画家が描く!   作:絹糸

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第36話:日々草子

 

 セリュー・ユビキタスにとって、ルカ・サラスヴァティーは想うところのある男だった。

 

 放っておけないと思う。守ってあげたいと思う。構ってあげたいと思う。

 慰めてあげたいと思う。慈しんであげたいと思う。包んであげたいと思う。

 愛してあげたいと思う。失いたくないと思う。一緒にいたいと思う。

 

 そして同時に想われたいとも思う。

 つまるところ、セリューはルカという存在にただの同僚以上の感情を抱いていた。

 

 

「さあルカくん、今日の分のハグです!」

「うん……お手柔らかに」

 

 

 向日葵のごとき喜色満面の笑みで大きく両腕を広げるセリュー。

 堂々たる好意の表現を受けたルカはというと、少女漫画の告白シーンで校舎裏に立って好きな人を待ち構えている女子生徒くらい真っ赤な顔をしている。というか恥ずかしそうにプルプル震えている。

 しかしその震え方は嫌悪感や拒絶ではなく嬉しさと緊張を感じさせるものだ。そうとわかれば、むしろルカの挙動は告白ではなく床入り前の生娘のソレとでも表現したほうが適切だろうか。

 実際のところ、彼は処女でもなければ童貞でもないのだが。

 

 

「えいやっ」

 

 

 軽い掛け声と共にルカの細っこい体を抱きしめる。

 初めはひんやりとしていたその体が、腕の中で徐々に温度を上昇させていくのが簡単に感じ取れた。顔もさっきより赤い。ガチガチに硬直して目をぎゅっと瞑っている様子は、見ているとなんだか不埒なスキンシップでも迫っているみたいな気分になってしまう。

 しかし逆に考えれば、普段は誰からどんなセクハラを受けようとも涼しい顔をしているルカが、セリュー相手なら抱きしめられただけでこんな風に取り乱しているのだ。これほどセリューを満足させる事実もなかった。

 やはり自分はルカの特別なのだと、身をもって実感させてくれる。最近は彼にとっての特別も増えたようで、たった一人でルカからの愛を独り占めしていた経験のある身としては少々物足りない気持ちも無いではないが。

 それでも、数いる特別たちの中で一番ルカと距離が近いのが自分だというのは間違いない。

 

 

「えへへ。ルカくん、今日はなんだか良い匂いがしますね!」

 

 

 いつも落ちきらない血と絵の具がしっとり染み込んで秘めやかに香るその衣服から、今日は天然の濃縮果汁のように甘い爽やかな香りがする。洗濯用タライに輪切りの果物でも浮かべておいたのだろうか。香水とはまた異なる瑞々しいフレグランスだ。

 襟ぐりの部分に顔を埋めて深呼吸する勢いで香りを楽しむ。普段の香りも嫌いではないが、これもなかなか素敵である。思わず頬がゆるんでしまいそうだ。

 人にじゃれつく小動物のような無邪気さでルカに抱擁し、ついでに香りを堪能するセリュー。しかし至福の時間はそう長く続かなかった。

 

 

「新しく雇ったお手伝いさん達が女の子だから、そういうの好きみたい。洗濯中に良い匂いがしたほうがお仕事はかどるんだって」

「……へえ、女の子のお手伝いさんたちですかぁ」

 

 

 初めて愛のこもった抱擁を受けた時はあまりの慣れなさに気絶してしまったルカだが、さすがにあれから毎日ハグを受けていれば耐性もできる。けれど気を失わなくなっただけだ。相変わらず顔は真っ赤なまま。

 それでもなんとかセリューの質問に答えようと頑張った。その頑張りのせいでセリューの笑顔に妙な気迫が混じったことに、彼はまだ気付かない。

 イェーガーズ詰所でベタベタする二人を生暖かい目で眺めていたウェイブも、セリューの声音に不穏な響きがあるのを悟って即座に距離をとりはじめる。距離をとるだけで、見捨てて逃げ出そうとしないあたりが彼らしい。

 

 

「可愛い子たちですか?」

 

 

 後頭部と背中に腕を回してがっちり抱きしめたまま、さすがに異変を感じたのか「セリューちゃん?」とルカが訝しげな声を上げるのもスルーして質問する。

 実に見事なヘッドロックだ。いかに少ないダメージで相手を拘束してみせるかの世界大会があれば、この技だけでベスト10入りは硬い。

 

 

「可愛いほうだと思うよ。奴隷として売られかけてたくらいだし」

「……奴隷? 買ったんですか?」

 

 

 ミシリと頭蓋骨の軋む音。『奴隷』というキーワードに思わず力んでしまったようだ。このままでは頭の形が変わりかねない。セリューが何かに怒っていることを確信し、ルカは慌てて弁明を開始する。

 

 

「誤解だセリューちゃん! 可愛い女の子に貢いだことはあっても可愛い女の子を買ったことはない!」

「じゃあ何で奴隷になりかけてた相手をお手伝いさんとして雇うことになったんですかッ? 人身売買の現場にたまたま遭遇して助けたらなりゆきで働いてもらうことになったとか言わないですよね?」

 

 

 セリューが感情に任せて適当に言ったことが真実なのだが、こんな風に前置きされてしまっては「その通りのことが起こったんだ!」と返すこともできない。ルカは言葉に詰まった。

 闇属性の重苦しい笑顔そのままで拘束の力を強めていくセリュー。ウェイブはどのタイミングで助け舟を出すかを見計らいながら、同時に逃げ出してしまいたい気分もあるのかちょっとばかり腰が引けていた。

 

 

「えっと、その……セリューちゃんがいま言った通りの流れで雇ったんだ」

 

 

 逡巡の末、ルカは正直になることに決めたらしい。

 その返事を聞いたセリューが腕に力を込めるよりも早く、彼は愛想笑いならぬ哀訴笑い――どんな冷血人間でも良心の呵責を感じてしまいそうな儚げで悲しげな微笑みを浮かべて、セリューの耳元に唇を寄せた。

 

 

「……僕みたいな奴の言うことでもさ。セリューちゃんだけは、信じてくれるよね?」

 

 

 意識的に悲愴と期待の響きを作った囁き。人の同情心に強烈に訴え掛ける濡れた眼差し。わずかに下がった眉。乞うように背中に回される腕。

 言っていることが真実とはいえ、やっていることはルカ十八番の演技でしかないのだが。

 オーガやDrスタイリッシュといったろくでもない男達をこぞって善人だと信奉してきたセリューにとって、その猫被りに騙されないことは無理難題と変わりなかった。

 

 

「ルカくん……ごめんなさい、疑ったりして。そうですよね。ルカくんみたいな良い人が奴隷を買うなんて酷いことするわけないですよね」

 

 

 あっさり威圧感MAXの笑顔を引っ込めたセリューは、己の行動を悔いて涙を流しながらも相変わらずルカを抱きしめ続ける。ただし後頭部にかかる腕の力は弱まり、代わりに背中に回された腕のほうが離すまいとばかりに力強い。

 チョロいというか甘いというか、人を見る目の無さは帝都でも一、二を争う彼女らしい反応であった。あるいは己の不慣れな状況(愛を感じている最中)にも関わらずお家芸のお涙頂戴をやってのけるルカの名俳優っぷりが凄まじいのか。

 服越しに人肌のぬくもりを感じられる幸せな時間を再び享受しながら、しおらしいフリをして「ありがとう……」なんて涙ぐんだ声を発しているルカは内心溜息を吐いた。

 

 

(道行くお姉さんや貴族のご婦人にコレやっても罪悪感とか無いのに、セリューちゃん相手だと吐きそうなくらいの申し訳なさ感じちまうなぁ。僕にも人道精神ってやつがちょっとは残ってるんだろうか)

 

 

 人道精神の有無はさておき、そんな考えを一ミリも表情に出さないあたり、年季の入ったロクデナシであることは間違いない。

 こうしてお得意の技で場を切り抜けたは良いものの、まだセリューに漏れた情報は『元奴隷の可愛い女の子たちをなりゆきで助けてお手伝いさんとして雇い始めた』という部分のみ。一つ屋根の下で同居していることもわりと懐かれていることも話してはいない。

 大きな修羅場の種を土の下に残したまま、とりあえず第一段階はクリアしたルカであった。

 

 

(しかしセリューちゃん、なんで女の子のお手伝いさん雇ったって聞いて怒ったんだろう。女の子と見れば誰彼構わず手を出す悪漢だと勘違いされてるようなことは無いと思うけど……)

 

 

 ――そしてやはり、セリューが何を理由に怒りを感じたのかは理解できないままであるらしい。

 

 

 

 

 

 

      ◇      ◇      ◇

 

 

 

 

 

 

「ルカってば、あれだけ日当たりの良い部屋が屋敷中に空いてるってのに、地下室で寝るなんて変な奴よねぇ」

 

 

 薄暗く冷たい、両脇に鉄格子があれば刑務所の廊下と見間違えかねない通路を歩きながらファルはごちった。

 その手に持っているのはホウキとチリトリ。寝室は掃除しなくても良いと言われているが、お手伝いさんとして雇われた以上はそういう訳にもいかない。

 そう勝手に判断して地下へと続く階段を降りてきたのだが、一人でやる予定だったにも関わらず、途中でエアとルナに出会ってついて来られてしまったのは計算外。

 二人はひっきりなしにファルの洋服の両袖をグイグイ引っ張って彼女を上階へと連れ戻そうとしている。

 

 

「ねえファルちゃん、戻ろうよ。ここなんか怖いよ」

「ルカさんも、地下の寝室は掃除しなくて良いと言っていました。それは暗に言えば近づかないほうが良いということだと思います」

「何よ、エアもルナも気にならないの? デカい屋敷に一人暮らししてる金持ちがわざわざ湿っぽい地下室なんかで寝起きしてるのよ? なんかとんでもない理由があるのかって考えちゃうじゃない」

 

 

 ルカに着替えの一つとして買ってもらった黄色いギンガムチェックのティアードワンピースを可憐に揺らしながらも、お嬢様チックな洋服に反した変わらぬおてんば娘ぶりを発揮するファル。

 跳ねっ返りで勝気なファルだが、案外ファンシー趣味というか、服は乙女チックなものを好む傾向にある。対して、七五三のお坊ちゃんみたくベスト・シャツ・ネクタイ・ハーフパンツの青色4点セットでボーイッシュに決めたルナは、好奇心だけで動いているファルを諌めるように渋面で口を開く。

 

 

「私達を助けてくれた時に、あの人も買われたりしたことがあると自分で言っていたでしょう。ひょっとしたら地下室で寝起きする理由はその時のトラウマ関係などかもしれません。安易に踏み込まないほうが良いですよ」

「そうだよ! 私達だって未だに売られかけた日のこと夢に見て飛び起きたりするんだから、ルカくんみたいに繊細そうな人の秘密を好奇心だけで探るのは駄目だよ!」

 

 

 10代半ばの少女に『繊細そう』と形容されてしまう20歳の青年というのも情けない話だ。この場に当人がいないことが救いである。

 レース編みのスカートと桃色のケープを揺らして、エアは歩みを止めようとしないファルの眼前へと回り込む。そして“とおせんぼ”のポーズ。

 

 

「とにかく! ファルちゃんは回れ右してさっさと上に戻る! 今ならまだ間に合うから!」

「……なんかエア、性格変わった? そんなに気ィ強かったっけ」

 

 

 幼い頃から共に育ってきた親友の新たな一面を目にし、意外性を感じながらファルは疑問を口にする。

 いつものエアなら何だかんだ言ってもファルの後をついて来てくれたのだが、今日のエアはやたらと粘る。というか折れる気配がない。

 ルナも一度注意して諦めなかったら無言で送り出してくれるのが通例だったのに今回はコレだ。

 

 

「……二人とも、ひょっとしてルカみたいなの好みなの?」

「それはないよ」

「それはないです」

 

 

 なんとなく思い浮かんでしまった可能性を提示すれば、あっさりと否定されてここにいないルカへの謎の申し訳なさがこみ上げてくる。

 それなら何故、と質問を追加するより早く、ルナが腕組みをしながら真面目な面持ちで語りだした。

 

 

「男性として好きとかではなく、人として放っておけない感じがするのです。立場としては私が保護された側であるはずなのに、私がルカさんを保護してあげないといけない気分になります」

「私もそう。恋心っていうより母性本能。私のほうが年下なのに甘やかしてあげたいとか優しくしてあげたいって気分になるの。上から目線で失礼な言い方かもしれないけど、ルカくん一人にすると寂しさで死んじゃいそうだもん」

「アンタら、仮にも成人済みの男をなんだと思ってんのよ……」

 

 

 呆れた形相をするファル。

 だが彼女も言葉にはしないだけで同じような衝動を味わっており、そのせいで最近は拳法の自己鍛錬に熱が入ったりしている。なんならそろそろ皇拳寺に入門する勢いだ。

 自分より強いとわかっていても、それでも視界に入るたび「アタシが守ってやらなきゃ」と思わせる。それがルカ・サラスヴァティーという青年の醸し出す空気なのかもしれない。

 けれど、ファルには二人の考えと違うところが一つだけあった。

 

 

「……守るっていうのは、心の傷に触れないってことじゃないと思うんだけどなぁ」

 

 

 怪我をしている人を目の前に、傷口に何かしたら痛いだろうと放置を決め込んでは化膿してしまうだけ。治療のためならば触れてやることも大切だとファルは考える。ましてやそれが、自分の負傷したところを人目に晒さず隠そうとするような手合いならば、厚かましいくらいの女になって服を剥ぎ取るほうが手っ取り早い。

 今回の場合、寝室に踏み込む行為がソレに当たる。

 

 

「でもまあ、エアとルナが反対するなら今回は引くよ。ルカが帰ってきたら『見せろ』って直接迫ってみる」

「それもどうかと思いますが……」

「ファルちゃん、やると決めたことはやる子だもんね……」

 

 

 寝室突入を諦めて大人しく踵を返すファルに、エアとルナは苦笑混じりの溜息を一つ。

 なんだかんだで仲良しの三人娘であった。

 

 ――そして中を覗いてしまった時のショックを考えれば、彼女たちはここで引き返しておいて正解だ。

 入るまでもなく扉を開けた時点で、漏れ出した血の香りに煽られ嘔吐は免れなかっただろうから。

 

 

 





次話から原作6巻の内容に入ります。
シュラくんあと何話で出せるかな……。



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