戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ   作:ルシエド

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 五章は一~四章と比べると重い展開とそれを跳ねのけようとする展開が続きますので、ご了承ください


第五章 生きていてくれてありがとう
第二十四話:たった一つの冴えた贖罪


 ゼファーは何の変哲もない学舎の、一教室にて目を覚ました。

 真ん中の列の、前から1/3くらいの位置の席。

 夕暮れの陽が教室の中に差し込んで、オレンジ色に染まる教室に、彼一人。

 席に座った状態で目を覚ましたゼファーは、席を立つ。

 

 教室がいったんモノクロームに染まって、すぐに元の光景に戻る。

 ああ、そうだ、授業中に寝てたんだっけと、ゼファーは思う。

 

「お、帰りか? 気を付けて帰れよ」

 

 廊下に出ると、そこでカルティケヤを始めとする教師陣とすれ違った。

 頭を下げて、ゼファーはその横を通り過ぎる。

 廊下の窓から中庭を見下ろすと、ウェルとトカという名の二人が、熱く討論を交わしていた。

 

「前を見て歩きなさい。転びますよ」

 

 ナスターシャ教頭に注意されて、ゼファーは慌てて頭を下げた。

 

「明日から夏休みです。ハメを外さないように」

 

 はい、と答えて、ゼファーはその場を立ち去る。

 廊下を走ったらまた怒られることが目に見えていたので、ゆっくりと。

 いい人だけど、厳しい人だと、ゼファーは知っていたから。

 

「よう」

 

 階段に辿り着くと、そこには雪音クリスが立っていた。

 ゼファーを待ってくれていたのだろう。

 帰ろうか、とゼファーが言うと、彼女はニッと笑った。

 

「ん? グラウンドでマリエルとベアトリーチェが遊んでるな」

 

 白雪のような髪をなびかせて、かばんを手に持ち背中に流したクリスが、階段の窓からグラウンドの方を見てそう言った。

 グラウンドには子供達の姿があって、その中で小さな双子の姉妹が笑顔で走り回っている。

 

「見つかると遊んで遊んでーって面倒な絡まれ方しそうだな。こっそり逃げようぜ」

 

 遊んでって言われても、今日はクリス達と先約があるしな、とゼファーは頭を掻いて言う。

 断ったら傷付けてしまうかもしれないし、と言いつつ悩む様子を見せる。

 そんなゼファーを見て、クリスは大笑いしながらその肩に拳をグリグリと押し当てた。

 

「お前は子供の頃からだーれも傷付けたこと無いよな。アホみたいにさ」

 

 ……そうだっけ?

 そう思ったゼファーの視界が、モノクロームに染まる。

 

 違う。ずっと傷付けてきた。

 それも違う。俺は、ここでは誰も傷付けては居ない。

 夢の中での思考のように、一定しない思考がゼファーの中でめまぐるしく入れ替わる。

 世界の色が元に戻る。

 

「まったく、平和で退屈な毎日だ」

 

 クリスがしみじみと、面白く無さそうに言う。

 

「こうやってあたしらの腐れ縁続いてさ。

 メンツが欠けたり増えたりもせず、大人になって行くのかねえ」

 

 世界がモノクロに染まる。一瞬で元に戻る。

 それが一番だろ? 俺はそう思うよ、と、ゼファーが言う。

 

「平和が一番、か……あ、新任教師のマリアだ」

 

 さんか先生付けろよ、とゼファーは言った。

 

「あんな典型的なお友達教師にんなことしてんのはお前だけだから。

 ほれ見てみろ。月読と暁なんてあんなんだぞ、あんなん」

 

 マリアー、マリアー、と下級生に群がられている新任教師マリアを見て、ゼファーは一瞬彼女を擁護する言葉を思いつけなかった。

 

「学生からちゃん付けされるタイプだからな、あれ。

 ……うげっ、見たくないもの見ちまった。

 ゼファー見ろ、フェンスよじ登ってジェイナスが来てやがる」

 

 別にいいじゃないか、とゼファーはこっそり侵入してきたジェイナスを見る。

 

「まーたお前を悪い遊びに誘いに来たに決まってんだろ。

 先週とかゼファーを風俗に連れてこうとするとかマジ救えねえ。

 止めようとしたらあたし顔面殴られそうになったからな。あいつほんとクズ」

 

 そこは擁護できないな、うん。

 ゼファーがそう言うのに合わせて、だろ? とクリスも首を縦に振った。

 

「あ、お前の兄ちゃんと妹じゃん。三者面談か何かか?」

 

 自分に兄妹は居ない。

 そう思ったゼファーの目に映る景色がモノクロームになって、すぐさま元に戻る。

 リルカ、ビリーさん……と、ゼファーが呟く。

 

「ん? ゼファー、お前妹の呼び捨てはともかく、なんで兄にさん付けしてんだ?」

 

 違う、そうじゃない。兄妹なのはあの二人だけ。あの二人の関係に、自分は割って入れない。

 

 ゼファーの視界がモノクロになる。

 

 ああ、そうだ。

 自分には兄のビリーと、妹のリルカが居たんだ。

 

 ゼファーの視界が元に戻る。

 

「あたしが言うのも今更だが、ゼファーは男友達居ねえよなあ。今日のメンツ見て改めて思うわ」

 

 居たけど死んだんだよ、とゼファーは答えようとした。

 世界の色がモノクロームに堕ちる。

 

 クリスが男友達みたいなもんだからな、とゼファーは答えた。

 世界の色が帰って来る。

 

「どういう意味だこら!」

 

 クリスのローキックがゼファーの太い足に当たるも、びくともしない。

 そんな彼女を従えて、ゼファーは昇降口から校門へと進んでいく。

 だが、その足は止まってしまう。

 校門の前で佇んでいた二人の姿を見た瞬間、何も考えられなくなってしまう。

 

「ゲーセン行こうぜ、ゼファー!」

 

 天羽奏が、元気にそう言っていて。

 

「なんか、連れてこられちゃって……」

 

 セレナ・カデンツァヴナ・イヴが、困った顔で小さく手を振っていた。

 

「ああ」

 

 ああ、とゼファーは答えた。

 ああ、これは夢なんだと、ゼファーは気付いた。

 

 どこかの誰かの悲しみの声が、気付いた彼を現実へと引き戻していき……

 

 そこで、ゼファーは目を覚ます。

 誰もが死んでいない、誰もが幸せな彼の理想とする世界は消え。

 目を開いた彼の視界に映るのは、どこまでも残酷で過酷な彼の現実だった。

 

 ぽつりと、涙が流れ落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二十四話:たった一つの冴えた贖罪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると、ゼファーの目に映るのはどこにでもありそうな何の変哲もない病室。

 そして、そこに重なる目玉と黒い人影だけで構成された人のようなものの幻覚。

 脳がまだ不調なのだろうか。

 少年にはその幻覚が、"自分を見つめる人の視線"として感じられてしまう。

 病室に人なんて一人も居ないというのに、ゼファーの目には、病室を埋め尽くす何十人もの人の影が見えていた。

 

「やめろ」

 

 それは、ゼファーが深層心理で向けられたくないと思っている視線。

 

「そんな目で俺を見るな!

 俺を憐れむな! 俺を不幸な人間を見る目で見るな!

 俺は幸せだったろ! 出会いにも、出来事にも恵まれてたはずだ!

 だって生きてるんだから! 死んでった奴よりはずっと幸せだろ!」

 

 その比較がどこか壊れているとも気付かずに、ゼファーは影に言葉をぶつけ続ける。

 彼が恵まれ、幸運だったというのはある意味で正解だ。

 だがある意味では間違ってもいる。

 

「出会えて幸せだった! 一緒に居られて楽しかった!

 みんなみんな、俺を救われた気持ちにしてくれたんだ!」

 

 吐き出される本音。

 

「俺が最善の選択肢を選び続ければ、きっと皆生きてられるはずだったんだ!

 俺なんかより生きてる価値があって、生きてて当然の奴らだったんだから!」

 

 最善の選択肢を選び、最高の結果を叩き出したとしても、死んでしまう者は居る。

 それが現実だと誰が言おうと、ゼファーは認めたくないと、駄々をこねるように叫ぶ。

 理性的に現実を見る心と、感情的に現実を否定する心が、ぶつかり合って裂けて行く。

 

「カナデさん……カナデさん……あ、ぐ、ぅ……」

 

 自分を永遠に許せないのが彼の人生だ。

 そこに、"絶対に許せない結末"が加わる。

 "許せない結果に繋がる道筋を選んでしまった自責の念"が重なる。

 涙を袖で何度も拭きながら、ゼファーは声を押し殺して泣きに泣く。

 

 そして、どれだけ泣いただろうか。

 ゼファー自身にも見当がつかないくらいに大いに泣いた後、落ち着いた彼の肘がベッド横の台に乗っていた空の花瓶に当たり、それを倒してしまう。

 ベッドの上にコロコロと転がって来た花瓶を掴もうとして、ゼファーは手を伸ばす。

 

 その手は、空を切った。

 

「え?」

 

 もう一度手を伸ばすと、問題なく手は当たった。

 なんだろう、と思い、周囲を見渡す。

 何もおかしいものはない。……ただなんとなく、視界の中がのっぺりとしている気がした。

 視界がいつもより少し偏っていて、少し狭くなっている気がした。

 ゼファーの戸惑いをよそに、手先が彼の言うことを無視し始める。

 

 花瓶に当たった手は、花瓶を掴むこともできなかった。

 

「……え?」

 

 手を伸ばす。指を動かす。掴めない。

 手を伸ばす。指を動かす。掴めない。

 手を伸ばす。指を動かす。掴めない。

 指が思う通りに動いてくれない。

 

「……誰か。……誰か……誰か……居ないのか?」

 

 ゼファーの胸中に、急激に不安が満ちて来る。

 ベッドから立ち上がったゼファーは、よろめいた。

 まっすぐに立てない。まっすぐに歩けない。

 四肢が欠損した状態で戦い続けた経験が何度もあるゼファーだ。次第にまっすぐ歩くことは出来るようになっていたが、どうにもその姿に左右のバランスが欠けている。

 病室のドアを掴もうとして、掴めなくて、肘で押しスライドさせて病室を出る。

 

(……誰か……誰か……)

 

 その姿はまるで夢遊病者のよう。

 生命力の感じられない、生気の欠けた虚しい足取りで、彼は歩く。

 今この病院に、未来のようなゼファーを求める見舞いの者は居ない。

 ゼファーが求める、セレナや奏のような者も居ない。

 彼は自分が周囲の人間が今の自分にどういう感情を向けているのか、自分がこの病院を彷徨いながら求めている『誰か』が誰なのかも自覚しないまま、歩く。

 

「……?」

 

 そうして、彼は一つの部屋に辿り着いた。その部屋は内側の爛々とした光がドアの隙間から漏れ出ていて、廊下に光の線を差し込ませていた。

 ゼファーはそのドアに近付き、ドアの隙間から漏れ出る音を耳にして、足を止める。

 聞き慣れた、藤尭朔也の声が耳に入ったからだ。

 

(サクヤさん? 何を話してるんだろう……)

 

 治したはずの彼の怪我に、まだ残りがあったのだろうか。大変だ。

 そう思って、ゼファーは耳を澄ませる。

 心が血まみれでも、心配症で他人思いな面だけは鳴りを潜めていないようだ。

 

「……お願いします、先生。覚悟は出来ました」

 

「分かりました、藤尭さん。

 ……まず最初に言っておきます。

 私としても、この結果は悔しい。医者人生20年、それがなんだったのかと、そう思うほどです」

 

 朔也と話しているらしい医者の声も、ゼファーには聞き覚えのある声だ。

 了子が聖遺物との融合症例、とみなしたゼファーの定期健診を行ってくれている人だ。

 厳密には二課所属ではない、非公式嘱託扱いのこの道20年のベテラン医師。

 バイタルデータ一つとっても国家機密なゼファーを、彼は秘密裏に診てくれているのだ。

 会う度にアメを一つ、それも毎回違う種類のものをくれるので、ゼファーはよく覚えている。

 

「これが、ゼファー君のレントゲン。

 こちらの数字が、今の彼の肉体を調べ上げた結果の、各数値です」

 

 そんな風に、他人事のように考えていたゼファーの心臓が、跳ねた。

 

「左目が聖遺物のエネルギーの負荷により、一度溶解。

 その後無理やり治されたことで、その視力のほとんどが失われています」

 

 少年の手が、左目に添えられる。

 

「内臓は奇跡的に日常生活に致命的な支障がないレベルに留まっていますが……

 消化能力や呼吸能力が以前と同じにレベルに戻るかは、分かりません。

 肉も骨も、例の再生能力がこの状態で停止しているのでは……

 骨格的、筋肉的歪みを治せる目処が立ちません。肉体の重量的バランスも崩れています」

 

 少年の手が、己の身体をまさぐるように触る。

 

「何より、この両腕です。一番損傷が酷い。

 いえ、損傷というより、これはもう……腕の形に、肉が固まっているだけです。

 肘辺りまではまだ損傷と言えます。

 ですが目に見えて火傷の酷い、肘から先はもう目も当てられません。

 もう二度と以前のように動くことはありません。ここで、再生能力が止まっているからです」

 

 少年の両手が、両腕を触る。

 

「彼の再生能力は、"ここまで回復する"という基点のようなものがあります。

 でなければ、身長や体重の変化まで再生能力が巻き戻してしまうからです。

 超再生などを利用し、短期間に筋肉を付けたい場合は有用に働きます。

 けれど回復の程度を制御しなければ肉体の成長までもを止めてしまう……」

 

 少年はまっすぐに立てていない。

 

「今、彼は"負傷後の肉体"が『再生後の正常な肉体』と認識されてしまっています。

 いわば、聖遺物と融合した肉体がバグだらけなんです。

 このままでは最悪、一生補助具無しには歩くこともできないでしょう……

 どうにかしてバグを取り除かないとどうにもならない。けれど、その手段が私達にはない」

 

 声に苦渋の色が増して、食いしばられた歯が小さな音を口外へと漏らす。

 

「……申し訳ありません。私に、これ以上、できることはありません……!」

 

 誰かが立ち上がる衣擦れの音がして、椅子が倒れる音がして、藤尭の叫び声が上がる。

 

「ゼファー君は頑張ったんだ! 頑張ったんです! ……その報いが、これですか!?」

 

 藤尭朔也は、八つ当たりのような声を医師にぶつける。

 

「何か一つくらい、奇跡があったっていいじゃないですか!

 こんなに残酷な軌跡なんて、彼の人生に要らないんですよ!

 彼の、彼の一生懸命に……

 ……一生懸命の報酬に、奇跡の一つくらいあったって、いいじゃないですかっ……!」

 

 その医師に、こんな大声をぶつけられる謂れはないと、そう分かっているはずなのに。

 叫ばずにはいられなかった。

 

「なんとかならないんですか!? 俺に出来ることならなんでもします、だからッ!」

 

「……申し訳、ありません……」

 

「……そん、な」

 

 ドアの外に、もう少年の姿はない。

 ゼファーは何を考えているのか分からない表情で、病院の外へと歩き出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あんまりにも歩きづらかったので、行き掛けの駄賃に松葉杖を拝借。

 そうしてゼファーは、早朝の病院を出た。

 病院内に人が少なかったのは早朝であったからなのだと、ゼファーはこの時ようやく気付いた。

 

 彼は歩き慣れた道を行く。

 街を見れば、その結果がどうであれ、今の気持ちに何か区切りがつけられると思ったから。

 

「……」

 

 この時間に、この場所なら、あのおじいさんが居るはずだと、ゼファーは思う。

 自分が行かないことはあっても、あの老人がこの時間にこの場所に居なかったことはないはずだと、そう思いながら道を行く。

 誰にも会わない。

 誰とも会えない。

 いつもならここでロードバイクがシャーッと耳に心地いい音を鳴らして追い越して行くのに、見慣れたそれも見当たらない。

 朝の走り込みの時、時々聞こえていた父娘の声も、一つとして聞こえない。

 

 人の姿はまばらで、どれもこれもが見覚えのない顔ばかり。

 何か、よく分からない違和感をゼファーは感じ取る。

 まるで世界の関節が外れてしまったかのような、何かがズレている感覚を。

 

「……あの、場所に」

 

 ここからライブ会場までは、そこまで遠くない。

 とは言っても、毎日最低10km走っているゼファー基準での"遠くない"だ。

 今のゼファーにとっては遠く、流石に彼も電車を乗り継いでいく。

 だが、それも途中まで。

 オーバーナイトブレイザーの焔によって、線路がなくなった地点の手前までだ。

 

(……)

 

 ゼファーはその駅で電車を降りて、ひたすら歩く。

 見渡しのいい所まで来ると、オーバーナイトブレイザーに壊された町並みがよく見えた。

 崩れた街。灰になった街。

 何もかもが壊れてしまった、なんてことはないが……それでも、昔の町並みを取り戻すのにどれだけの時間と金と人手がかかるのか、ゼファーにはまるで見当がつかなかった。

 

(……全部は、守れなかった……)

 

 ゼファーは足元に落ちていた、どこかの子供が避難する途中に落としたのだろう、おもちゃの水鉄砲を拾い上げる。

 拾い上げることにさえ苦労する彼の指は、上手く引き金に指をかけることすらできない。

 もはや彼の手は銃を握ることもできない。

 彼の銃技は失われていた。

 物心ついた時からずっと彼と共にあった技は、彼を置いてどこかに行ってしまっていた。

 

 怪我というアクシデントでスポーツ選手を時に自殺に追いやることもある、人生と共に歩んで来た半身(わざ)の喪失感と、喪失感が産む絶望。

 それがゼファーの胸中に突き刺さる。

 ゼファーはナイトブレイザーよりも、鍛えた拳よりも、ずっと長くずっと多くの死線を銃と銃技と共に歩んで来たのだ。その喪失感は、計り知れないだろう。

 

 まして、ゼファーにとって、銃の技はもっと大きな意味を持つ。

 彼の銃の技は、家族であったバーソロミューに、兄のように慕っていたビリーに、悪友として付き合っていたジェイナスに習ったものだ。

 そして唯一無二の相棒である、クリスに教授したものだ。

 いわばゼファーにとって、銃の技は大切な人に教わり、大切な人に教えたもの。

 目に見える形で唯一残っていた、彼らとの繋がりなのだ。

 

 それが、失われてしまった。

 

(……胸が、苦しい……)

 

 ゼファーは服の胸元をギュッと握り、手にしていた水鉄砲を力なく取り落とす。

 彼の手からは、多くのものが失われていた。

 

 料理もできなくなっているだろう。

 他人を喜ばせるため、笑顔にするためにしてきた積み重ねは、水泡のように消えてしまった。

 拳も片手だけでは握れなくなっている。

 人を守るために習った武術も、使えるものはいくつ残っているのだろうか。

 事務仕事、研究の手伝い、掃除の技術……

 彼が手に付けた職が、軒並み失われてしまっていた。

 彼の人生で彼が得てきた技の大半が、失われてしまっていた。

 

 まるで、彼の手から最初に失われた、奏の命と共に流れ落ちていってしまったかのように。

 

(……だからどうした! 死んでないだけ、マシだろう……!)

 

 ギュッと歯を噛み締めて、ズレている上に足りていない奥歯を噛み合わせる。

 そんなゼファーに、背後から声がかかった。

 

「……マラソンのおにいさん?」

 

 舌っ足らずな、幼い子供の声。

 ゼファーが振り返ると、そこにはこの壊れた街に似つかわしくない、幼い少女が一人ぼっちで立っていた。

 

「君は……朝、時々見かけてた……」

 

「そういうおにいさんは、いっつも朝走ってた」

 

 ゼファーはその少女の姿を、朝に何度か見た覚えがある。

 何やらぶつぶつと言っていた父親と、その父親の袖を引っ張る娘。

 仲が良いなあと、何度か思った覚えがあるのだ。

 対し娘の方は、元陸上選手だったという父が何やら目をつけていた少年のことを、繰り返し覚えていたおかげですぐに思い出すことができていた。

 いつも父娘セットで見ていたので、彼女一人だけがここに居ることにゼファーは違和感を感じ、特に何も考えずに問いかける。

 

「今日はお父さんと一緒じゃないのかい?」

 

「……っ」

 

 ゼファーも、心が疲れていて余裕がなかったのだろう。

 よく見れば、少女の目元が赤く泣き腫らされていたことに気付けただろう。

 よく聞けば、その声が少し鼻声だったことに気付けただろう。

 いつものゼファーなら、それらを絶対に見逃さなかったはずだ。

 彼は無自覚に、少女の地雷を踏んでしまう。

 

「おとうさんは、死んじゃった」

 

「……え?」

 

「わたしをかばって、あの悪い炎に……おとうさん……えぐっ……」

 

 少女は子供の多くがそうするような、大声で泣き喚く泣き方はしなかった。

 想いをこらえるように、ぐずぐずと泣き始める。

 少女の言葉に、涙に、ゼファーは思わず思考が止まる。

 

「わたしは、大人の人に助けられて……

 車に乗ってたら、おとうさんにひどいことをした悪い炎が追って来て……

 ナイトブレイザーの炎が降って来て……助けてくれて……」

 

 オーバーナイトブレイザーに殺された父。

 ナイトブレイザーに助けられた娘。

 

「……うっ、えうっ……

 でもわたしは助けてくれたのに、おとうさんは助けてくれなくて……」

 

「―――っ」

 

 ゼファーが助けられなかった父。

 ゼファーが助けられた娘。

 助けてくれなかった、という言葉が彼の胸へと刺さり、罪悪感へと変わっていく。

 

「おとうさん、死んじゃったっておかあさんは言ったけど……

 ぐずっ、……もしかしたら、もしかしたらって思って……もしかしたらって……」

 

(……この子は……父親が死んでしまったことをちゃんと分かっていて……

 その上で、寂しくて、諦めきれなくて、悲しくて、辛くて、苦しくて……)

 

 この少女と同じような悲しみを背負った者達が、何万人も生まれてしまった。

 そう思えば思うほど、ゼファーの胸の内は痛む。

 だが、それを顔に出すようなことはしない。

 相手を安心させる柔らかい笑みを、以前は何も考えずに浮かべられていた彼本来の笑みを、ゼファーは少女に向ける。

 

「……ここは今、小さい子供一人で居ると危ないから。

 お兄さんと一緒に、お母さんのところに帰ろう? な?」

 

 ぐずる少女をあやしながら、この場に居続けようとする少女を諭しながら、彼は微笑む。

 次第に少女も彼の言葉と笑顔に感化されて、彼に手を引かれて歩き出した。

 ゼファーの優しい言葉に涙は止んで、涙は彼の袖に拭かれて、少女の涙は乾いていく。

 

「君の名前は?」

 

「……麻里奈」

 

「そっか。マリナちゃんか」

 

 少し離れたところに、娘の行動をよく理解して「ここに居るはず」と走る母親の姿が見えて、ゼファーは少女の手を離す。

 夫を亡くし、娘の姿が気付けば消えていた母の気持ちはいかばかりだっただろうか。

 涙を流しながら娘を抱きしめる母の姿を見れば、いくらか伺えるというものだ。

 こうして、母娘で泣き合って、感情を出し切って、支え合えればきっと……だなんて、ゼファーは思い、その場を去る。

 

 せめてあの母娘だけでも幸せになって欲しいと、神様の居ない天に祈りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゼファーが"被災者の遺族"の幸せを祈る中。

 友里あおいと桜井了子は眉をひそめながら、悪化し始めた世間の流れを目にしていた。

 二人の視線の先には、一つのテレビ。

 

『生き残った人間の中にどれだけの殺人鬼が居るのでしょう』

『自分さえ良ければそれでいいという人が生き残り、そうでない人が殺されたんです!』

『まるで他人を殺して、その命を貪ったかのようです』

『この防犯カメラの映像の中で、足を引っ掛けられ転ばされ、死んだ女性は……私の母です!』

『僕の家族を殺した奴らの生存を、どう喜べと言うんですか?』

 

 "被災者"を、"被災者の遺族"が罵倒し続ける番組が、ひたすら画面の中で流れている。

 了子がチャンネルを変えると、悲痛と怨嗟に満ちた声の代わりに、明るく希望に満ちた声が流れ始める。

 

『人に転ばされてもうダメだ、って思ったところで来てくれたんですよ!』

『泣いて、ションベン漏らして、終わったと思ったところで来てくれて……』

『ナイトブレイザーね、一回は負けたんですよ。

 敵はすげー強かったんです。でもね、諦めずに来てくれた。

 腹痛そうに押さえて、でも走り回って街の人助けながら、あの金色も追っ払ってくれて』

『見ただけで何故か分かったんですよね。善い炎と、悪い炎があったのが……』

『俺達動画で見ただけっすけどね。でもホント、ナイトブレイザーのおかげでしょ?

 ナイトブレイザーが動いてた時にしか、状況好転してなかったっしょ?』

『あの金魚みたいな、悪趣味な金色のワルモンと同じ姿だったこと?

 なんつーか、インネン感じますよね。黒騎士は悪の組織を裏切った人間の味方ー、的な?』

『ナイトブレイザーも信用はできません。……ですが、功績は評価すべきだと思います』

 

 それは"ナイトブレイザーがオーバーナイトブレイザーと同じ姿であったことで、彼も世間に罵倒されるのではないか"と危機感を持っていた、あおいの度肝を抜く光景だった。

 

「了子さん……」

 

「こういうことよ。インタビューに答えている人も、動画を提供してる人も……

 いずれは止まるでしょうけどね。"自分があの場に居た"と自白してるようなものだから。

 それでも、現場に居た人達の発言、証言、動画の提供で、この熱狂は加速するわよ」

 

 ナイトブレイザーへの、好意的な民衆の反応だった。

 

「人々にはこう見えていたのよ。

 ノイズと共に現れたオーバーナイトブレイザー。

 少し遅れて迎撃に来たナイトブレイザーが、すぐにノイズを全滅させる。

 オーバーナイトブレイザーの圧倒的な力に、一蹴されるナイトブレイザー」

 

 了子は宙に指を走らせて、努めて冷静に事実に近い推測を話す。

 

「ゴーレムが来て、その場で戦闘せず、海にゴーレムと共に移動するオーバーナイトブレイザー。

 オーバーナイトブレイザーだけが戻って来て、復活したナイトブレイザーがその後を追う。

 倒されても諦めず立ち向かう黒騎士。

 明確に人間の敵として動き、無差別に人と街を焼き尽くしていた金騎士。

 英雄の色違い、という分かりやすい構図が、正義と悪の構図を言葉なくとも人に思わせる」

 

 人々は"分かりやすいもの"に飛びつく。

 分かりやすい悪。分かりやすくケチの付かない正義。

 だから生き残った人を責め、目に見えるものだけを材料として、この事件のあらましを妄想し、想像し、自分勝手に補完し始めた。

 

「ドームに飛び込んでいくオーバーナイトブレイザー。

 その後を追ってドームに飛び込むナイトブレイザー。

 崩壊する会場、剣と槍が生えた会場の外に出て、会場を海の上まで押してくれた黒騎士。

 黒騎士のおかげで街に会場が落ちなかったことに、それを見た人々は気付く。

 金騎士に蹴り飛ばされ、ドーム内部に落ちる黒騎士。

 ドームの中で爆音がして、ボロボロのオーバーナイトブレイザーが逃げ去っていく。

 そして、街からはノイズ、焔、ゴーレム、オーバーナイトブレイザーが消え去った……」

 

 そう。

 街からの視点では、映像が取れる範囲での戦いでは、ナイトブレイザーだけしか、ノイズやオーバーナイトブレイザーとは戦っていなかったのだ。

 だから人々はこう思う。こうとしか思わない。

 

『ナイトブレイザーが一人であの悪夢を終わらせてくれたんだ!』

 

 無論、家族を失った者達は素直には喜べないだろう。

 不謹慎になりかねない、ということで他の者の発言もいくらか抑えられている。

 だが、今回の件でナイトブレイザーへの支持や賞賛はむしろ飛躍的に上昇していたのだ。

 

 動画が提示されたことで、ネガティブフレアの恐ろしさが伝わったのもある。

 たった一体で四万人を殺したオーバーナイトブレイザーの恐ろしさが知らしめられたのもある。

 だが、そうして『元凶』の恐ろしさが知られれば知られるほど、ナイトブレイザーの焔が災厄の焔を食い止めていた光景が、オーバーナイトブレイザーがボロボロになって逃げて行った光景が、人々の心の中に希望を宿してくれたのだ。

 

 ナイトブレイザーが人目に触れた初陣からして、手の焔に腕が焼かれるのを苦しみ、倒れ、ノイズやタラスクにボコボコにされながらの勝利だったこともそれに拍車をかけた。

 民衆の中で、ナイトブレイザーはピンチになってから逆転するタイプの英雄だったのだ。

 人々が応援している内に、年月をかけて徐々に成長していって、少しづつ鮮やかに勝つようになっていったような、そんなヒーローだったのだ。

 だから「最初の交戦で勝っていれば」なんて思った者は本当に少なかった。

 「また負けてズタボロになったけど頑張って勝ってるよ」だったのだ。

 傷だらけで人を救った英雄は、心傷付けられた人々に一定の共感を呼び、ナイトブレイザーを責めようとした者は驚くほど少なかった。

 ゼロではないが、少なかった。

 

「誰だって思うわよ。

 ああ、ナイトブレイザーが頑張ってくれたおかげだ、って」

 

 それがゼファーにとって、幸か不幸かは別として。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 街を歩く中、ゼファーは予想なんて出来るわけもない言葉を聞いた。

 聞いた後、後悔する。

 聞きたくなかったと、後悔に塗れる。

 

『ナイトブレイザーがこのラジオを聞いてくれてるなら、是非伝えたいですね。

 あなたのおかげですよーって。僕被災者じゃないんですけど、気分的に』

 

 俺のおかげ? 何を言ってるんだろうか。

 人が死んだのは、俺のせいじゃないか。

 そんな思考が満ち満ちて、ゼファーの心が揺れに揺れる。

 

『無感情で無機質過ぎるっていう人も居ますけどね。

 僕はナイトブレイザーのああいうところが好きなんですよ。

 体も心も超合金! 揺らぎも悩みも迷いもしない正義の味方! って感じで』

 

 誰だ、それは。

 ゼファー・ウィンチェスターの心が揺らぐ。

 彼が足早にラジオの音が聞こえる場を離れると、今度は中学生らしき少年達の談笑が聞こえた。

 

「知らねえの? お前、凄かったぜよ、あれ!」

 

「ナイトブレイザーのことだよな? ようつべのしか知らねっての、俺は」

 

「会場押すとことか凄すぎて声出なかったぜよ、俺。

 コメントで『もっと被害減らせただろ』とか素人意見あったんだけんどさー。

 バカじゃねえのって思ったね。求めすぎだろって思ったね。

 ナイトブレイザーがあんだけ奮闘したんだから、あれ以上に被害減らせるわけねーべ」

 

 助かる人は増えなかった。

 頑張っても助かる人は増えなかった。

 天羽奏は、助からなかった。

 そんな言葉が頭の中で反響する中、松葉杖のゼファーは無言で逃げるように走り出す。

 

「あの騎士の鋼鉄ハートな感じがいいんだろ!

 冷静に、クールに、私情抜きで最大限に人救ってる感じがさ!」

 

「お前不謹慎の塊な」

 

 どこからか聞こえた声に、ゼファーは思う。

 本当に私情抜きで動いて、機械のように感情を排して最適な選択肢を選んでいたら、もっと被害者は少なくなっていたんじゃないか、と。

 天羽奏は死ななくて済んだんじゃないかと。

 自虐的に、非現実的に、非生産的な思考でそう思う。

 

 皆の賞賛が心を抉る。

 皆の感謝が胸を抉る。

 いっそ責めてくれれば、罰としてそれを受け入れられたかもしれないというのに。

 今のゼファーは、「お前のせいだ」よりも「君のおかげ」の方が、よっぽど心を抉られるのに。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 耳に届く暖かな声が、彼を追い詰める。

 

「そんな風に、言わないでくれよ……!

 二課の仲間も、あの子の父親も、カナデさんも……死なせたんだぞ! 俺はぁッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがて、松葉杖のゼファーは病院へと帰って来る。

 妙に騒がしいのは彼が病室を抜け出して何時間も帰らなかったせいだろうが、今の彼にそんな空気の機微を察してやれるだけの余裕はない。

 肉体のバグのせいでARMとしても動かなくなり、ずっと前の直感へと退化したそれを用いて、彼は人目を避けながら病室へと一直線に向かって行く。

 ゼファーの頭に、街頭テレビに表示されていた死者の数が想起される。

 ゼファーの目に、病院に並ぶ怪我人達が次々と映っていく。

 

(俺は、なんのために、戦ったんだ……?)

 

 ゼファーは、もう何がなんだか分からなくなっていた。

 頭の中がグチャグチャだった。

 

(俺が、頑張った意味は、あったのか……?)

 

 自分のせいなのか。自分のおかげなのか。

 あれ以上に死者が減らせた未来はなかったのか。

 私情で判断を間違えたことが悪かったのか。

 思考は意味なく堂々巡り。

 ただただ、死に感じた己の悲しみと、大切な人が死んでしまった人の悲しみの顔が、頭の中でグルグルと回って行く。

 そこには、誰の笑顔もない。

 

「……。……、……?」

 

 死体のような様相で歩くゼファーが、自分の病室の前に辿り着く。

 だがそこで、ふと横を見た。廊下の奥の開きかけのドアを見た。

 ふらっと、誘蛾灯に招き寄せられる蛾のように、ゼファーはその部屋へと歩いて行く。

 そこで目を覚まさないままの眠り姫を目にして、彼は瞳を見開いた。

 

「ヒビキ……?」

 

 ゼファーは気を抜くとまっすぐ歩けなくなる体を引きずって、響のベッドの横にへたり込む。

 そして、ベッドの横からはみ出している響の手を取り、手と手を重ねた。

 

(あったかい)

 

 響の体温が、ゼファーの手へと伝わって来る。

 伝わる暖かさが、彼の心に染みていく。

 

(生きてる、命の温度だ……)

 

 透明な雫が一つ、また一つと、眠ったままの響の手の甲に落ちていく。

 

(頑張った意味は、あったんだ)

 

 立花響は、ゼファーが生かした。

 頑張って、頑張って、頑張って。心臓が止まったまま、歯を食いしばって治したのだ。

 彼女の命は、彼が守れたと胸を張って言えるもの。

 ゼファー・ウィンチェスターの努力がほんの少しでも、報われたという証明。

 彼の心に、救いをくれるものだった。

 

「ヒビキ」

 

 彼女が死ななかったということが、彼の心に救いをくれる。

 

「……生きていてくれて、ありがとう」

 

 ゼファーが響を救ったように。響もまた、ゼファーを救っている。

 

 

 




 シンフォギア一期一話、及び最終決戦に顔を出していた小さな女の子の迎えに来ていたのが母親だけだった、というところから連想した妄想設定。及び名前の贈呈
 つまりビッキーが原作で助けていたあの小さな女の子です

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