戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ 作:ルシエド
二課の対応はどれ一つとして間に合わなかった。
遅くはない。
遅いわけではなかった。
二課の対応は、むしろ迅速を通り越して神速の域にあった。
深淵の竜宮の処理に最適な人材を送った。
万が一を考え本部警備も少数ながら万全にした。
ライブ会場からの避難誘導など、これ以上ないくらいに完璧だった。
倒された二課装者も、目を見張るスピードで医務室へと運び込まれていた。
それどころか、ブランクイーゼルの拠点である空母をある程度追跡することまでやっていた。
だが、それでも。ありとあらゆる対応が間に合っていなかった。
「……くそ、処理が追いつかん!
徹底してイニシアチブを取りに来ているな、やっこさんは……!」
ブランクイーゼルの手はあまりにも速すぎた。
将棋で"一度に五回駒を動かす権利"を得るのと等しいくらいに、速かった。
追っても追いつけず、仕留めようとしても仕留められず、駒がどんどん取られ王手に近付いて行く実感に、日本政府や二課本部にて多くの者が危機感を抱いている。
弦十郎もまたその一人。
彼は今手元に居る人材の中で、一番頭の良い人間に話を振った。
「どう思う、藤尭?」
「え、ここで俺に振るんですか?」
「いいから給料分働け、馬鹿野郎。ボーナス弾んでやる」
「マジですか。使い道あんま無いですけど」
"頭の良さ"というものの判断基準に、視野の広さというものがある。
藤尭は少しだけ他人より視野が広く、一見何の関係も無さそうなところに関連性を見出すことに長けていた。
そこに思考力が加われば、見えていなかった事実が見えてくる。
「土場さんに頼んで、深淵の竜宮と常時コンタクトを取ってもらっていました」
「深淵の竜宮? そんなものは後回しで……いや、違うか。
何か盗まれたものはないか、向こうに確認させていたということか?」
「はい。今のところ、所在が確認できていないものは二つ。
海に流された可能性もありますが……
グラウスヴァインと、ヤントラ・サルヴァスパの二つが見つかっていないとのこと」
「グラウスヴァインだとッ!?」
爆発すれば国の危機と言っていいクラスの危険物の存在に、弦十郎が目を見開き立ち上がる。
「あ、そっちは今のところどうでもいいんです、司令」
「おおぅ?」
が、藤尭朔也はそっちに差し迫った危機を感じてはいないようだ。
ならば必然的に、彼が警戒したのはもう一つの奪取された聖遺物ということになる。
「ヤントラ・サルヴァスパはアガートラームの記録にもあった完全聖遺物です。
その力は"あらゆる機械製品の完全掌握"。
シンフォギアや完全聖遺物には通じませんが……
おそらく今回の世界規模のハッキング、これによるものかと」
「なんだと!?」
「ブランクイーゼルは、ひたすら速い。速すぎて俺達の対応が追いついていません」
朔也は、今回の敵の行動に一貫性を見出していた。
深淵の竜宮の襲撃。
二課本部の襲撃。
ナイトブレイザーの撃破と、その周知。
最後に、鮮烈な勝利と力を見せつけてからの、世界に向けた宣戦布告。
「深淵の竜宮を襲撃してヤントラ・サルヴァスパを確保。
ヤントラ・サルヴァスパでハッキング、平行して二課本部を襲撃。
更にはゼファー君の襲撃と確保もこなし、あの舞台で世界中に宣戦布告をこなす。
……恐るべきスピードです。しかもほとんどミスが見受けられません」
「兵は神速を尊ぶ、とは言うが。
それだけのことを平行してやって、どれ一つとして失敗や遅延がないとはな……」
どれだけの想定、どれだけの準備、どれだけの予行演習を行ってきたというのだろうか。
これだけのことは、流石に個人でやるには脳の容量が足りなすぎる。
相当な組織力があると見るべきだ。
「そして、ひっっっっっっっっっじょうに悔しく、オペレーターとして至極悔しいことですが!」
そして、ヤントラ・サルヴァスパが敵の手の内にあるということは。
「……俺達はこれ以後、電子戦でブランクイーゼルに勝てる見込みがありません……」
"情報アドバンテージ"という武器ですら、敵が握り続けるということを意味していた。
第三十四話:天下布武 3
ゼファーが身を捩ると、じゃらりと手足の鎖が音を立てる。
懐かしい音だ。
彼は自分が精神を病み、自傷に走っていた頃のことを思い出し、少しだけ懐かしくも恥ずかしい気分になる。
(さて)
ここから逃げたとすればどうなるか、ゼファーは頭の中で想定に想定を重ねていく。
部屋には監視カメラが付いていて、逃げたならその瞬間に分かるようになっている。
そうすれば、すぐにでもゼファーが負けたイグナイト・シンフォギア、あるいはそれと同等かそれ以上の戦力が追って来るだろう。
逃げる手段を脇に置いておいたとしても、それでは逃げられるはずがない。
彼は逃げるにしても、タイミングを計る必要があった。
(問題なのはいつ逃げるか、だな)
ゼファーが首元を触ると、懐かしい感触がそこにあった。
四ヶ月とちょっとぶりの感触だった。
変身かブレードグレイズをしようとすれば、即座に電流が流れそうな感じの首輪だった。
まだこれあったのかよ、と呟いたゼファーの前に、ウェル博士が現れる。
「やあ、元気そうですね」
「ええ、まあ、それなりには」
久しぶりとは言わないウェル。いや、意図して言っていないのか。
首輪を弄っていたゼファーを見て、ウェルはいつもの様子で皮肉を吐く。
その様子に、変なところは見受けられない。
「いい首輪でしょう? ミス・フィーネにも気に入ってもらえたようでなによりです」
「俺はこれ嫌いですけどね。痛いですし。
俺の首にぴったりサイズなのも、何となく俺専用って感じがして嫌です」
ゼファーはなんとなく違和感を感じていたが、昔からウェル博士の感情は読みにくい。
演技が上手いからということ以上に、精神も感情もねじれてこじれているからだ。
彼の真意を、ゼファーは読み取れない。
「俺はいつ帰れますか?」
「僕は帰す気はないですねぇ」
「すぐにでも帰りたい気分ですよ」
口ですぐにでも帰りたいという意志を見せてウェルに揺さぶりをかけつつも、ゼファーはすぐにここを出るつもりはなかった。
彼は既に機を待ち、機に便乗する心構えを決めている。
今の彼は待ちの姿勢だ。
「せっかちですねえ。もっと僕みたいに悠々と好き勝手生きたらどうです?」
が、ウェル博士はゼファーの思惑を見透かしたような表情を見せる。
「どうせあと三ヶ月も生きられないんですから」
ウェルのその言葉は事実である。
しかし、そこにどんな意図が込められているかまでは分からない。
ゼファーは目を細め、今は敵となってしまったウェル博士に弱みを知られたことに気付く。
「……分かりますか」
「今のあなたの肉体のデータを取れば一目瞭然ですよ。その様子だと、自覚はあったようですが」
「皆には、このことは……」
「秘密にしてくれ、とか言うんですか?
本当にバカですね君。僕が敵対勢力の君の言うことなんて聞くわけないじゃないですか」
「いやドクターは味方の言うことも聞かなかったような……」
「ええ、まあ、そうですけど。
それを抜きにしても、うちの人間の大半は察してたことですよ。
なにせ君は、あの日に世界を救うためにアークインパルスを使ってしまった」
「……アークインパルス、ね」
事前知識のある、勘のいい人間か頭のいい人間ならすぐ気付けることだ。
あの力は、代価なしに放てるような都合のいいものではないと。
必ずどこかにツケは行く。
「アークインパルス。あれで俺の命の残量、最大値の九割使い切りましたからね」
ゼファーが世界の存続の代価に支払ったのは、己の命だった。
「人間とは、精神・肉体・魂の三つで構成されるもの。
『命』とは言わばその総称でありその繋ぎ。
肉体を機械にしても壊れれば人は死ぬ。
想いが永遠であったとしても人は死ぬ。
魂が不滅であっても他が壊れれば人は死ぬ。
何故ならばそれが人間だからだからです。
そして生まれ直し、命を継ぎ足すことができれば、それが転生となる」
「ですね。俺は少しだけ、肉体を構成するアガートラームを動かしすぎた」
アークインパルスとは、"剣としてのアガートラーム"の全機能をもって放つ技だ。
当然ながら、人間としてのゼファーを維持する機能と平行しては使えない。
今のゼファーは、六年前に人として死んだ時、PCで例えるならば複数のブラウザで"ゼファーとはこういう人間である"と記されたページを開き、開いたままオフラインで六年が経った状態だ。
だが、アークインパルスを撃とうとすれば、システム的にタスクキラーが起動する。
アークインパルスを撃つためのリソースを、システムが確保しようとするのだ。
タスクキラーは真っ先に、『余計なタスク』を消しに来る。
"ゼファーとはこういう人間である"と記されたページを開いているブラウザを、片っ端から消していく。
人間のゼファーがもう存在しないため、オリジナルのデータはもう吸い出せない。
一度消されたゼファーのタスクは蘇らない。
ブレードグレイスが命を削る仕組みも、根本的に言えばこれが原因だ。
結果、ゼファーの命の残量は既に1%を切っている。
「ここ数年の間に、ブレードグレイズの無駄撃ちしてたらあそこで死んでましたね。
色々な人に色々と感謝しませんと、バチが当たりそうです」
「? 君が自分の意志で自制していたのでは?」
「色々あったんですよ」
今日までの間に、ブレードグレイスを余分に一回でも使っていれば死んでいた。
何回も使っていたなら、世界と一緒に心中していたかもしれない。
ゼファーが自分の命を切り売りしなかったからこそ、今でも希望は繋がっていた。
……それは自分の意志ではなく、彼の内で彼の無謀を止めようとした『誰か』の加護なのかもしれないが。
死への怯えをおくびにも出さないゼファーを見て、ウェルは疑問を口にする。
「変に余裕がありますね。諦めたんですか?」
「逆ですよ。俺はただ、何も諦めてないだけです」
だが返って来た返答は、少しだけ予想外だった。
「どうにかなるとお思いで? 僕が断言しますよ。
あなたの命は、盆に帰らない覆水です。『回復させる方法は存在しない』。
それともなんですか? 何か今の自分の現状をどうにかする考えがあるとでも?」
「明日宇宙から何か凄い聖遺物が降って来るかもしれないでしょう。
研究者さんが一生に一度の凄い発想で何かやってくれるかもしれません。
戦ってる内に集まったフォニックゲインが凄い奇跡を起こしてくれるかもしれません」
「小学生の理屈か何かですか?」
「どうにもならない絶望だーって下向いてるよか生産的ですよ」
現実逃避でもなく。
死の感覚に麻痺しているというわけでもなく。
ゼファーは死を前にしてなお、死に膝を屈していない。
「俺はまだ生きている。つまりそれは、俺が生き残る可能性はまだゼロじゃないってことです」
死ですら彼を折るにはもう足りない。
ゼファーは諦めず、自分で自分の体を調べてもいる。
弦十郎にも頼み、研究班に調べてもらってもいる。
二課の人間の大半はゼファーの体のことを知らないが――知っても何も出来ない、悪影響だけだからと彼が隠している――、ゼファーは生きるために全力を尽くしているのだ。
彼は死を恐れていないだけで、懸命に生きている。
たとえ死ぬとしても、彼は前のめりに死んでいくに違いない。
「諦めず、挑み続けていれば、奇跡に手が届く可能性はゼロじゃない。そう思いませんか?」
諦めない生き方というものを、今の彼は体現している。
ウェル博士は、笑えるくらい小さな希望にすがりつくゼファーを見て、嘲りの笑顔を浮かべた。
「大抵の人間は、バカだと一蹴するでしょうね、それ。ちょっと夢見すぎてませんか?」
しかし、昔のように、いつものように。
ゼファーだけは、ウェル博士の悪意に対して悪意を返さない。
「なら俺達の夢もそうでしょう」
「―――」
「皆、鼻で笑いますよ。
俺の夢も、あなたの夢も、きっと」
ゼファーは、全ての人間が幸せになれる結末、幸せになれる場所の創造、それを守れる自分になることを夢見た。
ウェル博士は何にも選ばれていない身で、英雄になることを夢見た。
笑いものにされてもなんらおかしくない夢だ。
小学生の宇宙飛行士になる夢の方がまだ現実味がある。
今時、小学生ですら抱かないような夢だろう。
「でも俺達、可能性はゼロじゃないって信じてたじゃないですか。
どっちの夢が早く叶うか競争だ、なんて冗談交じりに言ってたりして」
「……覚えていて、くれたんですか」
だが、二人はその夢を捨てなかった。
かつて互いが互いの夢を否定せず、肯定したこともあった。
馬鹿げた夢を、子供のように愚直に目指した。
「夢を追うのも、今の俺の現状も同じです。
誰に何と言われようと、笑って前を向いて頑張ります。
辛くても、絶望や嘲笑なんて笑い飛ばしてやりますよ。
俯いて立ち止まるより、その方がずっと"何かが形になる"可能性は高いでしょう?」
昔はゼファーよりも、ウェルの方が心は強かった。
身長もウェルの方が高かった。
条理を説いて優勢に立つのも、大抵の場合はウェルだった。
なのに、今はそうではない。
(本当に……こっちの調子が狂うところだけが、昔のままで……)
ウェル博士はずり落ちたメガネを押し上げるフリをして、自分の表情の微妙な動きを隠す。
そして彼に背を向け、この場を去っていく。
「頑張るだなんて格好悪い。
汗流してあくせく頑張るのは一人でやっていてください。
君が僕に同族意識を持ったところで、僕が同じようにする義理はありませんので」
外付けの圧倒的な力を手にし、ゼファーの生殺与奪権を握るウェル博士。
手枷足枷鎖に縛られ、首輪を付けられ、自分の力に殺されかけているゼファー。
今の二人は、どうしようもない敵対関係にあった。
もしかしたら、二人がごく普通の友として分かり合えた可能性もあったかもしれない。
ゼファーの夢はいまだ叶わず、ウェルの夢をゼファーが叶えてしまったという、この皮肉な構図さえ無ければ、の話だが。
ウェルと入れ替わりに、二人の少女が部屋に入って来た。
そもこの部屋は、かつて自傷に走っていたゼファーを捕らえておくのに使われていた部屋と同じ構造をしている。
手枷足枷に繋がれた鎖、寝床、そして鉄格子によって構成されている部屋だ。
だから二人の少女も、ゼファーと鉄格子越しに顔を合わせた。
「よう、キリカ、シラベ」
何を言われるのだろうかと心中で身構えつつ、表向きには平静を装うゼファー。
だが切歌は一も二もなく、鉄格子の向こうからゼファーに頭を下げた。
「ごめんなさいデス!」
「……え?」
調は部屋に入ってすぐのところで、壁に背を預けて無言で佇んでいる。
対し切歌は鉄格子にぶつかりそうな勢いでゼファーとの距離を縮め、彼に話しかけていた。
「あの時の反応から見ててっきり、俺は憎まれてるもんだと……」
「あのヤローに喋るなって言われてただけデス!」
ゼファーはウェル博士に"偽物だ"と言われ、少女二人の無言を憎悪の同意だと思っていた。
しかし、違ったのだ。
切歌が言うには、あれはウェル博士による精神的な揺さぶりでしかなかったとのこと。
効果は多少なりとあったようで、勘のいいゼファーが切歌達の様子に気付かなかったことからもそれは伺える。
これでウェル博士が適当に心にもない言葉を吐いていたと仮定すれば、もっと酷い。
ウェル博士はゼファーを本物だと考えた上で、どういう言葉がゼファーの胸を抉るかを的確に考え、笑顔で躊躇なくゼファーを傷付ける言葉を吐いたということになる。
もしもこの仮定が正解であるのなら、腐れ外道にもほどがある。
そうだ。どう考えたって、最終的に悪いのはだいたいウェル博士だ、ということで結論付けられるのだ。切歌と調に至っては、ただ黙っていたというだけのことでしかない。
気にする者も居るだろうが、ゼファーは気にしなかった。
だからゼファーは、特に何か考えるでもなく、切歌の心の重荷を取ってやろうと考えた。
「謝る必要なんてない。気にするな」
「……」
だがしかし、あの時ゼファーを傷付けた自分を、ウェル博士の命令に従って黙るという選択をしてしまった自分を、誰よりも責めていたのは……切歌だった。
「あたし達は、レセプターチルドレン。
フィーネが転生を行えば、その瞬間に自分が自分で無くなってしまうかもしれない子供達。
昔は、いつ自分が消えるか怖くて怖くてたまらなかったデス。
……ちっちゃい頃は、夜寝る時が、怖かった。
寝たら、もしかしたらそれを最後に、"あたし"は目覚めないんじゃないか、って……」
フィーネは転生の際に、特別な素養を持つ器を必要とする。
その"特別な素養"を持つがために集められた孤児達が、レセプターチルドレンだ。
レセプターチルドレンは、誰もが大なり小なり恐れている。
自分が塗り潰されてしまうことを、自分が自分で無くなることを恐れている。
「ホントは、分かってたデス。
前に、ゼファーと再会した日に、全部……」
だからこそ、二年前にゼファーと再会した時からずっと、彼が偽物だなんて思ったことのない切歌は、罪悪感だけをひたすらその身に感じていた。
「自分が自分でなくなることが怖い。
自分が自分で居られる自信がなくなる。
その気持ち、あたしはちゃんと分かってたはずなのに、酷いことして……!」
「―――」
もしかしたら、この時が初めてだったのかもしれない。
"自分が自分でないかもしれない"というゼファーの苦悩に、理解ではなく共感を示してくれる誰かが現れたのは。
暁切歌は、レセプターチルドレンの中でも特に、自分が自分でなくなることを怖がっている少女だ。彼女は人間が、いともたやすく"自分でなくなってしまう"ことを知っている。
だからそこには、彼への『共感』がある。
ゼファーは、鼻の奥が少しだけツンとした気がした。
少しだけ、嬉しかった。
感情の一切をそのまま顔に出さないようにして、作った顔でゼファーは会話を続ける。
「一つ、聞いていいかな」
「なんデスか?」
「なんで俺を、その……本物を殺した偽物だとか、思わなかったんだ?」
その問いに、切歌は特に何も考えずに、本音の言葉を返した。
「あたしのハートが、本物のゼファーだって言ってたから!」
「―――」
切歌はバカの部類に入るかもしれない。
賢くないのかもしれない。
だが、愚かではない。
真っ直ぐで、とてもいい子で、素敵な少女だ。
それは彼が出会った頃から、ずっとずっと変わらない。
暁切歌は、かつて廃人寸前だったゼファーの心を、その元気一つで救ったこともあるのだから。
「……ありがとう、キリカ」
「なにがデス?」
「誰かにあげても減らないのに、貰うとちゃんと増える元気。今、貰ったから」
「デース!」
ゼファーが鉄格子の向こうから手を伸ばし、拳を作る。
切歌はちょっと上機嫌に微笑んで、彼女もまた拳を作る。
二人の拳が軽く合わさって、二人は友情を再確認する。
だがそこで、切歌はゼファーの焼けた腕を見た。
普段、昔響と未来に貰った手袋に隠されている腕は、発信機及び盗聴器のチェックがなされた時に、ブランクイーゼルの人間によって外されている。
手袋は彼に返却されてはいたが、手枷が付いた状態では付けようがなかった。
ゆえに、切歌の目にも、調の目にも、その火傷の痕は目に入る。
彼の手の火傷は、象徴だ。
セレナが彼の手の中で光に還った戦いの最後に、この傷は刻まれた。
切歌にも、調にも、その手の火傷は"自分のせいで付いた傷"に見える。
負い目があった。
決意があった。
切歌は普段のちょっと愛嬌のある話し方を、少しだけ彼女らしくもなく丁寧にして、友の焼けて変色した拳を掌で包み込む。
「もう戦わせないから。命を削らせたりしないから。後は、あたし達に任せておいて」
皮肉な話だ。
ゼファーは命を懸けて戦っているつもりなのに、彼が戦っている敵こそが、ゼファーの命を守りたいと、そう思ってくれているのだから。
「ブランクイーゼルの科学技術は、二課よりも更に進んでるデス。
何せ、こっちではフィーネが好き勝手やってましたからね。
ゼファーの体の問題を解決するなら、二課よりこっちの方が適してるハズですよ」
ブランクイーゼルがゼファーを殺さず捕らえたのは、人質として使うためではない。
味方に引き込んで戦力として使うためでもない。
利用価値があったからでもない。
ゼファーの命を助ける手段を、その科学力をもって模索するためだ。
ブランクイーゼルは、かつて憎み合っていた子供と大人が手を取り合い出来た集団だ。
米国が非合法的に集めた超がつくほどに優秀な研究者集団と、フィーネの血縁であり一部は適合係数も持つレセプターチルドレンで構成されているため、人材の質は非常に高い。
彼らには能力があったが、同時にゼファーとの信頼関係もあった。
切歌が言った"二課よりこっちの方が"という言葉は、確固たる事実だ。
かつてゼファーがきっかけとなって生まれた絆が今、彼の命を救おうとしているのである。
「ま、ともかくここで静かにしとくデス!
すぐに鎖とか外して、住み良い場所に連れてくって約束するので!」
「首輪は外してくれないのか?」
「あー、うー、外してあげたいのは山々なんデスが……
ゼファーは裸一貫でもナイトブレイザーになれるので、外してやれないんデス」
この青年が持つ恐ろしい要素の中に、武器を全て取り上げてなお無力化できない、という特性がある。アクセス、とただ一言言えばそれだけで彼は無双の力を発揮するのだ。
例えば素っ裸にして両腕両足を折って牢屋の中に放り込んでおいたとしても、この青年は一時間強で全ての傷を治し、ナイトブレイザー化して脱出するだろう。ひどい話だ。
彼を捕らえておくためにこの首輪は必須。
首輪が流す電流だけが、彼を繋ぎ留めてくれるのだ。
逃げられない、と切歌は思っていた
いつ逃げるか、とゼファーは考えていた。
それゆえ奇しくも二人共、ここから先のことしか考えていない。
切歌は捕らえたままの彼をどうするかを、ゼファーは脱出した後どうするかを考えている。
(髪がジジイみたいな白さになってるのも苦労してたからに違いないデス)
切歌は根本的な思考レベルでどっかしら抜けていた。
それが愛嬌にもなっているのだが、ゼファーの髪を見て"優しくしてあげないと"以上のことは考えないし、思い至らないし、他人に聞いて真実を知ることもない。
彼の髪に対する思考一つとっても、彼女らしさが伺える。
切歌はそんな感じだが、誰もが彼女と同じような思考回路で生きているわけではない。
たとえば入口のそばでじーっとゼファーを見ているだけで、何も言わず、何も語り合わず、何もせずに壁に背を預けたままの調などはその最たるものだろう。
彼女は切歌とは対照的な人物だ。
今は何を考えているのか読みづらい表情をしているが、切歌と同じことを考えるようなあんぽんたんでないということだけは、確かなことである。
「調ー、そこで突っ立って何やってんデスか? 話したいことがあったんじゃ……」
「話すことなんか、何も無い」
「あれ?」
調はそう言って、結局何もせずに帰っていった。
何を考えているのか、そもそも何のためにここに来たのか。
それすら理解させずに調は去っていく。
ゼファーは達観した顔で、部屋から出て行った調の足音を聞いていた。
「シラベの方は、やっぱり俺のことは……」
「はて、なんか悪いもんでも食ったんデスかね?」
「え?」
「まーまー、それは置いといて」
切歌は今の調の行動に違和感しか感じなかった。
なんだろうと思いつつも、切歌にさえ最近の調の思考はよく分からない。
ゼファーの様子見に来ただけなのかな、とあたりをつけて、切歌は調の後を負って駆け出した。
「そんじゃ、また来るデス!」
「ああ、またな」
切歌が部屋を出て行った数分後、また新たな来訪者達が部屋にやってくる。
ゼファーの延命を目指し、ゼファーの体のデータを取りに来た者達だ。
知った顔が多かった。
ゼファーがよく知る研究者やレセプターチルドレンの顔も、そこに並んでいた。
懐かしい再会だった。
これで、純粋に味方として再会できていたならば、どれほど嬉しかっただろうか。
そんな本音を飲み込んで、ゼファーは彼らに向けて口を開いた。
世界は激動の中にある。
マリアの宣言に対する世界の反応は、様々だった。
我々はテロリストの要求には断固として応じない、と言った国が居た。
毅然とした態度で対応すると言った政府が、「ざけんな」とクーデターを起こされもした。
人種差別問題で紛争を続ける国は当然闘争を続けている。
その他諸々、国の数、国境の数だけ反応があった。
国ではなく個人で見れば、反応は更に多岐に分かれる。
世界平和を謳う人間にはブランクイーゼルに賛同する者も居た。
現実主義者には、暴力を非難しつつブランクイーゼルのやり方を肯定されることもあった。
が、当然、その過激なやり方は世界の大半から糾弾されている。
されど表向きブランクイーゼルを責めていても、裏では「バカを力で抑え付けてこの世界から戦争なくしてくれるなんてバンザイ!」と思っている者達も多い。
マリア達が見目麗しい女性であったこと、トップアーティストであったことも、彼女らの評価の後押しになった。
例えば匿名掲示板あたりを見れば、ブランクイーゼルの肯定が圧倒的に多かったりする。
匿名のネット世論調査では、ブランクイーゼル支持派の方が否定派に圧倒的な差を付けて勝利したりもしていた。
ブランクイーゼルは、分かりやすく、かつ刺激的だった。
「戦争なんてないにこしたことはない」と、大抵の人間は思っているだろう。
反戦寄りの国ならば「戦争なんてする方が悪い」くらいに思っている者も珍しくはない。
過激な人間であれば「いいぞもっとやれ」とも考えていた。
ブランクイーゼルを「所詮テロリストだ」と軽蔑するのもまた当然の考え方である。
ゴーレム達の襲撃を国民が恐れ、ブランクイーゼルに従わない政府が国民の総意で動かされるという異常事態も、いずれは珍しくなくなるのかもしれない。
世界中に知れ渡った今回の一件。考え方は、人それぞれだった。
それに、だ。
ブランクイーゼルが世界に知らしめた『ロードブレイザー』の存在も、また大きかった。
これまで世界各国の研究機関は、ヴァーミリオン・ディザスターに対し、「正確な原因は不明」としか発表していなかった。
そこにブランクイーゼルがロードブレイザーのデータをバラ撒いたものだから、研究機関は夜も寝ずに研究と検証と証明に走っていた。
データの真偽を確かめる者が居た。
ブランクイーゼルのデータには、何一つとして嘘が混じっていないことが証明された。
ロードブレイザーの仕業であるというのは本当なのかと、検証する者が居た。
それ以外にありえないと、結論が出された。
時間の経過と共に、各国の研究機関からの声明が発表されていく。
それはまるで、ロードブレイザーの存在について討論がなされていたインターネットという焚き火に注がれた、油のようなものだった。
世界は激動の中にある。
人類は選択を迫られていた。
絶対的な敵対者と戦うことと、地球圏の統一という夢物語の実現を迫られていた。
「―――以上で、現在の世界情勢の説明を終わります」
早朝に、二課司令部にて藤尭朔也が世界が今どう動いているかの説明を終える。
昨晩のブランクイーゼルの襲撃開始から数えて、実に10時間という時間が経過していた。
現在の時刻は午前五時。
夜が終わり、朝日が見え始める時刻であった。
「未確認情報ですが、日本以外の場所で五体のゴーレムの発見情報があります。
……あくまで、推測ですが。勧告を無視した国への制裁が目的なのではないかと思われます。
一両日中には大規模な虐殺が始まる可能性もあるかと。
よってブランクイーゼル拠点の防衛は、あの三人の装者が行っている可能性が高そうです」
世界の様々な場所で一般人が撮影し、ネットにアップロードしたゴーレムの朧気な姿が映った画像を、朔也が大画面に次々と並べていく。
昔と比べて、火事や大事故を見て"まず"携帯で撮影したり録画しようとしたりする人間が、随分と増えた。これもその類の写真である。
嘆くべきなのか、それともこうして役に立っているから喜ぶべきなのか。
「そして、これが敵拠点です」
次に朔也が大画面に映したのは、人海戦術でネットから漁られた画像ではない。
緒川をトップに据えた二課のエージェント達が特定した情報、及び衛星写真を用いられた、ブランクイーゼル拠点の現在位置とその拠点の情報だった。
敵拠点は、米海軍から奪取された空母。
海を泳ぐ米海軍の恥である。
ブランクイーゼルは空母をテロリストにぶんどられるという米国の失態を喧伝するように、半ば嫌がらせというか鬱憤晴らしのごとく、悠々と海を往っていた。
このサイズであれば隠密行動など不可能なので、ある意味当然と言えば当然か。
この空母、海を進む速度も中々のものだった。
だがそうなると、当然接近する手段が限られてしまう。
「どうやっても、海を渡っていかなければ辿り着けません。
敵に気付かれずに接近することはまず不可能です。
侵入もそうですが、脱出も然りです。
我々が助けに行っても、彼が脱出しても、絶対に気付かれ補足されてしまいます」
戦闘機で接近すれば、あっという間にバレて落とされる。
バレないようにと手漕ぎボートで接近しようとすれば、追いつけない。
空母等の性能を考えれば、潜水艦も海の藻屑にしかなるまい。
海そのものが、ブランクイーゼルの盾となっていた。
「海か……」
「こいつは難儀ですよ、司令」
古今東西、『水』は戦争において戦場を区切る壁に近い物として扱われてきた。
地を走るものならば越えるのに苦労し、背後におけば兵に死力を尽くさせる。
海はその最たるものと言えるだろう。
陸ならば、逃げて姿を隠す方法はいくらでもある。密かに進入する方法もいくらでもある。
だが海だ。
ブランクイーゼルは、巧妙に地の利を得ているのである。
「空自・海自と連携し、奴らを追い詰めていくという手もありますが……」
今回の一件は流石に話が大きすぎる。
自衛隊に援護を頼めば、数日後にでも大規模な支援を得られるだろう。
「アホか、敵に時間やってどうすんだ!」
だがそこで、雪音クリスが異を唱えた。
「こいつはチャンスだ。敵の主力が出払ってる内に本丸に乗り込んで、アイツを助け出す!
奴らだってこんなに早くあたしらがリベンジ挑んでくるだなんて思ってないはずだ!」
クリスの提案は、一種無謀なくらいの速攻だった。
「一理あるな」
だが、無謀以上に、この状況においては最適解と言っていい選択だった。
ブランクイーゼルは、初動で躓くわけにはいかないはずだ。
初動で躓けば、人類間の闘争の根絶に何十年もかかるようになってしまう可能性もある。
必要なのはスピード。
人類がごちゃごちゃとした泥沼の内戦を始める前に、世界をきっちり管理し始めることである。
それゆえに、今このタイミングで世界中にゴーレムを派遣したのだろう。
ブランクイーゼルは世界全てを敵に回している。
そのため、全戦力を世界だけor二課だけに向けてぶつけられない。
どちらかを疎かにすれば、どちらかに状況を悪化させられるからだ。
リリティア、バルバトス、リヴァイアサン、セト、ルシファアは今は居ない。
すぐにこの空母には戻って来ない。
ならばこのタイミング以上に、ブランクイーゼルの本拠地を攻めるチャンスはないだろう。
五体のゴーレムがゼファーの身柄を守るようになってしまえば。
あるいは、ゼファーは空母から別の拠点に移されてしまえば。
彼を取り戻すことは、絶望的になる。
「腹ぁ決めろ。
あいつが欠けてちゃ、どの道ジャイアントキリングなんざ届かねえ。
あたしらがあいつらに勝ちてえんなら、ここで攻めるしかないんだよ!」
クリスはあまり深く考えないタイプだが、何をするにもセンスが有る。
戦う時も、歌う時も、勉強の時も。
彼女はセンスの良さだけで、ところどころ凡人には及びもつかないような生き方をする。
夜に負けても、夜が明けたならば速攻で再戦を挑む。蛮族理論だが、悪くはない。
装者達の目的は、敵本拠地への奇襲によるゼファーの奪還。それだけだ。
今はまだ敵を倒す手段がない。
ゆえに倒すのではなく、助けることだけを目標に据えて戦わなければならない。
(ゼっくん……)
響は携帯電話を手に、自分を抱きしめるようにして目を瞑る。
携帯電話には、電話やメール履歴がたくさん残っていた。
特に未来の名前が多く、彼女がどれだけ心配しているのかが伺える。
だが、今その携帯は電波のやりとりを完全にカットされていた。
ヤントラ・サルヴァスパの効力はまだ正確には分かってない。
携帯電話を通話が出来る状態にしておくと、ヤントラ・サルヴァスパにハッキングを喰らい、連鎖的に何もかもおじゃんになる可能性があった。
二課本部も既に外部とのリンクを全て遮断し、人を間に挟んでデータのやり取りをしている。
そのため響は、心配しているであろう未来に何の説明もできていなかった。
二課の人員に、未来への軽い伝言を届けてもらうのが精一杯。
だからこそ、今の響にできることはただ一つ。
一刻も早くゼファーを、大切な親友を取り戻すことだ。
ゼファーの元気な姿を見せるのが、未来の心配への一番の特効薬になると、そう信じて。
(……奏。私は、久しぶりに怒りに身を任せてしまいそうだ……!)
翼の心はただシンプルに煮え滾っていた。
怒りだ。
事情を知らぬ彼女の心は、怒りの熱で沸いている。
翼は、マリアとゼファーの友情は本物だと思っていた。
ゼファーがマリアに対し本物の信頼を向けていたことを知っていた。
だからこそ、許せない。
彼女には、マリアが彼の友情を裏切ったように見えた。
そしてその原因の一つに、自分がマリアの内の何も見抜けなかったことにあると思っていた。
彼女はマリアも、自分も許せそうに無かったのである。
風鳴翼は激怒した。
必ずやかの邪知暴虐の企みを打ち砕き、友を取り返さねばならない。
翼には政治がわからぬ。マリア達の政治面での深謀遠慮もわからぬ。
だが友情を踏み躙るという邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
許せぬ、と吼える心があった。
(今助けに行くからな、待ってろ)
クリスは左掌に右拳をバチンと打ち付け、気合を入れる。
彼女は情に厚い少女だ。
速攻を仕掛けるという正答を導き出したのは彼女のセンスだが、例えそれがなかったとしても、彼女は一刻も早くゼファーを助けるべきだと飛び出していたかもしれない。
熱くなりやすいということは、熱くなるだけの情があるということだ。
思えば、こうして捕らわれたゼファーを助けに行くというのは初めてかもしれない、とクリスは心中で更に気合を入れる。
二課入りから今日までの数ヶ月、クリスはお隣さんのゼファーにみっちり鍛えられている。
彼女は仲間を守るために強くなった。
なればこそ、仲間を取り戻すためのこの戦いに、負ける訳にはいかない。
「敵の手の数は非常に多い。
全員無事に帰って来ると約束しろ!
お前らが居ないと、仕事が滞りそうでかなわん」
「はい!」
「了解しました、司令」
「任せとけ。三人で行って四人で帰ってくるからよ」
弦十郎に背中を押され、三人はそれぞれが出撃の準備を始めた。
装者達を全員出撃させるとなると、本土の守りは事実上弦十郎ただ一人となる。万全だ。
長引かせれば不利。
根本的な戦力差は絶大。
敵が三人のシンフォギア装者だけだったとしても、勝ちの目は薄いだろう。
それでも立花響は、風鳴翼は、雪音クリスは、仲間を救いに出撃する。
一縷の希望を掴み取るための電撃戦が、今始まろうとしていた。
車椅子の車輪が回る音がする。
ゼファーはウェルと会った。
切歌とも、調とも会った。
研究者やレセプターチルドレンの旧知の者達とも会った。
マリアは、一度も顔を見せなかった。
そして最後に、ナスターシャが、鎖に繋がれたゼファーに会いに来る。
「久しぶりですね、ゼファー」
「お久しぶりです、先生」
ナスターシャは、かつて教え導いた子の成長を喜ぶ。顔には出さないが。
ただ、その目は子を見る母のように、暖かかった。
ゼファーは、車椅子に乗るようになっている上に、顔色も悪いナスターシャを少し心配する。
その目は体調が芳しくない母を見る子のように、暖かかった。
「先生なら、必ず来ると思ってました」
「なるほど。本当に聞きたいことは、私に聞こうと決めていたと」
ナスターシャがこの船に居ない可能性も、会いに来ない可能性もあった
だがゼファーは、彼女がここに来ることを確信していたようだ。
直感的な判断か、あるいは人のあれこれを感じ取る
人の意識の流れをぼんやり感じることもできていたゼファーは、最近はただ時間が流れるだけでその力を増していっているようだ。
人としての機能の喪失と、引き換えに。
「……体、大丈夫なんですか?」
「最初の質問がそれですか。あなたらしい」
どの口で言うのか、ゼファーはナスターシャの体調を心配する。
加齢……ではなさそうだ。
ゼファーの眼には病でもなさそうに見える。
悪い顔色で険しく怖い表情を作りながら、ナスターシャは軽く鼻を鳴らす。
「大したことではありません。最近は体調も良くなってきましたので」
心配無用、とでも言いたいのだろうか。
されどその実、彼女の体調は洒落にならないくらいに悪い。
魔神の焔には魔神の意志に応じ、"人類の生存圏そのもの"を侵す力があった。
ロードブレイザーの持つオリジナルのネガティブフレアは、ゼファーの体から解き放たれ月に再封印されるまでの短時間で、F.I.S.跡地を汚染した。
ゼファーとセレナの万が一の生存の可能性を信じ、跡地で救助活動の指揮を取っていたナスターシャは、その優しさゆえに魔神の汚染を喰らってしまったのである。
今では、車椅子無しには一人で移動すらできないほどに。
彼女の体は、通常の医療技術では治せない。
ナスターシャはそれを自覚していたし、ゼファーはそれを感じ取っていた。
マリア達はただの病だと思っているかもしれないが……このままでは、もう長くはないだろう。
ゼファーといい、ナスターシャといい、どこもかしこも人間関係の柱が爆弾だらけだ。
「ブランクイーゼルの目的は何ですか?」
「ロードブレイザーの打倒。そしてその障害となるものの排除です」
ゼファーはブランクイーゼルの中で最も倫理的で、最も組織を把握しているであろう人物で、最も話しやすいナスターシャに問うていく。
「先生の目的は?」
「人類の存続。最大多数の生存と最大幸福。そして人類の安寧です」
「なるほど」
ブランクイーゼルとナスターシャが見ているものが違うことを確認し、ゼファーは思考する。
ウェル博士は確認するまでもないと、ゼファーは聞くまでもなく確信していた。
あのウェル博士が皆と気持ちを揃えて集団行動などするわけがない。
ナスターシャ、ウェル、ブランクイーゼルでそれぞれ目指しているものは違うのだと、ここでゼファーも把握した。
「さて、あなたはどうしますか?
私達の陣営に付くのならば歓迎しましょう。
そうでなくとも、延命に最善は尽くします。
あなたの返答如何にかかわらず、私達はもうあなたを戦いの場に置く気はありませんので」
「戦いをやめろ、と」
「その通り」
ナスターシャは、切歌と同じことを言う。
彼女らの言葉は、ウェルを除いたブランクイーゼルの総意だった。
戦うな、長生きしろ、生かす方法を必ず見つけるから。皆、ゼファーにそう言っている。
けれどゼファーは、首を横に振る。
「それは、死んでないだけでしょう。
俺は生きていたいんです。死にたくないんです」
「生きる、ときましたか」
ゼファーは自分が自分らしく生きることこそ、自分が『生きる』ということであると、そう定義している。
生きていたいから。
自分の命のためだけに、曲げてはならないものを曲げたくない。彼はそう思っている。
「俺達は死ぬために生まれて来たわけじゃない。
死なないために生まれて来たわけでもない。
だから『生きます』。俺は、最後の最後まで」
「戦いをやめれば、確実にあなたの余命は伸びます。
あなたの命を救う方法が見つかる可能性は、あなたの余命が伸びれば伸びるほど上がるのです。
信念がいくらの価値になるというのですか?
そんなものは捨ててしまいなさい。
生きるための選択をなさい。それとも、もう生きることを諦めてしまったのですか?」
「老いること、朽ちること、壊れること。
時が進む事の全てが失われること、死に別れること、終わりに通じているわけではない。
しかし今日に明日を諦めた者には、明日の輝かしいものは絶対に得られない。
……先生が、俺に教えてくれたことです。俺はまだ、何一つとして諦めてなんかいません」
「―――」
「俺が生きることも、俺の信念を貫くことも、俺はどっちも諦めてないんです」
ゼファーは、自分を育ててくれたナスターシャに、ナスターシャに教わったことを元にした生き方を見せる。
彼は彼女に教わったことを土台として、じっと未来を見据えていた。
「だから皆にも、生きていて欲しいんです。
死んでないだけの人生じゃなく、生きていて欲しいんです。
……世界平和のために犠牲にしていい人なんて、踏み躙っていい人なんて、一人も居ない」
そうだ。
だからゼファーは、皆が力づくで押さえつけられる世界など認められない。
人が粛清され続けることで維持される平和など受け入れられない。
人の心が一つになる時は、皆が望んだ時がそうあるべきだと、信じているから。
「俺は、あなた達の仲間にはなれない。
あなた達が世界のために、人を力で押さえつける選択を選び続けている限り」
ナスターシャは溜め息を一つ吐き、眉間を揉む。
そして険しい表情を緩めて、ゼファーに優しげに微笑んだ。
「立派になりましたね。……かつてあなたに母のようだと呼ばれたことが、誇らしい」
「……せん、せい」
「ですが、あなたがそう生きるのならば、私達とあなたは敵同士です。
私達にも譲れないものがある。
この星の上の人々が一つになれなければ、どの道人類に未来はない」
ゼファーが揺らがぬように、ナスターシャもまた揺らがない。
「ゼファー、あなたの成長を喜びましょう。
あなたの意志の中にある正しさを肯定しましょう。
その上で私の思う正しさ、人類の未来のために……私はこの世界に、悪を成しましょう」
ブランクイーゼルは、世界と人類を救うという正義の為に、悪を貫こうとしている。
彼女らは悪でないがために、必要悪を演じようとしているのだ。
「させません」
させてたまるかと、ゼファーは覚悟を決める。
彼はブランクイーゼルが犠牲にしようとしている人々も、人柱になろうとしているブランクイーゼルの皆も、誰も犠牲にしたくないのだ。
だから、止めようとする。彼らしい生き方を、まっすぐにこの世界に突き立てながら。
「止めます。俺はあなた達を止める。
取り返しのつかない所にまで行く前に、あなた達を止めます」
「―――!」
「あなた達を悪役になんて、させない」
ゼファーは首元に手を当てる。
すると、首輪が一瞬で『燃え尽きた』。
彼の首には傷一つ無く、彼はそのまま手枷足枷を一瞬で焼き尽くして自由の身となる。
黒い手袋を付け終えた頃には、彼を縛るものは何もなくなっていた。
どうやったか、なんて考えるまでもない。
彼は"生身でネガティブフレアを使った"のだ。
「もう、そこまで……」
生身でネガティブフレアを使えたということは、既に彼の内的宇宙と外的宇宙の境界である、彼の肉体が崩壊しかかっているということに他ならない。
彼の肉体は、概念的にはもはや穴だらけと言っていい状態なのだろう。
そして、そんな状態に陥ってもなお、彼の中で正の感情が、負の感情に圧倒的に勝っているという証明に他ならない。
ネガティブフレアは、放っておけば世界すら喰らい尽くす暴食の焔だ。
ゼファーはそれをアガートラームの力で制御し、自らのものとしている。
希望が多少絶望に勝っているくらいでは、この焔は彼の肌を焼いているはずだ。
この焔が完全に制御されているということは、イコールで希望が絶望に圧倒的に勝っているということ。
つまり。
今のゼファーの心の中に、絶望なんてものはほとんどないということになる。
「俺は人生に絶望なんてしてない。明日も諦めてない。
誰の人生も絶望させたくないし、誰にも明日を諦めさせたくない!」
彼の意志。
彼の覚悟。
それに名を付けるなら、"希望"という呼称こそが相応しい。
「だから―――諦めるなッ! ハッピーエンドってやつを! アクセスッ!」
ゼファーはナスターシャの目の前で変身し、部屋の中から上方に一直線に飛んで行き、天井を貫いて外へと向かう。
ナスターシャはそんなゼファーを見上げて、ポツリと呟いた。
「……希望の、西風」
想い合っているのに、戦わねばならない。
『運命』とやらは、どこまでも懸命な人々に対し、厳しかった。
ナイトブレイザーになるたびに、何かが削ぎ落ちていくのを感じる。
自分の一部が燃え尽きていくのを感じる。
飛びそうになる意識を繋ぎ留めて、ゼファーは駆け上がるスピードを緩めない。
空母の上で、戦っている響達の存在を感じる。
響達がピンチであることも感じられる。
負けそうだと、彼の心が言っていた。
もう保たない、彼の体が弱音を吐いていた。
このままでは死人が出ると、彼の直感が囁いていた。
ゼファー・ウィンチェスターならば助けられると、彼の魂が叫んでいた。
「たとえ、俺に明日がなくたって……俺は、俺の明日のためだけに、戦ってきたんじゃないッ!」
ゼファーは下から空母の甲板をぶち抜いて、戦場に舞い降りる。
響が、翼が、クリスが、マリアが、切歌が、調が、彼を見た。
自らの命すらも危うい境地。そこで、黒騎士が戦場に"自分らしさ"を突き立てていた。
周囲が主人公の境遇に絶望しているからといって、主人公が絶望しなければならないなんて道理はありません