バーサーカーはただでさえ手綱を操ることの出来ない厄介なサーヴァントだ。戦力としては期待できるが、協力者としての機能を一切排除した存在。つまるところ、非常に危険な爆弾なのだ。遠坂凛の魔力の殆どを短時間で吸い上げてしまう危険性。これは到底無視できない。
反対に、セイバーのサーヴァントは非常に優秀なサーヴァントである。マスターを守り、敵を屠る能力にも申し分はない。戦闘力の面だけで見れば、バーサーカーには時として劣るかもしれないが、それでも強力なサーヴァントだ。搦め手のような策にさえ気をつければ優勝候補の筆頭である。また騎士然としたものが多く、主人の言うことを従順に守る。協力者としても申し分ない存在だ。
遠坂凛の心胆はこうだ。
御しきれない可能性の高いバーサーカーは奥の手として温存する。セイバーさえ見方につけることができれば、凛と士郎は援護に徹することができる。セイバー陣に不足していると見える後方支援を補いつつ、双方の戦力をアップさせることが出来る。
また、聖杯を破壊しようとしている彼らにとっては協力者の存在は大きい。下手を踏んでその目的が露呈すれば、残りのマスター全員が結託して襲い掛かってくる可能性もあるのだ。そのときにバーサーカーを駆り出し続ければ、まず間違いなく凛は自滅する。
セイバーを引き込むというのは、その結託を抑止する意味合いもある。最も優れたサーヴァントであるセイバーがこちらの陣営につけば、そうそう簡単に手出しは出来ないはずだ。加えてバーサーカーも加えたら最高峰の火力である。正攻法ではまず陥落させるのは困難で、そういう意味ではランサーやライダー辺りは手出しが出来ない状況になるはずだ。
もちろんセイバー陣にとってもいい話のはずだ。セイバーのマスター、八海山澪には攻撃用の魔術を使えない。凛はこのことを知らないが、あまり戦力として期待できないのであろうと踏んでいた。何せ聖杯戦争について何も知らない。戦闘を有利に運ぶ、礼装ないし装備の類は持ち合わせていないだろう。
セイバーの陣営に遠坂凛と士郎の投影魔術が加われば後衛は十分な火力だ。セイバー陣営はかなりの高火力を有することになる。固有結界は、露呈すれば封印指定ものの魔術であるためにおいそれと使えまい。しかし、切り札としては十二分だ。聖杯戦争を勝ち抜く、ないし生き抜く目的があるなら無視できない申し出のはずだ。
「「……。」」
しかし即答できる内容ではなかったのだろう。八海山澪とセイバーは思案顔で黙りこくってしまった。
言うまでもなく、凛にとってこれは賭けだ。誰かに彼女らの目的を話すということは、最悪の状況を招く可能性もあるのだから。
◆◇◆◇◆
「少し言いたいことがある。」
私の横で難しい顔をしていたセイバーが声をあげる。さっきは大欠伸をしていたのに、その声には頼もしさが宿っている。やるときはやる男、ということだろうか。
「シロウ、リン。こちらに圧倒的に情報がない。これでは判断の下しようが無いではないか。…せめて、そちらの目的くらいは教えてもらわなければ。」
なるほど正論だ。衛宮さんと遠坂さんが、聖杯に何を望むのか。聖杯をどうするのか。どうやって聖杯戦争を戦っていくつもりなのか。そこに致命的な軋轢が生じるようであれば、同盟など組めるわけが無い。
「…正論ね。……あらかじめ言っておくわ。セイバー、それに澪。…私にバーサーカーを出させるような真似は、今だけは止めてちょうだい。こちらに戦意は無いわ。…どんな言葉がこの口から飛び出ても、とりあえずは堪えてもらえる?」
「…内容にもよるが、了解した。マスターはどうか?」
「…私は大丈夫よ。」
「ありがとう、セイバー、八海山。俺からもお願いしたいんだけど、この先は他言無用でお願いできるかな?その…最悪、
あまり会話に参加できなかった衛宮さんも身を乗り出して口を開く。…どういうことだろうか。それほどに危険な話なのだろうか?
「…はい。」
「マスターがそう言うのであれば、私も黙っていよう。」
「ありがとう。…俺から言ったので構わないか遠坂?」
遠坂さんは、こくり、と静かに首肯する。その目は閉じられていて、その次に出てくる言葉が強烈な意味を込めているのが分かる。
「……俺達の目的は、聖杯を破壊することだ。」
「――――!!!!」
セイバーの目が見開かれ、凄まじい殺気を帯びる。その手に剣を握ることはない。しかし強く握り締めた拳は、もはや出血していてもおかしくない。いや、もう数秒後にはその剣を抜いて切りかかるだろう。
「セ、セイバー。落ち着いて、お願い。」
「…ああ、マスター。大丈夫だ。…理由を聞かせてもらえるのだろうな?」
だがマスターである澪の言葉でやや落ち着きを取り戻したようだが、その心中にはまだ穏やかざるものがあるらしい。
「ああ。…これから先が、さっき言っていた聖杯戦争の裏側にもあたるんだけど…もう言っちゃっていいよな、遠坂?」
「ええ。これについては隠さずに最初から言えばよかったわね。」
その言葉を聴いて、衛宮さんは一呼吸置いてから再び語りだす。
「セイバー。もしよければ、アンタが聖杯にかける望みを聞かせてもらっていいかな?」
「…私はとある戦場で致命的な過ちを犯し、私どころか友までも死なせてしまった。私はその戦いのやり直しをしたい。せめて我が友だけでも生き残る道があった筈だ。」
真名に繋がる部分は伏せているのだろう。具体性は帯びないが、その声色は真剣そのものだ。この場の誰が笑い飛ばせようか。
「…セイバー。隠してもしょうがないから、ハッキリと言う。その望みは聖杯では叶わない。」
「―――なに!?聖杯は奇跡の願望機だろう!何故それが出来ないというのか!!」
セイバーは机を叩き割る勢いで拳を振り下ろす。その形相は驚愕や怒りが混合していて、語気も荒い。
「…聖杯は、所有者の願いを暴力ででしか叶えることが出来ない。昔はそうじゃなかったのかも知れないけど、今はそうなんだ。」
「…暴力、だと?」
「……つまり、暴力で解決不可能なことは叶えられない?」
「そうだ。この場合だったら、そうだな…おそらく、『セイバーの英雄譚を知る人間を全て滅ぼす』という形で実現されるんじゃないかな。そうすれば、セイバーが改竄したい過去は、擬似的にとはいえ無かったことになる。」
「…そんな結末を私は望まない。」
「ああ。それは俺達も同じだ。今や聖杯は、災害を振りまくだけの存在でしかない。だから俺達はそれを破壊して、二度とこの冬木を、いや世界を危機に晒さないようにしたい。」
「……それに対して、何か証拠でもあるか?今の言葉が、決して貴方たちの妄言では無いと、神に誓えるか?」
「誓える。それに、証拠もある。…俺達は、前回の勝利者だ。聖杯の中身を実際に見た。…アレは、この世に在っていいものじゃない。」
「それは貴方たちの証言でしかない。申し訳ないが、信頼に足るかどうかは疑わしい。」
「そうか。……八海山。」
「はい?」
「17年前の火災事故と、7年前の連続殺人。知っているか?」
心臓が大きく打たれる音が聞こえた。嫌な汗が流れるのが分かる。…忘れるわけが無い。17年前のそれは圧倒的な災厄だったし、7年前の連続殺人事件によって私は両親を失ったのだ。
「……ええ、良く知っている。」
声色が硬くなってしまっただろうか。できるだけ平静を装ったつもりだが、隠しきれていないかもしれない。
「ん?確か連続殺人ぐらいの時期に、八海山家は冬木から去ったと思うんだけど?」
遠坂さんが疑問を投げかける。7年前の事だからだろう、遠坂さんはやや前後関係が曖昧なようだ。無理もないことだと思う。
「違うわ。連続殺人事件の後に冬木を去ったの。私は…その連続殺人事件で両親を亡くした。」
「!…そうか、嫌なことを聞いてしまったな。」
「いいの。悲しくないと言えば嘘になるけど、もう受け入れたことだから。」
「……そうか。八海山、じゃあコレはアンタにも関係することだ。良く聞いてくれ。」
少し喋りづらそうだ。腫れ物を触るように、といえば適切だろうか。そこまでおっかなびっくり切り出すことはないのに、と思う。
「…17年前の大火災と、7年前の連続殺人事件。両方とも聖杯戦争で起こったコトだ」
「――――!!」
どういうこと。聖杯戦争というものに、いまだに実感が沸かない。だけど…衛宮さんが言うように、もはや災厄を振りまくだけの存在なら、それも有り得るのだろうか。
―――あの猛火。
―――あの地獄。
赤熱の壁は、誰も彼も逃がしはせず。それは幼い私の友達を奪った。
覚えている。もはや詳細は胡乱だが、それでも心に染み付いている。あれは、最上級の災厄。あってはならない呪いの産物。
脳裏に、殆ど忘れかけている記憶がフラッシュバックする。もう17年も前のことだというのに、忘れられない。いや、幼い私が受けた
頭を振ってその記憶を振り払う。聖杯ですって?とんでもない。中に溜まっているのはとんでもない呪いではないか。
そして連続殺人事件。これについては何となく分かっていた。あの黒いローブの魔女が、セイバーと同じような存在だというのは感じていた。つまりアレも過去の英雄なんだろう。英雄というよりも、悪鬼という表現のほうがしっくりくるが。
―――衛宮さんの言葉を信じるのなら。私は冬木で起きた聖杯戦争に二度関わっているということになる。
驚いた。両親が殺された背景が、次々と明かされていく。だというのに取り乱すでもなく、冷や汗をかくわけでもなく、冷静沈着。やはり私も魔術師ということなのだろうか。それとも、本当は血の通っていない機械なのだろうか。
「…マスターの様子を伺う限り、実際の出来事らしいな。」
「大火災については、聖杯そのものが引き起こした災害だ。セイバーは知らないと思うが、過去に聖杯によって大火災が起きたんだ。」
「……分かるわ。確かにアレは普通の火災ではなかった。一種の呪いのようなものを感じた記憶がある。」
「しかしそれは、17年前の優勝者がそれを望んだのでは?」
「それは違うセイバー。17年前に優勝者はいない。聖杯は使用されず仕舞いだ。つまり、誰にも使用されていないのに、ただそこに在っただけで大火災を巻き起こしたんだ。」
「……なるほど。聖杯の中身がロクでもない物なのは理解した。」
「これが俺と遠坂が聖杯を破壊しようとする理由だ。…八海山、協力してくれないだろうか?」
長い沈黙。ここに至っても、まだ信じられない。矢継ぎ早に説明されたせいもあるのだろうか、現実感がない。
とは言っても、私の傍らにサーヴァントが居るのも事実。そして、今後の方針をここで決定しなければいけない。だから、二つ返事なんて出来ない。
考える。確かに私はマスターとして不十分かも知れない。セイバーのサポートすらできないだろう。だとすれば、衛宮さんと遠坂さんの申し出は渡りに船なのかも知れない。
しかし…本当にこの二人を信用してもいいのだろうか。これも一つの搦め手、罠なのではないだろうか。
「……私は、」
◆◇◆◇◆
夏の夜は短い。もう5時にもなろうとしている。意外と長く話し込んでいたようだ。夜はだんだんと薄れ、白みがかっている。春は曙、なんて言うけれど、初夏の夜明けもまた美しいなと思えた。
「本当に良かったのか、マスター?」
「…良いのよ。きっとセイバーだってこうしたでしょう?」
「そうだな。しかし後悔をしていないかと心配してな。」
「そう、ありがとう。」
今は原付に乗っているのだが、姿を消したセイバーの声ははっきりと聞こえる。朝早くということもあり、殆ど人が居ないということもあるだろう。
深山の住宅街を走る。早起きの習慣があるのか、犬の散歩をしている人に時折すれ違う。だがそれもまばらで、無人だと言っても差し支えないだろう。
「後悔っていうよりも、混乱のほうが大きいわ。ふざけた殺し合いに巻き込まれたっていうことは理解できるけどもね。」
「混乱するのも仕方のないことだ。しかし、いつまでもそれでは困るが…このあたりか?」
アクセルを緩めて減速する。もう目的地は目の前だ。住宅街の一角にある、無味乾燥な見た目のアパート。世帯数25、インターネット完備、冷暖房完備という、昨今では珍しくもないアパートだ。大家さんは勤め人らしく、実は未だに会ったことがない。
「ええ。ここが私の家、もとい借りアパートよ。工房は別にあるけどね。」
「意外に衛宮邸から近いな。工房はここから近いのか、マスター?」
「まあ近いわね。衛宮邸とは逆方向だけど。…ところでそのマスターっていうの止めてくれない?ちょっと私にはむず痒いわ。」
「ではミオと。いや、良かった。」
「…?」
正面玄関はオートロックだ。内側から開けるには鍵は要らないが、入るときには鍵か、室内からのボタン操作が必要だ。ゴミ出しのときにうっかり鍵を持たずに出ると締め出されるというステキ仕様。
3階建ての建物のうち、私の部屋は2階の奥まったところだ。そこの鍵を、正面玄関と同じ鍵で開ける。そこからの眺めは良いとはいえないが、珍走族も通らないこの界隈では快適に過ごせる良い部屋だ。
手探りで、電気のスイッチを探して点ける。蛍光灯の眩しさが苦手な私は電球色で照明を統一している。やや明るさは足りないかも知れないが、自分は全く気にならない。
「さて…作業に取り掛からなくちゃね。セイバーも手伝ってよ。」
「それよりも先に、マスターに話しておきたいことがある。」
「何?」
「私の真名のことだ。申し訳ないが、秘密ということにできないだろうか。その…言いたくはないが、マスターは未熟だ。それこそ記憶を覗かれる、なんてこともあるかも知れない。」
「衛宮さんや遠坂さんに、さっきの間に暗示でもかけられたとでも言いたいの?」
「可能性の話だ。構わないだろうか?」
「いいわよ。セイバーの名前を知ったところで私が効率的に戦局を動かせるわけでもないしね。」
「感謝する、ミオ。いや、こうもあっさりと了承を得られるとは思っていなかった。」
セイバーは屈託のない笑みをこぼす。今の言葉は捉えようによっては、「このお人好しめ」と取れなくも無いないが、そういう嫌味の意味はなさそうだ。
「話はそれだけ?じゃ、作業にとりかかりましょうか。」
「心得た。」
◆◇◆◇◆
「―――これが聖杯戦争だ。君は、魔術師同士の殺し合いに巻き込まれた。」
サーヴァントとなった衛宮切嗣は、自らのマスターである景山悠司に聖杯戦争の説明をしていた。当然ながら彼に魔術の知識などある筈もなく、魔術のことから説明しなければならなかったため、説明に朝までかかってしまった。
此処は景山の貸しアパートだ。それも、ひどく薄汚れた家だ。部屋がではなく、建物自体が汚い。かなり昔に建てられたものなのは間違いなかった。
「………。」
景山はじっと畳の一点を見つめて黙っている。放心状態といっても過言ではない。彼が何を思っているのかは当人しか知る由はないが、複雑な心境であるのは間違いないだろう。
「さしあたってマスターに言うべきことがある。」
だがそんなマスターの心境を斟酌する気がないのか、あったとしても状況が許さないのか、切嗣は淡々と説明を続ける。切嗣は景山と違い、ずっと一箇所で直立不動の体勢だ。
「僕の記憶は欠落している。特に、サーヴァントになった経緯や死の直前の記憶がない。直前といっても、これが数日間なのか数年間なのかすら判断できない」
これには興味を示したのか、景山が顔をあげる。その顔は怪訝そうだ。切嗣の様子を見ると、記憶が錯乱しているとは思いがたい。自身の名前も覚えているのに、そんな局所的な記憶喪失が有り得るのだろうか。
「不完全な召喚だったのか、僕自身に原因があるのかは分からない。だけど自分の名も、宝具の名も分かる。自分が反英雄というに足る存在であることもね。特に支障はないだろう。」
「…でも自分の記憶が無いっていうのは気分が悪くないか?」
「そうかも知れない。まあ、聖杯に託す思いは覚えている。それでとりあえずは十分さ。」
「…なんでも願いをかなえることのできる、聖杯か。……本当にランプの魔人みたいな話だったな。」
切嗣はその言葉を無言で流す。前半については肯定の意味で、後半は聞き流す意図で。一晩中、動かなかった切嗣がおもむろに窓へ近付き、カーテンを開ける。夜は白み始め、もうすぐ街に活気が宿るだろう。
「巻き込まれたものは仕方ない。で、俺は何をすればいいんだ?」
「何もしなくていい。そして出来れば、この部屋から一歩も出ないで欲しい。」
「でもサーヴァントはサーヴァントと戦い、マスターはサーヴァントを援護しながら戦うってアンタ言ったじゃないか。」
その言葉に切嗣は頭を振って否定する。机に置いてあった景山の煙草を一本拝借し、そばにあった100円ライターでそれに火を付けた。
「それは通常のサーヴァントの話だよ。」
外を見るその瞳は、差し込む朝日を受けてもなお暗い。底抜けの暗さだ。そう、まるでこの世の全ての暗黒を湛えているような。
「僕は
サーヴァントと戦闘をするつもりが一切ないのなら、マスターの援護など不要。さらに言えば、魔術師殺しである彼にとって、一般人に過ぎない景山など足手まといだろう。
「そしてこの戦いで、この世の流血を終わらせる。」
彼は忘れている。聖杯は何者なのか。
彼は忘れさせられている。今の彼は奴隷に過ぎない。
彼は覚えている。かつての自分の願いを。
彼は覚えていない。何故自分がサーヴァントになったのか。
故に戦う。故に聖杯を求める。彼はもちろん守護者ではない。彼がサーヴァントになれるはずもなかった。
最上の呪いを受けるまでは。
―――絶対に、赦さない。
これは切嗣に否定されたソレが漏らした言葉だったではないか。死ぬまで苦しめる。なんて生温い。全てを押しつぶす否定と怨嗟の渦は、切嗣の死で満足するだろうか。
否、満足しなかった。
―――衛宮切嗣に呪いあれ。
その呪いを受けて、彼の魂は消え去ることもなく、強制的に守護者に近い存在に昇格された。決して守護者ではない。彼は世界を救うために呼び出されるのではない。
呪いによって記憶を剥奪され、世界の惨劇を見せ付けるためにそこに召喚される。切嗣が望んだ世界とは違う世界を見せ付けるために。その魂を永遠に苛むために。
その瞬間で最も凄惨な戦地へと召喚され、その有様を見せ付けられる。死の直前の彼は、『正義の味方』を諦めたような状態だ。これでは苛むに足りない。記憶を奪われて、『正義の味方』に戻った彼はその惨劇に心を痛める。しかし何もすることはできない。そこに確実に存在するが、現世のものと干渉することは赦されない。分かるだろうか。何かを為すことが出来るのに、何も出来ない苦しみ。
その存在は守護者に近い。ただそこに在るだけか、何かを為すかの違いはあるが、存在の格は似通っている。その魂は英霊の座へと束縛され、永遠に世界の奴隷となる。そして、場合によってはサーヴァントとして召喚される。
そして何度も絶望させる。そのたびに記憶を奪う。召喚されるたびに心を打ち砕かれる。これが、アンリマユが切嗣に与えた死後の呪い。
彼は空前絶後の異例だろう。守護者でもなく、英雄でもなく、ただただ『呪い』の副産物としてサーヴァントになったのだ。
―――そして彼は間違いなく、もう一度絶望するだろう。近いうちにもう一度知るだろう。聖杯の正体を。それも含めて、アンリマユの呪いかも知れなかった。
彼は外を見ている。その風貌は、生前よりも精彩を欠いている。何度も何度も殺戮を見せ付けられ、何度も何度も絶望した末だ。
「しばらくは情報収集だ。……ああ、頭が痛い。」
◆◇◆◇◆
朝日が差し込み、街に活気が戻ってきた。とは言っても俺と遠坂は寝ていないこともあってあまり清清しいという心持ではないようだ。
今はエプロンを身に付け、朝食の支度をしている。藤ねえと桜の分も用意する。藤ねえは相変わらず教師を続けている。貰い手が居ないのか未だ独身だ。いや、何度か見合いまでして、いいところまで行ったらしいが、全て御破算になったという。いい加減どうにかしやがれ、タイガー。
桜は大学院で就学中だ。実家から通っているらしい。朝は今までの習慣通り、衛宮邸で朝食を取ることにしていた。俺の視点から見れば、7年前と変わったことといえば全員がそれなりに年齢を重ねたことだろう。精神的にではなく、肉体的に。言いたいことはつまり、皆相変わらずだということだ。
「お、今日はアジの開きなのね。大根もちゃんと摩り下ろしてあるじゃない。」
「ああ。遠坂はパンがいいって言っているけど、今日はちょっと枚数が足りなくて。というか、開きに下ろしは必須だろ?」
「まあ同意するわね。…それにしても眠いわ。」
喉が渇いたのだろうか、冷蔵庫から牛乳を取り出しながら遠坂が話しかけてきた。いくら魔術師といえども一人の人間。疲れれば睡眠が欲しくなるのは当然だ。特に遠坂はバーサーカーを従えている。魔力の消費からくる疲労も半端じゃないだろう。
「バーサーカーか。確か遠坂も正体が掴めないんだっけ?」
「ええ。さっぱりよ。」
「俺はまだバーサーカーを見ていないから何とも言えないけども、武器さえ見れば解析できると思う。よければ後で見てみようか?」
俺の解析は、その武器の構造だけに収まらない。それが辿った歴史も解析することが可能だ。それによってバーサーカーの正体が分かるかも知れない。
勿論万能ではない。前提はその武器の名前が分かることでサーヴァントの名前も判明することだ。歴史に名前を残していない武器では、その担い手を判定できない可能性もある。とはいっても参考にはなるだろう、と思う。
「うーん……やるだけ無駄じゃない?そもそも武器が見えてないから。」
「セイバーの
「違うわ。あれは剣を不可視にするものだったでしょう?そうじゃなくて…黒い霧で完全に覆い隠しているのよ。武器だけじゃなくて全身をよ。あれじゃ解析のしようが無いと思うわ。」
「その霧を止めることは出来ないのか?」
「私にはコントロールできないわ。多分宝具の一種ね。令呪を使えば霧を止めることも出来るでしょうけど…。」
「そんなことに令呪を使うのも勿体ない気がするな。とりあえずは先送りかも知れないな。」
「そうね。…ところで、士郎にはセイバーの真名分かっているんでしょ?剣も見ているんだし、解析済みでしょう?」
「……たしかにそうなんだけど、」
「フェアじゃない、と言いたい訳ね。分かっているわよ、澪もアンタと同じようにセイバーの名前を聞かないでいる可能性あるものね。ここでアンタが私に話せば、当の本人以外が知っていることになる。」
「ああ。澪はしばらく仲間になるんだからな。」
澪の返答は、イエスだった。つまり俺達と同盟を組み、聖杯の破壊のために動いてくれるということ。色々な理由から、この家に居候させることにした。戦力を分散させるのは良くないし、何よりもセイバーには傍に居て欲しかったからだ。
「うおおぉぉ!!死ぬぅ!」
そのとき玄関から大声が聞こえた。間違いない。セイバーの声だ。肺活量が並外れているだろう、とんでもない大声で危機を訴える。
「―――ッ!!遠坂、玄関のほうだ!」
「まさかサーヴァント!?警鐘の結界は発動していないわよ!」
まずい!まさか中への進入を許した挙句、戦闘まで行われていた!しかもセイバーが窮地に追いやられるほどの相手。一秒でも速く助けなければ!
思案の刹那すらなく駆け出す。遠坂もやや遅れて駆け出す。戦闘の気配は感じない。まさかアサシンか何かに襲われているのか?隠密性の高いアサシンならば、丁々発止の打ち合いとはならないだろう。戦闘に気付けないということもあるかも知れない。
「
夫婦剣、干将莫耶を投影する。遠坂もポケットから宝石を取り出し、臨戦態勢に移る。廊下を騒々しく走りぬけ、玄関まで到達する。玄関は閉じられている。家に入る前に戦闘になったらしい。くそ、これなら居間から庭へ降りたほうが早かったか!
「大丈夫か!」
びしゃりと引き戸を開け放つ。剣を交差させ、いつでも斬りかかれる体勢。
「大丈夫なものか!うお、この
しかし目に飛び込んできたのは、大きなバッグを肩に下げて携帯ゲーム機を操作するセイバーの姿だった。白いゲーム機を必至に操作している。ああ、なんかこいつ子供っぽいなー。数分後の遠坂の憤怒が目に見える。悪霊退散。
「ああ、死んでしまった。この『げえむ』というのは中々に面白いな、ミオ。」
「え、と…荷物、取ってきました。」
澪がその傍らで、大きめのバッグを持っている。このあまり宜しくない状況は伝わっているらしく、かなり所在なさそうだ。
「……なんでさ。」
般若。羅刹。遠坂さんの剣幕は、まさしく怒髪天を衝くという形容がぴったりだろう。だが当のセイバーは何処吹く風。全く堪えていない。それどころか説教が終わるや否や、私が貸したゲームを再開しやがった。音がうるさいだろうからと、ご丁寧にイヤホンまでしている。
おかげで、未だ燻っている遠坂さんの怒りの矛先は私に向けられるのだった。セイバー、サーヴァントはマスターを守るものでしょ?今がそのときだとは思わないかね。
「……マスターに玩具をねだるサーヴァントね…。」
衛宮さんは未だに食事の支度中だ。今は遠坂さんと向かいあって座っている。そういえばお腹空いたな。結局夕食も食べていないし。
「最初はトランプとかをねだっていたんだけど、家にあったゲーム機に目をつけたみたいで…。」
「へえ。なんていうか、子供っぽいサーヴァントね。」
「聞こえているぞ、リン。…なあ、ミオ。この敵はどの部位を破壊できるのだ?」
「…尻尾を切り落とせるわよ。あと、両方の翼と頭部。」
「なるほど。…あ、貴様!『空の王者』なんだろうが、また逃げまわる気か!」
「…遠坂さん、サーヴァントって過去の英雄ですよね?」
「そうよ。…ここまで順応しているのも珍しいでしょうけどね。」
室内で鎧姿なのが気に食わないという私の意見もあり、セイバーは今甚平に着替えている。衛宮さん曰く、亡くなったお父さんのものらしい。サイズはぴったりだ。金髪の外国人に甚平というのも奇妙な組み合わせだが、似合っているといえば似合っていた。
「ミオ。翼と頭が狙いにくいのだが。」
「…アンタの装備、片手剣じゃない。もっと大振りの武器のほうが狙いやすいと思うわよ。私は片手剣使ったことないから分からないけど。」
「何をいう。右手に剣、左手に盾。この私と同じではないか。これ以外を使うつもりは無いぞ!」
「じゃあ根性でどうにかしなさい。」
「……アンタ達仲いいわね。」
「はっは。当然ではないか。」
そのときである。玄関からチャイムの音が聞こえた。こんな朝早くから誰だろう。まだ早い時間だというのに。
「「……あ。」」
「「?」」
前者の呟きは衛宮さんと遠坂さんのもの。後者の疑問符は私とセイバーのものだ。衛宮さんと遠坂さんは、何か重大なことを忘れていたかのような顔を作っている。士郎さんに至っては、なんか脂汗が全身から吹き出ているような気がする。
「しししまった!藤ねえと桜にこの二人のことなんて説明しよう!」
士郎さんが目に見えてうろたえている。ちょっと面白い。
「落ち着きなさい、士郎。いい?二人とも口裏を合わせなさいよ。えーと…セイバーは今すぐ霊体化するか、偽名を考えなさい。」
「?…心得た。」
「?…はい。」
霊体化は嫌なようだ。何しろゲームがいいところらしい。霊体ではゲームの操作はできないというのは道理だ。いいからさっさとゲーム終わらせなさい。
そのときである。ドタドタという音が廊下から響いてきた。なんかハイテンションな足音という表現がしっくりくる。
「おっはよーーーう士郎!あ、今日は遠坂さんも一緒なんだー。」
居間の扉を元気いっぱいに開け放ちながら飛び込んできたのは一人の女性。なんか虎を彷彿とさせる服を着ている。
「あ、ああ。お早う藤ねえ。」
「お早うございます、藤村先生。」
「うん、お早う。あれ?この人たちはどちら様?」
「知り合いです。この二人はしばらくこの家に居候させることになりましたので。」
惚れ惚れするぐらいに直球ど真ん中。もう少し遠まわしな言い方があるんじゃないか。遠坂さんは目線で、今は黙っていろと伝えてくる。
「ふーん、そうなんだー。…え?」
ほら、あまりにも剛速球すぎてこの教師らしき女性――藤村さんというらしい――がビシリと音をたてて氷結しているではないか。
「お早うございます、先輩。遠坂先輩も今日は一緒なんですね。」
続いて現れたのは、何やら大人しそうな美人。清楚で物腰の柔らかいイメージ。私と目が合って、若干不審げに会釈をする。
「ちょちょちょちょっと待ったーーー!!そちらはどちら様よ!そんなどこの馬の骨ともわからない人間を寝泊りさせるなんて、お姉ちゃん許しません!」
「え?この人達を泊めるんですか先輩?!」
「い、いや藤ねえ…」
「藤村先生?この二人は、私たちの研究チームのメンバーでして。」
…そういうことか。この二人は一般人に違いない。口裏を合わせろというのは、きっと上手いこと魔術師であることを隠せと言いたいに違いない。しかし研究とはどういうことだろう?夜歩きの言い訳にでもしているのだろうか?
「む。天体観測だっけ。」
「ええ。近々、彗星が地球に近づく可能性が高いということでして。日本ならどこでも観測できますので、ここ冬木で観測をするということです。」
…なに、その言い訳は?確かに天体観測ならば夜更かしの言い訳もできるかも知れないけれども、もっと上手な言い訳ができなかったのだろうか。というか、その話を信じたのだろうか、この人は。
「むむむむ。そこの二人の素性はわかったわ。しかーし!いつからここは愛の宿屋になったのか!そんな卑猥なカップルを寝泊りさせるワケにはいきません!私には刺激が強すぎます!ただでさえ士郎と遠坂さんで飽和状態だというのに!」
「…は?」
素っ頓狂な声を上げてしまった。誰がカップルだ、誰が。誰と誰がカップルだと言いたいのか。私か?私とセイバーか?なるほど、その目は節穴なのか。
「はっはっは。ミオは恋人ではありませんよ。私の友人です。」
セイバーはゲームから手を離し、虎っぽい女性のほうへ歩み寄る。画面を見てみれば無事に返り討ちにあったみたいだ。ざまあみろ。
「信じられますか!そんな青い目をした外人さんの言うことなど!大体貴方はどこの国の方ですか!」
「フランスですよ、マダム。」
「私は未婚だこんちくしょーー!」
「それは失礼。ではお美しい
気障っぽく手の甲にキスをしてみせる。ただし甚平で。あれで高貴な服でも着ていれば似合っていたかも知れないのに。傍から見ればただのバカだ。
「そうですかようこそ日本へ。士郎、お姉ちゃん許可しちゃいます。」
今確信した。たぶん、セイバーの生前は女たらしか、とんだお調子者に違いない。たぶん後者だろう。なんとなくジョークでやっている風な雰囲気だ。
「あ、名前ななんて言うのー?」
「…八海山澪です。」
「リオだ。」
アンタそれさっきまでやっていたゲームから取っただろ。そのネーミングセンスはどうなんだ。
「ん。八海山ちゃんとリオくんねー。私は藤村大河、よろしく。」
「ま、間桐桜です。」
桜、なんかだか綺麗な名前。この人の雰囲気にあっているような気がする。さっきからあまり会話に加わっていないが、特に気にする必要もないかな?
「桜も構わないか?その、今後はしばらく大所帯になるけれど。」
「え、は、はい。私は構いませんが…。」
「うんうん、賑やかでいいねー。」
貴方さっきは全否定だったじゃないか。泊めてもらう側が言うのもおかしいから黙っているけれど。というか底抜けに元気な人だ。
「じゃ、士郎ごはんにしよー。」
「あ、先輩手伝います。」
「ああ、いいよ。もう配膳するだけだからさ。座っていてくれ。」
「そういう訳にはいきません。配膳は私がしますから、先輩こそ座っていてください。」
桜さんがエプロンを身に付けながら台所に入る。なんだか夫婦漫才を見ている気分だ。というか士郎さんの恋人は遠坂さんじゃなかったっけ。もしかして、女たらしはこっちの方だった?…あまりそういう風には見えないから、天然なのかも知れない。…余計に性質が悪い気もする…。
「うーん、セイバーちゃん以来のお客さんねー。人数は6人、過去最高記録よ、コレ。」
ああ、そういうことか。士郎さんと遠坂さんは前回の聖杯戦争の生き残りだったらしい。つまり、この家に前回のセイバーが居たのだろう。『セイバーさん』が二人居ては面倒だ。同じ名前というのも苦しいだろう。
「ところでリオさんはお箸持てますか?」
台所から桜さんの声。そういえばサーヴァントって食事するのかな?元が霊なんだから必要ない気もするけれど。
「いやあ、日本に来てまだ一日程度でしてね。難しいかもしれません。ですが何事も経験、是非挑戦してみたいですね。」
この様子だと食べるには食べるらしい。そそくさとテーブルの端に座り、食事の用意が整うのを待っている。しまった、居候が率先して手伝うべきだったな。
「そうですか。一応ナイフとフォークも持ってきておきますね。」
「ああ、申し訳ないです。」
そして士郎さんと桜さんが手際よく配膳を終えた。一応、二人には小声で手伝えなくて申し訳ない旨は伝えておいた。
「お、今日は開きかー。いいわねー、日本の朝ってかんじで。」
「ほう、これが日本の食卓というものなのですか、タイガ。…箸の持ち方はこうであっているのか、ミオ?」
聞けば聖杯からある程度の知識は与えられるらしい。だがそれは知識であって経験ではない。セイバーは苦労しいしい箸を持つ。でもまだ箸を持つには些か早い。
「合っているわよ。でもとりあえずは置いておきなさい。」
そして程なくして全員が座る。6人で座るとなるとやや手狭に思えるけれど、問題はなさそうだ。
全員で揃えて言うことはないが、各々はいただきますと一声かけてから箸を動かし始める。それをセイバーも真似る。
やはり箸は慣れないようでやや危なっかしいが、ちゃんと箸は使えているようだ。まあナイフとフォークで開きを食べるのは難しいと思うけれど。
「おお、これは旨い!」
ほうれん草が入った味噌汁を一口啜る。あ、本当に美味しい。次に厚焼き玉子を一切れ口に運んだが、これも上品な甘さがある。開きも焼き加減が絶妙だ。
「和食が口に合ってよかったよ。」
「でしょー!士郎のごはんはおいしいんだから!」
何故か藤村さんがエヘンと胸を張る。
「ですな!いや、日本は食事が旨いと聞きますが、よもやこれ程とは。」
「ふふ。おかわりはいかがですか?」
「勿論食べるわー!」
「いただけますか?」
決して下品ではないがすごい速さで箸を動かしている。藤村さんとセイバーが、だ。これほどの食いっぷりなら、さぞ作ったほうは気持ちがいいだろう。
「ふふふ…。リオくん、あなたも良い食べっぷりね。セイバーちゃんに匹敵するわ。」
「はっは。タイガもなかなか。」
士郎さんと凛さんは、苦笑いを浮かべている。理由は知らないけれど、あまり突っ込んでいかないほうが良い気がする。
テレビは点けっぱなしで、延々とニュースを流している。どうせ相変わらず、大した事件も報道していないのだろう。みんな、一応は耳を傾けているが、あまり興味なさげだ。
だが、次の瞬間に聞こえてきた極めて物騒な事件に、全員が会話を中断してテレビを見る。私はテレビから一番遠い席だったから見えてしまった。士郎さんと凛さんの表情が、怒気すら感じるほどに強張っているのを。
「“では次のニュースです。○○県冬木市で、昨夜未明に殺人事件が起こりました。被害者は―――”」