戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ 作:ルシエド
始まりはゼファーと未来の二人だけだった。
二人が相対するのは、一億の加害者と傍観者。
傍観者を除いても千や万では収まらない加害者に、彼らはたった二人で立ち向かっていた。
その数の差は、今でもそこまで変わっていない。
一人、二人、三人……と味方に付けていったとしても、公的に味方には付いてくれない二課のバックアップがあったとしても、彼らの味方が圧倒的少数であることに変わりはないのだ。
ゼファーが作った味方は地元、要するに響の周囲に集中しがちなため、数えられる程度の数の味方でも多少改善されたように見えて来るかもしれないが……所詮、そう見えるだけだ。
全国的に広がる迫害の輪は変わらない。
言ってしまえば、全国各地にゼファーも未来も居ない状態の響が居るようなものなのだ。
なればこそ、その戦場にはその戦場に相応しい者が挑んで行く。
それはいつかどこかで、どこかの誰かに、勇気を貰った者だったりもする。
「んで、そういうわけでディレクターとしてのお前が欲しいんだとよ」
「マジっすか! 好きに作るっすよ?」
「やれ、やれ、どうせそういうお前を買ってんだろうからよ」
例えばあの日、公式にナイトブレイザーの初陣とされているあの日に、ナイトブレイザーの戦う姿を人々に届けたカメラマン、とか。
彼は最近どんな番組を録る時も、どんな映像を撮る時も、"災厄の中で人がどう輝くか"にカメラの焦点を当てるせいで番組の本題がそっちのけになるということで有名だった。
良い意味でも、悪い意味でも。
行動から生還者擁護派ということも透けて見えるからか、彼のせいで彼の所属するテレビ局は批判の電話が倍増したとすら言われているくらいである。
そんな彼だからこそ目をつけたスポンサーとプロデューサーが居る、との話だった。
要点だけをまとめればこうなるだろう。
"今の風潮に真っ向から逆らったものを作れ"。
軽薄な口調の彼は、それに喜んでイエスと返した。
「ちょーっとね、前からやりかったことがあるんすよ。
ノイズとか金のナイトブレイザーが大暴れしてた時あるじゃないっすか。
そん時、人助けしてた人達を、生き残った人も死んじまった人も区別せず映そうって思って」
「ほう……?」
「金のナイトブレイザーによる大災害。
あそこで人殺して生き残った人らが非難されてるっすけどね。
……自分の命を危険に晒して他人を助けてた人らも居るんすよ。
実は、前からネット巡回して出回ってる動画の中からそういうの集めてたんす。
人の悪いとこ映すのが流行ってんなら、人のいいとこ映して流行ぶっ壊してやっかな、なんて」
話を持って来られた途端こんなことを話し出す男に、スポンサーとプロデューサーの伝言役として話を持って来た男は、ニヤリと笑った。
「天邪鬼め」
「あっはっは。またマスゴミとか言われそうっすね~。
視聴者が何ほざこうが撮りたいもの撮る、流したい報道流すのが俺らっすよ?」
「だな、数字が全てだ」
彼が流そうとしている番組は、曲解に曲解を重ねられれば"災害の中で殺人を犯した者達の擁護"とも受け取られかねない、時流に真っ向から逆らうものだ。
世界球技大会で日本チームが優勝した翌日、ゴールデンタイムにチームメンバーの暗い過去を三時間特集で流すに等しい。
空気読め、と四方八方から叩かれかねないものだ。
災害で家族を亡くした人達の心情を汲み取れ、報道の自由を履き違えている、殺人者の社会復帰の手助けにしかならない、などなど色々と言われるだろう。
だがその男は、人を傷付けないことよりもロマンを優先する問題児であり。人種差別などでよくある、こういう社会ぐるみのリンチが反吐が出るくらいに嫌いな男だった。
「100人が100人"もうダメだ"って言ってる中で、"負けるか!"
って叫んでる奴が居る、みたいなのが好きなんスよ、昔から」
彼は自分が好きなものだけをテレビの画面に映すだろう。
彼は自分が好む者たちだけをテレビの画面に映すだろう。
恐ろしく偏った報道は、この現状を打破する劇薬になるはずだ。
「誰かが英雄になれた戦場なら、誰だって英雄になれてたはずなんす。救ったのが一人でもね」
ナイトブレイザーの戦う姿に何かを見た彼は、ナイトブレイザーのように災厄の中で戦う他の者達の背中にも、同じものが宿っているように見えた。
あれは感染するものなのだと、そう考えていた。
ひょっとしたら、あれは『勇気』と呼ばれるものなんじゃないかと、そう思っていた。
弱い人間でも、それがあればきっと強く生きていけると信じていた。
二課が今のこの世相を変えようとする人物、変えられる人物を探し、見つけ次第誰にも気付かれないようバックアップしていることなど、彼は知りもしない。知る必要もない。
二課が金と人脈と権力を人知れずフルに使った結果、回って来た仕事なのだということもだ。
二課は彼に対する世論の叩きを抑えるよう動き、それが作り出すであろう社会への影響を後押しし、彼は全力で番組を作る。
目に見えない敵、目に見えない脅威に叩き込まれる、目に見えないボディブローであった。
第二十六話:私の好きだった人の分まで 2
思えば、響の父と二人っきりで話したのはこれで初めてかもしれないと、ゼファーは思う。
響や響母と一緒に話したことはある。戦場で助けたこともある。だが、ゼファーが一人の人間として彼と向き合ったのは、今日が初めてだった。
「絶対明徳が勝つと思ってたんだけどなあ」
「俺、響のお父さんみたいに詳しくは知りませんでしたから……
普通にいい勝負だな?
くらいにしか思ってませんでした。試合も見てたの終わり際だけでしたし」
「まさかうちの子の友達が見るのもプレイするのもできる有望株とはなあ。
ゼファー君はうちの庭に除草剤を撒いたりしてくれているイメージが大きかったよ」
「いや、なんというか、自分は正直ヘタクソの域を脱却できませんでしたし」
「かー、君に解説しながら一緒に甲子園見るのも楽しそうだったかもしれないな。
過去16回の出場した夏甲子園全てを初戦勝利してきた明徳。
センバツ優勝校の夏大敗三年目という気配を背負ってきた敦賀気比。
そこからの名勝負に、地力で押し切る逆転。
うちの義母も嫁も娘も野球なんか知らないもんだから、話せる相手が居なくてなぁ」
「聞いてるだけで楽しそうですね」
頭に包帯を巻いてベッドに腰掛けるゼファーは、すっかり元気だ。
昔ブドウノイズの小型爆撃で皮膚を吹き飛ばされ、肉は火傷と血でドロドロになり、全ての肋骨をバキバキにされても数時間で傷跡すら残っていなかったゼファーだが、今では頭蓋骨にヒビを入れられたくらいで丸一日の検査入院を余儀なくされていた。
まるで十年と使われたパソコンのような肉体のバグは、中々に厄介な様子。
ゼファーいわく相当に遅いペースらしいが、三時間程度で完治したなら十分だろう。
早い時はもっと早いし、肉体が正常化していけば更に早くなるに違いない。
「その……なんだ、最近の響の学校の様子は、どんな感じかな?」
「俺よりミクに聞いた方がいいですよ。……でも、たぶんいい話は聞けないと思います」
「かも、な」
台風の話をして、最近読んだ本の話をして、ラーメンの話をして、野球の話をすると、とうとう二人の間に話題が尽きてしまう。
微妙に仲良くもない、けれど嫌ってもいない距離感で、話題が尽きて何話せばいいんだとなった時特有の、微妙に居心地の悪い会話の間が生まれてしまう。
そうすると自然、二人の話題は二人が共通して親しくしている響のことになる。
が、当然、その話題では暗い話にしかならないわけで。
娘を心配する父と、友達を心配する少年の頭の中が響への心配で一杯になるくらいには、響は愛されるいい子であった。
「最近、響、俺やミクの前でもあんまり笑わないんですよ。家の中ではどうですか?」
「……最近は一度も見ていないな。君の前ではあんまり、程度なのか。少し羨ましい」
「え? そんな……」
響も頑張って自分達の前で笑顔を浮かべていたのだと、家の中で無垢に笑えるくらいに安らげていたわけではないのだと、ゼファーは知る。
響の父、洸は寂しそうな、羨ましそうな目をゼファーに向けるも、
「響は、ちゃんとあの言葉を言ってるかい?」
「あの言葉?」
「響が小さい頃に、俺が教えたんだ。
俺も小さい頃に、父さんから教わった言葉なんだ。
『へいき、へっちゃら』ってね。
辛い時でも、これを口にするとなんとなく平気な気になってくる、魔法の言葉さ」
「……いえ、最近は一度も聞いてないですね。前は、確か……」
――――
「だって、皆が笑ってなかったら、そこから誰も笑おうとしなかったら。
もう、誰も笑えなくなっちゃいそうじゃない?」
「私はいつも笑ってるよ。辛くても、笑えなくなっても、いつかきっと笑う。
へいき、へっちゃら! ってバカみたいに言ってさ!
だから笑って。ゼっくんも。……仮面みたいな笑顔は、私あんまり好きじゃないよ」
――――
(いや、俺はちゃんと聞いてる。忘れるわけがない)
響はいつも笑ってるな、とゼファーが問うた時に、響がそう答えたのをゼファーは覚えている。
今でも響は、いつも笑おうとしているのだろうか。
いつも笑おうとしている彼女が時々にしか笑えていないこの現状は、どれほど辛いのだろうか。
ゼファーは彼女の笑顔を守りたいと思い、けれど今でも守れていない。
その事実を改めて突き付けられたようで、また少し、心が締め付けられたような気になってしまう。
「……」
だが、立花洸の前で弱い顔を見せるわけにはいかない。
それは響に伝わってしまう可能性もあるからだ。
ゼファーは響の前で強い自分を演じること、響が罪悪感なく頼れる自分を作ること、心傷付いている周りの少女達の支えになる自分を取り繕うことに、意味を感じている。
だからそれを揺らがせたくないと思っている。
弱さを補うために、貰った強さを擦り潰しながら、前に進み続けている。
「絶対に絶対、ヒビキの笑顔を取り戻してみせます。
ヒビキが本当の意味で、心からへっちゃらだって言えるくらいに、笑顔にしてみせます。
約束しましたから。だから、絶対にやり遂げてみせます」
「そうか。うちの娘をそこまで気遣ってくれるのは、純粋に嬉しいと思うよ」
立花洸の目に、ゼファー・ウィンチェスターという少年は、どこまでも強く揺らがず間違えず、娘のために頑張っている好青年にしか見えなかった。
良い意味でも、悪い意味でも。
「……ん、そうだ。一つ忘れていたことがあったな」
「何がです?」
「さっき、下で未来ちゃんを見かけたことだよ」
「え゛」
「いやあ、あんなに怒るもんなんだなあの子……
響に対しては甘々でも、君に対してはそうではないのかな?」
「……退院します。今すぐに」
「はっはっは、諦めな。女性は中々に難しいんだ。
怒られるのも男の仕事だと、既婚者がアドバイスしておこう」
「いやなんというか、大した怪我じゃないので怒られるほどのものじゃ!」
「いや大した怪我だったぞ!?」
立花洸に、ここに残ってゼファーを庇う気は無い様子だ。
「ま、怒られなさい。怪我して何も言われないのが最悪だ。
怪我して心配されるのが一番いい。怪我して怒られるのはその次に幸せなことだからね」
「響のお父さん……」
「俺だって響が入院ってなった時はもう泣いて泣いて……」
「あら、響のお父さん。ご無沙汰してます」
「「!」」
逃げ遅れた、と洸は思った。
来ちゃった、とゼファーは思った。
こんにちわ、と未来はゼファーをガン無視で洸に挨拶していた。
「じゃ、俺はこの辺で!」
いやまだ間に合う、と洸は病室を出る。
その速さたるや一級品。流石は既婚者、女性の恐ろしさをよく分かっているようだ。
後に残されたのは、笑顔の未来とベッドに座るゼファーのみ。
「ね、ゼっくん。私はお話、聞かせて欲しいな」
「あ、ああ」
彼女は派手には怒るまい。
褒める所は褒め、責める所は責め、静かに語りかけ続け、半歩踏み外しかけているゼファーを真っ当な方向に戻すだろう。
疲れと傷で自分を見失いかけているゼファーに、『生きたいという気持ち』を取り戻させるはずだ。それが蔑ろにされてしまうと、本当に最悪な所まで転がりかねない。
「ね?」
説教しながらゼファーのストレスを抜くという器用なことを行う未来は、ゼファーという風船の空気を抜きつつ、その外側を補強しているかのようだった。
なんやかんやで、色んな人がゼファーの見舞いに来てくれていた。
櫻井了子は見舞いついでに検診に参加し、ゼファーにデコピンをくれた。
土場はなんか高そうな果物を買って来て、奏が死んだ日からゼファーにずっと向けている目を、今日もゼファーに向けていた。
甲斐名は少しづつでも改善されている現状を淡々と話し、不器用に少年を勇気づけていた。
どこから嗅ぎつけてきたのかリディアンからも数人。
二課の仕事が休みだった大人も数人。
響も来るとのことだったが、ゼファーと未来が相談してやめさせた。この病院には今でもかの災厄の被害者とその身内が多く居て、響が来るには不安要素が多すぎるからだ。
それでも、ゼファーが入院していたのが丸一日だけだったことを考えれば、ずいぶんと多くの人が来てくれていた。
仕事や学校の用事があって来れなかった者も多かったろうに。
そして最後に来た藤尭朔也は、ゼファーの意向で今回の傷害事件を事件にしないため、ゼファーから何故こうなったのかを聞いて書類にまとめ、呆れたように溜め息を吐いた。
「君は頭の中身をいっぺん検査されるべきじゃないかな」
「隅々まで検査されましたよ……」
医者は頭の傷は治せても、頭のバカは治せない。
「昔から頭悪い、とはよく言われるんですけどね。
あの時は俺なりに考えて、あれが一番いいと思ったんです」
「もう少し穏便な方法もあったろうに……」
わざと自分を傷付けさせて、血と怪我で子供を正気に戻し、その罪悪感に付け込んで勢いで改心にまで持って行くなど、思いついても誰がやるものか。
実際、頭蓋骨は金属バットで殴打され、酷いことになっていたのだ。
再生する力があるとはいえ、この割り切りは本当に恐ろしい。
一歩間違えれば死んでいたかもしれないのに、ゼファーは響の周りの環境を変えるため、少年達が歩んでいる道を正すため、迷いなくこの選択を選んだのだ。
「周りの気持ちも察してくれよ。俺達結構、ハラハラしてるんだからさ」
「……すみません」
ゼファーは頭を下げてから、頭の包帯を外す。
その下には、傷一つ残っていない頭部が見えた。
「あ、でもですね。予想外にいいこともあったんですよ。
今回の怪我で不調だったARMがかなり治ったんです!」
「は?」
「いやー、びっくりしました。
流石に脳味噌をちょっとだけ壊して再生とか試したこともなかったですからね」
「君は古い家電か! 叩いたら治るとかどうなってんだ!」
「今日まで黙っててすみません。
俺、実は全身聖遺物でできたサイボーグだったんです」
「知ってるよ全身聖遺物ビックリ人間!」
冗談に冗談で返しつつ、朔也は風呂敷とそれに包まれた衣服をゼファーに投げた。
手でキャッチする自信がなかったので、ゼファーは胸でそれをトラップし、受け止めてからベッドの上に広げる。
包まれていた衣服は、ゼファーが朔也に頼んで持って来てもらった着替えであった。
「ありがとうございます」
「もう少し長居しててもいいんじゃないかな? 休暇も兼ねてさ」
「これ以上長居してると見舞いの人に山ほどなんか言われそうなので……」
患者に渡される服を脱ぎ、ゼファーはジャケットとジーパンを身に付ける。
そして腕の火傷を隠す、愛用の黒手袋を装着した。
「それに、今は一分一秒でも無駄にしたくないんです」
一日休憩してしまった。
一日くらい休んでおけ、と命じた周囲の認識と、一日も休んでしまった、と考えるゼファーの間には、天と地ほどの認識の差があるようだ。
「……カナデさんが死んでから六ヶ月。ヒビキが退院してから三ヶ月」
気付けばもう、あのオーバーナイトブレイザーとの戦いから半年が経っていた。
「俺は、半年戦っても、三ヶ月抗っても、何も終わらせられてない」
これまで、どんな強敵であっても、ゼファーが戦うのはせいぜい数時間、ナイトブレイザーならば十数分だった。
それで戦いは終わり、彼は休めるだけの時間を得ることができていた。
だが、今は違う。
彼の戦いに終わりは見えず、彼は望んだ勝利を掴み取れていない。
F.I.S.で似たような戦いに挑んだことはあったが、あの時は挑むべき大人の数もたかが知れていて、数ヶ月経てば目に見えて終わりが近付いていた。
現に、ネフィリムの時は子供と大人で一丸となれたのだ。
半年経っても終わりが見えるどころか、更に迫害が加熱している世間の現状は、ゼファー・ウィンチェスターが戦ってきた相手の中でも、特にしぶとく恐ろしい強敵だった。
「まだ、あの日の戦いは終わっていないんです」
言うなれば、それは、半年間毎日絶え間なく挑み続けてもびくともしない、頑強な鉄の巨人に等しいのだから。
何をすればいいのか。
どこに向かえばいいのか。
いつ戦いが終わるのか。
頭を割られて、入院した翌日に即退院して、それから一ヶ月。
ノイズと戦い、人と戦い、混迷とする風潮の中、彼はあがきにあがき続けた。
心のどこかに、黒いものが溜まっていくのを感じながら。
「しッ!」
「!」
そして今日もリハビリを兼ね、翼と本気の模擬戦だ。
肉体がどんなにボロボロになろうと、思うだけで動く性質を持ち健全に戦えるナイトブレイザーとは違い、彼の生身の戦闘力は格段に落ちている。
それで彼視点一度も勝てていない翼相手に勝てようはずもなく。
ゼファーは足技を中心にハイ・ローコンビネーション、カカト落とし、転ばせての組み技と工夫した戦術をぶつけようとするも、完膚なきまでに叩きのめされてしまった。
「いつつ……ツバサは相変わらず強いな」
「お前が弱くなったのだ。生身なら、数年前ほどの圧倒的な差は私達の間には無かった。
ここしばらく年単位でギアとブレイザーで模擬戦をしていたから連勝していただけで……
怪我をする前は、私に対し低くとも勝率を維持出来るだけの技量は身に付いていたというのに」
「え、そうなのか? じゃあなんで変身後は勝てなかったんだ……」
「さあ、何故だろうな」
知っているけど教えない、と言わんばかりの笑みを浮かべて、翼は武士言葉で強い人間を演じつつのたまう。
言葉遣いと表情、性格を意図して演じ、強くなろうとしている翼の姿は大変微笑ましい。
前提としてその心の状態を知らなければ、親しい相手でも騙せるゼファーの仮面が比較に置かれてしまうから、なおさらそうだ。
「これで俺の……何連敗だ? 一万回くらい?」
「おそらく」
これでゼファー視点、あの一回を除き、四年近く翼に一度も勝てていないということになる。
「じゃあ、俺の9999敗1分けくらいか」
「お前の1勝9999敗だ」
「頑固な奴め」
「そちらこそ」
今日に至っても、この二人の間であの試合の勝敗は決まりきってはいないらしい。
「……ふう」
「疲れ気味のようだな。やはり、対話は大変なのか?」
「ああ、強敵だよ。
俺にもうちょっと、他人を説得出来るだけの人生経験があればとは思うんだが」
倒れたまま、ゼファーは手の平を天井に向けて掲げる。
電灯の光を手が遮り、彼の顔に影を落とした。
翼の目に映る彼は、本当に不安定だ。奏にゼファーが恋をしていると気付いたあの日から、翼の目に映るゼファーはとても不安定で、それは奏が死した日から更に悪化しているようにも見える。
翼だからこそ共感できる傷が、そこにある。
「何の罪も無いのに、生き残って責められてる子が居た。
生きるために人を殺してしまって、その罪悪感に呑まれている人が居た。
大切な人を失った悲しみを、他人のせいにして乗り越えてる人が居た。
災厄で身内を殺された人に、心の底から同情して味方しようとしてる人が居た。
ただ面白そうってだけで、世間の流れに乗っかってる人が居た。
人から悪人だと聞いただけで何も疑わず、そいつを悪人だと信じてしまう人が居た」
ゼファーは電灯の光を遮っていた手を顔に当て、顔に落ちていた影の代わりに手が落ちる。
「何を、どうすりゃ、いいんだろうな……」
目元を隠すゼファーに、翼は彼が答えを求めて自分にこの言葉を言ったのではないと気付きつつも、自分なりの答えを返す。
「あなたが望む未来を、あなたが掴みたいのなら」
ゼファーも翼も、まだ奏の死を引きずっている。
「その答えはゼファー自身が見つけ出すしか、ないんじゃないかな」
そして、同じ痛みと傷を抱える未熟者だからこそ、曖昧であっても、この場で返すには限りなく正答に近い回答を、彼に渡すことができるのだ。
「……」
世界の残酷さ、理不尽さ、悪辣さには、彼自身が答えを出さなければならない。
たとえそれが、人類の歴史の中で多くの哲学者達が『人間への絶望』という解答を導き出してきた、そんな命題であったとしても。
ゼファーはすぅと息を吸い、はぁと吐き、意図して軽口を作る。
「おいツバサ、口調」
「……」
武士口調が素の口調に戻っていた翼に、照れ隠し+誤魔化したことへの罰代わりに叩かれるゼファー。
「なあ、口調戻さないか? 形から入ってもなんというか」
「形から入るのが大事なの!」
形から入ろうとするも入りきれていない翼に、形を取り繕うとしても取り繕いきれていないゼファー。今は上手くやれていても、笑い合えていても、どこか、何かが、限界だった。
ふざけてじゃれるこの光景にも、不思議と痛々しさがにじみ始めていた。
響の母は、少し話すと「本当にあの響の母親なんだろうか?」と思われ、数日後には「紛れも無くあの響の母親だ……」と思われるタイプの女性であった。
もっと分かりやすく言えば、初対面の人間と仲良くする気があまりない響、とでも言うのが一番近い表現だろう。
その分、一度親しくなった相手には響のように接するし、そのギャップが受けて親しい人には特に好かれるタイプの女性であった。
そして響より幾分、負けん気が強かった。
ご近所の中にはこの響母を特に好いていた主婦も居たが、この響母を特に嫌っているような主婦も居た。
響に遺伝した『とにかく自分が正しい思える道を真っ直ぐに』という気性は、連帯行動と協調性を第一とする、悪い言い方をすれば井戸端談義で愛想笑いと意に反した相槌を打つことを至上とする、そんな近所の女性達にはそこまで受けが良くなかったらしい。
ゼファーのように『死ね』『クズ』『人殺し』と書かれた紙を塀から剥がして行く作業の最中、響母は近所の主婦らに取り囲まれてしまった。
「やあねえ、娘があんな風に言われてるくせに外を堂々と歩けるなんて」
「羞恥心がないのかしら」
「人らしい心がないのよ。だって娘も人でなしなんだもの」
とはいっても、全体主義と事なかれ主義の塊のようなものが、ご近所付き合いという代物だ。
立花母を積極的に責めているのはほんの数人。それに倍する人数の取り巻きは、見るからに乗り気ではない。
立花家に同情しているからではない。単純に面倒くさい、といった顔だ。
十数人のおばちゃん軍団は、口々に響の母を罵って嘲笑ってはいるが、その心は一つではないようだ。こうして響母を一緒に叩かなければ、仲間として見られなくなってしまう。
それを恐れて、傷付ける側に回っているのだろう。
誰だって、傷付けられる側に回りたくはないはずだ。
匿名掲示板で、「この作品が嫌い」という人間同士で集まろうとするのと同じだ。
嫌いなものを皆で一緒に叩いて一体感を得たい。
これが嫌いだ、と思う自分が少数派ではなく多数派だと信じられる実感が欲しい。
だから、"それが嫌いだ"と思う人間で集まろうとする。
この集まりの中で先頭に立つおばちゃん達は、そういう考えが根底にあった。
「娘が娘なら母親も母親ね」
「当然でしょ、娘を育てたのは親なんだから」
「『人を殺してでも生き残りなさい』とでも教えていたのでしょう」
響の母からすれば、全員変わらず全員同罪で全員気に入らないことに変わりはないのだが。
「一応、言っておくわ。私、短気なの」
こんな相手に和解しよう、だとか考えるような寛容さは響母の中にはない。
彼女の寛容さはどこまでも人並みだ。
娘を人殺し呼ばわりされていつまでも流していられるような優しさは響母の中にはない。
彼女の優しさはどこまでも人並みだ。
怒るべき時には怒り、キレるべき時にはキレ、許してはならないものは許さない。
ここで耐えて受け流すという賢さも、怒ったって何も変わらないと考えるような打算も、彼女の中にはない。
人並みにカッとなってしまう、上限を超えれば心を病んでしまう、そんな心の弱さが彼女の中にはあった。
響母を怒らせて先に手を出させるという打算を抱えていた主婦達の目論見通り、響母が怒り、踏み出した、まさにその時――
「待って下さい!」
――主婦達の中から飛び出した一人が、響母を庇うように、そこに立った。
「……何? あなた」
「昨日、私の子に会った覚え、ありますよね?」
「あるけど? そこの立花家に、相応の飾り付けとして犬に糞させてた時だったかしら」
「……!」
響母の側に立った主婦は、主婦軍団の先頭に立つ特に悪質な主婦に相対し、昨日自分の息子が見たという光景が嘘ではないことを確認した。
響母に味方した主婦の息子は、前日に見ていたのだ。
十数人の集団が、正義の味方を気取って、立花家に酷い嫌がらせをしていた光景を。
「昨日、私の子が……私に言ったんです……
『お母さん、僕もああした方がいいの?』、って……!」
息子から聞かされたその言葉で、その主婦は、響母を虐めることに対し、疑問を持ったのだ。
子は親を真似る。
親が弱い者いじめをすれば、子はそれを真似しようとする。
子は親の背中を見て育つ。
立花家へ陰湿な嫌がらせをしている親の背も、子はちゃんと見ている。
自分の愛する息子が、子供が隣人の家に最悪な嫌がらせをする大人の背中を見て真似ようとしている事に気付き、その主婦は冷水をぶっかけられたような気持ちになっていた。
親が子を育てるように、子もまた親を育てている。
子が居て初めて、女は母に、男は父になることができる。
母を正道に戻したのは、子が持った純粋な疑問だった。
「私は、恥ずかしい……
流されて、流されて、私は自分の子に、どんな背中を見せていたのか……!
貴女達は、恥ずかしくないんですか! 立花さんの家にも、私達のように子が居るのに!」
その名も無き主婦は、響母を庇いながら、母として声を張り上げる。
「もし本当に人殺しをしてしまっていたのだとしても!
私達は、"自分の子が同じ立場になったら"と思い共感できる、同じ母なのに!」
「―――」
この場の全員が、子持ちの母であるという、その一点を指摘しながら。
「『子供が生きて帰って来たことを恥じろ』と!
そんなことを言っていた私達が、一番恥ずかしい!
私達だって、子がそんな目にあって、生きて帰って来てくれたら……
それだけで嬉しいと、心からそう思えていたはずなのに!」
言葉がざわめきを生む。
主婦間のこそこそとした話を生む。
そうしていくらか間を置けば、主婦達の間にも色んな言葉が湧き出てくる。
「まあ、やり過ぎな感じはしてたよね」
忘れてはならない。
ここに居る主婦の2/3は、立花家の敵でもなく、味方でもなく、ただ流されて加害者になっているだけの者達である。今の世の中の大半が、そうであるように。
熱心に立花家の味方をする気もなければ、敵をする気もない。
「ワルではあるけどさー、あそこまでしなくていいんじゃない? って感じはあったよね」
「あ、それ、私も思ってました」
「正直被害者でもあるんだからなんかなあ、とは思ってたんだ」
「え? 皆やる気なくしてたん? 早く言ってよ、もう」
「よかった……なんかこれ以上エスカレートしたらどうしようって、実はちょっと……」
そして萎える要素があれば、ブームは去る。
「ちょ、ちょっと! 何言ってるのよ!」
生還者を非難する過激派の一人である主婦は、意見が散らばり始めた主婦達の方に振り返り、大声を張り上げる。
「あなた達だって、許せないと強く思ったから、一緒に動いてくれていたんでしょう!?」
そして響母とその前に立つ主婦の方に踏み込む。
暴力で来られる可能性を考え、響母は自分を庇ってくれた主婦を守るように、その前に出た。
「私の従兄弟が死んで、こいつの娘は、こいつは……!
法律の問題じゃない! これは道徳の問題なのよ!
法の隙間を縫ってのうのうと笑って生きてる犯罪者とその家族の存在なんて、私が絶対―――」
その時。
何かをしようとした主婦と響母の間に割って入るように、パトカーのサイレンと声が響いた。
「立花さん! すみません、遅れました! 警察の方呼んで来ましたよ!」
主婦達の間に、その時走ったものは戦慄だった。
面倒臭がらない誠実な派出所の警官と、直感で通報するゼファーの組み合わせは社会的に言えば最強に近いものであり、立花家ではもう何度も人が警察にしょっぴかれていた。
"法が犯罪者の味方をしている"と彼女らは陰口を叩いていたが、その実、警察によって連行されることを何よりも恐れていた。
「あ、こらっ! 何も悪いことなんてしてないんだから堂々と――!」
だーっと、まずは流されていただけの主婦達が逃げた。
続いて加害者の中核だった主婦達も消え、中心人物だった一人の主婦も消え、やがてその場には響母だけが残される。
そんな彼女の前に現れた少年は、手元の携帯端末から、パトカーの音をぴーぽーと鳴らしながら冷めた表情を浮かべていた。
「大丈夫ですか?」
「ゼファー君……?」
「本当に警察を呼んでなくても、呼んだという事実を伏線にしておけば……
ちょっとした工夫で、同じ効果が得られるってわけです。
何度も呼びつけるのは、その、おまわりさんのお仕事の邪魔にもなってしまいそうですし」
ゼファーはタイミングを計り、その場に居た者達の呼吸を読み、直感的に『ここだ』と思えるタイミングでパトカーのサイレンを鳴らした。
ただそれだけだ。
だがそれだけで、幻想の警察は主婦達を追い払ってみせた。
ゼファーは復活したARMで大雑把に周囲の安全を確認し、物陰に隠れているように言い聞かせていた響を呼び寄せた。
「おたくの娘さん、確かにお届けしました」
「宅急便みたいな言い方するのね……まあ、いいわ。響、おかえり」
「ただいま、お母さん」
響を家の中に入れると、立ち去ろうとしたゼファーの肩に手を置き、響母はゼファーを呼び止める。
「ちょっとお茶してかない?」
「え?」
「ささ、遠慮せず」
「ええええ?」
そして自宅内部に引きずり込んだ。
「えへへ、ゼっくんがうちの中に入るの久し振りだね」
「そうだっけか」
響はヘタクソな笑顔でヘタクソな笑いを浮かべ、ヘタクソに元気そうな姿を演じる。
ゼファーはその笑顔を見て、切歌が昔笑えなかったと言っていたこと、切歌が昔上手く笑えない時期があったと本人が言っていたことを思い出す。
そこから連想して、笑顔という一点においてのみだが、響と切歌は似てるんじゃないかとゼファーは思った。
二人の笑顔は、隣に居る誰かを照らす太陽のよう。
月を照らす太陽。陽だまりを照らす太陽。
二人の笑顔は、どこか似ているのだ。
響と調の二人を合わせたら案外気が合うんじゃないかと、ゼファーはぼんやりと類推しながら、部屋の隅のゴミ箱を見る。
先日、響の父に助けてもらった礼に来た時彼が渡した、東京ばな奈の箱がゴミ箱の中に入ってるのを見て、食べて貰ったことにちょっとホッとしていた。
「未来、大丈夫かなあ」
「さっき家に着いたってメール来たぜ。
斥候みたいな役目を背負ってくれたのは正直助かった」
「……私の方にはメールくれなかったのに」
「深い意味は無いだろ。片方に伝えればもう片方に伝わると思ったんだろうし」
響の家の前で待ち伏せされていたら大変だからと、響の幼馴染にしてこの辺りの地理にも詳しい未来が先行し、立花家の惨状を携帯でゼファーに連絡する。
ゼファーは付かず離れず響を守り、未来から伝えられた問題の解決に挑む。
見事な連携だ。
「……あのさ、ゼっくん」
実際、未来がゼファーにだけ連絡したことに深い意味は無いかもしれない。あるいは響に知らせたくないことをこっそり伝えていて、そこに深い意味はあったのかもしれない。
響に知るすべはない。
彼女が知っていることはただ一つ。
ゼファーが、未来が、自分のために隠れて何かをしていること。
そしてその結果、ゼファーは入院までするハメになっていたということだ。
「もう、いいよ」
響は疲れていた。傷付いていた。悲しんでいた。
諦めないということに疲れ、頑張ることに耐えられなくなり、もう何もかも投げ出したいと、そう考えていた。
心折れかける最後のきっかけが『友達が大怪我したこと』なのだから、この立花響という少女が本当に心優しいのだということがよく分かる。
「もう、私のことは、放っておいていいよ」
響はゼファーと未来との繋がりを自ら絶とうとしている。
それは二人に愛想を尽かしたからではない。二人に自分のせいで傷付いて欲しくないからだ。
二人を守りたいと、こんなにも過酷な状況で、響がそう思っているからだ。
ゼファーが響と未来に、未来が響とゼファーに対しそう思っているのと同じように。
とことん追い詰められ、削られ、摩耗し、それでも立花響は立花響だった。
本当の窮地にこそ人の本質は出る。響は本質的に『他人を守る者』なのだ。
「ヒビキ。俺は日本人じゃないが、日本のことはちゃんと学んでる」
彼と同じように。
「『救い』には、"求める"って字が入ってるんだ。
求めなければ救われない。
自分で救われたい、救われようと思わない奴は、きっと神様でも救えないと思う」
生きることを諦めた人間を、どうやれば救うことができるというのか。
「俺は手を差し伸べられる。でも、立ち上がるのはお前の足だ。
俺はお前の傷に手当をしてやれる。でもな、治すのはお前自身だ。
俺はお前を助けられる。だけど、お前を本当の意味で救えるのは、お前だけだ」
ゼファーと未来の奮闘の根に横たわる根幹的問題。それは、もしも響が生きることを諦めてしまったら、二人にはどうしようもないのだということだ。
「救われようと思わない奴が、救われるわけがない」
「―――」
立花響を襲う理不尽の中、一番踏ん張らなければいけないのは、響の友ではなく。
響自身なのだから。
「私に、救われる資格なんて……」
周囲から死ね、死ね、死ねとさんざん罵られ、生きる価値を否定されてきた響は、自分が生きている意味を見失っていた。自分が生きる価値を見失っていた。
自己評価がどん底まで落ち込み、アイデンティティとレゾンデートルが揺らいでいる今の響は、自分がゼファーや未来に助けられるだけの人間に思えない。
自分に救われる資格なんて無いと思ってしまっている。
"それ"は、ゼファーが言葉で倒さなければならないものだ。
拳では倒せないものだ。響の内にあるものだ。
ゼファーが倒さなければ、内から響を殺すものだ。
「ヒビキは、救われる資格とか抜きにして、救われたいとは思わないのか?」
だからゼファーは、言葉に込める力を強めて響に問いかける。
「……私は」
「生きたいとは、思わないのか?」
「……私は……」
大切なのは、その人が助かりたいと思っているか。救われたいと思っているか。
生きたいと思っているか、だ。
ゼファーは響に手を差し伸べる。
響はその手を取ろうとするが、迷い、手を引っ込めてしまう。
生きたいけれど、生きていいのか分からない。
そんな響の葛藤が伝わってくる。
このまま生きていて、友達や家族に迷惑をかけるくらいなら、いっそ……
そんな響の葛藤が伝わってくる。
もう嫌だと、胸の奥で張り裂けそうなくらいに叫び、迷いの中に居る。
そんな響の葛藤が伝わってくる。
ゼファーは響が手を引っ込めても、自分の方の手は引っ込めずに、響の目を真っ直ぐに見て声を張り上げる。彼女の胸の奥にまで、響くように。
大切なものは目に見えない。
彼は他人の中にある『それ』を、見逃さない。
「助かりたいなら、手を伸ばせ! ……諦めるなッ!」
「……っ」
響は手を出しかけて、迷う。
その手は宙を泳ぎ、この泥沼な現状から救われたいという感情と、友達に迷惑をかけたくないという意志の間で揺れ動き、進みも戻りもしないままに止まる。
響は口を開きかけるが、口にしたい思いだけが先行して、その思いを言葉にアウトプットする行程が追いつかなくて、言葉にならない震えた声が漏れてしまった。
声が震える。
唇が震える。
肩が震える。
それでも彼女の目線は彼の手を凝視していて、彼女の意識がどこに向いているかがひと目で分かってしまう。
五分か、十分か、十五分か。
たっぷり悩んで、たっぷり迷って、たっぷり躊躇して。
響は、ゼファーの差し出した手の上に弱々しく己の手を重ねた。
無言の「助けて」が手から伝わる。
無言の「助ける」が手から伝わる。
心がズタボロな少女の小さくか弱い手を、何もかもがズタボロな少年の焼け爛れた大きく力強い両手が包む。泣きそうな素顔を、優しく微笑む仮面で包みながら。
「人はいつか死ぬ。俺だって、そこから目を逸らしてるわけじゃない」
ゼファーは、天羽奏の手は掴めなくても、立花響の手は掴むことができた。
だから、ゼファーにとって響は特別な一人でもある。
「それでも、頼むから……死なないでくれ。幸せになってくれ」
響を守ること。
響を生かすこと。
響を幸せにするそのために、心、思い出、居場所……響の大切なものも守ること。
それを取り返しの付かない形で失敗してしまえば、ゼファーは今度こそ膝を折りかねない。
ゼファーが今も立っていられるのは、"あの日守れたものがあった"という救いを、ただ生きているというだけで、響が彼に証明し続けているからなのだから。
「ヒビキを、大切に思ってるんだ」
ゼファーの言葉に、響は俯き頷く。
彼女がどんな顔をしているのか、彼が知る由はない。
仮面の下で少年がどんな顔をしているのか、少女にはよく見えている。
絶対に絶望の底に落ち切ることはなく、仲間の支えで信じられないような速度で立ち上がって来るゼファーは、何度も何度も他者に励まされて立ち上がって来た。
だからその分の善意を返そうと、響にこうして何度も同じように励ましの言葉をかけ続ける。
落ち込んだ時に言葉をかけてもらったことを思い出し、四ヶ月以上もの間、絶え間なく、響が落ち込むたびに何度でも言葉をかけ続ける。
それがまた、介護疲れに似た何かを彼の中に少しづつ蓄積させていく。
そして同時に、響の微笑みを見られたことが、彼の疲労を忘れさせ猛進させるだけのモチベーションに変わってくれていた。
そうやってやる気を出す要素だけが増え、傷も疲労も問題も何もかもが残った状態で頑張り過ぎていることこそが、根本的な問題であるのだということにも気付かずに。
今の彼は、タイヤも車体もエンジンも破損しているのに走り続ける、過剰な量のガソリンを過剰な速度で燃やしながら走り続ける、そんな状態の車に近かった。
精神的に危険な状態、精神的な負荷を多大にかけられている者を、爆弾と言うのなら。
他の人間よりも多くの傷、多くの痛み、多くの苦しみ、多くのストレスに耐えることが出来てしまい、その状態で渦中に飛び込んで行くゼファーは……誰よりも大きな爆弾だった。
他人に弱音を吐き、他人に頼る程度では、もはやガス抜きにもならないほどに。
響が居なければゼファーは立つことも出来やしない。
ゼファーが居なければ響は首を吊っていてもおかしくはない。
だが同時に、この二人は互いが互いの心に対し、重圧と負荷を与えてしまう関係でもあった。
自覚できないくらいに僅かづつ、お互いに苦しめ合う友情が、そこにはあった。
それでも、所詮は僅かな悪影響だ。
ゼファーと響の間にある友情に揺るぎはなく、話している内に自然と響の顔には微笑が戻って来て、互いに心に僅かな苦しみを落としつつ、それを超える喜びを二人の心に生んでくれる。
少年が命の恩人な響父の話を振ると、響は父である洸の話を嬉々としてし始めた。
水族館でイルカのぬいぐるみを買ってくれた時の話。
動物園で一緒に象に触った時の話。
遊園地で寝てしまった響を背負って家まで運んでくれた時の話。
保育園で一緒に踊ってくれた時の話。
暴れていた大きな犬から、体を張って守ってくれた時の話。
立花響にとって立花洸は、優しくて格好良い、大好きな父親であるようだ。
真っ当な家に生まれることも、真っ当な親に育てられることもなかったゼファーだが、響と父親がいい親子関係を築いていることはよく分かった。
響が良い子なのは知っていても、響父が良い人だということは知らなかったゼファーは、まだまだ自分が無知なのだと自覚する。
「お父さんのこと、好きなんだな」
「え、あ、いや、確かにそうだけど……他人に言われると恥ずかしいなぁ……」
ゼファーはタラスクと戦った日に、響の父を自分が守れた幸運を噛み締める。
もしもあの日洸を守れていなかったら、父親大好きな響の笑顔がどれだけ曇っていたか、想像もしたくない。
「あら、お帰り?」
「はい。お邪魔しました」
玄関で靴を履きつつ、立花家の平穏を守れたことにちょっとした充足感を感じるゼファー。
そこで背後から立花母に声をかけられ、そこから微妙に噛み合わない会話が始まった。
「一人に絞らない限り、うちの子はあげないわよ」
「何故唐突に娘を物扱いしてるんですか……」
「……ああ、そういえば外国人だったわね……」
「はい?」
微妙に噛み合わない会話の中、ゼファーはふと、"この人とあの人は夫婦なんだ"と思う。
だから、興味本位で聞いたのだ。
あなたは伴侶のことをどう思いますか、と。
「長年連れ添った夫婦ってね、丈夫な腐れ縁になるの。
幼馴染より、大親友より、恋した相手より、両親より、強く想えるものなのよ。
好きになっても嫌いになっても、一緒には居続けるんじゃないかしら……」
返って来た返答はどうにも生々しく、実感のあるものだった。
人は大抵の場合、親と同じ家で過ごす期間よりも、伴侶と同じ家で過ごす期間の方が長い。
響の年齢から考えれば、20年近く同じ家で過ごしていた響父と響母の間にある繋がりは、ゼファーがその生涯で一度も持ったことのないものだった。
「まあ、あれよ、そういうことなのよ、響の話をしたのは」
「いやどういうことなんですか?」
そしてそういう繋がりのないゼファーには響母の言いたいことが全く伝わってこないため、この女性と阿吽の呼吸で話せる響父への尊敬を、新たにするのであった。
自分が持ったことのない暖かな繋がりを、立花夫妻から教わったゼファー。
それからまた、一ヶ月。
ゼファーは説得しようとし、失敗し、泥にまみれていた。
「さも自分が正しいみたいな風に言ってんじゃねえよ」
「胸糞悪い」
「偽善者が。二度とそのツラ見せるなよ」
大人達に突き飛ばされたゼファーは、前日の大雨で出来た泥の水溜まりに背中から落ちてしまった。泥が跳ね、まとわりついて、少年の全身を焦げ茶と赤茶に染めていく。
去り際に少年の顔に唾を吐きつつ、説得に失敗したゼファーに背を向けて、生還者を社会から弾き出そうとする大人達はその場を去っていった。
ゼファーの言葉には力がある。
されど、そこに洗脳じみた力はない。
相手の心に訴えることはできても、必ずしも心を動かせるとは限らないのだ。
これで失敗し、嘲笑われ、罵倒され、憤怒されたのは何度目だろうか。
彼の失敗はいつものこと、というほど多くもなく。珍しく、というほど少なくもない。
ただ、説得に失敗するたびにこんな目にあっていることを考えれば、悲惨としか言えない頻度で失敗と愚弄は繰り返されていた。
「……」
こんなことをずっとずっと繰り返して、もう何日目になっただろうか。
自分を酷い目にあわせ、汚い言葉をぶつける者達に逆上することもできず、ただひたすらに温和に話しかけるのもこれで何回目だろうか。
時間を置いてからまた説得しようと動き、待ち伏せと暴力という返答を返されたのも何度目か。
何をしても悪意しか返って来ない日々は、これで何日目になるだろうか。
根気良く話しかけるゼファーに根負けして、その味方についた者も居た。
ゼファーの善意や熱意にほだされ、あるいは共感し、追随した者も居た。
正しさというものがなんなのか分からなくなり、加害をやめた者も居た。
もう誰も傷付けられるべきではないと、そう思うようになった者も居た。
それでも、いいことがあれば悪いことがあったことを忘れられるというわけでもなく。
幸福があれば不幸は無かったことになるなど、小学生でも言いやしないだろう。
今、泥まみれになっているゼファーが、幸福な気持ちで居るわけがない。
「帰ろう」
戦場で言葉を尽くした。戦場で全力を尽くした。戦場でベストを尽くした。
それでも、まだ世界は変わらない。
それでも、彼の言葉は全ての人には届かない。
この戦いの終わりはどこにあるのだろう。
オーバーナイトブレイザーとの戦いが春、今が冬。
にもかかわらず、ゼファーの戦いは終わりの気配を見せてさえくれない。
「……頑張ろう。頑張らないと。頑張れよ俺。頑張るんだ」
家に着き、誰も居ない部屋の中でゼファーは着替える。
見たくないからとしまいこんだ、ペットのハンペンの餌の皿や、奏・翼・ゼファーの三人で撮った写真の存在を思い出し、ウジウジしそうになった己を叱咤するために頬を叩く。
そして自らへの戒めと決意表明のために飾っている、響・未来・ゼファーの三人で災厄の前に撮った写真を入れた写真立てを見つめ、気合を入れ直す。
「今俺が折れたら、誰が、代わりをやってくれるっていうんだ」
ゼファーの代わりは居ない。
ゼファーが倒れた時、彼がやっていたことの全てをそのまま引き継いでくれそうな誰かなど、彼の近くには一人も居なかった。
彼はナイトブレイザーであり、響の味方であり、世界や社会に真正面から逆らう者だ。
その全てを代わりにこなせる人間など、この世界に存在するかどうかさえ怪しい。
「響の周りの風向きを変えるって、約束したんだ」
ギリギリだった。
仮面の下はヤバいかも、と周囲の一部が思っている以上に、彼の心はギリギリだった。
奏の死を初めとして、あの日に一日で失ったもの。
奏の死を始めとして、あの日から数ヶ月の間に彼の心に刻まれ続けた悪化要素。
切歌、マリア、調の励ましがなければ、本当にどうなっていたか分からない。
響も現状が続いてしまえばこれ以上保たないかもしれない。
未来も相当に追い詰められている。
この戦い、長引けば長引くほど『責めはするけど責められない』加害者より、『責められるが相手が多すぎて言い返しても意味が無い』被害者の方が不利なのだ。
相手の数が10倍なら相手の10倍の速度で傷付いてしまう。100の数なら当然100倍だ。
長引かせてはいけない戦い……なのに、終わりが見えないという最悪の状況の組み合わせ。
なんとかしないと、どうにもできない。
名案は出てこないというのに、焦燥だけは掃いて捨てるほど湧き出て来て、彼を苛んでいく。
(……ダメだ。外に出よう。また悪い考えしか出て来なくなってる)
だが一人で落ち込み、一人でうずくまり、どうにもならなくなるような悪い意味での子供らしさは今の彼の中にはない。
ゼファーは自室を出て、アパートの階段を降りて一階へ。
自分の腕の不調のせいで走らせてやれていないジャベリンMrk-4に申し訳無さを感じつつ、ゼファーはバスに乗って海に面した公園に向かった。
廃工場に周囲を囲まれ、女子供もあまり近寄らない、一人きりで気分転換できる都内の穴場……ということで噂になっていた場所だった。
二課のメンバーの一人から、ずっと前にその場所を聞いていたのを思い出し、ゼファーはその公園に足を向けたのだ。
「あれ?」
そこで、意外な人物と出会い素っ頓狂な声を上げる。
「ヒビキのお父さん?」
「……君は」
立花洸。響の父がそこに居た。
表情と声に一瞬違和感を感じるゼファーだったが、それの正体がよく分からなかったため、とりあえず今は一旦気にしないようにする。
「どうしたんだい、こんな所で」
「それはこっちの台詞ですよ。平日の昼間にあなたが、なんでこんな所に?」
「会社は今日休みなんだ。それで一人の時間を、ってことさ」
「それなら、できればヒビキの傍に居てあげて欲しいです。
あいつもヒビキのお父さんが傍に居てくれれば、笑顔になれるでしょうし」
「……ああ」
洸の声に力はない。酷く適当で、おざなりな声だった。
余裕がなく、直感が鈍りに鈍っていたゼファーでも、何かがおかしいと思い始める。
災厄で多くのものを失う前の、精神的にもかなり健全だったゼファーならばここで答えに至っていたかもしれないが、今の精神的に崖っぷちなゼファーでは怪しむことしかできない。
「大人はさ、色々あるんだよ」
「大人、ですか」
やや卑怯な誤魔化し方をして、洸は自分がここに居る理由をぼかした。
ゼファーも"話したくないんだろう"と彼の意を汲むが、洸が誤魔化しのために発した言葉に、少年の心は引っ掛かりを覚えた。
「文句なしに大人と言える人間って、どうすればなれるんでしょうね」
ゼファーは今日までの日々の中で何度も、「自分がもっとちゃんとした大人だったら話を聞いてもらえたんだろうか」「若造、子供と馬鹿にされることもなかっただろうか」「こんな情けないことにはならず、ヒビキをしっかり守れたんだろうか」と思っていたから。
目の前の『大人の男』が発した"大人"という言葉に、心のどこかがひっかかっていた。
少年はまだ、子供と大人の狭間を抜け切れていなかったから。
「一つ、言えることは、だ」
洸の目線は一見ゼファーを見ていないようで、ゼファーしか見ていない。
その口調は、風のない海のようにどこか静けさすら感じる。
「妻を持ち、娘を授かって、仕事に打ち込むようになっても……
俺は、昔自分が思っていたような大人になれた気はしないなあ、ってことだ」
「……そうなんですか?」
「20過ぎた人に『子供の頃思っていたような大人になれた?』
って聞いてみるといい。100人の内99人は"なれなかった"と答えるだろうさ」
なんでこんな大人になってしまったんだろうかな、と洸は思った。
「子供の頃は、未来の自分がこんなに"嘘つき"になるだなんて思ってなかったよ」
嘘つき、と聞いて、ゼファーは無意識下で己の顔にそっと触れた。
「俺の持論だ。あてにはしないでくれな?
きっと、大人の条件は『自分に得のない嘘をつけること』だ」
「嘘を……?」
「子供の頃はよく、嘘を悪いことだと知りつつ、自分のためだけの嘘をついたもんだ。
自分が壊してしまった花瓶を誤魔化したり、宿題を家に忘れてきたと言ったりね」
頬をかく洸は一瞬だけ、父の顔ではなく少年の顔を垣間見せる。
「大人になるとな……嘘が悪いことだ、って意識が薄くなってくるんだ。
子供がそうするのとは違い、本当の意味で平気で嘘がつけるようになる。
自分が得をしないような嘘を、たくさんつきながら生きていく」
会社のため。家族のため。社会の中の人の輪を乱さないため。
自分の得にもならない、つきたくもない嘘をつくようになってこそ大人だと、彼は言う。
ゼファーはそれに対しついポロッと、本音の言葉を漏らしていた。
「嘘なんて、つかないで生きていくのが一番なんですけどね」
嘘は少し疲れるから、と少年は思った。
洸はその返答を聞いて、羨ましそうに、妬ましそうに、嬉しそうに、寂しそうに笑った。
「そう答えられる君が居るなら、響の隣に、俺はもう要らないかもな。
あの子に必要なのは、俺じゃなくて君みたいだ」
ゼファーは洸が吐いたその言葉に過剰に反応し、生真面目な表情で洸の目を真っ直ぐに見る。
「何変なこと言ってるんですか。
親友や恋人が出来たら家族が要らなくなるとでも言うんですか?」
「―――」
「あなたは俺が良い父親だと思ってる人で、ヒビキが大好きに思ってる父親です。
怖いこと言わないで下さい。あなたはヒビキにとって、たった一人の父親なんですから。
大切な人が増えたって、他の大切な人が要らなくなるなんてことはないですよ」
洸は響の大切なものであり、愛するものであり、心を支えてくれているものだ。
ゼファーは洸個人に価値を見るのと同時に、響の心を守るため、という意味でも彼に価値を見ている。人として好感を持ち、友の父としても好感を持っている、ということだ。
そんなゼファーを見て、自分のためではない他人のための嘘をつけるゼファーを見て、洸は突然語調を変えた。
「もう君はほとんど大人だ。少なくとも俺の目には、そう見える」
文字列だけを見るならば、大人が子供にアドバイスを送っているかのような文面。
だがそれは、喉から血を絞り出すかのような、凄惨な声色で作られた言葉。
「立派なもんだよ」
ゼファーはそこで初めて、立花洸が内に秘めていた、膨大な『劣等感』を感じ取った。
ゼファーは立花家の平穏を守れていると思っていた。
災厄の前に立花家にあった幸せを、守れていると思っていた。
響は家の中では笑えていると、そこには彼女の居場所があるはずだと、信じていた。
―――愚かにも。
ゼファーは立花洸を、弦十郎や緒川を基準とした『強い大人』だと思っていた。
付き合いが深くない上に、洸のいい面ばかりを見て、響の父であるというだけで信じていた。
悪くて汚い大人を見過ぎた結果、世の中には強くて良い大人が他に居ると思いたくて、信じたくて、無意識下で洸を強く優しい人間という枠の中に押し込んでしまっていた。
―――愚かにも。
立花洸は、立花響と同じくらいに、つまりは人並みの心の強さしか持ちあわせておらず。響にとっての未来やゼファーといった絶対的な味方など、彼の傍らには一人も居なかったというのに。
スタートラインは、洸が所属していた会社にて、響が生還したことを吹聴したことだった。
立花洸は、流石響の父親だ、と言われるような性格である。
響が災害で怪我をした時、洸は目に見えて落ち込んでいた。
周囲に慕われていた洸は、同僚からこの時期にかなり頻繁に励まされている。
響が生還した途端、洸は飛び上がるほど喜んだりもした。
彼の周囲の社員も、自分のことのように喜んでくれたものだ。
こういったあけすけで周囲に慕われる明るさは、響にきちんと受け継がれている。
だが、ここで不運があった。
洸の所属する会社の取引先の社長の令嬢が、かの災厄にて命を落としていたのだ。
洸の娘が生き残ったこと、父親がそれを大喜びしていることが耳に入ると、取引先の社長は契約を白紙に戻し、こう言ったという。
「あの人物をプロジェクトから外すまでこの話は無かったことにしてもらいたい」、と。
一見、娘の無事を喧伝した洸の軽率さが目立つが、冷静に考えてみればこれは私情まみれにもほどがある要求だ。
うちの娘は災害で死んだ、そっちの娘は災害で生き残った、だから不快だ、仕事を白紙に戻そう……だなんて、笑い話にもなりはしない。
だが当時の『死者は善人、生還者は悪』という風潮は、そのおかしさをほんの一部の人間にしか感じさせず、この暴挙を現実にした。
家族が災害から生還したことを心から喜び、公言することは間違ったことではない。
ニュースの中で、顔出ししながら言っている人が山ほどいるくらいに、ありふれたことだ。
家族を失った悲しみを忘れられず、私情に走ることも悪ではない。
肉親を失うということは、それだけ辛いことなのだから。
誰もが間違っていなくとも、悪でなくとも、上手く行かないことがある。
個人に対する悪意がどこにも見当たらなくても、人を傷付けてしまうことがある。
生きていてくれてありがとうと、そう言うことすら許されないことがある。
それが、人間社会というものだ。
「そんな……だって、俺は……!
響が生きていてくれて、本当に嬉しかったんだ!
それを会社の中で、親しい人達と一緒に喜んだだけで、なんで、こんな……!」
洸は自分が1から手がけたプロジェクトを白紙に戻され、あまつさえ自分がもうそれに関わることはできないのだと宣告され、失意に嘆く。
それどころか、社内でも『アイツを使ったら取引先に……』という可能性がチラつくようになってしまったのか、仕事もロクに回されず持て余すような扱いをされてしまうようになる。
仕事こそが人生だと、そう言う者はそれなりに多い。
洸もまた、仕事で得られる達成感と、誰かの役に立っているという実感なくして、生きてはいけない人間だった。
これもまた、響に遺伝したものの一つ。
例えば響が、仮に戦う力を得たとして、『戦って誰かを守る自分』に価値を見出すようになったと仮定する。
そうなった彼女が仮に戦えなくなった場合、「戦えない私って誰からも必要とされない私なのかな」と悩むようになってしまうだろう。
この親子は、自分が何かをすることで自分に価値を見出し、自分が成したことで自分を認め、生きて行こうとするタイプの人間だ。
それは同時に、『自分のもの』『自分にできること』『自分がやってきたこと』の喪失に我慢ならず、人一倍大きな喪失感を感じてしまうということでもある。
「……なんなんだよ……本当に……」
人前では洸は逃げるように笑って誤魔化す。
しかし彼の心中は、"仕事"という人生の半分を占めるとも言われる半身を失ったことで、多大なストレスで押し潰されそうになっていた。
毎晩飲む酒の量が増えた。
仕事の合間に休憩を取る口実に使っていたタバコを、ストレス解消に使うようになっていた。
家で大声を上げるようになった。
妻と娘に苦言を呈されると、テーブルを叩いて黙らせることが多くなっていった。
ゼファーが幸せの満ちる家庭だと思っていたその場所は、彼が数え切れない敵と戦い、他所を顧みる余裕を無くしてしまっている間に、とっくのとうに壊れてしまっていたのだ。
少年を病院に運んだあの日の洸と、平日の昼間に公園に佇む今の洸の目は、まるで別人。
ギリギリの状態のゼファーは、そんなことにも気付けていなかった。
洸は会社で持て余され、家の中で不和を生む毎日を繰り返す。
「あんな、あんな子供に、あんな子供に……!」
そして、洸の心を苛むストレスがもう一つ。
それがゼファー・ウィンチェスターの存在だった。
響は父が大好きで、同じようにゼファーも大好きだ。
だから必然的に、父の前で話す男の話はゼファーへの褒め言葉が多くなる。
響の母も然り。娘絡みのゼファーの話をよくしたりした。
響の祖母も、力仕事を何度か頼んだ関係で、ゼファーに好感を持っていたようだ。
ゼファーは呼ばれれば、望まれればどこにだって飛んで行って手伝う少年だ。
いわゆる日曜大工のような、休日のお父さんがするような仕事でも頼まれればまず断らない。
そうなると、ゼファーが立花家でやったことを『男ならできること』と認識されたのか、洸は次第に、ゼファーができることをできて当然のように扱われるようになっていた。
できないと溜め息を吐かれるようになっていた。
それはごく自然な流れであり、それ自体は誰の心にも悪い影響を与えなかったが、洸の心に一つの思考を植え付ける。
(比べられてる?)
洸のその考え方はあまりにも穿ち過ぎていて、邪推が過ぎていて、実際響も響母も響の祖母も、比べることなどしていない。
洸という個人をちゃんと認め、愛し、尊敬している。
会話にゼファーの名前が出る数も、実際は洸が思っているほど多いわけではなかった。
ただ、たまたま印象に残っていただけの話だった。
多芸な子供と比べられて、ちょくちょくがっかりされるくらいなら、日常の中で埋没するモヤモヤ程度にしかならないのだから。
だが、洸が自分を見失ってどうすればいいのか分からなくなり、酒の勢いに任せてとうとう愛娘の響の頬を叩いてしまった時。
響の祖母は、失望した顔で、こう言った。
「お前もあの少年を見習ったらどうだい」
「―――は?」
響を守る。
立花家に信頼され、親しまれる。
男手となり、いざとなれば体を張って敵に立ち向かう。
多くの家庭で父に求められる役割、立花家においても洸が求められていたはずの役割を……最悪なことに、ゼファーが全て果たしてしまっていたのだ。
響の母や響の祖母が洸に『父としての役割』を求めたならば、立花洸には最低でも二つの選択肢が残されていた。
父として全ての責任を負い、ゼファーのようにズタボロとなり、家族の盾となる選択。
そして並みの人間には耐えられないこの環境から、全てを捨てて逃げる選択だ。
立花洸の選択が、立花家の命運を決めるはずだったのだ。
だが、それももうありはしない。
立花家の父が本来果たすべきだった責務の多くは、ゼファーが果たしてしまっていた。
ゼファーの善意は、最悪の形で立花洸の再起の可能性を摘み取ってしまう。
酒に呑まれて家族に暴力を振るった過去を償う再起の機会を、握り潰してしまう。
今となっては、洸が家に残ってくれてもさほどのプラスにもならず、洸が家を出て行ってもさほどのマイナスにもならないという状態になってしまっていた。
ゼファーの頑張りは、"立花洸は居ても居なくてもそこまで変わらない"という最良と最悪を兼ねる、目も当てられない状況を無自覚に作り上げてしまっていたのだ。
あるいは、洸がゼファーの居ない世界で娘のために立った世界もあったかもしれない。
あるいは、洸がゼファーと肩を並べて響を守ろうとした世界もあったかもしれない。
だが、この世界はこの世界だ。
立花洸は自分が果たすべきだった責務を全て果たしていたゼファーを見て、自分の存在が要らなくなったと錯覚し、心の何処かがどうしようもなく壊れてしまった。
今や立花洸は、死にでもしない限り家族に大きな影響を与えられず、やり直す機会も取り上げられたまま、家の中に不和を呼ぶだけの人間になってしまっていた。
立花洸は災厄の余波で仕事を奪われ、尊大な災害被害者によって尊厳を傷つけられ、父としての責務とやり直す機会をゼファーに奪われ、本当にどうしようもなくなってしまっていた。
「何が礼だ……何がッ!」
先日ゼファーの命を助けた礼にと、ゼファーが手渡して来た東京ばな奈を開けもせずにゴミ箱に突っ込む。憎らしく思う相手の善意を踏み躙る、暗い喜びがあった。
あの時、助けなければよかったとすら洸は思い始めて――
「……違う」
――少年と楽しく話した日のことを思い出し。そこでなんとか、人として踏み留まった。
「悪いのは、俺だ……!」
洸はゼファーを憎らしく思う。
だが同時に、それが逆恨みでしかないことも分かっていて、不甲斐ない自分の代わりに責務を果たしてくれていたのだと、そう感謝もしている。
自分の悪性を棚に上げ、子供を憎み子供のせいにする自分を恥じ、ゼファーへの罪悪感を感じる心もあった。
だが、それらの感情の何よりも、ゼファーと比べられた彼の中に燻ぶる感情があった。
それが、『劣等感』。
父親である自分よりも愛娘に信頼され、頼られているゼファーに向けずにはいられない、止めようのない負の感情だった。
「……へいき、へっちゃら……じゃ、ないな……」
今の立花洸は、どうやって自分の価値を証明すればいいのだろう。
どうやって自分が生きている意味を実感すればいいのだろう。
気付けば職場にも、家庭にも居場所は無くなっていて、この世界に自分の居場所なんて一つも無くなってしまった状態で、『人殺しの父親』と毎日罵られているというのに。
自分がなんで生きているのか、洸はさっぱり分からなくなってしまっていた。
そして響とは違い、そんな洸に寄り添ってくれる者は居らず、酒に酔って家族に暴力を振るう彼の心の中の涙など、誰も見てはくれなかった。
「なあ、家族だろ……?
俺の家の中でくらい、ここに居ていいんだって、誰か、俺に、言ってくれよ……」
妻に、義母に距離を置かれ。
愛娘は自分を愛してくれる余裕などなく。
ここ一ヶ月で一番優しく、目を真っ直ぐに見て話してくれたのが、ゼファーだったという始末。
もう、本当にどうしようもない。
逃げていれば良かったのだ。
家族を守るか、家族を捨てるかの選択がある内に、家族と全てを捨てて逃げるという最低の選択をしていれば、こうはならなかったはずだ。
家族を守る権利と責任を取られ、逃げ出すこともできずにズブズブと家に残り続けるなんていう苦行には、ならなかったはずなのだから。
色んなことから逃げながら、それでもほんの僅かな"やり直すチャンス"は残ったはずなのだ。
生きていれば。
生きてさえ居れば、人は何度だってやり直せるのだから。
ゼファーの人生が、それを証明している。
ゼファーへの劣等感が彼を追い詰め、ゼファーへ言葉を渡すことで罪悪感が贖われ、最後にゼファーと久しぶりに人らしい会話を交わしたことで、未練がいくつか切れていく。
本来ならば死ななくても良かったかもしれない男。
何かが少し違えば、ゼファーの言葉で再起していたはずの男。
響の大好きな父として、彼女の傍でずっと守ってくれていたかもしれない男。
そんな未来は、永遠に来なかった。
「洸さんッ!?」
ゼファーはノイズの出現を予知した。
久しぶりの出現にゼファーは心の中で舌打ちをする。
友達にメールを送るふりをして洸の前で堂々と二課に連絡し、ノイズ警報を鳴らしてもらう。
そしてノイズが来たと慌てるふりをして、洸を避難させた。
予想外は二つ。
一つ目。ノイズが出現後すぐに二人のそばに現れたこと。
ゼファーはナイトブレイザーの正体を明かす覚悟で、変身しようとする。
そして二つ目の予想外。
ゼファーを押しのけ、立花洸がノイズに体を突っ込ませ……彼視点ではノイズと戦えるわけもないゼファーを守るという形での、『自殺』を決行したということだった。
止められるわけがなかった。
止められるタイミングではなかった。
だが、止められなかったことがゼファーの一生の後悔になる、そんな自殺であった。
「洸さぁぁぁぁぁぁぁんッ!!」
「生きていれば良い事がある」なんて言葉だけで生きていけるほど、俺は強い人間じゃない。
「生きていればやり直せる」なんて言葉を信じて生きていけるほど、俺は強い人間じゃない。
「いつか分かり合えますよ」なんて言葉を希望に生きていけるほど、俺は強い人間じゃない。
躓いてしまっても、立ち上がれる君が羨ましいよ。
俺は……もう、ダメだ。何かが、俺の中で切れてしまった気がする。
最後に、君と話せてよかった。
君は何のことか分からないだろうが、俺は「ごめん」と、君に言っておきたかったんだ。
響と、
君に情があって、俺のことをほんの少しでも哀れんでくれているのなら。
生きることも選べない、こんな衝動的に死を選んで、君に最後に心残りを口にしてしまう、こんな情けない男の言葉を聞いてくれるなら。
最後の俺の行動を、恩に感じてくれるなら。
一つだけ、俺の願いを聞いてくれ
『どうか、
あの子の幸せを、人間としても、父親としても、男としても強く生きていけなかった俺の代わりに……守ってやって欲しい。
ゼファーの肉体が、洸の言葉を受け止める。
口にされた言葉も、炭素化のせいで口にされなかった言葉も。
余すことなく、受け止める。
ゼファー自身が茫然自失としていても、肉体は勝手に稼働して、言葉を受け止める。
「うそ……だろ……?」
立花洸が最後に選んだ選択は、もう何もかもが嫌になったこの世界で生きることを諦め、自分の命を代価に愛した娘の幸せを確約させることだった。
それはある意味、死と引き換えに生者にかける呪いに近い。
ゼファーは洸の言葉に呪われた。
この呪いは、最悪一生解かれることはないだろう。
立花洸は、自分の命だって捨てられたのに、結局響への愛だけは捨てられなかった。
最後の最後だけ、彼は父として生き、父として死んでいった。
それがこんな選択を取らせ、膝をつくゼファーの心にトドメを刺す。
「ヒビキに、なんて言えばいいんだよ」
そして、洸の死はゼファーの努力の終わりを告げるものでもあった。
洸は自分が響に嫌われていると思っていただろう。
自分の暴力の結果、娘は自分を大嫌いになったと思っていたのだろう。
だが、違う。
立花響は、今でも複雑ながら立花洸が大好きだ。娘として、父を愛している。
なればこそ、洸の死は響の絶望になる。
崖っぷちでぎりぎり踏みとどまっている響の心に、トドメを刺してしまう。
終わりだ。これで、ゼファーがこれまでして来た全ての努力は水泡に帰した。
洸の死が公のものとなれば、響は絶望し、全てが終わり、ゼファーの救いは消える。
あの日、災厄の中でも守れたものがあったというゼファーの救いは、これで終わる。
「なんで、そんな簡単に生きることを諦められるんだよ」
立花洸は、意図せずゼファーの内にある爆弾を起爆させ、少年の心にトドメを刺した。
「諦めなかったのに、死んでしまった人だって居たのに」
最悪一歩手前まで追い詰められた彼へトドメを刺したのは、『生きることを諦めた人』だった。
「ふざけんなあああああああああああああああああああッ!!!」
生身の彼の体から、焔が吹き上がる。
外的宇宙と内的宇宙の境界線を突き破り、鎧より先に焔が燃え盛る。
「どうして
何もかもが終わる。
過去最大の期間をかけて傷付けられ続け、恋というブースターで過去最大の傷を刻んだ奏の死の傷を中心として、過去最大の負の感情が爆発する。
ネガティブフレアが、その負の感情を加速度的に増大させていく。
「なんでッ! いつもッ! こうなるんだよおおおおおおッ!!!」
ゼファーはみんなが好きだ。人を嫌うことはまずない。
ゼファーは誰だって許す。許せない人の方が珍しい。
ゼファーはどんな奴でも受け入れる。異様に寛容だ。
それでも、彼は聖人ではない。
夜道を歩く時、ふと思う。今日は本当に嫌なことがあったなあ、と思う。
生還者を非難する者達にリンチされ、四方八方から蹴られて転がされた時、辛く思う。
一人で風呂に浸かる時、理不尽に死んで行った仲間達を思い、涙する。
彼の心は人を憎まない。人を嫌わない。
だが、心がある場所以外の場所には、人と世界への憎悪が降り積もっていく。
これもまた、オーバーナイトブレイザー戦の後遺症。
肉体、精神と密接に関わる聖遺物のバグが、ゼファーが本来霧散させるだけで発露しない感情を蓄積し、爆発させてしまったのだ。
彼は人に対し思う。
「いい加減にしろよ貴様ら」
と。
彼は世界に対し思う。
「いくら何でも理不尽過ぎるんだよ」
と。
彼の心はそう思わずとも、彼の心の強さと意思の強さについて行けない魂が、少しづつ、少しづつ、そんな想いを蓄積し、そしてとうとう爆発に至ったのだ。
全ての人に対する好意、世界への愛が裏返る。
全ての人に対する悪意、世界への憎悪へと裏返る。
全ての命と世界へ敵意を向ける、守護の獣が反転した災厄の獣。
『そう』なってしまった化物が、世界の全てに向かって吠える。
「ガアアアアアアアアッ!!」
この世界の全ての物を壊し尽くすまで止まらない。
この世界の全ての命を殺し尽くすまで止まらない。
人並み外れた好意と善意が聖遺物の暴走により反転し、人並み外れた殺意と悪意へと至る。
獣となった黒騎士が吠えると、廃工場とノイズごと、海に面していた陸が消し飛ぶ。
消滅ではなく焼滅の咆哮を放ったナイトブレイザーは、再度獣のように空に吠える。
世界全てをこうしてやると、言わんばかりに。
立花洸の死を最後のトリガーとして。ナイトブレイザーは、暴走した。