第32話
枯れた大樹が立っている。
すべての花弁が散り、見守る者もない、使命を終えた大樹。
ただ吹く風に枝を揺り動かされるがままとなっている樹は、何かを懸命に訴えようとしているかのようにも見えた。
だが落とす葉さえもない樹が何を訴えることもできず、ただただ吹いては去っていく風をたたずんで見守るのみ。
――――不意に
風が止んだ。
勁く、まっすぐに吹いていた“白い”風が已んだ。
風を受けていた樹は、その風が已んだことに驚愕し、憤り、けれども動くことすらできない樹にはなにもできはしない。
すでに遠くに去ってしまった風に、枯れた樹ができることなどありはしないのだ…………
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和国
煌帝国の東方に位置する島国で、“二人”の金属器使いの王族を抱く小さな強国。
金属器のない頃から、卓越した剣技と合一した気の操作能力――操気術とで精強な武人が多いことで知られていた。
ゆえに煌帝国は、西に征く際の後背に位置するこの国と盟を古くし、彼の国の第1皇女を和国の第2王子へと嫁がせることを約していた。
そして、今、その国に―――
「――――――如何でしょう、和王。そもそも、煌帝国の正統なる後継者は、白徳帝の血を受ける白龍皇子。だからこそ我々、七海連合は白龍皇帝と――白徳帝とその正統な皇子たちを謀殺した“玉艶を打倒した”彼とともに平和な世界を築こうと手を取り合ったのです」
七海の覇王、シンドバッドがその手を伸ばしていた。
遠隔透視魔法の込められた魔導具によりもたらされた情報――煌帝国第三代皇帝 練玉艶 死去。
その情報をもたらしたのは他でもない、女帝を弑した張本人である練白龍であった。
そしてその仲介を為したのは、今、和国の王と第1王子である皇 閃の前で熱弁をふるっているシンドバッド。
和国の王にとって、煌帝国で自国の第二王子である皇 光が“消滅”したというのは、実のところ考慮に値する事柄ではない。
なぜならそれも含めて、光のことは彼の望みのままだったのだから。そして“彼”が消滅したことは、彼の“死”を意味することではないのだから。
「都合のよいことをぺらぺらとよく喋る。要は煌帝国から和国を切り離したいだけだろう」
事実、“一人の金属器使い”が辛辣にシンドバッドの熱弁を断じた。
都合のよいことを言って、その実態はただの離間の策なのだ、と。
欠けた器の金属器使いのその言葉に、シンドバッドはふっと口元に笑みを浮かべた。
「とんでもない。私は和国に通すべき信義を思い出していただきたいのですよ」
そして爽やかな笑顔で応えた。
「通すべき信義だと?」
その顔には、王には、血筋による威などまるで関係がなく、ただただ覇王としての揺るがぬ自信が溢れていた。
彼に従いさえすれば、彼に任せさえすればすべてが上手くいくかのような圧倒的な安心感をもたらすかのようであった。
そしてシンドバッド王はその矛先を再度、和の王へと向けた。
「貴方がたが盟約を結んだのはかつての煌国でしょう。終わらぬ戦乱に疲弊し、絶望する民に安寧をもたらすために戦った煌国。その煌を、煌帝国を変質させたのは、アル・サーメン――八芒星の組織です」
かつて中原には様々な国家と思想が混濁し、争いが止むことのない地獄だった。
過去の屈辱の歴史に執着して恨みをはらすことのみを考える国。
自国内で派閥争いを行って憎み合い、互いに蹴落とし合うことばかりを考えていた国。
それらがばらばらの思惑の下で対立し、限りある資源を奪い合って争っていた。
それにより踏みにじられる民の、人々の嘆きなど顧みることもなく。
「それまでの煌も侵略を行ったとはいえ、それは戦乱続く中原に、世界に、平穏をもたらすという理念ゆえ。しかしアル・サーメンによって煌帝国は世界に戦火を巻き起こすただの侵略国家となっている」
かつての煌国には理想があった。
だが、今の煌帝国はそれとは程遠い。
平穏な国々に軍政両面から圧力をかけて疲弊させ、奴隷狩りを行い、あるいは異民族を奴隷として使役する制度をもたらし、文化を破壊し、思想を強制し、人々からその国の国民という自我意識を消し去ろうとする。
そこに今の煌帝国皇族のどのような思惑があるのかはともかく、
事実、西方の国・マグノシュタットでは煌帝国の侵攻を契機の一つとして暗黒点が作られ、あやうくイル・イラーがこの世界に降臨し、世界が滅びかけたのだ。
それは紛れもなく世界の害悪。
「そのアル・サーメンの首領こそが、先の煌帝国皇帝、練玉艶だったのです。そして煌帝国の中で、ただ一人、その変質を正すために戦ったのは、他でもない、白龍陛下のみ」
アル・サーメンという毒蟲を身の内に飼い、力となして前へと進もうとした練紅炎。
アル・サーメンへの復讐を糧にして力を得て、過去へと進もうとした練白龍。
「征西軍総督の練紅炎は、アル・サーメンと手を組み、煌を私物とし、私欲から戦火を西へ西へと広め続けた!」
果たしてかの大帝の志を継ぎし|皇帝≪王≫の器に相応しきはいずれか。
「西方ではすでに我々、七海連合とレーム帝国が同盟を結びました。煌と均衡しうる大国レームと我々との同盟。さらには先の戦いにおいて壊滅したマグノシュタットも、七海連合とレームによって復興を行っている」
金属器の数で劣るとはいえ、世界最大の版図を持つ煌帝国と唯一単独で戦いうる力を持っていたレーム帝国。
その均衡を唯一崩しうる勢力である七海連合。
その両者が手を組んだということは、煌帝国の勝率は大きく低下したということ。それに加え、煌帝国が望んでいた高度な魔法技術を持つマグノシュタットも、両国の管理下に置かれたようなものだ。
「世界はすでに煌帝国と、それに対する同盟国家とに二分されているのです」
二色に塗り分けられた世界。
そしてその勝敗は、運命を見通す男の目には、もはや決したように見える。
だから問題は終わり方。
「この状況下で、白龍陛下が煌帝国の皇帝として我々と手を組めば、その瞬間、世界から戦争は無くなります」
ここで白龍皇帝が煌帝国の正統な皇帝となれば、それと手を組んでいる七海連合の勢力が世界の色を塗りつぶすこととなる。
「しかしもしも、紅炎が白龍陛下を打倒し皇帝となれば、彼は煌帝国の全ての力を投入して戦争を起こすでしょう。世界を二分する大国との戦争。それは間違いなくかつてない規模の、世界規模の大戦となります」
白龍と紅炎の皇位継承争いによる煌帝国の内紛が、世界の大戦争の序曲となるかいなかの瀬戸際なのだ。
大戦争の果て、憎しみの連鎖の果てに掴む世界の統一か
少ない犠牲のもと、手を取り合って得られる世界の平和か
「さらには金属器の存在もある。繰り広げられるであろう戦火の規模は、文字通り世界を削るほどの争いとなってしまう。我々はそれを止めたいのです――いえ、止めなければならないのですッッ!!」
ただの戦争では、世界大戦ではない。
今や世界には数多くの金属器が散らばっており、多くの金属器使いがそのどちらかに属しているのだ。
金属器使いがその王の力を震えば、徒人にとってそれはもはや天災と何ら変わらない。
それが数多、敵を滅ぼすことに向け合えば世界はどうなるか。
この世界の王の器として、この世界で最も王に“近しい”器として覇王・シンドバッドは今また色を塗り替えるべく、手を差し伸べた。
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閉じた目蓋の裏に、かつての記憶がよみがえる。
在りし日の記憶。
それはまだ、復讐こそが、憎悪こそが最も強い思いだと感じていたころの記憶。
それはまだ、天華が定まらず、凱、吾、煌の三国による凄惨な戦が続いていたころの記憶――――――
――絶対に―――
当時の煌帝国――煌は三国の中でとりわけ抜きんでた国力を有していた、というわけではなかった。
まだ八芒星の組織も大きな影響を示しておらず、|マギ≪ジュダル≫もいなかったころ、それゆえ平穏だった……というものではなく、むしろ金属器という強大な力のない煌は、戦争に敗れることも幾度かあった。
「いたぞッ! 敵将だッ! 煌の王族の首を獲れェッ!!!」
その手は、体は、血に塗れていた。
だがその血の多くは彼自身のものではない。その腕に抱いていた人のもの―――
「こう、炎……。俺はいいから、逃げろ。まだ――」
「ダメだッッ!!! 俺は、白雄様ッ! 絶対にッッ!!」
敵兵に囲まれ、腕を負傷して大量の血を流す“あの人”をかばいつつ、憎悪を乗せた剣を凱の敵兵どもに向けていた。
圧倒的な兵力差。明らかな負け戦。
自身の命を守るどころか、この国の次代の希望である白雄王子を守ることもできない状況。
だが、その時、
「紅炎ッッ!!!!」「!!」
騎馬の軍団が駆ける轟音とともに、自身を呼ぶ声が聞こえ、紅炎は瞬時の反応で背にかばうお方を――白雄王子を背中に乗せて持ち上げた。
騎兵を率いて向かってきているのは第二王子の白蓮王子だ。
自身などよりも遥かな貴種である彼のお方が救出に出ているのは、他でもない、彼の兄君がここにいるからだ。
白蓮王子は、配下の騎兵たちとともに凱兵を薙ぎ払って接近し、紅炎たちとすれ違いざまに二人を馬上へと抱え上げようとし
「撤退だ、紅炎ッ!」
「――ッッ!!!」
しかし拾い上げられたのは白雄ただ一人だった。
一度は紅炎も抱え上げたのだが、白蓮の声を無視して紅炎はその腕を逃れ、再び剣を構えて凱兵に向き直ったのだ。
————全員、殺してやるッ!!!―――
まだ幼い紅炎の、憎悪と憤怒に染まった瞳。
「ッ! っの、馬鹿野郎ッッ!!!!」
白蓮の怒声が、凱兵の雄叫びを縫うようにして紅炎の耳に届いた。
結局、その戦では紅炎もなんとか戦場を離脱することができた。
白蓮王子が白雄王子を離脱させた後、白徳王自らが采配した軍団が、紅炎のいた部隊の救出に間に合ったのだ。
そして紅炎は床に臥せった白雄王子と対面していた。
傷だらけのお姿。
尊貴な血が大量に流れ、一命はとりとめられたが、大きく斬りつけられた腕は、もしかしたらもう以前のように剣を振るうことができないかもしれないほどに深い傷を負っている。
紅炎は、王子をお守りすることができなかった申し訳無さと自らの無力への悲憤、そして――――
「白雄様……凱人は、凱人こそ鬼ですッ!」
かの国への憤怒に燃えていた。
「何の罪もない、煌の民衆によくも……よくもっ! あんな惨い仕打ちをッ!!」
思い出すのは身勝手な理由から戦火と惨禍を撒き散らす凱の兵士たちの非道の仕打ち。
過去の恨みから吾の国への恨みを晴らすことのみを考え、そのための国力を得るために煌の国土に手を伸ばし、民草を蹂躙した凱。
殺されたのは兵士だけではない。
凱の侵略を受けた村を訪れた紅炎たちが見たのは、まるで百舌鳥の早贄のごとくに木に括り付けられ、あるいは槍に貫かれ、犯され、殺められ、蹂躙された自国の無力な民たちの姿だった。
「絶対に許せないッ! 一人残らず、斬り伏せてやりたかった! やつらは……人間ではありませんッ!」
凱の兵士たちと対峙したときに抱いたのは憤怒。
凱の兵士たちに負傷され、囲まれていた白雄王子の救援に間に合ったとき、抱いたのは彼を守らんとする意思と、それを上回る凱への恨みと怒りだった。
今、凱の非道を顧み、そして白雄の痛々しい姿を目の当たりにする紅炎はそれにのみ囚われたかのようだった。
「…………人間だよ。俺や、お前と同じ、彼らも人間だ」
そんな紅炎に、彼よりも深く民を愛し、慈しみ、そして戦場で深手を負わされた白雄が穏やかに声をかけた。
自分も、紅炎も、凱の者たちも、同じ人間なのだと。
「いいえッッ! あんな奴等が貴方様と同じなど、あるはずがありませんッッ!!」
だがその言葉を、紅炎は激しく拒絶した。
思い出すのは過去の白雄様の、敵国の民草への振る舞い。
規律と箍の外れた兵たちによって捕らえられ、裸に剥かれ、献上されようとしている敵国の女たち。それらを献上する兵たちの顔には、自らの行いを恥じるところなどなんらなく、むしろそれらが自身にもたらすであろう分け前や褒美を想像してか醜い笑みを満面に浮かべていた。
凱人であれば容赦なく女たちを嬲りものにし、殺しただろう。
吾人であれば女たちを奴隷のように扱っていただろう。
だが白雄様は違った。
女たちに着るものと食料を与え、村まで送り届けるように兵士に命じた。そればかりでなく、敵国とはいえ民草に害を与えることを禁じる宣言を言い放ったのだ。
――「我々が戦っているのは吾や凱の兵であって民衆ではない! 女や子供、老人に危害を加えてはならんッ!! 違反した兵は俺の剣で斬り捨てるッ!!」――
そんな行いができるお方と、凱人が、吾人が同じであるなどと、決してそんなこと、あるはずがない。
そんな偉大なお方に比べ、紅炎は己の無力さが、ただただ不甲斐なかった。
「私は……殿下の御身一つ、満足に守れませんでした。白雄様の……白雄様の腕が―――」
何に代えても守らなければならなかったのに。
痛々しい包帯が巻かれた腕が、自身の不甲斐なさを責め立てているようだった。
「負け戦だったからな。腕がまだ繋がっているだけ儲けものだ。以前と同じ強さで剣を握れるようになれば……いいが……」
沈む紅炎に対して、白雄は穏やかな口調のままで、ただ、以前とは同じように剣を振るえないかもしれないことにわずかばかり影を落としていた。
「とにかく、お前に助けられた。お前が無事で、よかった」
「よくありませんッッ!!!!」
しかし続けられた言葉に、紅炎は激昂して応えた。
自分などの身を案じる言葉。
ご自身の負傷よりも、自分などが生きていたことなどを喜ぶような言葉に、紅炎は堪えきれなかった。
そんなふうに激昂する従弟の姿に、白雄の瞳がすぅっと凪いだ。
「なぜ?」
「貴方様と私の命の価値は同じではないからです!!!」
紅炎にとって、いや、すべての煌人にとって分かりきった答え。
「私が死んでも天華に何の変わりがありましょう! しかし、白徳様とその血を受け継いでおられる貴方様の命は重いのです!! 世界にとって、世界のためにッッ!!!」
人は生まれながらに平等ではない。
だからこその王族であり、その血は何よりも尊いのだ。それにもまして、このお人は失ってはならないお方。
偉大なる志、その身に流れる血、文武に秀でた類まれな才覚、将兵もすべての民草も自然に従う卓越したカリスマ性。このお人のすべてが、白徳大帝の覇道をご兄弟である白蓮様と支えるのに不可欠で、それらはどれ一つとっても
「…………紅炎。ひとつ、秘密を教えてあげようか」
「秘密……?」
けれども白雄様はおっしゃった。
「本当はね。血筋に重いとか、軽いとかないんだよ。俺も、お前も……戦場で誰にも看取られずに、死んでゆく兵ひとりひとりの命も……」
こうしている今も、戦地で負傷して帰還した兵の幾人かは死んでいく。
その傍には白蓮王子御自らが寄り添い、最期の時を笑ってあるいは泣いて、あるいは希望を託して逝けるように語り合っていた。
「受け継ぐのは、受け継いでいくべきは血などではない。志だと、俺は思う」
「こ、ころ、ざし…………」
そのころの紅炎には、それが分からなかった。
民草を虐殺した敵が許せない。
白雄様に血を流させた敵が許せない。
煌を侵略する敵が許せない。
「お前にもいつかわかる日が来ると、いいが…………」
白雄の無事な手が、幼く感情に弄ばれる紅炎の頭を優しく撫でた。
今ならば分かるのに。
今ならばお力になれるのに。
白雄様に頂いた剣に宿るアシュタロス。
柄飾りに宿るフェニックス。
肩鎧に宿るアガレス。
自身が王にと望むよりも、あの御方の力になりたかった。
その身に流れる血、あのお方たちに受け継がれた血。違うそれを比べて、同じ血を継いだ白龍が羨ましかった。
けれども、諾するわけにはいかない。
受け継ぐのは血ではなく、志なのだから。
たとえ、白龍の体に流れるのが、あのお方と同じ血脈だとしても、志を受け継がれなかった王の器に、煌を託すことはできない。
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練白龍、謀反
その報せにもっとも驚愕し、動揺したのは姉である練白瑛であろう。
マグノシュタットでの戦いの後、僅かの休息で天山高原への復帰を要請されたこと。その短い期間に、彼女は将来を誓いあった婚約者を失った。
悲しみと動揺が癒えぬ間に、母である皇帝によって戦線復帰を命じられ、従兄弟であり義弟でも練紅覇ともに天山に着いて僅か2ヶ月後、母であり練玉艶皇帝が、白龍によって殺害されたとの報せが入ったのだ。
白龍との間に確執があることは知っていた。
他でもない、弟本人からその手を握られていたのだ。
だが白瑛はその手を掴み返せず、振り払ってしまった。母に刃を向けることをためらったのもあるが、なによりも煌帝国を割ることなどできなかったし、たとえ身の内に何を飼おうとも世界は、煌帝国は、一つとなるべきであると考えたからだ。
その考え方は、まさしく紅炎と同じものであり、それは遡れば亡き兄、白雄から受け継がれてきた志なのだ。
大義のために侵略を犯すことに迷いはあった。弟の手を握り返せなかったことに戸惑いと罪悪感がなかったとは言えない。
けれども白龍とて同じ血を分けた、父 白徳の子なのだ。きっと彼も分かってくれる。身の内に潜む蟲を御し、紅炎殿の輔けとなってくれると、どこかで楽観的に考えていたのがあったのだろう。
寄り添ってくれた伴侶が突如としていなくなり、今、唯一となった実の弟が母を殺害した。
もはや世界の何を信じればよくて、どこに向かえばいいのかも定かではない、そんな混迷とした思考に白瑛は道を失っていた。
眷属である黄牙の者たちや光の配下であった光雲は愚か、長年の友であり最も信頼する眷属である青舜でさえも遠ざけた幕舎で、白瑛は一人は白羽扇を握りしめていた。
「光殿…………。私は、どうすれば…………」
その白羽扇は白瑛のジン・パイモンが宿る金属器であると同時に、光から出会いの記念にと渡された大切な扇。
居なくなってしまった彼の想いをもっとも強く感じることのできる、今や唯一のものでもあり、白瑛は問いかけるように扇を見つめた。
白龍の居る洛昌に行くのか、紅覇とともに紅炎の居るバルバッドへ行くのか。
進むべき道は、進まなければならない道は、分かっている。
白龍の語る復讐の道は、煌帝国を、父たちの思いを踏みにじるようなものだ。練家の武人として、ただ復讐のみに身を委ねるような、そんな道は選べない。
それに白龍はもはや復讐だけに囚われているのともまた違ってしまっていた。
父と、兄たちの復讐相手であった母・玉艶を殺して終わりではない。
玉艶のもとで力を得た今の煌帝国を、紅炎とそれに付き従う者たちを滅ぼそうとするまでに堕ちてしまっているのだ。
煌帝国を二つに割り、相争う。
それこそが紅炎が危惧し、白瑛が憂慮し、避けるために呑み込んだ選択肢なのだ。
だが、その道を選ばないということは、すなわちただ一人残された肉親である弟と戦うということ。
そして戦えば、白龍が敗れれば、彼は皇帝を弑逆し、皇位を脅かした大罪人として処刑を免れない。
どちらの道も、選べない。選ぶわけにいかない。選びたくない。
こんな時こそ、光に傍に居てほしかった。
選ぶ道一つしかなくとも、それでも確固たる意思を示してくれたあの人に、今こそ傍にいて、その温もりを分けてほしかった。
「私は…………」
――選べないなら、選んであげるよ――
「!」
突然、どこからか耳に聞こえない声が、白瑛の脳裏に飛び込んできた。
ガタッと椅子を揺らして立ち上がり、当たりを見回すも、自身で遠ざけた者たちは言いつけどおり誰もいない。
けれど―――
――戦うのが、選ぶのが、進むのが嫌なら、私が導いてあげるよ――
「なっ…何者ッッ!!!」
咄嗟に、握りしめていた白羽扇に魔力を通し、薄い風の防壁を纏おうとしたのは、これまでに鍛えてきた光との鍛錬の成果であり、白瑛自身が歩んできた戦場での直感ゆえにだった。
「―――ッッッ!? つッッ!!!」
だが、金属器に魔力が流れた瞬間、白羽扇が突如として白瑛を拒んだ。
バチリと小さな雷が弾けるように、痛撃が白瑛の手をたたき、白羽扇が彼女の手から離れた。
「金属器が!?」
金属器の拒絶。それはパイモンが白瑛を拒絶したのか、それとも光のくれた白羽扇が白瑛を拒絶したのか。
驚愕が白瑛の思考を白く染め、隙間をつくった。
その隙間に―――
――だからその体を――
「私に頂戴、白瑛――――――ッッッ!!!!!」
自身の口から、自分以外の言葉が紡がれ、白瑛は悲鳴を上げた。否、上げようとして、それは音にならなかった。
流れ込んでくる自分以外のナニカ。
この世界を憎み、この世界に生きる者すべてを憎み、この世界の全てをあるべきに帰すことに執着するあまりにも膨大な憎悪の塊。
――光 どの……………――
瞬間、練白瑛の自我意識は黒に塗り尽くされて圧し込められた。