く。殺意が全身を焼いている。
恐怖、陰鬱、不快、諦観、憎悪、忘却、嫉妬、狂乱、無念、情断、困窮、悔恨、苦痛、破滅、後悔、懊悩、害意、憤怒、呪言、拒絶、殺意、自蔑、自罰、自虐、劣等感、罪悪感、自己嫌悪。
記憶の蓋の奥にしまっていたはずの負の感情までもが全て吹き出していき、第三者からの干渉によりそれらが数倍に増幅され、心までもを焼いていく。
何も守れなかったと、何もかもを奪われたと、何もかもが無駄だったと、またひとりぼっちになってしまったと、絶望が彼を飲み込み、憎悪の背中を押していく。
そして心だけではなく、肉体にまでも変化は現れた。
ゼファーの眼から、喉の奥から、爪と肉の間から、否。
全身のいたる所から、『紅き焔』が漏れ出していた。
漏れ出した焔は彼の全身を焼き尽くさんと、体の表面から全身へと広がっていく。
心の痛みが体の痛みを超えていなければ、まず体の痛みで発狂しかねない規模の焼害。
彼の『絶望』を薪にして、焔が彼を飲み込んでいく。
だが、ゼファーはそんな自分が見えていなかった。
こうまで他人を「憎い」と、「殺してやる」と思ったことなど、彼には初めての体験だった。
それほどまでに、この状況が特殊だった。
それほどまでに、彼にとってセレナという少女は大切な人だった。
……怨嗟と殺意という形で。ゼファーは初めて、誰かの死に真正面から向き合っていた。
「お前達が何もかも壊した、奪っていった……殺して、殺して、殺して、殺してやる……!」
トン、と騎士が踏み込んだ。
眼にも止まらず、風も切らず、重力も感じさせない速くも軽やかなステップ。
踏み込むと同時に振るわれた左の手刀が、ゼファーの心臓に鋭く突き刺さった。
激痛に目を見開き、血を吐き、しかしなおもゼファーは眼前の怨敵を睨みつける。
「……憎い……」
彼がその殺意を増す。その胸中の昏い想いが膨らんで行く。焔がその火勢を増していく。
ゼファーは自分の胸に刺さった騎士の腕を掴み、殺意を声に乗せて叩きつける。
絶対に殺してやると、そう誓った。
その胸の誓いは、誰にも奪えない。
「俺が、いつか必ず、お前を……殺してやるッ……!」
焔が世界を飲み込んでいく。
両者を飲み込むほどの紅い火柱が立ち、同時に騎士が右手を振り上げる。
紅い焔の爆発が全てを飲み込んだのと、騎士が振り上げた手を振り下ろしたのはほぼ同時。
心が曲がる音がした。
心が燃える音がした。
心が尽きる音がした。
命が燃え尽きる、音がした。
そして、彼の意識の途絶と共に、物語はここで一旦幕を閉じる。
誰かが勘違いなどしないように、ここに確かな形で記そう。
ゼファー・ウィンチェスターは、この日まごうことなく『死亡した』。
黒幕が嗤う。
『待ちかねたぞ、この結末を』
『恐怖、喪失、憎悪、激怒、悲嘆、挫折、絶望。私の糧、私の贄、私の薪だ』
『お前の負の感情をもって、私はようやくかつての己の力を超えた』
『全ては我が掌の上。よく踊ってくれた、愚かな人間共よ』
最後に笑うのは勝者の権利。なればこそ、黒幕は自分に笑う権利があるのだと主張する。
『希望が奪われたその時にこそ、ヒトは何よりも濃い絶望を私に魅せる』
『喪失に終わり』
『死別に終わり』
『絶望に終わる』
『それが未来永劫変わらぬお前の運命だ』
運命を覆す権利を持つ者が居るように。
運命を捻じ曲げる権利を持つ者もまた、存在する。
『孵らず潰れろ。英雄の卵よ』
英雄譚には、時に英雄をも食い殺してしまう魔王が存在する。
彼だけに捧ぐ、
(未来は変えた。希望は残した。可能性はまだ……潰えてない)
君と二人なら何も怖くないと、彼と彼女は言った。
(誰か、この希望を繋いで、この人を……)
彼女が残した胸の
(……助けてあげて)
焔の中に、小さく光が瞬いた。
最後に勝ったのは誰か