戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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撃槍・ガングニールを聞く→すごく元気になる歌だけど……ちょっと……
私ト云ウ 音響キ ソノ先ニ→奏さんの歌やん!
正義を信じて、握り締めて→こんなに良曲で歌が上手いなんてビッキーじゃないやい!
Rainbow Flower→帰って来た!僕らのビッキーが帰って来てくれた!
と当時思ってたのは自分だけではないと信じたい


4

 ゼファーがこの施設に拉致されてから二ヶ月。

 すっかり彼もこの組織に馴染んだ……とは言いがたい。

 いまだにゼファーは最低限のものしかない立方体の牢獄に閉じ込められたまま、毎日来てくれるセレナとそこそこ顔を見せに来てくれる切歌&調、四人セットの授業の時にだけ合うナスターシャとしか顔を合わせてはいなかった。

 この施設でそれ以外にゼファーの存在を知る者は、ここの研究員の一部と、セレナ達三人と特に仲の良いセレナの姉マリアくらいのものだろう。

 

 

「カイロスという神が居ます。ゼファーさんの名の由来と同じ、ギリシアの神です」

 

 

 そして今日も今日とて補習という名の時間が過ぎる。

 授業の度に集中するのでゼファーは気付いていないのか、ナスターシャの呼称が微妙に変化している。それでいて他の子供達とはまた呼称の仕方が違う。

 彼女は基本的に子供はファーストネームで呼び捨てだ。

 まだ出会ったばかりだからと言えばそれまでだが、彼女が子供達に決して明かさない内心に何かしらの複雑な感情、事情、心境といったものがあるのかもしれない。

 

 

「なんだかあったかそうな名前だね」

 

「あ、なんか分かるデス」

 

「そうか……?」

 

「それ、ホッカイロじゃ」

 

 

 天然にボケるセレナに乗る切歌、ピンと来ないゼファー、突っ込む調。

 四人が平凡に恵まれた日本の子供であれば年頃も合わさって「ポケモン?」と反応したかもしれないが、あいにく四人は生まれてこの方ゲーム機に触ったことすらない。

 せがた三四郎が「なんでや」とツイートするレベルだ。

 

 

「カイロスは前髪が長く後頭部が禿げ上がった神と言われています」

 

「神なのに悲惨な髪デスね」

 

(あ、今切歌上手いこと言ったな)

 

「他者評価の大半は気にせずともよいものですが、容姿は別です。

 『外見で人を判断するな』と何度も教えたとは思いますが、

 それは裏を返せば外見で判断される要素はとても多いということです」

 

「汚い格好をした人が『私を外見で判断するな』って言っても説得力がないってことですね」

 

「その通りですよ、セレナ」

 

 

 切歌のちょっとおバカな発言に感心するゼファーをよそに、少し脇に逸れた外見談義に模範解答を示したセレナをナスターシャが褒める。

 しかし仏頂面だ。何故この女性はデフォで威圧感を周囲に振りまいているのだろうか。

 

 

「この神は人生におけるチャンスの象徴と言われています。

 チャンスは常に前にしかなく、後ろを振り返ってもないものなのだと」

 

「チャンスは、前にしか……」

 

 

 ゼファーはセレナ達が来てくれた日々の中で少しづつ彼女らのことを理解し、ナスターシャの授業でまた別の一面を垣間見て、けれども彼女らの理解者と言うには程遠い。

 知っていることより知らないことの方が圧倒的に多い心の距離だ。

 例えば彼は、ナスターシャがこの補習に潜ませた本当の目的に気付いていない。

 

 

「またカイロスとは、絶対的な時間の流れと対になる人間の主観的な時間の流れを意味します。

 『楽しい時間は早く過ぎてしまう』といえば分かりやすくなるでしょう。

 時間の流れとは、つまり―――」

 

 

 こうしてナスターシャが教える内容は多岐に渡るが、その多くが何かしらの形で教訓に繋がっている。知識よりも良識を積み上げることに重きを置いた授業なのだ。

 こうして知識を教える過程で、彼女はゼファーの精神を改善の方向へと向かわせていく。

 巧いのは、彼女のそれが歴史や神話、伝承の講義にしか聞こえないということだ。

 子供に前を向かせるためにカイロスの話をする。こうなってはいけないという一例としてカラマーゾフの兄弟を読ませる。英語版百マス計算でゲーム形式に競争させる。

 勉強の過程で子供達は必要な知識、知能、道徳、常識を身に付けていき、精神の成熟に従って大なり小なり心に刻まれている傷と折り合いを付けて行く。

 教師というものは授業、学習の過程で子供達の倫理をこうやって自然と完成させていくのだ。

 精神的に立ち直らせたい相手に、真正面から言葉をぶつけるのではなく、教え導く形でその精神を改善の方向へと向かわせていく、子供達の自立を促す更生。

 知識を介してのカウンセリングと言ってもいいだろう。

 それに、こんな言葉もある。

 

平凡な教師は言って聞かせる。

よい教師は説明する。

優秀な教師はやってみせる。

しかし最高の教師は子どもの心に火をつける。

 

 ナスターシャの指導方法は子供達に自分で考えさせるもので、子供達が進んで吸収したくなる教訓を教えることで、子供達が望んで学びたくなるように促すもの。

 勉強嫌いの子供にも効果的とまでは言いがたいが、画一的で子供の個性を見て柔軟に合わせられないマニュアル教育よりは数段上のそれだ。

 事実彼女の授業は知識を詰め込むに留まらず、常識自体あまり知らないゼファーに世間一般のコモンセンスを構築しつつあり、彼の冷えきった傷だらけの心に小さな火を付けてもいた。

 自分の中の矛盾と後悔、執着と妄執に囚われてまともに教育を行っていなかったバーソロミューと比べれば、雲泥どころか天地ほどの差がある良識的な教育者であると言えよう。

 子供を上手く導けない大人は大人失格などと言う者は居ないだろうが、良識のある大人はすべからく子供の模範となる先人を目指すものである。

 

 

「俺達にとって素敵なものは、地面に転がってないんだったな」

 

「……なんか改めて言われるとちょっと恥ずかしいかも」

 

 

 休憩に入った途端、思い出したように口にされる先月の会話の一部。

 ゼファーは悪意なくセレナから貰った言葉を口にして、セレナはそれに少し照れた様子だ。

 強く他人に意見すること自体、彼女はあまりしない性格なのだろう。

 彼からすれば感銘を受けた言葉でも、彼女からすれば少し恥ずかしい過去なのかもしれない。

 

 

「なになに? なんデスか? あたし達も混ぜてくださいな!」

 

「……」

 

 

 生きてるだけで楽しそうな切歌に、何を考えてるのか分からない無表情な調が連れられてそこに混ざって来て、学生達の休み時間のような四人のだべり場に。

 

 

(……そろそろ、いいでしょうか)

 

 

 そんな四人の微笑ましい日常を遠巻きに見つめ、ナスターシャは決断する。

 フィーネが彼女に告げた一つ目の目的はすでに果たされた。

 で、あるならば、二つ目の目的……『ゼファーの処分』を止めたいのならば、彼女はできることを全てこなさなければならない。

 それが彼女一人の力では、どう足掻いても不可能なものであったとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第五話:Nightingale 4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……え?」

 

「二度も言わせないで下さい。貴方が望めば、今日から外に出てもいいと言っているのです」

 

「え、ちょっと待って下さい。俺がここに閉じ込められてるのは研究のためでもあったのでは」

 

「……その目的の一つが達成されました。もうここに居る意味はありません」

 

 

 その提案は唐突だった。

 補習の時間でもないというのに部屋に訪れたナスターシャは、いまいち言われていることを把握しきれていないゼファーに矢継ぎ早に案件を説明する。

 彼女は彼にいつでも手枷足枷を外し、この部屋の外に移住させられる用意があると言う。

 この部屋から出られないのだとぼんやりと考えていたゼファーには寝耳に水だ。

 彼女は目的は果たされたと言う。

 しかし、ゼファーは何かをした覚えもされた覚えもない。

 セレナ達と話し、ナスターシャに教導され、適度に精神安定の為の薬を投与されていた程度だ。

 

 

「その目的っていうのは……やっぱり、聞いても答えられないんですよね」

 

「申し訳ありません。ですが、知らない方がいいと私は判断しました」

 

 

 変に隠し事をしたり誤魔化したりしない率直な物言いに、ゼファーは納得する。

 この物言いに納得するかしないかは相当に個人差があるだろうが、速攻で納得する者はそう多くないだろう。現にナスターシャは一瞬だけ微妙な表情をしていたりする。

 自分に何をされたのか。

 あるいは、自分の何を確認されたのか。

 あいにくそこで推測を幾つも打ち立てて、絞り込みに入れるほど彼の頭はよろしくない。

 

 

「何も無い部屋で縛り付けられる必要はもう無いのです。

 ある程度の自由と、移転先はこの部屋よりはマシな部屋であることは保証できます」

 

 

 ナスターシャからのメリットしかない提案に、ゼファーは改めて部屋を見回してみる。

 縁取りのグレーと白い壁しかない部屋。意外と何でも出来た謎の棚らしきもの。

 正方形の部屋は一面が鉄格子である以外は全て壁で、窓すらない。

 部屋を照らす蛍光灯が生み出す景色は、長くここに居ればそれが発狂の原因になってしまうのではと常人に危機感を募らせるだろう。

 ただ、ゼファーはそこに特に思う所はない。

 むしろ食事が出る分――ここに来て最初の頃は何でも吐き出していたのでスープを中心にセレナが食べさせていた――かなり恵まれた環境であると彼は認識している。

 

 問題があるとすれば枷の方だろう。

 両手両足にくっついて動きを阻害し、彼が暴れれば即座に捕縛する鎖の枷。

 これに鬱陶しさを感じない人間は居ないはずだ。

 それにゼファーはアウトドア派である。身体を動かせるならば動かしたいし、運動それ自体に楽しみを見出だせる人種でもあるし、体を動かして嫌なことを忘れようとするタイプでもある。

 付け加えると、一人で寂しい時に友達に自分から会いに行けるかも、なんて彼の内心にあるみみっちいというかちっこい欲求もあるわけで。

 何にせよ、客観的に見ても彼にここから出ない理由はない。

 

 彼はナスターシャの目を見て、「では、よろしくお願いします」と頭を下げようとして、

 

 

「……少し、考えさせて下さい……」

 

 

 言おうとしたことと反対のことを、少し震えた声で口にする、そんな自分に気付いた。

 

 

「そうですか」

 

 

 そしてその言葉を「やはりか」とでも言いたげな雰囲気で受け止めるナスターシャを見て、自分のことを自分が分かっていない実感に、少年の困惑は加速する。

 

 

「理由を聞いても?」

 

「理由……理由は……」

 

 

 ナスターシャの声に動揺や疑問の色は見えない。

 つまりこの問いかけは、彼女が分からないことを問う問い掛けではない。

 彼が自分で分かっていないことを自覚させる問い掛けだ。

 自分でも何故「考えさせて欲しい」と口にしたのか分からないゼファーは、少し思案してその理由を探し始める。

 

 牢と変わらないこの部屋から出て、友達の居る側の世界に踏み出して、それで……そうやってこれから先の()()に思いを馳せた瞬間に、震え始めた手と身体。

 目と鼻の先にあるこの部屋と部屋の外の境界線が、異常にハッキリと見え始める。

 この部屋という閉じられた空間のせいで認識できていなかった、自身に生まれてしまった最大の歪み、遺跡に赴いてからの一連の事件で刻まれたトラウマを自覚する。

 部屋の外には未知が満ちている。未見の場所がある。いつか出会う未定の友がいる。未踏で未明な未来がある。一歩踏み出せば、何もかもが新しい世界が待っている。

 そこに、途方も無い恐怖を彼は覚えた。

 

 何も手に入れたことのない人間は、喪失を恐れない。

 喪失を恐れるのはいつだって、大切に思う何かを喪失したことのある人間だ。

 大切なものを持ったことがない者、何かを強く大切に思えない者、大切なものを喪失したことがない者、そういった人間でなければ人は等しく喪失を恐れる。

 ただ、ゼファーはその喪失の痛みからの逃避が、『喪失への恐れ』が度が過ぎていた。

 彼にとって未来とは、今ある何かが失われる瞬間のことだ。

 

 大切な人が死んでしまった痛みを思い出さないように、楽しい思い出やその記憶に付随していた感情を押し込むのが過去への逃避であるのなら、これは未来への怯えなのだろう。

 今この瞬間に幸せを感じたとしても、それが失われるかもしれない未来を思えば足が竦む。

 過ぎ去った過去の死別が、未だ来ていない未来の喪失を恐れさせている。

 彼は前に向かって踏み出す強さを持てないでいる。未来に向き合う勇気を持てないでいる。

 この部屋の外に踏み出すことで変わっていく何かを、ゼファーは恐れているのだ。

 ようやく両手で数えられない歳になったばかりの少年に新たに刻まれ、未だ癒やされていない新たな心的外傷後ストレス障害だった。

 

 

「怖い……です」

 

 

 世の中の人間の大半が意識せずともできる『未来へ向かって進んで行く』という行動ですら、今のゼファー・ウィンチェスターにとっては苦痛だった。

 

 

「ここから出ることすら、怖い」

 

 

 踏み出すこと、変わること、先へ進むこと。未来へ向かう全てが、今の彼には恐ろしかった。

 それらが全て喪失に繋がっているようにしか感じられなかった。

 平坦に見える道のりですらも、自分に見えていない落とし穴が開いていることがあるのだと知ったことで、今や彼は一歩も踏み出せない。

 目を瞑って屋外を歩くことが恐ろしい気持ちと同じだ。

 その恐ろしさに気付いた上で、それを抱えて前に進み続けられる人間になりたいのならば、それこそ尋常でない人並み外れた胆力が必要となるだろう。

 

 

「ここに居続けるだけでは、あなたに未来などないとしてでもですか?」

 

 

 辛辣なナスターシャの言葉に、乾いた口調でゼファーは答える。

 

 

「未来ってなんですか? いまある大切な物が無くなる時のことですか?」

 

 

 未来がない、と口にした彼女の言葉には多くの含みがあった。

 伝えようとしたもの、伝わらない前提で込めたもの、伝わらなかったもの、伝わったもの、その言葉の内実はそれこそ参差錯落だった。

 伝わったその一部だけでも、ゼファーにとっては耳が痛いものばかりだったが。

 分かってはいるのだ、この少年にも。

 ここに長く留まっていたのだとしても、何の解決にもならないことくらい。

 牢の中に居続ける人間に未来などあるはずがない。

 

 そしてここにいつまでも居続ければ、いずれは誰もここには来なくなるだろう。

 セレナは来てくれるかもしれないが、それでも頻度は下がるだろうと、そう彼は思っている。

 いつか自分の足で会いに行かなければ、誰とも話すことできなくなる時間がやってきてしまうのだと、至極当然の未来予想図が彼の頭の中にある。

 友達に一方的に会いに来て貰うだけで自分から会いに行かない人間は、問答無用で交友関係が冷えきっていくのだという真理を、ゼファーはこれまでの人生で彼なりに感じ取っていた。

 

 セレナ、調、切歌。

 彼女らはゼファーに他の人間より友情を感じているのではない。

 今現在の彼と他の人達を比べて、ゼファーに他の人間より同情しているだけだ。

 誰もが健康な人間より、病人や怪我人に優しくするのが当然であるのと同じように、どうしようもない子供に目をかけているに過ぎない。

 ゼファーにとってセレナは特別だが、セレナにとってはゼファーは特別ではなく、この施設の子供達の中でもゼファーは特別でもなんでもない。

 そんな当然の認識が、彼の中にはあった。

 ……それが、事実であるかどうかは別として。

 

 

「それでここに居続けると?

 何もしないのだとしても、時間は無慈悲に流れていくだけですよ。

 何もしなければ流れない……などということもなく、待ってくれなどしません」

 

 

 そんなゼファーに、彼女は厳しい言葉をぶつける。

 何も変わって欲しくないから何もしない、という選択を厳しく否定する。

 ゼファーよりも多くの年月を生きてきた彼女の言葉には重みがある。

 明日がどうなるか分からない恐ろしさも、変わって欲しくない今の時間があるという気持ちも、時間を無意味に過ごすことの無価値さも、彼女は彼以上によく知っているのだろう。

 それでも少年の瞳は揺れるだけで、決定的な一歩を踏み出せない。

 

 

「老いること、朽ちること、壊れること。

 時が進む事の全てが失われること、死に別れること、終わりに通じているわけではありません。

 しかし今日に明日を諦めた者には、明日の輝かしいものは絶対に得られないでしょう」

 

 

 それは前か上を向かなければ素敵なものが目に入らず、下を向く限り誰かが捨てたものしか目に入らないという、セレナの言葉を彷彿とさせる言葉だった。

 この研究所で誰がセレナを育てているのかということが、よく分かる。

 

 

「未来に終わるものもあれば、未来に始まるものもあり。

 過去の誰かのものを未来に貴方が繋げることも、その逆も然り。

 誰もがそうして進んでいきます。セレナも、切歌も、調も、そして私も」

 

 

 そして、重い。彼女の言葉に込められた実感が重い。

 ゼファーはそういう言葉を発せられるのは、何かしらの過去を乗り越えた人間だけであり、言葉に過去を乗せているからこそ他者の心に響くのだと知っている。

 で、あるならば、ナスターシャも幸せなだけの人生を送って来たのではないのだろう。

 彼女の忠告には重ねてきた人生の年月の重みと、経験からくる先人なりの思いやりと、どこか後悔に似た暗さが生む、他人に無視させない強い響きが込められている。

 

 揺れる。

 少年の心中が揺れる。

 それでも踏み出さんとする一歩は、喪失の恐怖に押し留められる。

 この部屋と外界の境界線が、ゼファーには未だひどく遠く見える。

 

 

「進むのをやめれば、貴方は置いて行かれるだけです。それでいいのですか?

 進めるか、進めないかを聞いているのではありません。貴方はそれでいいのですか?」

 

 

 そんなゼファーに対し、ナスターシャは切り口を変えた。

 孤独の恐怖を匂わせられた途端、少年の身体は一度軽く震え、ひと目で分かるほど露骨に狼狽する。このままここに居続ければいずれ孤独に戻ってしまう可能性はある。

 何もしないということで喪失してしまうものもある。人との繋がりなどその最たるものだ。

 そして孤独の中で得られた繋がりを失う恐怖とは、かつてゼファーの心を壊した理不尽そのものだ。恐ろしくないわけがない。

 かつて災厄により与えられた喪失が、今また踏み出せないことで繰り返される。

 踏み出せないのも恐怖によるものなら、自分は踏み出せないのだと割り切れないのもまた恐怖によるもの。

 

 

「そんな、つもりで言ったんじゃ……だけど……でも……」

 

「また明日来ます。残るにせよ、出るにせよ、最後には貴方の意志を尊重します。

 どちらを選ぶか……答えは急かしません。ゆっくり考えるといいでしょう」

 

 

 聞こえたのか聞こえていないのか、自問自答を繰り返し、ナスターシャの言葉にも反応しないゼファーに、彼女は溜め息を吐く。

 彼女の口調は丁寧ではあるが、厳しい語調のせいで相手を敬っているように感じられない。

 多少の甘さもあるが、彼女の子供に対し接するスタンスは常に厳し目だ。

 支えられてもいい。時間がかかってもいい。それでも辛い現実から立ち上がるにはその人自身が踏ん張らなければならない、それが彼女の持論。

 一人で生きていける強さがなければ、一人で生きていけない人と出会った時、その人に手を伸ばすだけの余裕がなくなってしまう。

 叶うなら、子供達には他人に手を差し伸べられる人間になって欲しいと、そんな親が子に願うような祈りがそこにはあった。

 

 そんな厳しくも子供思いな彼女だが、ゼファー相手にはいまいち強く踏み切れない。

 今の彼にはそこまで強い言葉をぶつけられないし、強くなることを求められない。

 精神的に、それらを受け止められるだけの余裕が無いからだ。

 それでも甘さだけを見せられず、厳しさが混ざってしまうのは彼女の性情ゆえにだろう。

 彼女が自分で能動的に動かず、ゼファーを立ち直らせるためにセレナ達を使っているのは、彼の脆い部分を、自分の厳しさで迂闊に壊さないようにするというのもあるのかもしれない。

 まして彼女には、ゼファーと似た症状を持つ子供を見た経験があった。

 ねじ曲がった思考、絡みあったコードのようなトラウマだらけの精神構造。

 

 

(……『サバイバーズ・ギルト』……)

 

 

 生き残ってしまった者の罪悪感(サバイバーズ・ギルト)

 死ぬべき時に死ねなかった者達が抱える心的外傷。

 置いて行かれてしまった者の心に刻まれる傷跡。

 自分だけが生き残ってしまったことに罪悪感を感じ、死んでいった人達が自分を恨んでいると思い込み、全てを喪失した痛みの原因を自分に求める。

 生き残ってしまったことそのものが人を苦しめる、罪の十字架。

 

 

(哀れな)

 

 

 何より先に、この少年に対しては同情心が先行する。

 長所や個性に対する感想よりも先んじて、だ。

 思い悩むゼファーを置いて部屋を出て、ナスターシャは別室へと向かう。

 救いがないのは、この少年が格別に痛ましい子供だからではなく、ナスターシャがゼファーのような子供を何度も見たことがあるということ、つまり。

 この施設の子供の中にも時折そういう子供は居て、彼が特別でもなんでもないという点にある。

 彼と同程度のトラウマが、この世の中にはありふれているという点にある。

 

 子供が『そうなってしまう』ことに対して、ナスターシャは胸の奥に小さな痛みを感じる。

 何度見ても慣れやしない。慣れることができない。慣れる気がしない。

 それでも現実は、魔神の悪意とは関係のない事柄でも不幸な子供を増やし続ける。

 ましてや彼女は、子供を救済するのではなく不幸にする側に立っている自分を自覚している。

 だから苦しいのだ。

 そしてダブルスタンダードと言われようが、それでも子供が世の不条理に傷付かないことを、心の底から願い続けているのだ。

 

 帰路の最中、廊下ですれ違った走る少女の姿を見て、彼女はまた一つ無力感を噛み締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分を見つめ直すこと。

 言うのは簡単だが意外と難しい。自分に甘かったり、自罰的であったりしても失敗してしまう。

 過大評価も過小評価もいけない。勘違いや現実逃避をしてもいけない。

 それでいて自分を見つめ直せない人間は、社会の中で自分を客観的に見ることが出来ない。

 よくよく考えなくとも難しい作業だ。

 自罰的、自虐的、自傷的、自分に自身がなく戦闘時以外では自分を過小評価しがち、鬱屈しがちで後悔まみれと、役満どころかトリプル役満級のゼファーは特大の地雷であると言えるだろう。

 一度思考が内向的な方向に向かうと、今のこの少年は悪化しかしない。

 

 

(……みんなの友達の一人にだって、ふさわしくないんじゃないか、俺……)

 

 

 案の定、自分の存在意義や価値に対する認識があっという間にどん底に。

 元より自己評価が低いタイプではあるが、ヴァーミリオン・ディザスターによって刻まれた特大のトラウマが、いまだ尾を引いていることが追い打ちをかけた。

 最悪、成人してもこのトラウマは解消されないかもしれない。

 

 部屋の外へ、未知なる場所へ、先へと踏み出す理由を探し、変化と未来を受け入れようとした。

 しかし、ない。

 ないのだ。恐怖を踏破するだけの理由、勇気を生み出す決意がない。

 ゼファーがここに留まろうとしているのは心理的外傷から来る変化への恐怖であり、ここから踏み出そうという理由もまた喪失への恐怖ゆえにだ。

 トラウマがなければここに留まろうなんて思わないし、友人達が離れて行くという妥当な未来予想がなければここから出ようという意志も出てこない。

 彼は恐怖に縛られ、恐怖に突き動かされている。

 相反する恐怖に足を止められているのが、今の彼だ。

 

 恐怖を乗り越える勇気、一つの行動を貫かせる意志。

 それらは恐怖からではなく、『決意』からしか生まれない。

 理由があるから決意があり、決意もまた理由になる。

 欲しいものも願うものも失いたくないものも、一緒くたに亡くしたゼファーには何も無い。

 ただの空虚だ。空虚からは決意も理由も生まれない。

 

 結果、何も無い自分を見つめ直す過程を繰り返す。

 そして余分なことを思い出しそうになって頭痛と共に忘れ、見えない鬱積が蓄積される。

 最終的にセレナ達に対する劣等感までもが加速度的に膨れ上がり、セレナの慈愛に、切歌の明るさに、調の秀才さに、友人としての分不相応さを否応なしに自覚させられる。

 第三者から見れば関わり合いになりたくないくらいに面倒くさい男だ。

 本人はどうしようもない苦悩、好きでやってるわけじゃない懊悩、なくなってくれるのならなくなって欲しい憂悶に雁字搦めになっているだけなのだが、よほど寛容な人間でなければ彼の内心を全て把握した上で付き合うことなど不可能だろう。

 事実、今この世界で現在の彼の内心を深くまで理解できているのは、たった一人しか居ない。

 

 

「……俺が生きたい理由って、なんなんだろう……」

 

 

 挙句の果てに、その思考はもっと根本的な部分への疑問にまで行き着いてしまう。

 生きたい。

 その気持ちは確かにある。

 死にたい。

 その気持ちも確かにある。

 けれど何の理由もなく、生きたい気持ちは死にたい気持ちに勝ち続けている。

 ただの一度の逆転もなく、ずっとそうだ。

 

 生きたい理由が無くとも、何故か彼の生きたいという気持ちは誰よりも強い。

 そのことに彼自身が何も思っていないはずがない。

 生きているのが辛い理由が重なれば重なるほどに、その異様さは際立っていく。

 気付けばゼファーは、自分の生きたいという気持ちの根源への疑問を口にしていた。

 生きているだけでは嫌だ、守りたいものがある、居場所が欲しい、そんなありとあらゆる『余分』を削ぎ落した後にも残るたった一つの気持ち。

 彼に誰とも絶対的に違う特別な部分があるとすれば、その生への執着に他ならない。

 

 生きたいという気持ちを絶対に捨てられないことこそが、彼の絶対的な個性だった。

 

 それは本人が自分自身に疑問を投げかけるような、不可解なものであったが。

 どんなに悩もうと、考えようと、苦しもうと、思考は堂々巡りをして少年の救いになる答えを叩き出してはくれず、それどころか別の方向から少年を追い詰める。

 精神をやられた人間は、普通は一人では立ち直れない。

 自分の内側にのみ意識を向けていれば、思考の堂々巡りの果てに悪化するだけだ。

 一人では決して立ち上がれない。……なら、二人なら?

 

 

「分からないなら、探せばいいんじゃないかな」

 

 

 静かで、それでいて耳にした者に清らかな印象を与える声。

 鈴の音のようというよりは、ワイングラスの端を軽く叩いたような声。

 俯くゼファーが顔を上げれば、鉄格子の向こうから声をかけるセレナの姿。

 同時に、彼はセレナの声を聞いただけで前を向いた自分自身に驚いた。

 視線の先の少女はいつものように胸の前で手を重ね、目の前の人間の幸せを祈る仕草を見せる。

 

 

「ここではないどこか、いまではないいつか、会ったこともない誰か。

 明日に素敵な誰かと出会えるかも知れない……私だったら、そうなるのかな。

 生きていたい理由なんて今日まで考えたこともなかったけど」

 

 

 ああ、そうだった、と、ゼファーは思い出す。

 この部屋と外界を区切る境界線。

 あの境界線を最初に踏み越えてきてくれたのは、セレナだった。

 境界線のこちら側で一人だったゼファーに最初に寄り添ってくれたのは、セレナだった。

 ゼファーが越えられないでいるあの境界線を何度も越えて来てくれたのは、セレナだった。

 

 セレナの生きる理由はぼんやりとしていて、それでいて絢爛たる輝きを放っている。

 確固たるものでないからそれに縛られることもなく、芯があるから揺らがない。

 そんな彼女を見て彼は確信に至る。

 

 セレナはゼファーとは違い、明日に希望を持っている。

 明日に起こりうる不幸を知った上で、明日の幸いを祈っている。

 人と人が出会うという奇跡が、どんな絶望にも勝ると信じている。

 絶望や恐怖に決して屈しない人の輝き、希望を抱いた人の煌めきがそこには在った。

 

 そしてセレナは、その希望をゼファーにも分けようとしている。

 切歌が『元気』をそうしたように、彼が再び立ち上がれるだけの力を渡そうとしている。

 『希望の西風』の名が形無しだ。

 ゼファーは誰かの希望には成り切れず、けれど他人から希望を何度も分けて貰っている。

 扉を開け、歩み寄り、彼女は座り込むゼファーに手を差し伸べる。

 

 

「私はゼファーくんと出会えて嬉しいよ。

 こんな出会いがまだまだどこかにあると思うと、それだけで嬉しいんだ」

 

「俺も……」

 

 

 本当に、何も無いのだろうか。

 彼は何もかもを失って、彼の中には何も残されていないのだろうか。

 大切な物が全て焼滅したあの日から、得られたものは何も無いのだろうか。

 生きたいという意志に付着した余分は、決意を生む何かは、本当に無いのだろうか。

 本当に、彼の中には絶望と虚無しか残されていないのだろうか。

 

 

「……俺も、セレナと出会えたことが嬉しい。

 キリカにも、シラベにも、ナスターシャ先生にも、そう思う。

 もし、そんな出会いが、繋がりが、俺なんかにもまだあるのなら……」

 

「うん」

 

 

 否。断じて否だ。

 今ゼファーの胸の奥に灯る燈火の暖かみが、輝きが、彼のものでなくて何だと言うのか。

 セレナがくれた希望、セレナに感じる感情、それが彼のものでなくて何だと言うのか。

 

 セレナ・カデンツァヴナ・イヴが彼の大切なものでなくて、何だと言うのか。

 セレナ・カデンツァヴナ・イヴが彼の守りたいものでなくて、何だと言うのか。

 セレナ・カデンツァヴナ・イヴが彼の失いたくないものでなくて、何だと言うのか。

 

 友、それは喪失の恐怖を生むだけのものだった。

 けれど見方を変えれば、それは決意を生み出す源泉にだってなる。

 友の存在は人を強くもするし、弱くもする。誰とて知っていることだ。

 ゆえに友を大切に想い、恐怖を乗り越える勇気を持ち、自らを弱くも強くもする不確かで不安定なその力を心から絞り出せる者は―――いつか、最弱無敵の英雄に至る。

 それまだ、遠い未来の可能性の話だが。

 

 喪失を恐れさせた友が、その恐怖を乗り越える勇気と希望を与える。

 矛盾しているようだがこれもまた真実。

 友が人を強くするとは、そういうことだ。

 友とは守るものであり、守られるものであり、支え合うものでもある。

 共に生き延びることさえできれば、その繋がりは絶望を乗り越える力になる。

 その繋がりが強ければ強いほど、喪失の時の痛みが強くなる。

 人の心に強烈に作用する二面性。だからこそ、ゼファーは一瞬躊躇った。

 

 けれど、躊躇ったのは一瞬で、強い意志をもってセレナから差し出されたその手を取った。

 

 

「俺、さ」

 

「うん」

 

 

 それは一つの決断であり、決意だった。

 それらを生み出す過程だった。選択肢を『決める意志』だった。

 そこからの会話は確認作業であり、後押しであり、あるいは整理であったのかもしれない。

 

 たったの一言で劇的に変わるということは難しい。言う方も、言われる方もだ。

 精神的外傷を短い会話の応酬で治せる人間が居るわけがないし、セレナは基本的に内気であり、人を強い言葉で変えていく、引っ張っていく人間の対極に位置する少女だ。

 だからこそ、彼と彼女の会話は劇的な言葉による短い対話に終わらない。相手の言われたい事、あるいは言われたくない事を口にして、分かりやすく構築されるトークになりはしない。

 

 彼らの会話は実に冗長だった。

 時間をかけ、かけた時間が信頼となり、重ねた言葉が心を癒やす。

 『人の言に頼る』と書いて信頼。

 セレナが今日まで続けてきたゆっくりとした会話、劇的な一言では救われない少年への治療、地雷を避けつつ会話を重ねる作業を今一度ここで繰り返す。

 絡まったコードをほどくように、丁寧にかつゆっくりと、精神的な地雷を踏まないように、スルーするべきだと判断した部分はスルーし、元気になる話題を選び……それを何度も繰り返す。

 小さな思い違い、歪み、思い込みを訂正し、正常な人間に近付かせて行く。

 時間も労力もかかるが、ゼファーの精神にかかる負荷もそれに反比例して低下する。

 そして彼が何かしら語りだした時は、聞き役に徹するという健気にも程がある姿勢。

 彼女が内気であるなどと、ここだけ見れば到底信じられやしないだろう。

 マニュアル通りの対応とは180°逆に位置する、個人に合わせたカウンセリングもどきであるがために、廃人寸前だったゼファーをここまで持ち直させたのだ。

 心理学を修めた人間でもここまでの成果は出せやしないだろう。

 

 けれども、セレナのこれは誰に対してでもできるものではない。

 それは彼女自身が一番よく知っている。

 

 言葉を重ねるたびにゼファーは立ち直っていく。

 会話を続けるほどにゼファーは持ち直していく。

 セレナと向き合うその過程こそが、彼にとっての特効薬だった。

 少年はもう何度目かも分からない感謝を心の中で述べ、現実で述べる機会も探す。

 少女のその微笑みに混ぜられた、ほんの少しの想いに気付かぬままに。

 

 ゼファーは一つの決意を得た。

 それは大きな事件や出来事から得られたものではない。

 ここに来てからの二ヶ月間の会話、出会い、そしてセレナとの会話から得られたものだ。

 言い換えるのならそれは、人と人との繋がり、その積み重ねから得られた決意。

 ゼファーの心中に巣食っていた大きな恐怖を踏破する勇気の源。

 彼がここから踏み出す事ことを決めた、始まりの理由だ。

 

 

「俺さ、セレナ達の友達にふさわしくないって、そんなことさっきまで思ってたんだ」

 

「うん」

 

「でもなんだか、よく考えるとそれがすごい失礼な気がしてきた」

 

「うん、そうだね」

 

 

 ゼファーが自分の思い違いを否定しながら口にする。

 応えるセレナの言葉は返答というより、答え合わせのようだ。

 

 

「私達はゼファーくんのために友達をやっているわけじゃないもの。

 私達は望んで、好きでゼファーくんの友達でいるの。相応しい人なんて選んだこと、ないよ」

 

「相応しくないって思うのは……それは、俺の都合だよな」

 

「うん。私達は好きであなたと一緒に居るんだよ」

 

 

 語り合うのは、友の在り方。

 

 

「だからゼファーくんが私達にもし迷惑をかけたとしても、それは私達の自業自得。

 だって私達は私達の都合で、友達で居たいっていう自分達の都合で、そこに居るんだもの」

 

 

 口にするのは、「好きで一緒にいる」という友達の真理。

 

 

「ありがとな、セレナ。俺……少し頑張ってみるよ」

 

 固めた決意は、だからこそ、友のために。

 

 

「『みんなの友達に相応しくない』じゃなくて、

 『みんなの友達に相応しい人間になりたい』って、今は思ってる。そうなりたいんだ。

 胸を張ってみんなの友達なんだって言える、そんな俺に」

 

 

 変わろうとする、成長しようとする意思だった。

 

 

「うん……素敵だと思うよ」

 

「ありがとさん」

 

 

 実はセレナ、相応しい相応しくないって友達間で考えなくてもいいんじゃないかな……なんて本音を心中で抱えている。

 しかし、何も言わない。

 きっとこの意志は、ちょっとズレたものではあっても、正しいものだと彼女は思うから。

 正しい意志を抱けるのなら、その人はきっと前を向いている。

 訂正するほど間違ったものでもないし、それに何よりゼファーらしいと、セレナは思う。

 「もうどうでもいい」だとか「考えるの面倒になった」といった、放り投げる形で前を向くような開き直りは、ゼファーにはどうにも似合わない。

 友に相応しい自分になるためにあらゆる恐怖を踏み潰して進むなど、なんと不器用なことか。

 何もかもを背負ったまま前を向くその姿に、セレナは初めて会った日に感じたものを思い出す。

 

 きっといつの日か、素敵な男の子になるんだろうな……なんて、益体もなく考えながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゼファーはセレナと繋いだ手を離さないままに、鉄格子の前に立つ。

 ナスターシャが部屋に残していった鍵のお陰で手枷足枷は既に外されている。

 あとは鉄格子に備え付けられた扉をくぐる、それだけだ。

 

 

「大丈夫?」

 

「おかげさまで」

 

 

 セレナが気遣った声をかけるが、ゼファーは自分自身でも驚くほど落ち着いていた。

 扉……部屋と外界を仕切るその境界線は、セレナが何度も越えてくれていた境界線。

 そう思うと、何故か境界線が遠く見えなくなっていた。

 

 『越えられる』。

 

 先程まで感じていた恐怖の桁から考えれば、信じられないほどにさっくりと得られた確信。

 二人揃って、繋いだ手は離さずに、踏み出す。

 

 

「せー」

 

「のっ」

 

 

 恐れていたゼファーが拍子抜けしてしまうほどに、あっさりと境界線は踏み越えられる。

 部屋の外には何の変哲もない廊下。ロマンもへったくれもない。

 ……それでも。拍子抜けした一歩でも、踏み出した先が何も無い廊下だったとしても。

 それはゼファーにとって大きな一歩であり、彼は自分の感じる『世界の枠』が広がっていく、そんな不思議な感覚を実感していた。

 

 

「どこか、行きたい場所はある?」

 

「……そう、だな。切歌と調に会いたいな」

 

「はい、りょーかいっ」

 

 

 その時、ゼファーの背中を押した希望の西風は、紛れも無く一人の少女だった。

 英雄でもなく、家族でもなく、一人の友だった。

 その誇らしい感覚と抱いた感謝を、彼は生涯忘れないだろう。

 

 その光景を自身の目ではなく、監視カメラを用いて見守っていた者が居た。

 事前にセレナに連絡をやって一芝居打った者。

 ああ言えばこう反応するだろうなと、分かりやすいゼファーの反応を予想しきっていた者。

 一つの研究結果が出たことを契機に、一つ荒療治を企んだ者。

 言うまでもなくナスターシャ・セルゲイヴナ・トルスタヤその人である。

 彼女以外は誰も気付いていない、役割分担による落として上げるマッチポンプであった。

 

 

「さて」

 

 

 彼女とて、好きで彼が立ち直れないままになるリスクを背負ったわけではない。

 ただ、そのリスクが実現する可能性が極めて低いことと、フィーネから多くの『真実』を伝えられている彼女は、時間も手札も残り少ないという現状認識が下地にあった。

 要約すれば「ちんたらやってられるか」ということである。

 ちんたらやっていれば火葬か氷葬の二択という少年の末路が見えているのだから、尚更に。

 

 そしてリスクを無視できるほど、成功率を高く見積もっていた。

 彼女は、セレナとゼファーの関係性、それを当人達も知らない事まで含めて理解している。

 自分が本来やらなければならなかった義務を、子供に任せたことに対する罪悪感に、苦々しい気持ちと、どこか諦観に似た冷めた気持ちが混じる。

 それは『無力感』という言葉が一番近く、それでいて同一でない、そんな感情だった。

 

 彼女ほど『運命』という言葉に期待と嫌悪の感情を抱いている女性も、そうは居ないだろう。

 しかし今だけは、と、彼女は二人の子供に心中でエールを送る。

 複雑に絡み合った葛藤を全て棚上げにして、一人の大人として子供達を祝福する。

 セレナに手を引かれるゼファーを見ている内に、いつしか彼女の眉根の険は取れ、雰囲気は柔らかくなっていき、自然と頬は緩んでいた。

 

 

「明日を望まぬ者に今日を越えることが出来ましょうか。

 今日の自分を超えた明日の自分になることが出来ましょうか。

 下を向きさえしなければ、明日もいつかは見えてくるものでしょうね」

 

 

 未来が明るいとは限らないと知り、喪失を知り、その上で踏み出す勇気。

 臆病者が絞り出した勇気は、勇者が息を吐くように見せる勇気よりも価値がある。

 それがほんの少しであっても、肩に乗っていた重荷を軽くしてくれたかのように、暗かった気分を明るくしてくれたかのように、ナスターシャは感じた。

 

 

(願わくば、二人の行く末に幸があらんことを)

 

 

 そんな風に、彼女はガラにもなく神様とやらに祈る。

 その祈りが叶う可能性は極めて低く、神様なんてこの世界に居ないことを知りながら。

 「皆に幸あれ」というその願いは本心からのものではあるが、同時に諦められたものでもある。

 

 子供達の持つ輝きが、煌めきが、スレていない勇気が、ナスターシャにはひどく眩しく見えた。




なりたい自分が見えてきた主人公

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